日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの「感じる心」は何故(6)ー1

2014-03-06 | 社会 政治
ごめんなさい。以前の記事です。今日は書いていません。誤って投稿するを押してしました。

オニクタラムの「感じる心」は何故(6)ー1
ごめん、今日は木曜日ですが、投稿します。何回かに分けています。

新3,4回生のゼミ参加予定のみなさん、今日までお疲れさんでした。もう今回の記事を最後として、諸君は読む必要はありません。解放致します。お疲れ様でした。これからは、私のモデルを紹介した記事と、そこで私がこだわっていることを考えながら、「日本」と「日本人」が21世紀のこの世界をどのように歩んでいくかを、いろいろな著作を参照、参考にしながら思案しておいてください。それはあなた方自身の問題となるのですから。
ところで、今回の話の前にみなさんに是非お勧めしたいブログがあります。「プルサーマル計画を憂慮する有志の会」という名前のブログです。今日(2014年2月26日付)の記事を見てもわかるように、現在の福島とそれが抱え続けるであろう問題とその苦しみを、覇権国である米国がマーシャル諸島で1940年代から50年代にかけて繰り返し行ってきた原水爆実験により被爆した群島民のその後の被爆状態と米国政府の不誠実な対応と、同諸島のビキニ環礁で被爆した日本の第五福竜丸の乗組員たちの抱える苦悩を、時間と空間を結び付けながら関係論的に、私たちが生きているこの世界の有り様を、見事に分かりやすく紹介、解説してくれています。どうかこれからも読んで欲しいブログの一つです。
それでは今回の記事を我慢して読んでください。おそらく、あなた達が読まなくなればもうこのブログを書く必要もありませんが、だってもう読み手はいませんからね、これからは私が私に対して「独り言」をいう形で書いていきますよ。正直なところ、これまでも独り言なんですね、喋っているんですよ、それをそのまま書いている。文体がどうのとそんなもん何もありません。新しい共同体では、話し言葉が基本とならざるを得ません。書くというのは、次第にこもっていきます。けったいなことになるんです。つながりや関係が大事だと説きながら、それをさらに説明し、理屈づけるために独り部屋にこもりっぱなしのような状態が続く。しばらくして気がつくともう誰もいなくなっているような。寂しいですね。虚しいですね。でも笑えないんです。余裕はありません。息を抜ける時間がありませんから。それでやった結果が、喩えて言えば、あの原発事故なんですね。
それこそみんな幼稚園から大学、大学院まで一生懸命に勉強して、「原子力ムラ」を必死になって創り上げ、そこにイエスマンをさらに動員するためのマスコミ、教育、司法、検察組織をフル稼働させて動かせてきた私たちの社会があの事故で露呈させたのは、「おら、こんなところに住みたくない」云々との大河ドラマの子役のセリフじゃないが、まともな人間ならそれが本音というか、それ以外にないはず。しかしこれほどまでに優秀なハズの集団が選択したのは、なんと彼らがやっている汚い日常業務を隠蔽すること、蓋をすることなんだね。原発には蓋しないで、イヤできないからだが、それも正直に白状しないんだ。こんな集団、まさか優秀なんてことないでしょう。「外道」じゃないですか。もちろん、そんなこと言えた義理じゃありませんよ、私もね。その外道集団の下請けの業務に精を出しているんですからね。もうみんなこの仕組みに組み込まれてしまって、何も言えないし、言う資格がないんですよ。それで黙っている。
オット-、また話の方向を間違えた。いつもみんなが引いてしまう道を選んでいる感じ。話を戻さなければ。素直に以前書いてた文章に戻しますね。

