何と言えばいいのかわかりませんが、前回は、と言っても今日のことですけど、まだ独り言を続けようとしてたのに、突然の投稿となってしまいました。若い頃ならいざ知らず、「おじいちゃん」になるのも悪くありません。都合のいいように解釈します。誰かが私の記事を読みたくて、それで神様が勝手に投稿したんだと。
まぁ、それはさておき、前回の「天下四分の計」の話に関連した続きをしたいんですね。つまり、この新しい「クニ」でしか提供できない「サービス」についての話です。魏、蜀、呉でも当然ながらそれに似たサービスを提供していますが、このクニのサービスとは違うんですね。それは何故か。生き方が異なるからなんですよ。何回か記事でもお話しましたが、前者のサービスは第一の生き方に、後者のそれは第二の生き方に依拠していますからね。
私たちはいやがおうでも、尾崎豊の歌の歌詞にあるように、「僕が僕であるために勝ち(負け)続けなきゃならない」世界とそこでの戦争に直面しています。その世界とそこでの戦争には、相互に密接な関係があるにせよ、それぞれ異なる性質と性格を持つ二種類の世界と戦争なんですよ。最初の世界とそこでの戦争は、「僕」自身の生命と安全の確保に関わるものです。次の異なる世界と戦争は、「僕」の生命と安全が保障された上で、それを前提として、その「僕」が生き続けていく世界とそこでの戦争です。
これについては少し以前の記事でも話していました。そこで例え話を紹介していましたが、覚えていますか。みなさんが学校に行ってそこで勉強するときに、そこで「いじめ」の被害者と加害者の関係がつくり出される仕組みが存在しているとき、教室で授業を受けたり、勉強することは簡単なことではありません。先ずは自分自身の生命と安全を確保しなければなりませんね。加害者だっていつなんどき被害者になる恐れも十分に予想されるでしょう。そうした生命と安全が確保された後で、授業が受けられて勉強できるんじゃないですか。こうしたことを踏まえますと、いわゆる「受験戦争」はこの前者については、つまり受験する者の生命や安全の確保が当然のこととされた話になっていますが、それはやはり違う、と私は思うんですよ。つまり、受験戦争の前に、別の異なる戦争とそれが展開される世界が存在しているんだということです。この違いを区別し理解した者が話す日米経済貿易戦争の話は、それを理解できない者が語るそれとはやはり違うんじゃありませんか。「じゃ、それは何ですか」、と私に聞く前に、考えてくださいね。
これについてもう少しだけ言及しますね。今日の若者は、この「僕」の生命と安全の確保がままならないんですよ。この最初の世界とそこでの戦争において、「僕」の生命と安全の確保が難しいのに、どうして次の世界とそこでの戦争に向き合うことができますか。もちろん若者の中でも上手く立ちまわれる者はいますよ。しかし私のモデルでも描いたように、もはや団塊の世代が享受できた、そんな幸せは来ないんですよ。つまり、Ⅱ期、Ⅲ期の「段階」ですね。もう今は、Ⅰ’期を経て、Ⅱ’期そしてⅢ’期の前期の段階に、あるいは既に中期にさしかかろうとしている、そのような段階かも知れない。それでは一体どうするんだ、ということになりますね。
これに関して付言すれば、すぐ後でも話しますが、ここで私が識別して語っている最初の世界とそこでの戦争に関しては、国際政治の研究者は普通のこととして理解できるのに対して、後者の世界とそこでの戦争については、あまり理解が及ばないんですね。逆に、政治学者や経済学者は後者の世界とそこでの戦争に関しては、少なくとも理論よりも歴史を勉強しているものならば、それに関して理解できるのですが、前者に関する世界とそこでの戦争については、全くと言って良いほどに素人なんですね。なにか偉そうに言ってますが、みなさんも自分で確かめてくださいよ。何が言いたいのか。これは当然ですよ。分業で研究していますからね。研究はもう凄まじいほどに分業というか個別化が進んでいますので、仕方がありません。問題となるのは、それでは、当然ながら、的確な診断なんて無理だということなんですね。
