日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「戦後論壇」における問題点(6)

2020-04-12 | エッセイ
「戦後論壇」における問題点(6)

前回、「トヨタ」の話を少しした際に、私の息子のことをつい思い出してしまったのです。ある時期、1年近くを、愛知のトヨタ関連会社の期間工として働いていたのですよ。私がそうさせたのです。もう心身ともにボロボロになっていたのでしょうね、私に連絡してきましたが、その時の私は、未だ、息子の抱えていた「闇の深さ」を思い知ることはありませんでした。しばらくして息子がぽつんと一言私に語ったことが今でも忘れられませんよ。それは、鎌田慧さんの『自自動車絶望工場』が、あまりにも甘い描写だとの話でした。おそらく、鎌田氏が体験取材した後に、その著作として結実した頃の内容とは、さらにトヨタの収奪はエスカレートしたに違いありませんね。

このくだりを今、書きながら、また私は、論壇に参加する論者たちの欺瞞を思い出してきたのですよ。彼らは、確かに抽象的な正義とか、自由とか人権、平和といった問題を取り扱っているのですが、その彼らは、それでは例えば、トヨタに代表される世界的大企業が抱える問題と格闘することはありませんね。世間ではいろいろな問題があるではありませんか。過労死やハラスメント、いじめ等々の問題があるでしょう。そうそう、あの「電通」の過労死で亡くなった元東大卒の学生がいたではありませんか。専攻は哲学でしたよね、確か。

誤解のないように一言。直接、トヨタやその他大企業や原発問題を語っていないから駄目だと、私は決して言うつもりは毛頭ありませんよ。そうではなく、主題や彼らの属する論談が異なろうとも、彼らの書くものの中に、そうした問題意識なり枠組みがそもそも用意されているのか、それを私はここで述べているのですよ。たとえ、トヨタや東電や電通とかけ離れた論稿であっても、その論稿の中で描かれた内容が、そうした企業の抱える問題を、その意味では私たちが抱える問題に他なりませんが、それを射程に組み込んでいるか、それについて話しているのですよ。さらに誤解のないように一言。それは、ただ憲法を守れば解決するとか、あるいは、改憲すればもっとよくなる云々のことを、私は求めているのではありません。護憲でも改憲でも、もはやどうにも解決不可能な問題があり、それを前提として、それでは何をどうすればいいのかに関する、そうした話がいま求められているということを、私は述べているのです。

私の息子は、トヨタの車に乗る人間に何とも言えない思いを抱いていたようですね。たとえば、私が息子にすまなかったとの思いを込めて、これまでの過去の行為を自己批判して謝ろうとする際に、まさかその息子が死ぬほどの思いで絶えてきた、息子からすれば見たくもないトヨタの車に乗って、息子の前に現れて、私が謝罪をする行為は、たとえて言うならば、朝鮮半島の人たちに謝罪しながら、同時に靖国を参拝して平気なことにしている国会議員と同じような関係ではありませんか。(私は車の免許をこれまで一度も持ったことはありませんが。)

貧しい南の抱える問題がどうのこうのと言いながら、私たちは、私が描くシステムとその関係の歩みから「足をあらう」ことはしませんね。それどころか、ますますそうしたシステムの歩みを強固にしてきたのではありませんか。誤解のないように、皆さんにお伝えしておきますよ。私は、以前の私は食事中にテレビのニュースで紹介される世界各国の貧困問題や難民問題に描がかれる老若なんにょのとても「かわいそうな」姿を見た時には、目をそらすか、あるいは何か良心の呵責を感じた、そんなふりをしていたものなのですが、今では、もう全く何も関係ないかのような顔をしながら、平気で腹を満たす自分に気が付くのですよ。

それでいて、何度も、システムとその関係の歩みが云々ですから、自分にも相当愛想をつかしていますが。しかし、そろそろ、かわいそうな立場は逆転するでしょうから、そんな思いをしなくてもよくなるかもしれませんね。先のかわいそうな途上国の人たちは、と、そう見ている私の方が、もっとはるかに「かわいそうな」存在なのですよ。

私の息子のことで言えば、息子と同じように、自己否定された、自己肯定からほど遠い、いや、そもそもその「自己」を創ることも許されない無数の人たちが存在していますよ。今もこの日本の中に。ここでもそうですが、その自己はいつも「関係」を介してつくられますから、私の息子が仮に自己確認ができないのは、私の自己実現の仕方がやはりおかしなことだったのだと思いますよ。

