日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの新しい「クニ」、第1と第2の「保養所」の違いについてー(1)

2014-03-13 | 社会 政治
何と言えばいいのかわかりませんが、前回は、と言っても今日のことですけど、まだ独り言を続けようとしてたのに、突然の投稿となってしまいました。若い頃ならいざ知らず、「おじいちゃん」になるのも悪くありません。都合のいいように解釈します。誰かが私の記事を読みたくて、それで神様が勝手に投稿したんだと。

まぁ、それはさておき、前回の「天下四分の計」の話に関連した続きをしたいんですね。つまり、この新しい「クニ」でしか提供できない「サービス」についての話です。魏、蜀、呉でも当然ながらそれに似たサービスを提供していますが、このクニのサービスとは違うんですね。それは何故か。生き方が異なるからなんですよ。何回か記事でもお話しましたが、前者のサービスは第一の生き方に、後者のそれは第二の生き方に依拠していますからね。

私たちはいやがおうでも、尾崎豊の歌の歌詞にあるように、「僕が僕であるために勝ち(負け)続けなきゃならない」世界とそこでの戦争に直面しています。その世界とそこでの戦争には、相互に密接な関係があるにせよ、それぞれ異なる性質と性格を持つ二種類の世界と戦争なんですよ。最初の世界とそこでの戦争は、「僕」自身の生命と安全の確保に関わるものです。次の異なる世界と戦争は、「僕」の生命と安全が保障された上で、それを前提として、その「僕」が生き続けていく世界とそこでの戦争です。

これについては少し以前の記事でも話していました。そこで例え話を紹介していましたが、覚えていますか。みなさんが学校に行ってそこで勉強するときに、そこで「いじめ」の被害者と加害者の関係がつくり出される仕組みが存在しているとき、教室で授業を受けたり、勉強することは簡単なことではありません。先ずは自分自身の生命と安全を確保しなければなりませんね。加害者だっていつなんどき被害者になる恐れも十分に予想されるでしょう。そうした生命と安全が確保された後で、授業が受けられて勉強できるんじゃないですか。こうしたことを踏まえますと、いわゆる「受験戦争」はこの前者については、つまり受験する者の生命や安全の確保が当然のこととされた話になっていますが、それはやはり違う、と私は思うんですよ。つまり、受験戦争の前に、別の異なる戦争とそれが展開される世界が存在しているんだということです。この違いを区別し理解した者が話す日米経済貿易戦争の話は、それを理解できない者が語るそれとはやはり違うんじゃありませんか。「じゃ、それは何ですか」、と私に聞く前に、考えてくださいね。

これについてもう少しだけ言及しますね。今日の若者は、この「僕」の生命と安全の確保がままならないんですよ。この最初の世界とそこでの戦争において、「僕」の生命と安全の確保が難しいのに、どうして次の世界とそこでの戦争に向き合うことができますか。もちろん若者の中でも上手く立ちまわれる者はいますよ。しかし私のモデルでも描いたように、もはや団塊の世代が享受できた、そんな幸せは来ないんですよ。つまり、Ⅱ期、Ⅲ期の「段階」ですね。もう今は、Ⅰ’期を経て、Ⅱ’期そしてⅢ’期の前期の段階に、あるいは既に中期にさしかかろうとしている、そのような段階かも知れない。それでは一体どうするんだ、ということになりますね。

これに関して付言すれば、すぐ後でも話しますが、ここで私が識別して語っている最初の世界とそこでの戦争に関しては、国際政治の研究者は普通のこととして理解できるのに対して、後者の世界とそこでの戦争については、あまり理解が及ばないんですね。逆に、政治学者や経済学者は後者の世界とそこでの戦争に関しては、少なくとも理論よりも歴史を勉強しているものならば、それに関して理解できるのですが、前者に関する世界とそこでの戦争については、全くと言って良いほどに素人なんですね。なにか偉そうに言ってますが、みなさんも自分で確かめてくださいよ。何が言いたいのか。これは当然ですよ。分業で研究していますからね。研究はもう凄まじいほどに分業というか個別化が進んでいますので、仕方がありません。問題となるのは、それでは、当然ながら、的確な診断なんて無理だということなんですね。