そうなんですよ。無理だということ、それを前提に知識人の言うことは聞かなければなりませんね。私も隅で研究している者ですが、私の言うことも、甚だ危ない、怪しい話だと警戒しながら聞いてくださいよ。ただし、幸いなことに、いや違いますよ、これは悲しいことですけど、私には多くの信者がいませんからまだしも、いわゆる売れっ子の物書きやテレビのコメンテーターの話には警戒が必要ですよ。それを断った上で、私はお伝えしたいのは、みなさん自身が、みなさんの頭で考えながら、いろいろな情報を関係付けて物事を判断するしかないんだということです。
「原子力ムラ」の研究者やそれに群がる人たちが都合のいい嘘を言っているだけではないんですよ。それを批判、非難したりする者だって、かなり怪しいんですよ。だから私がみなさんに偉そうに何かを教えられるとしたら、あのモデルで描いた世界とそれに関する図式なんですよ。これは何度も見て考えて、わからないところは遠慮なく聞いてくださいよ。
話を戻しますね。「丸山真男の頬を引っ叩きたい」云々の論考が一時話題となりましたが、そこで論じられていた格差社会の中で呻吟している若者たちですが、こうした仕事のない、あっても不安定で給料の安い若年層の抱える深刻な問題に、それこそ「日本」と「日本人」はどう関わるのか、関われるのか。しかも、もはや若者だけじゃない、日本の勤労者全体にまで関係している。当然それは世界においても然りですね。私がこれまで書いてきたものは、もはや平和憲法を武器として掲げても、日本国憲法をいくら守っても、こうした問題の解決にはならないんだということを、先ずは確認することが大切だということでした。
皮肉な言い方をすれば、仕事のない者や非正規労働に従事する者が平和憲法を守れと主張しているというよりは、革新政党の幹部やその支持母体の組合幹部や国会議員や弁護士やジャーナリスト、大学の先生たちといった自分たちの雇用を確保した者たちが、雇用を確保できない、あるいは不安定な者たちに向かって、説いているような構図じゃないんだろうか。
問題はもはやそんなところにあるんじゃない、全く構造が転換してきているんだと。覇権システムとその秩序に関する構造と、それを前提とした上で織り成される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史の構造が、変容しているんだということです。前者は、覇権国の米国から、その覇権のバトンが中国に手渡されている真っ最中であること、そのための米・中覇権連合の動きが活発化していること、それに呼応して世界的な政治的経済的な変動が導かれていること、ですね。
そうした覇権システムとその秩序の構造転換の動きを受けてというか、それと連動しながら、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史の構造転換が進んでいること、それは「ニクソン訪中」を合図とするかのように、そしてS・ハンチントンの「文明の衝突」論やA・フランクの『リ・オリエント』が端的に物語るように、これまでのヨーロッパ優位からアジアへ、そしてアフリカへとその優位の関係が移動して行く流れにも垣間見られるということ、そう私は見ています。
ですから、もう何度も言うのは控えたいのですが、憲法や共産党が主張していた「内部留保」云々の話ではないんですね。誤解の無いように付言しておきますね。もちろん、何もしないよりはそうした提言をするのは悪くないし、他人様がこうしたい、こうすべきだと言うのに、横からケチをつける筋もありませんから、それはそれでいいんです?。しかし、少し前の私のモデルですね、〈21世紀の「普遍主義」に関するモデル(図式)の紹介〉をご覧になればお分かりのように、もちろんこれも何度も話してきましたように、私の「仮説」ですし、そうならないことだってありますが、もし私の描いたように今後の世界が進むと仮定すれば、今の世界のリーダーや有識者が語っている、例えば雇用に関する解決策云々の話は全て無理だということなんですね。