もう少し踏み込んでいえば、私の自己実現のために、息子はその自己実現の機会をある時期に奪われてしまったのですね。これが欧米先進国とその植民地化に置かれたアジアやアフリカ諸国・諸地域との関係ですね。つまり「帝国主義」関係ですよね。この帝国主義関係の下で、アジア・アフリカ諸地域における自己実現のっ過程、すなわち民族国家建設の歩みが阻止されたのですね・同時にまた、自由を求める彼らの要求は否定されたのですね。つまり民主主義を実現したいとする、彼らの願望は打ち砕かれたのですよ。

しかしながら、ここでまた厄介なことが、問題が浮上してくるのです。私と息子との関係を前提とする限り、たとえいい父親、いい息子であっても、そこでの独立と自己実現の歩みは、やはりそれほどめでたしめでたしとはならないのではありませんか。そのいい父が隣の悪い父と、またそのいい息子が隣の悪い息子と、そしてそうした関係はやがて世界中に張り巡らされていく中で、そこから例の私のモデルで描く関係となるとすれば、皆さん、もう絶望的ではありませんか。私はこの絶望の淵に皆さんの誰かが勇気をもって分け入って、そこから再度、既存のこれまでの生き方とは異なる何か別の生き方と、その実現を保障する社会の在り方を提示してほしいのですよ。勿論、私もそれを死ぬまで考え続けますよ。それに関しては、少しは記事にも書いたことがありました。。

本当に息子には言葉で謝っても謝り切れないほどの「虐待」をしてしまった。その挙句音信不通となったままだ。私は自分のことしか考えない自己中の男、いやもう薬がなければ生物学上は、もうおそらくは男にもなれない、形容しがたい存在だが、それでも息子に対する仕打ちは許されないものだとの自覚はいまだにしっかりと実感している。「謝罪」を態度で表す前に、そして「和解」ができる前に、とにかく、かくも時間を要するとは、私自身は思いも至らなかったのだ。

親と子ではないか、それくらいは、もうそんなにこだわらなくてもいいではないか、それこそ数えきれないほどの自己弁護、自己正当化を、私は繰り返してきたことに、やっと最近になって気が付いたのだ。ほんまにどうにもならない父と言われぬような父親だった。とてもこのようなブログを書いて、ああだこうだと語る資格などもないのだ。

そうまた思い出した。教室で、私は講義に参加していた学生に対して、人間失格であり、とても諸君の前に立って、やれ自由だの人権だの、民主主義だの、戦争責任だの従軍慰安婦がどうのだの、そもそもそんなことを論じる視角すらない男なのだが、生きる田、目に、食べるために恥をさらして皆さんの前に立っている、それだけはお伝えしておく、としゃべったことがあるのですよ。そして、抗議の最後には、決まって「今日もまた、嘘を話しました、お許しください」と述べていました。もっともいつもではありませんでしたが、そう言わざるを得ないような瞬間があったのも確かだったのですね。

私は、息子との関係の中で、日本と朝鮮半島との関係を、いつしか結び付けて考えるようになりました。これはもうどうにもならないような地獄でしたよ。息子はさらに、私以上の地獄に今も生きているのだ、と私は思いますが。もっとも、その間も、今と同じように、息子とは音信不通でしたが。しかしながら、これまでの私と異なり、私自身の狡さにはっきりと気が付くようになったのも事実なんですね・

親が子供の(いろいろな意味で想定される)「領域」に、ある時は無断で、ある時は勝手に、またある時は何の脈略もなく(親のその場その場の気分から)唐突に、相手の意志(主権、自由)を無視する形で踏み入って、そうした親の行動を自己反省することなく、子供の人権を、平和に生きる権利を。それこそ根こそぎ奪ってきたことに気が付いたのですよ。

思わず笑いました、不謹慎ですが。日本の「侵略」に勝るとも劣らないほどの抹殺」を行ってしまっていたことに、我ながら気が付いたのですよ。どうにもなりませんね。どうしようもなりませんよ。もし仮に関係修復ができるとしても、その修復の始まりはかなり遅くなるのは必至だと、私は感じたのですよ。そんなに簡単に自分の気持ちとこれまでしでかしてしまった愚行というか、残虐行為に対して、簡単に謝罪などできませんよ。誤ること自体が、私には何かをごまかしているように思われたからですね。

無論、今でも会いたい気持ちはありますし、電話して今どうしているのか、大丈夫なのか、それこそいろいろと話をしたいんですよ、しかし、同時にまた、何か気後れするのですよ。もう、息子が自分らしく生きていく、思い切り前を向いて進んでいくそうした大切な何物にも代えられない、かけがえのない有意義な時間を、私は自分の手で奪ってしまったのですよ。失ってしまった時間を、私は息子に差し出すことはできません。

これはもう、万死に値することですよ。卑怯な私にはそれができませんでした。40代後半と、50代の中頃に、死にかけた瞬間があったのも事実でしたが、それは息子に対する罪悪感からというよりは、勿論それも原因でしたが、それ以上に、私が問い詰めてきた研究上の問題に、追い詰められてしまい、命を奪われそうになったのですよ。その間もずっとうつ病に苦しんでいましたし、相当にきつかったのですよ。

一体、どうすれば、システムとその関係の歩みを「超克」できるのだろうか、悶々とした毎日を送りましたし、それがどうにもならないとわかりつつも、それでも何とかしていけば、打開策はあるに違いない、そう考え続けてきたのですよ。そんな私からすると、護憲派だとか改憲派だという声が、あまりにもかわいいお坊ちゃん。お嬢さんのそれに聞こえたのですよ。勇ましい右翼の街宣車の声もむなしく、ただ騒音妨害の何物でも無いと思ったものですよ。書きながら、また腹が立ってきましたよ。

ところで、こうした文脈の下に、日本とアジア諸国との関係を考えるとき、どうしても避けなければならない、日本と日本人が気をつけなきゃならない問題があることに気が付きました。それは、相手が嫌がる、深いとして表明することに、まずは静かに従う、それしかないということなのですね。相手の領域に土足で踏み込んだのは誰だったか、そこが先ずは問題なのですよ。そう考えれば、戒告問題も、土足で踏み込まれたわけでしょうから、それこそそこがいわゆる近代の問題ではなかったのか、と私は思いますよ。

これは本当は大問題なのに、カントの『永遠平和のために』の中の「訪問権」とか、ロックの『市民政府二論』にある白人と黒人の私的財産権云々の考え方等々で、ごまかされてしまったのではありませんか。もう二度と過去の問題を掘り返してああだ、こうだと言ってもどうにもならない、21世紀の今日の現代に入っているのも確かなことなのですが、やはり、その「きっかけ」は「暴力」そのものであったということは認めておかなければならないでしょう。付言すれば、この暴力は、システムとその関係の歩みのそのシステムの暴力にまでつながっていくのですね。

そうした「力」と「力」の関係を、つまりそれこそが帝国主義関係であり、またそこから覇権システムが形成されていくのですが、こうした人間社会において最も根源的な本能活動である「親分ー子分」の帝国主義の、つまり、あからさまな「力」とあからさまな「力」との衝突関係を、度外視したままで、また、それを安易に、いい加減にしたままでその後の関係を繰り返すことによって、いかに更なる悲劇が待ち受けているのか、ということに気が付かなくなるのですよ。

それは私と息子との、いやそれは他の娘たちとの間にも、また妻との間にも、それこそ言い出せばきりがないほどの溝があり、渡りえぬ深い河かあるのですから、それこそ何千万単位の、しかも一つには決してくくりえない国民間の「謝罪」とか「和解」とか「相互理解」とか、また「戦後補償」とか「責任」、さらには「過去の歴史に盲目となってはならない」云々といった問題は、それこそ表面的、皮相的な話の次元で済まされる問題とは、決してなりえない、と私はみています。

これらの問題に向き合った瞬間に、私はまたここでも息子を思い出しながら、おそらくは、いや必ずや、どうしようもなくその場に立ち尽くす以外に、もはや何かほかの選択肢が残されているのだろうか、という具に、不覚にも、私には思い至らないのですね。そこには相当な覚悟が必要ですし、いかなる批判にも耐えうる素直さが求められるのではありませんか。

今回はこの辺でやめておきます。また本題が遠くなりました。誤解を恐れないで一言申しておきますね。「男」という表現に私は少し今でもこだわっています。LGBTが当然視される今ですが、同時に男も女もないではないか、という考え方が社会に浸透していますが、果たしてそうなのでしょうか。まだまだ色濃く男性中心の社会ではありませんか。私はしばらくは、そうした「男」という観点から、私のモデルを見ていきたいのですよ。男性中心の社会の男に含まれなかった、計算されなかった私としては、そうしてみたいのですね。

最後に、親子や夫婦、そして家族関係を、私はあえて力と力のぶつかり合う関係として、ここで述べていますが、おそらくこうした見方に違和感成りあきれる読者も多いと思うのですが、私はいつもそう見ているのですよ。おいおい、またお話しさせてください。今回は恥ずかしい話でしたが、どうしようもない、取り返しのつかないことを、私は息子に対してしてしまった、ということは否定できない事実ですから。