そうなんですよ。無理だということ、それを前提に知識人の言うことは聞かなければなりませんね。私も隅で研究している者ですが、私の言うことも、甚だ危ない、怪しい話だと警戒しながら聞いてくださいよ。ただし、幸いなことに、いや違いますよ、これは悲しいことですけど、私には多くの信者がいませんからまだしも、いわゆる売れっ子の物書きやテレビのコメンテーターの話には警戒が必要ですよ。それを断った上で、私はお伝えしたいのは、みなさん自身が、みなさんの頭で考えながら、いろいろな情報を関係付けて物事を判断するしかないんだということです。

「原子力ムラ」の研究者やそれに群がる人たちが都合のいい嘘を言っているだけではないんですよ。それを批判、非難したりする者だって、かなり怪しいんですよ。だから私がみなさんに偉そうに何かを教えられるとしたら、あのモデルで描いた世界とそれに関する図式なんですよ。これは何度も見て考えて、わからないところは遠慮なく聞いてくださいよ。

話を戻しますね。「丸山真男の頬を引っ叩きたい」云々の論考が一時話題となりましたが、そこで論じられていた格差社会の中で呻吟している若者たちですが、こうした仕事のない、あっても不安定で給料の安い若年層の抱える深刻な問題に、それこそ「日本」と「日本人」はどう関わるのか、関われるのか。しかも、もはや若者だけじゃない、日本の勤労者全体にまで関係している。当然それは世界においても然りですね。私がこれまで書いてきたものは、もはや平和憲法を武器として掲げても、日本国憲法をいくら守っても、こうした問題の解決にはならないんだということを、先ずは確認することが大切だということでした。

皮肉な言い方をすれば、仕事のない者や非正規労働に従事する者が平和憲法を守れと主張しているというよりは、革新政党の幹部やその支持母体の組合幹部や国会議員や弁護士やジャーナリスト、大学の先生たちといった自分たちの雇用を確保した者たちが、雇用を確保できない、あるいは不安定な者たちに向かって、説いているような構図じゃないんだろうか。

問題はもはやそんなところにあるんじゃない、全く構造が転換してきているんだと。覇権システムとその秩序に関する構造と、それを前提とした上で織り成される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史の構造が、変容しているんだということです。前者は、覇権国の米国から、その覇権のバトンが中国に手渡されている真っ最中であること、そのための米・中覇権連合の動きが活発化していること、それに呼応して世界的な政治的経済的な変動が導かれていること、ですね。

そうした覇権システムとその秩序の構造転換の動きを受けてというか、それと連動しながら、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史の構造転換が進んでいること、それは「ニクソン訪中」を合図とするかのように、そしてS・ハンチントンの「文明の衝突」論やA・フランクの『リ・オリエント』が端的に物語るように、これまでのヨーロッパ優位からアジアへ、そしてアフリカへとその優位の関係が移動して行く流れにも垣間見られるということ、そう私は見ています。

ですから、もう何度も言うのは控えたいのですが、憲法や共産党が主張していた「内部留保」云々の話ではないんですね。誤解の無いように付言しておきますね。もちろん、何もしないよりはそうした提言をするのは悪くないし、他人様がこうしたい、こうすべきだと言うのに、横からケチをつける筋もありませんから、それはそれでいいんです?。しかし、少し前の私のモデルですね、〈21世紀の「普遍主義」に関するモデル(図式)の紹介〉をご覧になればお分かりのように、もちろんこれも何度も話してきましたように、私の「仮説」ですし、そうならないことだってありますが、もし私の描いたように今後の世界が進むと仮定すれば、今の世界のリーダーや有識者が語っている、例えば雇用に関する解決策云々の話は全て無理だということなんですね。

しかしいくら私がここでそれは無理だ、おかしいんだと話しても、みんな第一の生き方を当然として、前提としていますから、最初から相手にされませんね。ノーベル賞をもらったアメリカの経済学者が、もう一度ニューディール以降の米国の社会に戻せ(この主張は「強い日本を取り戻せ」と同じなんですね。ここには左翼も右翼も同じ発想というか見方が出ていますね。どちらも上述した私のモデルで描いている、二つの種類の世界とそこでの戦争に関して理解が足りないんですよ。)、そのために「政策」を変更すべき云々と論じていましたが、私は唖然としましたよ。また北欧の福祉国家を見習えと未だにそんな事を話す研究者にも驚きますよ。なぜ私が唖然としたり、驚くのか。それは私がこれまで考えてきたこと、その凝縮されたのが例のモデルなんですが、それを前提としているからですね。