少しまとめたくなったことが出てきました。それを今から述べて、その後に、金曜日に掲載予定の記事が続きます。

新しい「共同体」建設を考えたい━その理由と必要性について
 これまでの「日本」と「日本人」は、その担い手とされた人間像から判断するときに、いわゆる市民とか、国民と呼ばれる存在でした。また彼らが持つことを要請された「文化」は、大塚久雄さんの岩波新書の『社会科学における人間』にあるように、「ロビンソンクルーソー的エートス」を前提とした人たちでした。ごく簡単に言うと、「原発労働者(作業員)」としての「存在」を自らの生存のために当然とする理性的、合理主義的な人間集団です。そうした集団が社会を構成して、また国家を建設していくのです。市民社会やそこで実現される「自由な民主主義」社会とは、またそこで謳われる自由、民主主義、人権、平和といった「普遍主義」は、どうしても先に指摘した差別と排除の関係を組み込んでつくられてきたものなのですね。J・ロックの『市民政府二論』にある「所有権」についてのくだりにも、インディアンと白人の取り分の関係が述べられていますが、ロックもそうした差別と排除の関係を前提、肯定した自由権の主張を展開しています。
 私たちの今日の社会もそうした関係を内に組み込んだものなんです。憲法自体がそうなんです。「憲法を暮らしの中に活かす」とどうなるか。たとえば、私たちは「今の」格差社会の中で生きていますが、(以前は「インターナショナリゼーション」の時代の格差社会でしたが、今日は「グローバリゼーション」の時代のそれですね)、そこでは「同一」労働に従事しているはずなのに、正規職員と非正規職員がいて、またその非正規職員の構成も細分化されていますが、給料というか、稼ぎが自ずと異なっています。ここも大変ややこしい話を避けていますよ。革新政党の社民党や共産党とその支持母体の官公労や民間企業の組合員は、自分たちの給料を減らして、それをもとにして非正規雇用の人たちの給料を補填する、またそうする形で富を再分配するような方向性を組合の方針とすることはありません。正規、非正規とその生活条件の「差」を当然として、それを前提としてそれぞれのベア・アップや労働条件の改善を叫ぶのですね。
 これ他人事じゃありませんよ。私も同じことをやっています。差別と排除の関係を当然として、前提としてずっと。問題となるのは、もはやどう考えても富を有している者からそれを、そのいくらかを、なんとか融通、工面して、あまり持てない者に「移転」するしか道がないということなんですね。ところが、金持ちも、小金持ちも、貧乏人も、自分たちの持分というか取り分を、より持たない者に回そうとは思いません。これも相当に厄介な問題です。金持ちがそれをして当然とするそうした理屈をつけるのも、大変難しいことじゃないかと私は見ています。努力しないで遊び呆けた結果が貧乏を招来している者だって世間にはたくさんいますから。とにかく人間は勝手な生き物ですので、全く答えは出ないでしょうね、これまでと同様に。
 しかし状況は深刻なんですね。そう簡単に答えなんか見つかりませんが、もう少し話しますね。

とにかく今しないといけないことは、それを望む者だけでもいいから、彼らが中心となって、社会の編成替えを、それが可能なところからしなければなりませんね、ということです。そのためには、ロビンソンクルーソー的エートスではもうダメなんですという人たちがとにかく集まる必要があります。今こう言いながら、少し複雑な気分ですよ、私は。集まるのが苦手で、嫌だから離れていたはずなのに、今更どうして、お前気は確かか、と。  
新しい文化が必要です。正規も非正規もない、そんな社会を創らなければ。しかし、これは相当にやっかいですよ。今まで憲法を守り続けてきましたし、私のモデルで描くあの関係史モデルのセカイで生きてきましたから、それはもう差別と排除の関係を当然とした意識というかエートスが身体体の隅々まで張り付いている、染み込んでいるんですからね。さらにこれからはもはや高度経済成長は期待できないし、それどころかどんどんジリ貧になってしまいます。減り続ける給料はもっと目減りする。
 そんな状況の中で、正規、非正規の垣根を突破らって、お互いの給料をプールして、まさに「能力に応じて、必要に応じて」再分配しようなんてことを、革新政党の幹部が叫んだら、日教組の教職員がそれこそまた叫ぶのでしょうね、「憲法を守れ、人権を守れ、憲法が保障した最低限の生活条件を守れ」と。これって、少ししんどい話ですよ。別に安倍内閣が、新自由主義がどうのという話ではありませんからね。同じ革命を志す仲間が、より良い社会の実現を目指す集団が、その指導者の言うことに耳を傾けないんですからね。
今じゃないですか、革新政党の存在意義が発揮できるのは。しかし指導部はそんなことはしないんですね。彼らも先の意識が染み込んでしまっているんですよ。
 
この間も、福島原発の事故対応に追われる原発労働者は被爆し続け、いつも死の危険性の高い現場で喘いでいる。彼らの生命と安全が「平和」憲法で守られたためしはない。だって、戦後あっという間に、その「平和」憲法を掲げた社会党、共産党は原発建設を推し進めたのだから。当然ながら、それは被爆する原発労働者を、また同じようにウランを掘り出す労働者を必要な前提とする。彼らの生命や人権は守れない。おかしな話じゃないか。今も言ってるんだ、「犠牲のシステム」を「平和憲法」でもって「脱」しようとね。
もちろん、この可笑しさは、少なくとも非正規職員ならば感じれるはずかも。イヤイヤ、それはない。「感じる心」なんかより、まず正規のポストが先。それはそのとおり。しかしまたそれで、悪循環が続くのかもしれない。このくだりについては、記事の最後の方にある、ブログを参照して欲しい。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に関連した記事。
 
言いたいことは、いわゆる最底辺に暮らす人たちの存在を感じながら、彼らが基準となって構成される社会のあり方を考えたいのですね。たとえば、もしそうした人たちの存在を基準にして、もし自分たちがそのような立場にいたら何を一番して欲しいか。たとえば仮に原発労働者として、私やあなたがそこで働いていたら、「私」と「私」とそれらによって構成される「公」に対して、何を、何をしてくれと先ず求めるだろうか。私ならばすぐ言う。「早くここから出してくれ。こんな危険な環境で働かなくても食べていける仕事をつくって欲しい。」それがダメなら、「放射能の安全基準となる数値を勝手に下げないで欲しい。」いくらでも考えられる。そうしたら、都知事選の争点は「脱原発」なんて抽象的なことじゃ、ダメだということに気がつくはず。しかし、そうならない。むしろ逆に、彼ら原発労働者の存在をかき消すように、「一本化」どうのでお祭り騒ぎをしている。どちらが悪い、こちらが勝利した、と。とてもじゃないけど、彼らは本当に非正規労働者や底辺を這いつくばっている人間の苦しさなんかに目が向かない。ここでも、私にそんな偉そうな言い方はできない。これも確かだ。しかし、それでも言わないと。
 