月曜日からは、盲学校のネット授業がありますので、生徒としての私は授業に参加しますから、あまりブログの記事を書き進めることができないかもしれませんが、なるべくできる限りは書いていくつもりです。ありがとうございました。

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「戦後論壇」における問題点(5)

2020-04-12 | エッセイ
「戦後論壇」における問題点(5)

日本の戦後論壇をその底流において指導してきた思想的哲学的著作として、私は『昭和史』(岩波新書、青版)を位置付けたいと思います。敗戦後の日本に、再出発するための戦後の学問上の羅針盤だったと言えるでしょう。その内容は、あたかもGHQが監修したかのように思われるもので、社会科学や人文科学の研究者に、相当な影響力を及ぼしたと考えられます。思想界や文学界にも同様なことが言えるでしょう。私の記憶もだいぶ薄れたのですが、小林秀雄氏が、その著作を表して、そこには人間が、人間の歴史が描かれていない旨の話をしていたと思います。(おそらく、ネット検索すれば、もっと詳しい話が分かると思います。)

ただし、それに関しては、私は少し異なる見方をしているのです。私の「システム論」は、その意味では全く生の人間は登場していませんが、それでも私の図式で描かれるように、例えば、Aの衣食足りて→(×)Bの衣食足りず・礼節を知らず→×Cの衣食足りずの図式で描かれる関係は、Aに経営者(大株主)を、Bに正規社員を、Cに非正規・アルバイト従事者を、それぞれイメージしておいてみれば、少しは理解できるのではありませんか。

その意味では、人間が登場していない云々の話ではなく、読み手がいかに想像力をもって、感じることではないか、と私は思うのです。先のたとえをもとに、もっとわかりやすい話に例えてみてください。無数にあるでしょうが、私はそうした事象を、単純化して三者間モデルで示したのです。

私は、このA、B、Cを国家共同体として描いていますが、それはいろいろなレベルに置き換えることができます。その意味するところは、「ウイン・ウイン」関係のようなものではなく、むしろ「ゼロ・サム」的関係に近いものだということです。そのゼロサム的関係を前提としながら、私たちはそうした非常な中にも、ウイン・ウイン関係みたいな状況や状態を感じられる時があるということを、私は否定しません。

次に、またAの礼節を知る→(×)Bの礼節を知る・知らず→Cの礼節を知らずの関係も、私たちのセカイ・世界ではよく見かけることではありませんか。たとえば、その「礼節」を自由とか人権とか民主主義に置き換えて使うことができるでしょうし、また快適な人間存在としても考えられるでしょう。そこから、Aにおいてはそれこそ人間らしい生き方が保障されているのに、自由や人権や民主主義的生活を要求できるしそれが満たされた状態に位置しているとした時(まさに、竹山の言う「ジーキル」ですね)、その対極にはCのような、それこそ人間らしい尊厳や存在が全く認められない、そうした様(これは「ハイド」です)を描いています。それらの中間に、私はBを置きました。こうした礼節関係もまた、ゼロ・サム的な関係を前提としていますが、問題は、その一方の「善」なるものを他方の「悪」が取り入れて、その「調和」(しいて言えば「和解」とか「相互理解」でしょうか)を図れない、ということなのです。そもそも、A、B、Cは相互に補完的な形でつくり出されてきたものですから、そうした安易な発想それ自体を許す代物ではないのですよ。それは次の礼節の問題に示されることです。

忘れないでここで付言しておきたいことがあります。拙著やこのブログ記事でも述べていますが、高橋哲哉氏が東大での講演会で、「犠牲のシステム」に対抗するために「日本国憲法」を武器として立ち向かう旨の話をされていましたが、この考え方にも、下にある「礼節を知る(知らず)」の営為における「格差」関係を見ていない、観ることができない、観ようとしない態度が示されています。いわゆる「護憲派」に位置する人たちの弱点だと、私は思いますが、彼らからすれば、私の話はトンデモナイ論となるのですよ。悔しいですよ。こうした話は、いずれ、加藤典洋『敗戦後論』を巡る話でも出てきますので、これくらいにしておきます。

ただし、少し言及して確認したいことがあります。資本主義を語るときには、「理念」を土俵にすることに代えて、「史的システム」を土俵とした南北関係を語る論者が、民主主義を俎上に載せて語るときには、相変わらず、その「理念」を土俵に据えたままで、つまり神棚に祀り上げたままで、どういうわけなのか、「史的システム」を土俵とする知的作業を放棄し続けたのですね。その理由は簡単ですよ。もしその作業を試みれば、そう私が『史的システムとしての「民主主義」』で描いたように、とてもその民主主義を理論的な「武器」としては使えないことに気が付くからなのです。つまり、資本主義の矛盾や今日の経済格差を是正するために、「民主主義を取り戻せ」といった声を上げること自体が、恥ずかしいことに気が付くからなのです。

さらに、寺島実郎や彼が紹介した米国の民主主義を語る論者が、ニューディール頃のまた1950,60年代の頃の民主主義の時代にかえるべき云々の議論が、いかに的外れ化ということにも気が付くはずです。これに関してもブログ記事に書いていますので、よければ参照してみてください。それでは元の議論に戻りますね。

先の「衣食足りて」の場合と同様に、Aを経営者(大株主)とした時、Cをその社員である非正規、あるいはアルバイト従業員と想定するとき、その両者の関係において、自己決定権における能力は、すなわち、自由や人権を主張する要求する能力において、格差が存在していることを、私たちは今の格差社会で痛感するのではありませんか。もとより、ここで言う格差とは、経済的な格差ではなく、政治上の格差を意味しています。自由や人権、平和に生きる上での権利といった格差を意味しています。

私たちは、「南北関係」というとき、最初の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係を念頭におきがちですが、私がこの「礼節を知る」関係で意味していることは、自由や民主主義や人権、平和といった礼節を知る関係においても、また同様な南北関係が存在していることなのです。つまり、資本主義における格差と、民主主義における格差が共時態的な形で存在しているということなのです。フランクやウォーラスティンは、前者の格差の存在には目を向け、その問題を論及しましたが、後者の自由や民主主義、人権、平和の格差の存在とその礼節を知る関係にみる格差が、資本主義の、つまり衣食足りての格差の関係と共時的な関係をつくり出しているという問題に関しては、俎上に載せることをしませんでした。

これらの二つの関係に加えt、AB、Cにおける「親分ー子分」関係が存在しているのです。Aの覇権国を筆頭とした強大国→Bの半周辺国→Cの周辺国の関係です。たとえば、トヨタグループ本社の持つ力、それはいろいろありますが、その一番の力は、その力に逆らえば、もう生き残れない、死あるのみと相手に思わせるそうした力でしょうが、そのような思いをいつも抱きながらCの下請け、孫請け、曾爺孫請けグループ会社が位置しているとき、その中間に、Bの中小のグループ会社があるのです。

以上、これらの三つの関係がまた相互に関係しながら一つの関係体を、つくり上げていくのですね。ここで、私のモデルで描いたシステムとその関係の歩みに関して、もう少しわかりやすくたとえ話をしておきます。「トヨタ・ワールド」を想像してみてください。強大な力を有するトヨタの下に、トヨタ自身が指導・監督・統制する「衣食足りて(足りず)」の営為の関係があり、それとまた連動する形で、「礼節を知る(知らず)」の営為の関係があるのですね。

その意味では、「衣食足りて(足りず)」の営為の関係は、トヨタの強大な「力」が前提となっているわけなのです。決してこの逆ではありません。つまり、漠然としたもやもやとした中から登場した「衣食足りて(足りず)」の営為の関係の中からトヨタとその力が生まれたのではなく、トヨタという強力な力を梃子として、その「衣食足りて(足りず)」の営為の関係がつくられたということです。

そのことは、覇権国という巨大な力を前提として、覇権国の指導する「衣食足りて(足りず)」の営為の関係が、すなわち資本主義と私たちが理解してきた「衣食足りて(足りず)」の営為の関係がつくり出されたということを意味しています。そしてその関連から、今度は、その覇権国の「衣食足りて(足りず)」の営為を合法化、正当化するために、覇権国が指導・監督・統制する「礼節を知る(知らず」の営為の関係が、すなわち私たちが民主主義と呼んできたその営為の関係が、つくり出されてきたということなのです。

そうした「衣食足りて(足りず)」の営為の関係である資本主義と、「礼節を知る(知らず)」の営為の関係である民主主義が、親分である強大な力を持った覇権国とその下につくり出されてきた中心国。半周辺国、周辺国との子分関係と相互に関係史ながら、私が何度も論じてきた、あのシステムとその関係の歩みとなって、その姿を今日に至るまで、私たちの前に現し続けているのです。もっとも、残念ながら、私たちのほとんどがそうした姿を確認できないままにあるのですが。こうした点を踏まえて、次回では、さらに論を展開していきましょう。

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