換言すれば、私が呆れたり驚く学者や知識人の側からすれば、彼らも私の見方に驚くんでしょうから、オアイコなんですが、ね。それでみなさんに伝えたいのは、今後の世界がどう動いていくのか、よく考えて欲しいのですね。と同時に、私がこれまでの話を踏まえて更に言いたいのは、別に安倍さんやオバマさんや世界の指導者やその御用学者や御用マスコミが話す嘘は、最初から分かりきったことですから、私はあまり気にしていません。むしろ、そうした嘘を見抜いて、それに対抗する側のいわゆる「善良なる知識人」が、全く平気で嘘をついてしまっている、そのために結局は権力者に迎合してしまい、むしろ私にとっては、権力者以上に有害無益な存在となっていることなんですよ。ああー、また私の友達が減ってしまった、寂しいですね、こんな物言いしかできなくて、ね。

誤解の無いようにね。もうそんなこと(つまり、私と彼らとの見解の相違に関する議論)はいいんですよ。いくら話しても聞いてくれないし、伝わらない。これもお互い様。たとえ聞いてくれても、どうにもならない。お互いに生活が掛かっていますからね。「見解の相違」としかならないんですね。

だから、私はイヤ違いますね、それは見解じゃなくて、生き方の違いですよ、と静かに言うだけですね。これからの私の仕事は、第二の生き方を目指そうとする者を結集して、「集落」をお互いに構成しながら、保養所というか、クニを造ることなんですから。そのための先ずは新しい「クニ」造りに関する「情報」というか「知恵」の集落を構成しなければいけませんね。

それゆえ、当分は第一の生き方に依拠しながらあの「衣食ーーー」の営為の関係史の世界の中で給料をもらって、そこで提供される衣・食・住のネットワークにすがって生きていくんですから、あまりというか、そんなに偉そうなことは言えませんが、ね。

なかなか先に行けませんね、ごめんなさい。





























































  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オニクタラムの新しい「クニ」造りにおける柔らかい「掟」ついて考えるー2

2014-03-13 | 社会 政治
本当は、今から、少しまた昨日の続きをこれから、と思っていたんですよ。それでね、すぐ下のくだりの、何日の何の前にカーソルを合わせてクリックしたら、なんとそれで投稿となったんで、もう一度、記事一覧をクリックして、この言い訳を書いているんです。もう雇用は、これでやめておけということでしょうから、今日はさらに漢字や文字や文章の間違いが多いかも。それでは、今日も目を休めます。心配しないで。これも言い訳で、別のを書いたり、読んでいますからね。


何日かにかけて少しずつ書いていますが、また今日12日の話です。記事は下にいくほど前の日の記事となっています。話も結びつかないかもしれませんが、お許しください。

昨日も「天下三分の計」を考えていました。元の話は、あの「三国志」にある魏・蜀・呉
を念頭に置いているんですが、そこでの三国は、「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界とそこでの戦争を前提としています。これに対して、私はそうした世界とそこでの戦争から絶対に切り離されることの能うような「空間」を確保できるなどとは思いもしていませんが、それでもなんとかそうした空間を少しずつでもいいから創造してみたいと考えているんですよ。

つまり、従来の三分の計が、またそこでの蜀が、巍と呉と対峙する世界の中で新たに第三番目の国家を創造していく、そのために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界とそこでの戦争を自明のものとしていく生き方(つまりは第一の生き方)を前提としている、という話であるのに対して、私のそれは、勝ち続けることもなく、また負け続けることもないそうした世界とそこでの戦争を前提とする第2の生き方を想定しています。

もう少し厳密に言いますと、「天下四分の計」ですね。私の考える「ク二」は魏や蜀や呉と戦わない、権力闘争をしないんです。既存の、既成の政治には参加しない、関わらないんですよ。イヤ、そんな力なんかありませんから、それらの諸国の間をひたすら漂い続けなきゃならないんです。しかし、このクニは、それらの諸国ではどうしても提供することのできない「サービス」を提供します。そうすることで、存在することを許される、そうした存在意義というか資格を「かちとる」んですね。

ここで私が言わんとするのは、社会党や共産党といった革新政党も第一の生き方を前提としていますから、彼らが政権を取っても、保守政党と同様に、同じことを繰り返すだけなんですね。それを批判しても仕方がないことですよ。天に唾することでしょう。だって、そうした生き方しかしてこなかったんですから、政権に就いたとたんに変われるはずがありません。ましてや世界の仕組みはさらに熾烈な親分ー子分関係のセカイですから。誤解の無いように、この仕組みからは抜け出せませんよ。「脱」することはできませんよ、いくら第2の生き方がどうのこうのといってもね。