もう最初から、彼らのような存在は見えていないのだ。なぜ見えないのか、見ないのか。それは私たちが差別と排除の関係の中で、そうした関係が空気のようになってしまった世界で生きているからだ。この空気は、中国の「毒霧」よりも猛毒じゃないか。日本の放射性物質以上に怖くないか。
 とにかく、差別、排除する側から社会や国の在り方、例えば「脱原発」とか「暮らしと雇用」「医療や介護」等の問題、を考えるのではなく、される側に立ってそこから、もう一度、社会や国の編成を考える必要があるんじゃないかということですね。しかし、それをまさか日本社会全体に求めることは到底、望む由もない。だって革新政党の構成員だって、決して給料減らしていいなんて言わないから。いくら「感じる心」があっても生活がかかっている。ローンもその他の借金も子供の養育費用も、自分の老後の年金も、考えればキリないから。
 しかし、これから50,60年後のことを考えるとどうしても今からてもしておかないと大変なことになるから、私は「天下三分の計」を、「トロイの木馬」戦略をなんて話をせざるを得なくなった次第。この10年近く思案してきたが、自分のようなホンマに小さな心というかケチな生き方しかできない人間が中心となって、そんな集団がどうしてできるのかと、諦めてきた。しかし諦められない。本当に、今更だよ。これも広瀬隆効果。老後を安らかにと思ってきたけど、ダメでもいいから、途中で終わってもいいから、後に繋げる何かを私が作っておかないでどうするんだとの一念で,少なくともゼミ参加者には笑われても伝えておきたかったんだ。そういえば「ずっと笑われていたんだぜ」斉藤和義のパクリ。
 それで、エッセンスというかアラスジを話してきたんだ。まだまだ何も語ってない状態なんだが。とにかく新しい共同体を創造しなければならないということ、これまでのような市民や国民とそれらを構成してきた人間(ロビンソンクルーソー的エートスを持った合理主義的、理性的、ずるい、ずる賢い、計算ずくの、卑怯な人間)とは異なる「にんげん」を創造すること。そのために、「天下三分の計」で、とにかくそうした思いを共有する集団のネットワークづくりから始めること。以上です。
 少しこれに関して言及させてください。その共同体は、できれば農山漁村を中心に据えたいのです。そこしか、自然と触れ合える場所があまり見つからないということです。新しい共同体は、まず全国各地に、といってもたちまち福島原発事故とその影響で、全国とは言えないし、今後の事故も想定すれば、その範囲は大きく限定されるかもしれませんが、その方がかえって最初は好都合です。まだ何の力もないんだから。そこで拠点となる集落を作ります。これ相当な若い力がいりますね。そうした集落に、現金収入を稼ぐためにそこに「保養所」をつくります。都会でストレス抱えた人たちが生き抜きできる「空間」を設けます。大企業の社員や学校の先生も今はストレスで精神というか心を傷つけたり病(や)んだりすることも多いでしょう。またお父さん、お母さん方や子供たちもそうでしょう。そういう時に、心身を休めるための場所です。何よりもこの共同体を創ろうとする私を含めた集団自体の癒しの場ということ、これがまず第一番目ですね。
しかしここでいう保養所は、保育所,幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、専門学校と各種の教育機関がついています。そうなるようにみんな働かなければなりませんが。とにかくそこで短期、長期の療養をするのですから、そうした生活を賄うためには、いま私たちが生活している日常が、その集落にも用意されなければなりませんね。学校もそうですが、病院、役所のような施設が必要となります。しかしそこで生活する以上は、守らなければならない集落の掟があるのですね。これは今回は書きませんが、厳しいですよ。早寝早起きから始まって、二宮金次郎や宮沢賢治、安藤昌益、田中正造といった人たちの教えに従う生活が基本となります。
彼らがそこで休むためには、当然彼らの面倒を見る人が必要です。食事の提供から、日常のきめ細かい行き届いたサービスを提供しなければ、お金は稼げません。もちろん、国や政府自治体や大企業の協賛を得るように努めますよ。そうしながら、そこに医者や、先生、オット、先生はいるなぁ、とにかくそこに、ミニ社会ができますね。ただしそこでは決まりがあります。先の掟の一つですが、そこで作られる同じものを、学校給食に例えれば、同じ食材を使った食事をみんなで、食べるんですね。これ嫌ですよね、苦手ですね。その食事を作るのは、地元の人達で、彼らの現金収入になります。またその手伝いが要りますから若者もそこの協力しながら、給料を得ます。とにかくあまり今の生活と表面上は変わりませんが、掟をみんなでつくり、それを守るという契約を結ぶんですね。もちろん退会は自由ですよ。そうした地元の食材を自給自足的仕方で賄いながら、今度はそれを都会のスーパーや学校給食や大学や企業の食堂にもおろせればいいですね。そのための流通の販路獲得は大変ですが、それもみんなが考えるんですよ。
 特にこの集落とその保養所の最重要課題は、そこの生活上の問題を解決するための代表者を選んで、いわゆる国政に送り出すことですね。国会議員を出すんですよ。しかし政権政党を目指さない。とにかく3分の1でいい。もちろん、こうした試みは、まだまだ遠い遠い先の先のことですね。しかし、ここはもっと詳しく語ります。独り言ですけど。今度また機会を見つけて。先の集落と保養所もまたの機会にね。ただし、もう少しだけ、話しますが。 

保養所にはいろいろな人材がおそらくたくさんいるんじゃないでしょうか。次第に、その家族や、おじいさんおばあさんまできてくれれば、地元の自治体も財政的にもしっかりしてくるでしょう。そうすれば、私たちの共同体とも友好関係ができていく。色々と考えはありますが、この辺にしますね。ただし、大変ですよ。農林水産業に従事している人も、都市生活者と同じ生き方をしていますから、甘くないですね。非常に保守的です。もちろん、革新的がいいなんて、それも間違いですが。
保守も革新もない、中道もない、第2の生き方を目指すのですから、そんな違いはありません。まぁ、この辺で。考えれば考えるほど、大変ですね、とにかく、私のようなセコイ、ちっぽけなところで、自分の精神的、物質的領域を侵犯されないように、日々いらないところに気を使って生きてきた人間がもし集まれば、それは気が遠くなる程に絶望的となりますね。


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