しかしいくら私がここでそれは無理だ、おかしいんだと話しても、みんな第一の生き方を当然として、前提としていますから、最初から相手にされませんね。ノーベル賞をもらったアメリカの経済学者が、もう一度ニューディール以降の米国の社会に戻せ(この主張は「強い日本を取り戻せ」と同じなんですね。ここには左翼も右翼も同じ発想というか見方が出ていますね。どちらも上述した私のモデルで描いている、二つの種類の世界とそこでの戦争に関して理解が足りないんですよ。)、そのために「政策」を変更すべき云々と論じていましたが、私は唖然としましたよ。また北欧の福祉国家を見習えと未だにそんな事を話す研究者にも驚きますよ。なぜ私が唖然としたり、驚くのか。それは私がこれまで考えてきたこと、その凝縮されたのが例のモデルなんですが、それを前提としているからですね。
換言すれば、私が呆れたり驚く学者や知識人の側からすれば、彼らも私の見方に驚くんでしょうから、オアイコなんですが、ね。それでみなさんに伝えたいのは、今後の世界がどう動いていくのか、よく考えて欲しいのですね。と同時に、私がこれまでの話を踏まえて更に言いたいのは、別に安倍さんやオバマさんや世界の指導者やその御用学者や御用マスコミが話す嘘は、最初から分かりきったことですから、私はあまり気にしていません。むしろ、そうした嘘を見抜いて、それに対抗する側のいわゆる「善良なる知識人」が、全く平気で嘘をついてしまっている、そのために結局は権力者に迎合してしまい、むしろ私にとっては、権力者以上に有害無益な存在となっていることなんですよ。ああー、また私の友達が減ってしまった、寂しいですね、こんな物言いしかできなくて、ね。
誤解の無いようにね。もうそんなこと(つまり、私と彼らとの見解の相違に関する議論)はいいんですよ。いくら話しても聞いてくれないし、伝わらない。これもお互い様。たとえ聞いてくれても、どうにもならない。お互いに生活が掛かっていますからね。「見解の相違」としかならないんですね。
だから、私はイヤ違いますね、それは見解じゃなくて、生き方の違いですよ、と静かに言うだけですね。これからの私の仕事は、第二の生き方を目指そうとする者を結集して、「集落」をお互いに構成しながら、保養所というか、クニを造ることなんですから。そのための先ずは新しい「クニ」造りに関する「情報」というか「知恵」の集落を構成しなければいけませんね。
それゆえ、当分は第一の生き方に依拠しながらあの「衣食ーーー」の営為の関係史の世界の中で給料をもらって、そこで提供される衣・食・住のネットワークにすがって生きていくんですから、あまりというか、そんなに偉そうなことは言えませんが、ね。
なかなか先に行けませんね、ごめんなさい。
まぁ、それはさておき、前回の「天下四分の計」の話に関連した続きをしたいんですね。つまり、この新しい「クニ」でしか提供できない「サービス」についての話です。魏、蜀、呉でも当然ながらそれに似たサービスを提供していますが、このクニのサービスとは違うんですね。それは何故か。生き方が異なるからなんですよ。何回か記事でもお話しましたが、前者のサービスは第一の生き方に、後者のそれは第二の生き方に依拠していますからね。
私たちはいやがおうでも、尾崎豊の歌の歌詞にあるように、「僕が僕であるために勝ち(負け)続けなきゃならない」世界とそこでの戦争に直面しています。その世界とそこでの戦争には、相互に密接な関係があるにせよ、それぞれ異なる性質と性格を持つ二種類の世界と戦争なんですよ。最初の世界とそこでの戦争は、「僕」自身の生命と安全の確保に関わるものです。次の異なる世界と戦争は、「僕」の生命と安全が保障された上で、それを前提として、その「僕」が生き続けていく世界とそこでの戦争です。
これについては少し以前の記事でも話していました。そこで例え話を紹介していましたが、覚えていますか。みなさんが学校に行ってそこで勉強するときに、そこで「いじめ」の被害者と加害者の関係がつくり出される仕組みが存在しているとき、教室で授業を受けたり、勉強することは簡単なことではありません。先ずは自分自身の生命と安全を確保しなければなりませんね。加害者だっていつなんどき被害者になる恐れも十分に予想されるでしょう。そうした生命と安全が確保された後で、授業が受けられて勉強できるんじゃないですか。こうしたことを踏まえますと、いわゆる「受験戦争」はこの前者については、つまり受験する者の生命や安全の確保が当然のこととされた話になっていますが、それはやはり違う、と私は思うんですよ。つまり、受験戦争の前に、別の異なる戦争とそれが展開される世界が存在しているんだということです。この違いを区別し理解した者が話す日米経済貿易戦争の話は、それを理解できない者が語るそれとはやはり違うんじゃありませんか。「じゃ、それは何ですか」、と私に聞く前に、考えてくださいね。
これについてもう少しだけ言及しますね。今日の若者は、この「僕」の生命と安全の確保がままならないんですよ。この最初の世界とそこでの戦争において、「僕」の生命と安全の確保が難しいのに、どうして次の世界とそこでの戦争に向き合うことができますか。もちろん若者の中でも上手く立ちまわれる者はいますよ。しかし私のモデルでも描いたように、もはや団塊の世代が享受できた、そんな幸せは来ないんですよ。つまり、Ⅱ期、Ⅲ期の「段階」ですね。もう今は、Ⅰ’期を経て、Ⅱ’期そしてⅢ’期の前期の段階に、あるいは既に中期にさしかかろうとしている、そのような段階かも知れない。それでは一体どうするんだ、ということになりますね。
これに関して付言すれば、すぐ後でも話しますが、ここで私が識別して語っている最初の世界とそこでの戦争に関しては、国際政治の研究者は普通のこととして理解できるのに対して、後者の世界とそこでの戦争については、あまり理解が及ばないんですね。逆に、政治学者や経済学者は後者の世界とそこでの戦争に関しては、少なくとも理論よりも歴史を勉強しているものならば、それに関して理解できるのですが、前者に関する世界とそこでの戦争については、全くと言って良いほどに素人なんですね。なにか偉そうに言ってますが、みなさんも自分で確かめてくださいよ。何が言いたいのか。これは当然ですよ。分業で研究していますからね。研究はもう凄まじいほどに分業というか個別化が進んでいますので、仕方がありません。問題となるのは、それでは、当然ながら、的確な診断なんて無理だということなんですね。
そうなんですよ。無理だということ、それを前提に知識人の言うことは聞かなければなりませんね。私も隅で研究している者ですが、私の言うことも、甚だ危ない、怪しい話だと警戒しながら聞いてくださいよ。ただし、幸いなことに、いや違いますよ、これは悲しいことですけど、私には多くの信者がいませんからまだしも、いわゆる売れっ子の物書きやテレビのコメンテーターの話には警戒が必要ですよ。それを断った上で、私はお伝えしたいのは、みなさん自身が、みなさんの頭で考えながら、いろいろな情報を関係付けて物事を判断するしかないんだということです。
「原子力ムラ」の研究者やそれに群がる人たちが都合のいい嘘を言っているだけではないんですよ。それを批判、非難したりする者だって、かなり怪しいんですよ。だから私がみなさんに偉そうに何かを教えられるとしたら、あのモデルで描いた世界とそれに関する図式なんですよ。これは何度も見て考えて、わからないところは遠慮なく聞いてくださいよ。
話を戻しますね。「丸山真男の頬を引っ叩きたい」云々の論考が一時話題となりましたが、そこで論じられていた格差社会の中で呻吟している若者たちですが、こうした仕事のない、あっても不安定で給料の安い若年層の抱える深刻な問題に、それこそ「日本」と「日本人」はどう関わるのか、関われるのか。しかも、もはや若者だけじゃない、日本の勤労者全体にまで関係している。当然それは世界においても然りですね。私がこれまで書いてきたものは、もはや平和憲法を武器として掲げても、日本国憲法をいくら守っても、こうした問題の解決にはならないんだということを、先ずは確認することが大切だということでした。
皮肉な言い方をすれば、仕事のない者や非正規労働に従事する者が平和憲法を守れと主張しているというよりは、革新政党の幹部やその支持母体の組合幹部や国会議員や弁護士やジャーナリスト、大学の先生たちといった自分たちの雇用を確保した者たちが、雇用を確保できない、あるいは不安定な者たちに向かって、説いているような構図じゃないんだろうか。
問題はもはやそんなところにあるんじゃない、全く構造が転換してきているんだと。覇権システムとその秩序に関する構造と、それを前提とした上で織り成される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史の構造が、変容しているんだということです。前者は、覇権国の米国から、その覇権のバトンが中国に手渡されている真っ最中であること、そのための米・中覇権連合の動きが活発化していること、それに呼応して世界的な政治的経済的な変動が導かれていること、ですね。
そうした覇権システムとその秩序の構造転換の動きを受けてというか、それと連動しながら、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史の構造転換が進んでいること、それは「ニクソン訪中」を合図とするかのように、そしてS・ハンチントンの「文明の衝突」論やA・フランクの『リ・オリエント』が端的に物語るように、これまでのヨーロッパ優位からアジアへ、そしてアフリカへとその優位の関係が移動して行く流れにも垣間見られるということ、そう私は見ています。
ですから、もう何度も言うのは控えたいのですが、憲法や共産党が主張していた「内部留保」云々の話ではないんですね。誤解の無いように付言しておきますね。もちろん、何もしないよりはそうした提言をするのは悪くないし、他人様がこうしたい、こうすべきだと言うのに、横からケチをつける筋もありませんから、それはそれでいいんです?。しかし、少し前の私のモデルですね、〈21世紀の「普遍主義」に関するモデル(図式)の紹介〉をご覧になればお分かりのように、もちろんこれも何度も話してきましたように、私の「仮説」ですし、そうならないことだってありますが、もし私の描いたように今後の世界が進むと仮定すれば、今の世界のリーダーや有識者が語っている、例えば雇用に関する解決策云々の話は全て無理だということなんですね。
しかしいくら私がここでそれは無理だ、おかしいんだと話しても、みんな第一の生き方を当然として、前提としていますから、最初から相手にされませんね。ノーベル賞をもらったアメリカの経済学者が、もう一度ニューディール以降の米国の社会に戻せ(この主張は「強い日本を取り戻せ」と同じなんですね。ここには左翼も右翼も同じ発想というか見方が出ていますね。どちらも上述した私のモデルで描いている、二つの種類の世界とそこでの戦争に関して理解が足りないんですよ。)、そのために「政策」を変更すべき云々と論じていましたが、私は唖然としましたよ。また北欧の福祉国家を見習えと未だにそんな事を話す研究者にも驚きますよ。なぜ私が唖然としたり、驚くのか。それは私がこれまで考えてきたこと、その凝縮されたのが例のモデルなんですが、それを前提としているからですね。
換言すれば、私が呆れたり驚く学者や知識人の側からすれば、彼らも私の見方に驚くんでしょうから、オアイコなんですが、ね。それでみなさんに伝えたいのは、今後の世界がどう動いていくのか、よく考えて欲しいのですね。と同時に、私がこれまでの話を踏まえて更に言いたいのは、別に安倍さんやオバマさんや世界の指導者やその御用学者や御用マスコミが話す嘘は、最初から分かりきったことですから、私はあまり気にしていません。むしろ、そうした嘘を見抜いて、それに対抗する側のいわゆる「善良なる知識人」が、全く平気で嘘をついてしまっている、そのために結局は権力者に迎合してしまい、むしろ私にとっては、権力者以上に有害無益な存在となっていることなんですよ。ああー、また私の友達が減ってしまった、寂しいですね、こんな物言いしかできなくて、ね。
誤解の無いようにね。もうそんなこと(つまり、私と彼らとの見解の相違に関する議論)はいいんですよ。いくら話しても聞いてくれないし、伝わらない。これもお互い様。たとえ聞いてくれても、どうにもならない。お互いに生活が掛かっていますからね。「見解の相違」としかならないんですね。
だから、私はイヤ違いますね、それは見解じゃなくて、生き方の違いですよ、と静かに言うだけですね。これからの私の仕事は、第二の生き方を目指そうとする者を結集して、「集落」をお互いに構成しながら、保養所というか、クニを造ることなんですから。そのための先ずは新しい「クニ」造りに関する「情報」というか「知恵」の集落を構成しなければいけませんね。
それゆえ、当分は第一の生き方に依拠しながらあの「衣食ーーー」の営為の関係史の世界の中で給料をもらって、そこで提供される衣・食・住のネットワークにすがって生きていくんですから、あまりというか、そんなに偉そうなことは言えませんが、ね。
なかなか先に行けませんね、ごめんなさい。