それはそうなんですが、だからこそ、その可能性の低さというか制約を早く確認しなければいけませんと語ってきたんですよ。「犠牲のシステム」に「平和憲法」をいくら武器として戦いを挑んでも、そんなことはもう無駄だということを知りましょうよ、と言ってきたんですね。しかし何故そうした物言いをしてきたかといえば、既存の、既成の政治に騙されないで、そうした制約の中でもやれることだけはしましょうよ、ということなんですね。誤解の無いように、騙される人たちはそれでいいんですよ。与党や野党とその圧力団体のリーダーたちは、彼らは、決して騙されてはいませんから。彼らは確信犯ですよ。問題は、彼らに従う人たちと従わない人たちなんですね。私は前者に対しては少し小さい声で、後者には大きい声で、騙されないようにと言いたいんですね。誤解の無いようにね。騙すのが、騙されるのが悪いなんて私はサラサラ言うつもりはありませんよ。みんな生きるためなんですからね。お互いの立場は尊重しますよ、私もね。だって、弱い者が強いものと交際するときは、強いもののルールに従わなければなりませんからね。そのルールというかその制約を理解した上で、やれることをすればいいじゃないですか。

私がここまでの記事でお伝えしてきたことは、選挙(投票)に行かない、支持政党なしの層の人たちならば、既に「気分」としてはお分かりのはずだし、革新政党の幹部だって、とっくに現実は変わらないことを、変えられないことを、分かっていることでしょう。
しかも、そうした状況に胡座をかきつつ、自分の都合に合わせてこしらえた現実の壁というかそうしたものの前で足踏みしてしまう。換言すれば、せっかくここまで築いてきた「セコイ人格」をもう別のそれに変身はできないんですよ。これは少し前までの私のことですよ。唯一それを免れられる可能性の高い人たちがいるとすれば、やはり若い人たちですね。もちろん、ただ若ければいいというもんじゃあありませんよ。私がなんでこうした記事を書いているかといえば、その若い人たちに希望を託すためですね。と同時に、私自身こうした記事を書く事で、これから墓場までの私自身の人生に、私しか背負うことのできない重荷を引き受けることなんですよ。

この言い方は別に偉そうでも何でもありませんよ。誰にもそうした引き受けるべき重荷があるんですよ。私の「神様」はどなたか分かりませんがね、神様は確かに、私のような下品で卑しい者の心にも、確かにいてはるんですよ。神様はホンマに素敵なイタズラをなさるんですよ。私がさっき「重荷」と言ったでしょう、これって「主(しゅ)に(おもに)」ということじゃありませんか。

つまり、今の私にはそれはもう重荷などではありませんよ、希望の灯りなんです。たくさんの希望の灯りがこの世界にはあるんですね、みなさんが早くみなさん自身に一番ふさわしい、その灯りをともすことを、神様はきっと見守っていはるのじゃありませんか。
私がこれまで書いてきた覇権システム云々のナンジャラカンジャラというかヘンジョウコンゴウの関係史のセカイとそこで生きることの苦しさは、その暗闇の中でひたすら自分が引き受けるべき天命を知るための、私の魂の修行だったと、今は私は悟ることができるのですね。

オットー、かなりの読者が引いてしまったかもしれない。といっても、引く読者もそういないんだが。話を無理に戻しますね。

私のこれからの役割は、新しい「クニ」造りのために、それに関わるためにこの世に遣わされてきた人たちが集える空間を見出すことです。と同時にそうした間に、多くの情報をお互いに交換して、各人の希望の灯りをそれぞれが確認する、そうした「場」をつくることですね。もちろん、それは集落であり、保養所であり、クニです。

ここで一番重要なのは、手に職がある、それで食や衣食があるということですね。口に職がある人はあまり役には立ちません。いくら弁が立っても、田植えや畑仕事には繋がりませんし、医療や介護の現場では邪魔になるだけですが、そういう人たちは、つまりは私のような者たちは、できる人に従って、学べばいいんです。とにかくしなければならないことはたくさんありますから。

前回の記事

少し、目の調子が良くないので、休もうとしてたけど、コメントがあってそれ見たら嬉しくなってしまった。それで誰かは分からないけど、コメントを書いてくれた人にまずありがとうと、それが言いたくて記事を書いている。

「おじいちゃんは嬉しいよ」、これがこれからの私の喜びを示す表現。こちらでもいつもそう言っている。もちろん、日本語で。日本語しかできないと思っていたけど、こちらの先生はもとより、院生の中にも私より日本語ができる中国人がいる。日本語も正直なところ、私のレベルではできるとは言えないが、まぁそんなことメーシャー、メーシャーだよ。おじいちゃんなんだから、もう気にしない。もちろん嘘だけど、気になるけど、それでも仕方がない。

もうすぐ、3月末には日本に戻るけど、今回の約1年間は有意義なものだった。私のようなセコイ、小さな卑屈な人間でも、何か出来ることがあればお手伝いしようという気持ちがまた芽生えてきたのは、これからの生きる糧だ。多くの「中国人」に助けられてここまでやって来られた。私にとって、彼らは中国人の前に、私の友達だ。たまたま、中国人だったということ。
「日本人」とか、「中国人」とかにこだわる時代ではもうないはずだ。10年前に、内モンゴルに行った時、そこの人たちに、お前はモンゴル人じゃないかと言われたんだが、まぁ当たり前だろう。日本人と言ったって、元をたどれば、モンゴル人、中国人、朝鮮人その他いろいろな人間の混血じゃないか。それが「大和民族」と称し、「日本人」を名乗っただけのこと。
中国人の「漢民族」だって、同じような歴史を有している。

私が日本にいた時もそうだが、こちらに来てからはそれ以上に痛感したことの一つに、いわゆる「在日」云々の発言や中傷記事に見られる「シャオ・イーベンレン」の存在である。本当に情けない連中である。あいつは「在日」だと、なにか自分たちとは異なる存在であるかのように、軽蔑した物言いをする人たちは、それじゃ自分たちは何人だと思っているのだろうか。もし「日本人」だと言うならば、それをどうやって証明するのだろうか。DNN鑑定ならば、証明できない。アジア地域のいろいろなところに日本人がいるからだ。それが国家権力によって「日本人」という存在に「創造」されるだけの話なのだが、それが「だけの話」にならないから厄介なんだ。
その権力によって、同じ「日本人」であるはずなのに、不当に差別され排除される「日本人」が生み出されている。これは中国でも韓国でも、また北朝鮮でも同じこと。アメリカだろうと、ヨーロッパ諸国だろうと、同じこと。そうした「同じ日本人」が抱えている「苦しみ」には目を向けないくせに、あいつは「在日」だと罵る連中は、一体どんな「日本」と「日本人」を構成している者たちなのだろうか。















ごめん、また寄り道してしまった。さて新しい「クニ」造りにおける柔らかい「掟」を考えるの2回目だが、このクニというか保養所というか集落は、決して社会主義とか共産主義を目指すものではないことを、最初に断っておきたい。生産手段の国(公)有化とか、私的財産(所有)権の廃止とか、営業・通商の自由の制限とか,公正貿易の推奨だとか、私は一切求めないし、そんなことが覇権システムとその秩序が支配するこの世界において実現できるなど思いもしない。残念ながら、これまでの私の研究はそれを皮膚感覚にまで染み込ませるものであった、体に覚えさせるものだった、と言っても良いだろう。
オニクタラムの「夢」だなんて掲げているくせに、一切きれいごとは考えていない。無理なことは無理なんだから。ただしそれを断った上で、じゃその制約の中でできることをすればいい、それだけだ。誰がそれをする。それはそのことに気がついたものたちが、仲間がすればいい。だって、いくら政府に頼んでも、日本国家や日本社会に訴えても、いわゆる「日本人」と僭称する人々に頼んでも、誰も聞いてくれないし動かないんだから。それでうだうだと、俺のように、ブログの記事を書いたり、読んだりして、それでまぁ、仕方ないかで終わってしまうとすれば、これって、たいへん怖いことだよね、いや、実にもったいないことだよ。君の私のいろんな才能が結局何も磨かれないで、そのままウンともスンとも言わないというか、とにかく止まったままなんだから。
ここで少し例え話をするよ。
いくら「ナース・コールが響いっても」動けないものは動けないんだよ。これを世間様に私がいくら伝えても、世間様はわかってくれないから、わたしがからだをはってでもじぶんのむすめ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする