靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

御節2014!

2013-12-21 23:59:54 | 
子供の年齢が上がるに連れ、より長い間幼稚園に行き始めたり、ママが仕事に戻ったり学生になったりと、なかなか集まる時間を合わせるのも難しくなってきた友人達。

「今年御節どうする~? 私的にはあんなすんばらしい御節など皆で作ることなしにあり得ないし、是非したいとは思っているのだけれど。数人でも集まれば何らかのものができるよね」

とメールを送ったところ。

やるやる!と。結局去年と同じように十人以上集まることに。一年ぶりに会うことになる友人も!メールで具体的な材料など打ち合わせ中。

振り返ってみました:

2013
2012
2011

御節2012



今年も年末一大プロジェクト、わいわい御節作り、楽しみです!

近況整理、シンプルに絞ってゆったりする時を

2013-12-15 08:08:39 | 今週の整理
1.三女と次女が小学校からもらってきたニュースレターに、「この時期のストレスの減らし方」というのがあった。あれやこれやしようと思わず、絞込むと。外のライトアップは省いて、居間のツリーの飾りつけだけにしたり、来客の料理も手の込んだものより、簡単でヘルシーなものにしたり、クリスマスショッピングはセールだからとあれやこれや回らず、一軒で終わらせ後はゆったり過ごすといったように。何年かストレスフルなホリデイシーズンを過ごした後、するべきことリストを半分に削り、家族でゆったり過ごすことにしたと言っていた友人を思い出した。

 来週金曜日からは冬休み! シンプルに絞り込んで、皆でゆっくり楽しめる時を持ちたいです!


2.来週も行事が立て込みますが、忙しい時ほど、子供達にかける声のトーンに気をつけたり、スキンシップを心がけることで、よりスムーズに進む。ゆったりしている時は自然にできることでも、きちきちのスケジュールになってくると、ついついぴりぴりトゲトゲ角々してしまうもの。日に何度か思い出しリセット、生き生き笑顔が広がる!


3.次女のクラスメートのお母さん、二週間前に五人目出産。今週、コーラスの発表会で出産後初めて母子に対面。五人目が一番大変な出産だったわと、笑いながら元気そう。来週はこのコーラス部、市内何箇所かを歌って回ることになっているのですが、その「運転手募集!」という先生の声に、手を上げるお母さん。生後二週間児を連れ、子供達の送迎に何箇所も回ると!出 産後一週間で、校内のスケートリンクで靴紐を結んでやるボランティアに現れ、新生児をストローラーに乗せ滑っていたお母さんにも出会ったことがあったけれど、もうほんと、こちらの元気な人のパワーってすごいです、脱帽


4.長男が中学校からもらってきた心肺機能蘇生(CPR)用の人形。

日中一人で兄姉の真似をして蘇生する次男四歳。ふ~と一段落し、一言。

ママ~、これってBPAフリー?


5.問題に出会ったら、これは解決への一つのフォーマットを作り出す機会だととらえてみる。するとアイデア溢れ、あれやこれやと試す意欲も湧く。解決した時のやった!という気持ち、一連の流れを記しまとめ、それがひょっとして誰かの参考になるかもしれないという喜び。目の前の「問題」が、喜び体験のチャンスに変わる。


6.昨日、友人が次男を二時間ほど見てくれた。大好きなS君と遊べて大喜びな次男、バイバイ!と満面の笑顔で手を振って。私はカフェへ駆け込み一時間半程、あれやこれやのまとめに没頭。今週は夫出張で、朝から寝る直前まで、ほっと一息がなかなか取れない状態が続いた。そんな中の予期せぬプレゼント。一分一分かみ締めました。本当にありがと~!


7.ちょうど一年前の今日、コネチカットで起こった小学校襲撃事件が、お友達の間でも話題になったよう。長女十二歳が夕食時に言う。

 小さな子でね、あの事件みたいに、何の理由も無く殺されちゃう子達いるでしょ。なんでだろう、どうしてこの子達は生まれてきたんだろう、こんな短い間だけって思って。本当のことは、人には分からないのかもしれないけれど、でもこの子達がね、こうして普通に暮らしていられることが、どんなに貴いことかって教えてくれる。あの子達のイメージがね、何が大切か、何を見過ごしてはいけないのか、何を改善していくべきなのかって、突きつけてくれる。
 今でも世界を見回すなら、こうして何の理由も無く殺されちゃう人や子供ってたくさんいて、それはこうして暖かい部屋にいて美味しいものを食べてると、まるで夢物語のように感じるのだけれど、本当のことなんだよね・・・。

少し涙をためて言う長女、こうして色々なことを思い感じながら育っているんだなあと感慨深かったです。



今日は、朝長男と長女をNPO活動に送り(雪の墓地に花輪をかけにいくそう)、下三人とスケートに行き、上二人を迎えに行った足で長女のドレスを買いに(明日のピアノ発表会と来月の友人君バル・ミツバのため)、そのまま長男をロボティックス(昨夜は夜中2時頃まで作っていた!)に。明日は友人家族とクッキーを作り、夕方から三女と長女のピアノ発表会。

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!




日常風景:

動物園! 五人プラス長男の友人君と。


感謝祭にはあなたを食べたのね。


狼と見合い、


雪豹と見合い、


ダルシープをなで、


グリズリー、あれ、冬眠は?


下の子の世話をしてくれる長男の友人君。(笑)


楽しかったね。



皆で蘇生な夜。


S君と次男。

きゃっきゃと紙飛行機飛ばし合い。


次男、「インストラクションに沿った作品」:

火星に向かうスペースシップ。


ツリーハウス。


モンスターカー。



昨日のファミリーディナー:

レモネード作りな長男に、


パン作りな四人!

ティーンな長男、その子の内のせめぎ合いに委ねて

2013-12-15 08:07:59 | 子育てノート
夫出張の今週、山積みの家事と次男の相手と共に、いつもは手分けしている長男早朝のジムや中学小学校そして放課後の習い事の送迎、おまけにホリデイ前ということで学校で親を招いた行事があったりと、なかなかチャレンジグな日々でした。

そこへ木曜日、次女の放課後のアートクラブと三女と長女のピアノレッスンが重なってしまい。三女と長女をピアノに降ろし、往復四十分程の小学校へ次女を迎えに行き、再びピアノの先生宅に戻って、とできなくもないのですが、週末のピアノ発表会前の最後のレッスン、直すべきところなど私も傍で見ていた方がどうもよさそう。
ということで、次女にアートクラブを休ませることに。ところがこのアートクラブ、年に二度のそれぞれ二日セッションのみ。先週作ったものをこの日完成させ、持ち帰ることになっているの!そう指折り数え楽しみにしていた次女、さめざめと泣き続ける。

長男と相談。いつもはピアノについていく長男、家にいて、往復四十分ほど、歩いて次女を迎えに行き連れ帰ってくれないかと。

最初あまり考えずに「OK」と言っていた長男、前夜になり、「ピアノの先生宅の静かな部屋で宿題をしたい。雪降るマイナス十度の真っ暗な中、歩き続けるのは嫌だな」と。
他の保護者に三十分ほど見て貰う(知り合いは誰も参加していない)、学校で一人で待つ(その時間校舎に生徒一人は許されない)など、他に何か方法がないかと長男と共に考えるも、解決策は見つからず。「○○(次女)が休めばいいんだよ」という長男の言葉に、次女また泣き始める。

「これくらいの道のり何でもないじゃない、いい運動よ」「手伝ってくれたら本当に助かる」「パパのいないこういう時こそ助け合おうよ」

そう言葉をかけるほど、長男も不機嫌になり。最後は私も怒り始め、

「もういい! ママが何とかするから」と言い放つ。

お互い気まづいまま就寝。



ベッドに寝転びながら、

まずは、「こうあって欲しいという彼の姿」と「現実の彼の姿」のギャップに、「がっかり」している自分にこれは「過程」なのだと声をかける。

次に、彼の側に立って、彼の内面に何が起こっているのか整理してみる。

1.暖かい屋内で心地よく過ごしたい (自分のため)

2.親も妹も困っているのだから手伝いたい (他者のため)

3.親に左右されない自我を確立したい。 (親離れ反抗期)

大人に成りかけ反抗期子供の十四歳、彼の中では、どうもこの「3」が大きいように感じる。「1」を感じ始めて、「3」がますます増大といったところか。

突き放すことで、「1」や「3」を叶えさせるより、強制的にでも行かせて「2」を体験させた方が、結局は彼のためになるんじゃないかなあとも思ったり。

あれやこれや思いながら、眠りに落ちる。


翌朝、ジムは六時前と早いので、いつも起こされないと起きないのに、自分で起き準備を黙々とする長男。こんなこと初めて! どうも彼もゆっくりと寝られなかったようで、気まずい表情をひきずったまま。

ジムへ向かう車の中で言う。

「僕は行きたくない。でももし行かなければならないなら行くよ」

「助かる。ありがとう」と言うと、頷いて、窓の外を向いた。



その日午後中学へ迎えに行き、アートクラブは何時に終わり、校舎のどこで落ち合いと具体的な予定を立てる。「で、僕はこれでいくらもらえるんだっけ」と冗談言って笑う長男。すっきりしたいつもの表情。

家に長男を降ろし、三女を迎えに行ってピアノへ。長男はその間に次女を連れ帰って暖かい家の中にいるだろうとピアノから戻ると、家の周りをうろうろしている長男が。何でも、鍵を持っていくのを忘れ、三十分程外で待っていたと! 次女は凍りついたドライブウェイに留めてある車の中に! 家に入り、真っ赤な頬に冷え切った手を合わせ、けたけたと笑い転げる長男と次女・・・。

つられて笑いながら、ああよかったと思う。それでも、行ってよかったと一番感じているのは、他の誰でもない長男自身なんじゃないかな、彼の笑顔を見ながら、そう思った。




整理:

・思春期の子に、同じことを言い続けても、反発するだけ。伝えることを伝えたら、少し離れ、その子自身でその子の内面のせめぎ合いを体験させてみる。今回はそう意図したということではなく、私自身もたなくなって突き放したのですが、結果的にそれがよかったです。(笑) 時には「1、自分のため」を選んだり、「3、親離れ反抗期」に囚われ続けることもあるかもしれない。それでも、それも「過程」として、こちらが大切に思うことをさりげなく伝えながら、見守る。


・「なければならない」といった「義務」のような部分を強調する長男、それでも、その奥に「2、他者のためにしたい」がある。そしてこれから自分が本当に辛いときに助けられたりといった体験を何度も重ねる内に、心の底からの「2、他者のため」が開いていくだろう。まずはハード面(義務)を整えておくと、ソフト面も開き易いということもあるだろう。


・思春期は、「3、親離れ反抗期」が絡んでより複雑だけれど、「1、自分の心地よさのため」と「2、周りのため」のせめぎ合いは、大人になっても常にあるもの。このせめぎ合いには、自分の内に「1」があるのだと認め自覚しつつ、ここぞというときには、「1」を赤子のようになだめあやしながら、とにかく「2」の「行為を刻む」ということなのだろう。



伝え、下がり、こちらも頭を冷やし、後はその子自身のせめぎ合いに委ねてみる。

押して、引いて、ティーンとのダンス!




真っ暗闇のこんな車の中で、三十分ほど待機。(笑)


アートクラブから長男と戻り外で凍えて一時間後、宿題して夕食さっとすませ、次女コーラスの発表会へ。


じんぐるべ~る、クリスマスキャロル!


じゃ~ん、と終わり。


アートクラブも、コーラスも無事参加できて、良かったね。

「神」を見ないことを選んだモーセ

2013-12-15 08:06:29 | ファミリーディナートピック
真のリーダーの条件とは? (”When Moses Was Afraid to Gaze Upon G-d” by YY Jacobsonより): 

モーセがリーダーとして選ばれたのには、四つの出来事があったためと言われる。

1.奴隷だったユダヤの老人が、鞭で打ちのめされ死にそうになっているところ、その鞭をふりかざす兵を突き飛ばした。

2.その翌日、ユダヤ人同士が争っているところ、仲裁に入った。

3.エジプトを出、砂漠をさまよっている時、井戸のそばで遊牧民の娘がいじめられているのを救った。

4、しげみの炎に「神」が現れた瞬間、顔を覆った。

1から3は、ユダヤの内と外に関わらず、「不正」を前にすると、いてもたってもいられず行動を起こすモーセの人物像が伺え、リーダーとして相応しいのが理解できる。



ではなぜ4か? まずはこの時の状況:

モーセが羊の世話をしていると、一匹の子羊が群れからいなくなったことに気が付く。辺りを探し回り、ようやく見つけたと子羊を抱いたところ、しげみの中に炎を見つける。「なぜあれほど激しく燃え盛っているのに、しげみを焼き尽くしてしまわないのだろう?」そう訝しく思い、近寄る。
 すると、炎の中にイメージが浮かび上がる。人類が生まれて以来、未来まで、争いが絶えない様子が映し出される。罪なき人々が無残に命を奪われ、善き人々が虫けらのように殺され、古代から未来までの繰り返しの、残忍な悲劇と血みどろの歴史。
 モーセは嘆く、なぜ善き人々がこれほどまでに苦しまなくてはならないのか。この世界のどこに公平さがあるというのだ? この世はどうしてこれほどまでに理不尽なのか?「神」よ、あなたはどこにいるのですか。あなたは完璧であるはずなのに、なぜこれほどまでの悪を創りだしたのですか。なぜこれほどまでの悪を許すのですか?
そこへ、炎の中から声が響く。「私があなたの神だ」
 モーセは顔を覆った。
     『トラ』より

モーセが顔を覆った理由には、あまりにもまぶしかったから、畏れから、など様々な解釈があるが、ここでは、ある一つの解釈について。

この時「神」は、この世の理不尽さの背景にある、「神からの視点」をモーセに見せようとした。

人は壮大なタペストリーを織り成す一つの糸のようなもの、周りの黄や青や赤の糸の連なりを見ることはできても、壮大な紋様の全体図を見ることはできない。
それでもモーセは、その「神」からの眺めを、壮大な全体図を見ることを、顔を覆うことで、拒否した。

なぜなら、彼の内にもし一パーセントでも、全ての理不尽を納得してしまえる「神からの視点」があるのならば、彼は周りの人々と共に悲しみ、苦しみ、共感し、嘆き、戦い、なぜだ!と拳を振り上げることができなくなってしまうから。

天国への階段を差し出した「神」に対し、モーセはこの地球に留まることを選んだと。

こうしてモーセは、「真のリーダー」となった。


¥ユダヤでは、「神」にはいくつもの名前があるとされる。神は一つでありながらいくつもの面をもっていて、その一つ一つの面に名前がある。一説には七十二の名前があるとも。

モーセが炎の中に見たのは、その中の一つ「Elokim」、審判を司る神。

そして『トラ』にはこんな記述がある: 

モーセは審判の神Elokimを見ることを恐れたため、慈悲の神Havayaを見るというメリットを与えられた。


嘆き悲しむ人々を前に、ああそれはね、あなたにこういった罪があったから、その罰なのですよ。これであなたの罪もぬぐわれますよ。よかったですね。「神」は完璧なのですから、全てに意味があるのです。全ては「神」のご計画通りなのです。

この地球に生きている人々のミッションとは、そんな「分かった気」になってしまうことではない。「分からない」という前提に立ち、共に悲しみ、嘆き、なぜだ!と問い、少しでもよくしていくためにと行動を起こしていくこと。そうして一人一人が、慈悲に溢れた存在となること。

(私自身、「神」と言及されることのある「存在」を感覚として信じているのですが、時に「無神論者」や「不可知論者」に感じる「正しさ」も、上の下線太字部分にあるのだと思います。
 また未だかつて「そのもの全てが表された言葉」はない、限りなく近い表現はあるけれど、そもそも言葉で表された時点で「ずれて」しまうと感じていて。そうした既成の「神」にすっぽりとあてはまらないからこそ、敢えて「無神」や「不可知」と唱えている人々もいるのでしょう。
 といって「神」という言葉で表し讃え集う場、「その存在」に限りなく近い言葉を伝える人々も必要であり。「全て」ではなくとも確かに「神」に触れられる場や言葉。このラビであるJacobson氏の記事は、そうした場を作り役割を担う人々が、そんな「神の信仰」の諸刃の刃的な面を自覚し、進んでいこうということなのだと思っています。あの最も「神」を信じ、「神」と近く歩んだともされるモーセが、顔を覆い「分かってしまうこと」を拒否したように。)



子供達も、「分からない全体図」について、感じることがあるようで色々話していました:

・「タペストリーの全体図」は、一人でも糸が欠けたら成り立たないんだよね

・この世に来る前に、自分でどんな人生がいいかを選んでいる。大変な人生を選ぶ人もいるし、短いものを選ぶ人もいる。人生を終えたら戻り、しばらくしたら、また新しい人生を選ぶ。

・卒業というものもあって、自分のミッションを完全に果たしたのなら、もう生まれ変わらなくてもいい。

信じているというより、こういう話も聞くことある、本当のところはどうかは分からないけれど、何となくそうかなとも思うという調子で話していました。こんなこと思っているんだと少し驚きました。


様々なストーリを想いつつも、ジャッジするのではなく、人の気持ちに寄り添い、共により良くなるようにと動いていけるといいね、そんな話をしました。

すっとできる子できない子

2013-12-15 08:05:51 | 子育てノート
屋内プレイ施設でお友達と次男を遊ばせながら、友人が絵を描いてくれた。

次女と私。


友人は、子供時代からこうしたイラスト画をスラスラと描けたらしい。周りの子達って、なんで描けないだろうと不思議だったと。

いました! クラスに絵のうまい子。

そして身近なところで、実兄もそうでした。小学生の時から結構本格的な漫画を描いていた。

私自身は描けない方。写生大会などで兄と共に入賞したことはちょこちょこあったけれど、こうしたイラスト画は全然。兄の傍で、さっさと引かれる線から浮かび上がってくる人や動物や物を見ながら、どうしてこんなことができるのだろうと不思議でしょうがなかった。

絵が描ける人を見ていると、周りの人や物を見ながら、描いてみようと色々試し、どうしたらもっと良くなるだろうかとあれやこれや工夫している。同じ人や物を見ても、私はそもそも「描いてみよう」という発想が生まれない。前者と後者とでは、「描く」ということにかける現実的物理的エネルギーから時間から大きな隔たりができる。

「もっと良くするためにあれやこれや工夫する」ことは、「努力」と呼ばれるものだけれど、絵が描ける本人達を見ていると、「努力している」なんていう感覚はなく、ただもう好きでどうしてものめり込んでしまうといった様子。

これが、「努力のこつ」なのだろうなと思う。「自分は努力している!」といった「固さや凝り」が溶け没頭した状態。この状態を継続することで、徐々に形が現れてくる。



絵はまだ描けなくても困ることはないのだけれど、子供達が一日の大半を過ごす学校で重視される「勉強」が「できないこと」であると、子供達にとってきついだろう。絵を描くことに興味がないのに、あれやこれや示されうまく描きなさいと言われ、その上「努力が足りないからよ!」と言われても辛い。「努力しなきゃ、努力するべき」と「固さや凝り」だらけになってしまう。

皆が皆、初めから絵を描くことができるわけでもない。鼻はこうして描くといい、目を描くにはこうしたらいい、そう一から手取り足取り習うことで、伸びていく子もいる。また、それまでには聞いたこともなかった方法に触れることで、楽しさを知る子もいる。

小学生の時、母親とその友人達が、地元の芸大の学生達に先生になってもらい、私の通っていた学童保育や近所の子を集めて「アート教室」を開いていたことがある。消しては描いてと、恐る恐る線を引く私に、「上から描けばいいだよ」と教えてくれた顎鬚の学生さん。様々な線が交わる中に浮かび上がる「描きたかったもの」を前に、こんな方法があるのか!と呆然としたのを覚えている。炭の線をパンでぼかしたり、石や小枝やプラスティックの容器や、身の回りの見慣れたものが、アートに変身する様が楽しかった。

「できなくて苦労する」子には、既成の方法では楽しさが見出せない場合もある。そんな時、楽しさを引き出すような機会に触れる場がもっとあればと思う。そして家庭も、そんな場であることができたら。学校に上がる前の家庭での準備とは、その子が自ずとはまりこんでしまえるよう、この「学ぶ楽しさ」を体験させ習慣にしてしまうことだとつくづく思う。



すっとできる子

工夫し続けることで、もっとよくなるという楽しさを教える

周りと比べて傲慢になったり胡坐をかいてしまわないよう、昨日の自分自身と比べるようにする。

感覚的にできることを、様々な角度から論理的意識的にもできるようトレーニング


できなくて苦労する子

「努力が足りない!」と言われても、途方にくれるだけ

その子に合ったペースとレベルで、忍耐強く教える

周りと比べ焦らず、その子自身の「できた!」を大切にする

違う方法に触れさす



我が家も五人様々。同じ子でも向かう対象によって、できたりできなかったり。その子のその時に合った対応をしていきたいです。

イラストは相変わらずさっぱりですが、今でも時々絵を描いたりと、私もアート、楽しんでます!

俳句あれこれ、雪玉を放りて一つ星落つる

2013-12-14 23:59:08 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
1.次男が没頭して遊び始めた十五分、インゲンを炒める五分、駐車場での待ち時間三分と、細切れ時間をちょこちょこっと手にする育児家事な生活というのは、五七五と短くまとまった俳句を考えるのに合っているなあと思った今週でした。

といって他にも考えるべきこと山積みで、なかなか俳句だけに細切れ時間を割くとはいかないのですが、それでも嬉しいリフレッシュです。


2.今までちょこちょこと参加させていただいた俳句会。それぞれの「好き句」に投票し合うのですが、自分がこれいい!と思うものに点が入らなかったり、逆に目に留まらなかったものにたくさん点が入ったり、自分の思いを客観的に見られる機会になっています。

といって、どういった俳句をその会が目指しているかによって(より現実的写実、より心象の描写など)、点の入り方も随分異なると、日本の句会何度か参加体験者から聞き。その場を構成する人々によって、自分が一時「客観」と思ったことも、また変わるものですね。


3.俳句を作る際によく用いられる「多作多捨」という言葉。とにかく多く作って、ばさばさと捨てて、その中にきらりと光るものが生まれることがある。長年鍛えた俳人の中には、短期間に驚くほど作る人々もいるそう! とにかく作り続けてみる、百の中に一つでも「ちょっといい」というのがあればいいじゃない、そんな姿勢、いいなあと思います。


今週の「雪百句」参加句 by マチカ:

雪の底遥かなる日を見上げおり

雪の間に真隠して日が暮れる

思い出に導かれ行く雪明り

雪舞て最奥の闇照らされむ

慟哭を沈めて高し雪の山

どこまでも平らなる雪国境

雪の音に包まれし見る白昼夢

どちらが本物かと問う雪と月

老犬の雪の柱にもたれおり

満ち足りたアルパカといる雪の午後

雪ん子の手の温もりや星明り

紫の恐竜の見し雪の夢

半月に教えてもらった雪の色

超えたっていいんですよと雪の精

雪玉を放りて一つ星落つる

近況整理、どこまで本気で思ってくれるのですか

2013-12-08 09:53:06 | 今週の整理
1.木曜日朝、六時前に隣のアラスカ大学のジムに出かけた長男から電話、道路のコンディションかなり悪いんだけれど、今日学校あるか学区のウェブサイト見てくれる? すると、道路状態の悪さにより、全学区閉校とある。ひゃっほ~!と長男の声。

 雪が積もった中、急に温度が上がって雨が降り、それが明け方の冷え込みなどで凍ると、街中がアイスリンクのようになってしまう。車の運転だけでなく、歩くのさえままならない。

 翌日、道路状態も改善し、滑る箇所は砂や小石を敷くなどで、学校再開。それでもやはり滑るので放課は屋内。小学校の迎え場所に行くと、三女のクラス、皆手を繋いで支え合いながら、よちよち歩きの子のように歩道歩いてました。



2.日本の雪国出身の友人が、ボタン一つで裏からスパイクが出る靴というのが欠かせなかったと言っていたけれど、こちらでもかなり重宝されるだろうに。靴裏にかぶせるメタルの網のようなものは売っているのですが。建物内を歩くのに脱いだりつけたりと日常生活ではあまり実用的でもなく。「ボタン一つで自由自在スパイク靴」、妊婦やお年寄りにもよさそう。



3.突然の休日。八時前、何で起こしてくれなかったのお~と髪振り乱し血相を変え二階に駆け上ってくる長女。「今日休みになったのよ」の言葉にへなへなと座り込む。同じようなやりとりを次女、三女と繰り返し。(笑) その後はまったりと皆で家中掃除。自分達で子供部屋の模様替えし、隅々まで拭き、すっきり~気持ち~と。思いがけない、掃除整理リフレッシュ日になりました。




4.長男、ここ最近、三人チームで歴史上のテーマをリサーチし発表するという社会科プロジェクトに取り組んでいる。まずはテーマを決めるにあたり、「第二次世界大戦時の日本人強制収容所」「真珠湾攻撃の背景」などの長男による提案は、他の二人の女の子により却下。結局、「アラブの女性」がチームのテーマに。何でも、三人で「アラブ女性」の民族衣装を着て、プレゼンするそう・・・。男役とかでないの? と母。いや、女装して欲しいらしい、と長男。完全に女の子ペース。(笑) 



5.来年五月の二週間ほど、長男、日本の実家と親戚の家にお世話になることに。今週チケット購入。最後に日本を訪ねたのは、三歳の時。かなりのカルチャーショックでしょう。といってもう十年近く帰国していない私が行ったとしても、随分とカルチャーショックでしょう。

 日本語学習を日常の課題に組み入れようとはしているのですが、これがなかなか。学校ではスペイン語を取っているのですが(日本語の選択はなし)、日々の課題とスペイン語でいっぱい。一日十分でも!と声かけて。日本への旅は、日本語学習への大きなモーティベーションとなっているようです。

 夜中に発ち、シアトル、サンフランシスコ、東京、名古屋と三回それぞれ数時間のトランジットがあるのですが、今回は、航空会社の「子供一人旅サービス」を用いないことに。こちらへ戻ってからも、再び他州でのNPO合宿への一人旅が入っており、十四歳の夏、またかけがえのない日々となりそうです。



6.「中学の英語のA先生、自分はディスレクシアって言ってたよ。文字がひっくり返って見えちゃうし、未だにパパみたいに小文字がうまく書けないんだって」と長女。それを聞いた長男、長男の英語のB先生も小文字がうまく書けず、自分はディスレクシアと言っていたと。

 このお二人の先生、「名先生」と評判。英語に力を入れており大学レベルの授業とされる高校のHGプログラムでも、B先生の下から来た生徒は、「断然できる」と言われている。

 懇談会でも、その熱血さ、真摯さが伝わる。「皆がAを取れる」「人は必ず成長する」「苦手のことにも取り組むように」と一貫して熱く言い続けるA先生。難しい課題をかなりの量コンスタントに与え続け、親からの苦情もある中、「今悪い成績を取りとことん鍛えることが将来に繋がる」と揺るぎないB先生。

 その姿勢の背景にあるものが、見えた気がした

ディスレクシア(読字障害)に向き合い続け、最も苦手であるはずの文学文法を扱う「英語の先生」、しかも「名先生」になったお二人。素晴らしい先生方に教えていただけること感謝です。



7.毎晩寝る前、夫と私の寝室に集まり、感謝の言葉を言い合い祈り、ハグして各自の部屋へとなるのですが、昨夜は週末前と言うことで、そのまま川の字になって話しに花が咲き。学校のこと、友達のこと、小さな頃の思い出、私のとんでも旅の話。時にしんみり、時に笑い転げ。

途中次男脱落(私の足の上で眠る)、夫も別部屋へ行き、残りの四人と気が付いたら十二時前・・・。


特に印象に残っている話二つ:

一、長男は小さな頃、周りの物全てに「何らかの感情」があると感じていたと。服も全部着てあげないと申し訳ない、靴も全部履いてあげないと可愛そう、そんな気持ちでいっぱいだったと。

これは昨夜初めて聞いたことだったのですが、ああだからか、と納得した出来事をいくつか思い出しました。小さくなった衣服でも手放すことが難しく、泥に靴がはまって取れなくなった時にも周りがぎょっとするほど悲しみ続けたり、腕時計の枠のゴム部分が無くなった時も三日泣き続けたり。この子は一度身につけたものなどに、かなりの愛着を持つんだなあと思ったものです。

そんな世界観を持っていたとは・・・。今では、身の回りのもの、もう少し大切にしたら!と叫びたくなる中学男児に育ってますが。(笑)


二、先週の長男体育の授業にて。疲れていたので力半分でマラソンし、先生にタイムを聞かれたので答えると、顔面に指を突きつけられ、怒りに溢れた表情で、「恥を知れ、Pathetic!(哀れこの上ない、のような意)」と叫ばれたと。その年配の女性の先生、普段長男のことをいたく気に入ってくれているらしい(彼が学校の先生に好かれるのは珍しい)。

 長男が言う、何ていうんだろう、「昔風」っていうのかな、ああいった人の接し方って、いいなあって思うんだよね。あたり触りない言葉で、適当なことを言われるよりも断然

 そして6の英語のB先生の話にも。B先生もね、その子がいかに悪いか、できてないかをはっきり言ってのけるんだよ。君はここが、もうどうしようもないくらいだめなんだよって。

 去年のA先生に続き、B先生の下で三ヶ月ほど、長男の英語の力、めきめきと伸びたと感じている。

「本当の触れ合い」のようなものを、彼は欲しているのかもしれない。

大人の本心がどこにあるのか、子供達には分かるもの。じゃあどこまであなた達大人は、自分達のことを「本気」で思ってくれているのですかと。


今度のマラソン、多分長男、全力で走るだろう。


今日は朝長男長女をNPO活動に降ろし、下三人は隣のアラスカ大学へスケート。上二人を迎えに行き、長女と今までのタップとアクロバット靴が小さくなってしまったので新しいものを買いに、夕方から長男ロボティックス。明日は朝から長男の友人君が来て、昼から動物園の予定!


皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

樹氷に囲まれてます!

一面銀色。

ハヌカ七日目。

インスパイヤリングな八日間でした。

お友達S君五歳と次男四歳ジム。

何だか長いこと話し合ってました、身体をくねくねしながら進む乗り物に乗って。

レゴ自由作品 by次男

より複雑な左右対称に組み立てるようになってきました。

急遽休日な掃除日。
長女が自分の部屋でいらなくなったものを下の子達へプレゼント。

貝殻もらって、目を輝かせる三女に次男。こうして三女と次男の部屋、どんどん物が溜まります。(笑)

昨夜のファミリーディナー準備。

それ~とテーブルクロスを。三女と次男。

僕がシルバーウェアで、私がお皿、テーブルセットアップ!

長女十二歳のピアス、親と子の選択

2013-12-08 09:52:58 | 子育てノート
長女12歳がピアスをしたいとここ何年か言い続けている。「十八歳になってからね」と伝えてはいたものの、長女からの押しも徐々に強く。

何しろ、六年生時のクラスを見回しても、二十人ほどの女子の中で、ピアスしていないのは長女を入れて三人!だった。一人は、「十八になってからね」と家のように親に言われていて、もう一人は本人全く興味ないという理由。中学生にもなると、「していない子」を見つけるのは至難、といった状況。

こちらでは、これほど「当たり前」のピアス。よちよち歩きの幼児や、生まれて間もない赤ちゃん時代からしている子もいる。



長女と、ピアスとは何かと、調べてみた。

ピアスなどの「身体変工 (body modification)」というのは、古今東西見られた文化。腰を極端に細くするコルセットや割礼や刺青、足を小さくする纏足や、頭を細くしたり、頭蓋に穴を開けるなんていうものもある(学生時代、恐る恐る何度か読んだ『身体文化人類学 身体変工と食人』BY 吉岡郁夫より)。現代のプラスティックサージェリーなどもその一つだろう。その中でもピアスは、最も広い地域で、最も長い間見られた慣習ともいえる。五千年前のもの!が発掘されている。

ピアスをする理由には、宗教的なものから、コミュニティーでの地位を主張するためなどがあったのだけれど、現代では、もっぱら「美」を意識したファッションのためだろう。また数を多くしたり耳以外の箇所にすることで、カウンターカルチャー的な意味合いを持つ場合もある。

長女が思い描いているのは、耳たぶに一つずつというオーソドックスなもの。身体変工について調べているうちに、耳に小さな穴を開けるということが、なんて小さく可愛らしいものなのだろうと思えてきた。(笑)



夫と私が、「十八まで」と踏みとどまっている理由は、身体に人工的な手を加えるより、できるだけ自然なままの方がいいじゃな~い、という思いもあるのだけれど、健康面の問題によるところも大きい。

私自身十九歳の時に開けたものの、炎症を起こし塞がった経験がある。辺境地域を旅していて手入れがうまくできなかったということが大きかったのだけれど、しばらく膿んでじくじくと大変だった。鼻にもピアスを開けようと思っていたけれど、元々鼻が弱く鼻炎気味なので、余分なことをしないほうがいいだろうと断念(頻繁に鼻かんで傷つけてしまうかなあと)した経歴もあり。

それでも最近、耳の手入れをきちんとし、素材を吟味するのなら、ピアスしてもいいかなと変わりつつある。

子供が成長するにつれ、親の思いをより絞りこみ、後はできるだけ本人自身が様々試せる範囲を持たせた方が、その子がいずれその子自身で歩いていく上でより助けとなる、そう感じつつあるため。

図にするとこういったイメージ:



その子が日常的なことをその子なりにきちんとし、健康面でも管理できるのならば、自由にさせてやろうと。

長女、嬉々として、どこで開けるか(小児科医にそのようなサービスはないらしい)、素材を何にするか、リサーチ中です!

後悔と癒し

2013-12-08 09:51:34 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

後悔と癒し(“How Joseph Brought Healing to His Broken Family” by YY Jacobsenを参考に):

 ジョセフへの嫉妬の末、母違いの兄達に奴隷に売られるジョセフ。エジプトの雇用主に無実の罪で牢獄に入れられ何年か過ごし、ファラオの夢を解釈したことにより、ファラオの次に力を持つという地位を与えられる。
 夢の通り、七年の収穫の後、七年の飢餓が訪れ、少しずつ貯えておいた食糧を民衆に分配する。そこへ、遠くカナンの地からジョセフを売った兄達が食料を求めてやってくる。兄達はまさかジョセフがエジプトのトップになっているとは思わず、ジョセフに気が付かない。エジプト人がただで手に入れるのに対し、金と食料を交換させて欲しいと頼む兄達に「お前達はスパイだ!」と言葉を投げるジョセフ。何人家族がいると聞き、十人の兄の他にジョセフが売られた後同じ母の元に生まれたもう一人がいることを知り、そのベンジャミンを連れて来て家族の人数を実際に証明するまで兄の一人シミアンを牢獄に入れると言い放つ。
 カナンからベンジャミンを連れてくる九人の兄。シミアンは牢獄から出され宴が催される。手厚く歓待され、食料を持たされ帰途に着く兄達を追いかけるエジプト兵。持たされた食料を調べると、ベンジャミンの袋の中にジョセフの銀のゴブレットが。
 ジョセフの前へ連れてこられる兄弟。罰としてベンジャミンを奴隷にすると伝えるジョセフに、ベンジャミンの代わりに自分を奴隷にしてくれと嘆願する兄達。
 ジョセフは兄達の態度にエジプト人を全て下がらせ、自分が弟のジョセフであると告げる。互いの泣き声がエジプト中に響く。ジョセフ一族は豊かなエジプトに移り住む。
(『トラ』より)

牢獄を出、最高の地位を得たジョセフ。なぜ自分がエジプトで生きていると、すぐに父ジェイコブに知らせなかったのか?

この「ジョセフの話」について、ユダヤの間で何千年もの間議論されてきたテーマの一つ。

11人の兄がジョセフにひざまずくという若かりし頃ジョセフの見た夢を実現させるため、ジョセフは父ジェイコブが兄達の陰謀の背景にいたのではないかと疑っていたため、ジョセフが兄達に復讐したかったため、など様々な解釈がある中、ここではある一つの解釈について。

それは、「悔い改め(repentance英語teshuvaヘブライ語)」のプロセスを兄達に体験させるためだった、というもの。

「創世記」にはジョセフが「すすり泣く」描写が八度もある。『トラ』の中でジョセフは最も泣く回数の多い男。もしジョセフに兄達への復讐の気持ちがあったのならば、すすり泣きはしない。復讐の際、人は、攻撃性、決意、そして幸福感さえ感じるもの。

ジョセフは自らの復讐のために一連の行為をしたのではなかった。ジョセフは、より大いなる意志と計画のために、ただ泣く泣く従っていた。


ユダヤでは「悔い改め」には、三つのステップがあるとされる

1.感情的観念的な後悔。ああ~しなければよかったと心から思う。過去を振り返る。

2.これから同じことをしないでおこうという決意。未来へ向けて。

3.証明。同じ状況に置かれても、本当に同じことをしないかが試される。
[Maimonides, Law of Repentance, 2:1]

兄達のプロセス:

1.兄達は、ジョセフを奴隷に売り、父ジェイコブに羊の血塗りのジョセフの羽織を見せ、狼にジョセフが食われたと告げる。ジェイコブの悲しみは深く、兄達は、その父の悲しみを間近に、自分達の犯した罪の深さを、長い間苦しみ続けていた。

2.シミアンが牢獄に入れられ、ベンジャミンを迎えに来る兄達。父ジェイコブはジョセフの二の舞にはならせまいと、ベンジャミンをエジプトへ行かせることに反対する。兄達は命にかけてベンジャミンを守ると父を説得する。

3.父ジェイコブは、一人一人に土産を持たす。そしてベンジャミンだけに、皆の五倍の土産を持たす。かつて父のジョセフに対する態度から、ジョセフへの嫉妬に駆られた兄達は、再び同じ境遇におかれる。
 そして、ベンジャミンが盗みの罪で奴隷にされるという状況で、立ち上がり自分達を代わりに奴隷にしてくれと懇願する。


ここで、「悔い改め」が完了し、癒しが訪れる。それは、兄達自身への癒しであり、ジョセフへの癒しであり、家族への癒しであり。

家族が家族として再び機能するには、この「悔い改め」のプロセスが必要であったと。そうして初めて、ジョセフは自分が生きていたのだと家族に告げることができた。



ある国の王が敵から逃げて民家に駆け込む。その家の主人は王をベッドの下に隠し、敵がなだれ込む。「王など来てはいない」という主人の言葉に、家の中をざっと見回した敵は、外へ出て行く。

 ベッドの下から這い出る王に主人が聞く。「ベッドの下に隠れている時、どんな気持ちであられましたか?」王は怒り「民衆の分際で王に対して何てことを聞くんだ! 無礼極まりない、お前の罪は死刑に値する、すぐに王宮へしょっ引いていやる!」

 囚人のガウンを着せられ、絞首台へと上る主人。処刑を目前に、王が走り寄る。「これがあなたの質問への答えです」そう言うと、主人の手を取り謝る。そして主人を丁重にもてなし、一生豊かに暮らせるだけの財産を与えた。

「体験」を通さなければ、本当に分かったことにはならないという教え。





子供達と「悔い改めのプロセス」について話し合いました。

過去の失敗による痛み。1.ああ、あんなことしなければよかった、2.もう二度としないでおこう、そう決めたところに、3.似たような境遇が与えられることもあるかもしれない。それは、悔い改めへの絶好のチャンス。繰り返さない自分でいること。そうならば、真の癒しが訪れ、次への扉が開く。

ソーダ缶、境界とリスク

2013-12-08 09:51:08 | 子育てノート
週半ば、中学校の駐車場。迎えの車に乗り込んだ長男、シートベルトしめながら決まり悪そうに笑い、「ママ怒らないでよ、サイエンスの先生が後でメールするって」

「な、何したの・・・」

 長男談:サイエンスの教室でランチを食べた友人が、ソーダをくれたので、冷やして後で飲もうと少し開いた窓のサッシに置いた。サイエンスの授業が始まり、先生が窓を閉めようとして、ひじが当たり缶が外へ落ちる。長男、窓からジャ~ンプして缶を取りに行き、窓から戻る。先生呆然、「あなた一体授業中に何してるの・・・。後で親にメールします」 他の子達笑う。



これまでの長男を見ていると、ここは越えない方がいいという「境界」を、結構守るタイプ。といって「いい子」でもなく、授業中ふざけていて注意されるということはちょこちょこ。またとても仲のいい友達というのは、ちょっと羽目をはずし過ぎるいわゆる「問題児」が多く、その中の一人は問題続き(といってもまだまだドラッグとかそういうことではなく、先生の言うことを聞かないとか課題を出さないなど)で結局今年から違う学校へ移ってしまった。

今までを振り返り親への連絡があったのは:

六年生の時に、ランチルームで車輪のついたゴミ箱に乗って友達とレースし、校長室に呼ばれる(小学校では停学の次に重い処分)。その友達(今でも親友)が校長室の常連でもあったことから、長男には、「お友達の誘いを自身の判断できちんと断る」という指導だったよう。この出来事は、一部始終を見ていた次女のクラスで、今も語り草になっているという。(笑)

中学一年のとき、クロスカントリーの部活時に、お友達と叩き合いをしていて、一日校内停学(こちら)。喧嘩ではなく仲良し同士のふざけあい。この出来事は本人にもかなりこたえたよう。



話し合い。

「当たり前のこと」に挑戦したくなる思春期の特性が絡んではいるとは思うのですが、「窓は出入りするものじゃない!」とまずは基本を確認

そして「境界」「リスク」について話しました。

「じゃあ、NPO活動中にそういうことが起こっても同じことする?」

「絶対しない」

彼が熱心にはまっているNPO活動は、軍隊的な厳しい規律に則ったもので、また周りを教える立場にもあるため、彼が一番しゃきんとする場。

「だよね。じゃあ何で学校ではしたんだろう。その場その場にここは越えちゃいけないという『境界』があるの分かってるんだよね。今回は、その咄嗟の境界の見極め、甘かったんじゃない?」

そう言うと、

ソーダ缶が雪の上で凍ったら破裂してしまう可能性がある、それに落ちたのは外から回ったのでは取りにいけない場所、怒られるだろうけれど、まあそれほど悪いことにはならないのではないか、最悪の場合でもdetention(ランチタイム拘留)だろうと思ったと。

ここからは、「笑っては済まされない境界」というのは、見えていたよう。それでもソーダを選んだと・・・。

「境界を越えるときには、『得る』ものもあるかもしれないけれど、必ず何かを『失う』かもしれないという『リスク』がある。咄嗟に『得るもの』と『失うもの』を天秤にかけていたようだけれど、リスクはね、もっと価値あるもののために犯すものよ

得るもの:ソーダ

失う可能性のあるもの: 他の子達の授業への集中、先生があなたのために割く時間と手間(注意、拘留)、先生との関係、楽しいランチの時間、落ち着いた気持ち(親へメールが行くとそわそわ)

あなたが失いそうになったものは、ソーダなんかよりも、ずっと大切なものじゃない?

14歳くらいになると、少し論理的に話した方が、心に届くようです。

ミステイクからできるだけ多くを学んで、次へと生かしていこうねと納得し合い。



結局、その後も先生からのメールはなく、その場口頭での注意で終わったようでした。

先生も忙しいし、今回は、あなたが分かったと判断して連絡がなかったのだろうけれど、「二回目」はそうはいかないよねと話し。 



これから「ソーダなんて可愛い」と思えるような、様々な誘惑もあるでしょう。こうした一つ一つの体験が、誘惑を前に、「何がより大切なのか」を見つめるための訓練になればと、思っています。

失敗は次への架け橋、そう信じつつ。

俳句に教えられた「写生」ということ

2013-12-08 09:48:05 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
先週末から、「アンカレッジ詩と俳句の会」の皆さんが、「雪百句キャンペーン」なるものをしている。会の掲示板に、「雪」を含んだ句を投句し合い、皆で百句作ろうというもの。

年齢も性別も職業も違い、普段全く違うリズムで暮らしている人々が、とつとつと雪についての句を綴り合う。句で会話しているような気持ち。

俳句に触れてよかったなあと思う。

月に一度週末にある定例句会などにもめったに参加できず、俳句に触れるのも年に何度?というほどの私が言うのも何ですが、俳句のエッセンスに多くを教えられたと感じています。

「写生」を俳句の根本においた正岡子規。その後様々な派に分かれ、俳句が何たるかについては諸説あるわけですが、俳句の根にあるのが、この「写生」

妄想の世界へと浮遊しがちな私に、目の前の情景を、そして今ここにある心象風景を、あるがままに丁寧に「見る」こと、そして形にすることの楽しさを、俳句は教えてくれました。

また「季語」との出会いも大きいです。季語を知ることにより、今まで目を留めることなく通り過ぎていた情景が、鮮やかな色を持って浮かび上がる。『歳時記』を通し、日本語の豊かさ、楽しんでいます。

たまに気がむくと(or 会のメンバーに背中を押していただいて)、ぽつりぽつりというペースですが、細々とでも続けていけたらな、そう思っています。


「雪百句」参加句 by マチカ 駄洒落遊びも混ざってますが(笑):


手の平に生命のにほい雪の朝

足跡を振り返る頬雪の道

むき出しの傷癒されん雪の夜

両の手に光溢れて雪晴るる  
  *1      

幾重もの罪許されて雪深し

絶望を覆いし雪の尚白き

歩いても歩いても遠く雪の中

消えかけし炎たぎりて雪しまき 
 *2    

羽ばたかん雪とし雪るもの達よ

雪にだって分からないわけじゃない

今夜こそ雪っぱりでいこうと決める

故郷へとどの雪面を下げて行く

愛妻へ雪の名前を尋ねけり

吾子達と雪の秘密を数えし日

雪遣い北極星から来るといふ



*1 雪晴: 「雪が降り止んで晴れわたること。空の青と雪の白の組み合わせが、えもいえず美しい。戸外へ出ると、目を保護するために雪眼鏡が必要になるほど、太陽の光を反射して雪がまばゆく輝く。」『俳句歳時記』冬の部 角川書店編より

*2 雪しまき: 吹雪のはげしく吹き巻くこと



インスパイヤリングな企画を次から次へとひねり出してくださるメンバーの皆様へ、ありがとう! 

ビバ、雪百句!

詩、「営み」

2013-12-07 23:59:07 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
「営み」


口中の模範に

胸中を告げると

柔らかな微笑浮かべ

上顎の辺りへ



鼻にも分かってもらおうと

外へ出れば

辺りのまぶしさに

恍惚

粘膜を抜けるなら

こんな青空が広がっている!



そこへ、舌の音

徐々に広がるクロシェンド

ぴらにい ぴらにい ぴらにい ぴらにい

踊る舌の根

最後の決めは

右手と左手をクロスさせての

フリーズ



席を立ち 一礼

近況整理、心の奥で支えとなる場

2013-12-01 10:55:05 | 今週の整理
1.師も走る忙しさ! といっても結構のんびりしてますね、こちら。感謝祭終わり、ハヌカを祝いつつ、クリスマスまでニューイヤーまであと何日!と指折り数える子供達。コンピューターのスクリーンに2014年までのカウントダウン表示が貼り付けられ(次女に頼まれ長男が)。何だかつい最近御節を食べたような気持ちなのですが、細部を振り返ってみると、今年も本当にたくさんのことがありました。こうして皆無事今年最後の月を迎えられ、こうしてブログを書いていられること、感謝



2.休みが続き、夜も川の字になって合宿気分。電気を消し、お休み~とハグを交わした後、横になって三姉妹。

次女9歳:肛門を閉めて緩めるとね、リラックスして眠れるよ。
長女12歳:う~ん、そう? 私は何だか怒りたい気持ちになるなあ。
三女6歳:わたしはね、何だか悲しい気持ちになる。


3.「合宿」といえば、友人家族が訪ねて来、夕食を共にしていた時のこと。「ああ賑やかだなあ、子供時代、従兄弟の家に遊びにいって夜もこうしてはしゃいで遊んだの思い出すなあ」と友人。確かに、家ではまさにそんな「子供時代訪ねた親戚の家状態」が、「毎日」とも言えるかもしれない。(笑) 毎年従兄弟や友人家族と集まったあの夏の海の家を、思い出しつつ。皆真っ黒になった夏、ああ懐かし~い。


4.つくづく思うのですが、7人家族というのは、ホント食べます。2キロ強のみかんは一晩で、1ダースの卵はランチのスクランブルエッグに、900gのヨーグルト容器もあっという間に空、一食でラーメン七袋、ピザラージが二つなくなる、梨剥いたら大きいの6個一気に!

二週間に一度、ホールセールの店で食料調達状況。

一つのカートに乗りません。

私達家族にとって食料調達は、「エキソサイズ」という位置づけです。カートを押し、レジに降ろし、再び乗せ、車まで運び、車に積み、ガレージから運び、収納。(笑)


5.子ども達のいない内に、食料調達を終わらせることもできるのですが、一緒に行く時を持つようにしています。一つには、これだけを運ぶための労働力確保の問題(笑)、もう一つには「過程」に関わらせたいということ。食卓にぽんと食事が並べられるよりも、食卓に上るまでの過程を体験できるように。農場や工場まで行ってというわけにはなかなかいきませんが、せめて店まで行き、選び、家まで運び、収納し、できる時は調理やテーブルセットに関わり。いつもとはいきませんが、なるべく。目の前に食べ物が降って湧いてきた!とならないように。


6.思春期になると、家族で過ごす時よりも、外の世界や友人との時間が魅力的に見えてくる。休日を前に、「今年は誰も呼ばないのお?!」「友達の家へスリープオーバーに行きたい」と言っていた上の子達。共に過ごす内に、日々の学校生活での気張りも緩み、尖った角も取れ、胸の内を話し、笑い、楽しんでいる姿がある。

家族の時間や家族の価値観、そういったものが凡庸で色あせたつまらないものに見える時期がある。外の世界はもっと刺激的で新鮮な色や強烈な匂いを放っている。それでもいつか、そんな一時「つまらなくみえたもの」が、その子の心の奥で、支えになることがある。それは、足下に咲き続けていた花に、ある日はっと気がつくといった様子にも、似ているのかもしれない。

離れ、それでもいつか戻ることができる、そんなその子の支えとなるような、空間時間を築いていけたら。楽しい休日でした!



今日は、NPOもロボテッィクスもお休みなので、長女も長男も友人家へ。次女は友人家族とネイチャーセンターへ。下二人を連れ散歩&図書館。クラフトの整理も続けて。明日は家族揃ってランチへ出かける予定。夕方夕焼けを見にいこうねと。

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

友人娘ちゃんの誕生日会!


ジンジャーブレッドマンの飾りつけ。


友人手作りカップケーキ!

ドレスも手作り。かわい~、きれ~、連発。


家にいるとクラフト三昧。

先生への感謝の手紙。by 次女


31の感謝の言葉。by 次女

友達に、チャレンジしてくれる先生に、学校に、犬に、家族に、空に、雪に感謝といった言葉。

豆やパスタや唐辛子でターキー。ハヌカのメノラーも。by 次女


長女が少し手伝いつつ、次女と


三女が最近はまっているのが、


輪ゴムアート。


感謝祭にはみんな分作ってくれました。


皆へ感謝のカードも。by 次女


クラフトセクション整理しながら(整理途中のこの散らかりよう!)、上の子達に作り方を聞き、


こんな編綱作ったりも。


絵の具でお絵かきしたり、


眺めてみたり。


昨夜は、ファミリーディナーのパン作り。


作っては作る、の毎日です!

中心の様相、子育ての目的、書くということ

2013-12-01 10:54:07 | 思うに
私自身の中心にある様相を、整理してみました。


私は「ある感覚」と共にあることで、今この瞬間にもこうして生きていられます。

この「ある感覚」なしでは、私は「闇」に瞬く間に呑まれるという「実感」と共に暮らしているのです。

これは私にとってあまりにも現実的な感覚であるため、「信仰」という言葉でもあまりしっくりときません。それは、「目の前のコップ」と同じくらい、具体的に触れることのできるものなのです。


この「ある感覚」は、十年ほど前、精神の不安定さがピークになった時に見出したものです。毎晩恐怖と不安感に襲われ、パジャマで裏庭を徘徊し、このままでは私は廃人になってしまうという絶望を通して。「発狂」というものは、論理的な手順や思考が通ずる状態ではなく、「正常」な時に手にした、様々な「落ち着く方法」なども、瞬く間にことごとく潰されます。どこからか「とてつもない力」が加わっているという感覚。脳の仕組み的には、何らかの理由で、そうなるしかない構造となってしまっている、といったことなのかもしれません。どうしてか、そうなるしかない道筋をなぞらされてしまう。「精神障害」によりとんでもないことをしてしまうという人の状況が、私にはよく分かります。もうそれは「その人」ではないんです。

私は自分が自分でなくなるという恐怖と絶望に毎晩震えました。それでも日が昇り始めると、すっかり「正気」に戻るのです。そして夜が再び来るという恐怖と共に一日を過ごす。

この恐怖と不安に呑みこまれ闇に向かう自分と、徐々に正気が戻る自分との間を何度も行き来する内に見出したのが、「ある感覚」です。「ある感覚」を意識することで、呼吸が変わり、温もりと静けさが訪れます。闇は確かに常にあるのですが、もう呑まれることなく、明るく静寂の内にあれるのです。「きた」と感じるのなら、この「ある感覚」を意識する、そうすることで、徐々に、真夜中恐怖や不安に襲われることがなくなっていきました。

この「ある感覚」を言葉で表すのなら、一番近いのが、「温もり」です。



「ある感覚」をはっきりと意識してから十年近く、子育てを通し様々感じ思うことを、箇条書きにしてみます。

1.この「ある感覚=温もり」の原型は、子供時代、親から愛情を受けることで、培われるものでもあるということ。

転んで膝をすりむき泣きべそをかいても
お友達と玩具の取り合いをしたと泣きじゃくっても
温かい腕の中で 「大丈夫よ」と声をかけられることで
笑顔で遊びに戻っていく

一生懸命作った工作が壊れちゃった! そうしかめっ面で家に戻っても
駆けっこ競争で転んじゃった・・・ そうしょげていても
髪をなでる手の温もりに包まれ眠ることで
また元気一杯に歩きはじめる

初めての場所に足を踏み入れ不安一杯だとしても
見知らぬ人々に囲まれ心細くても
振り返り温かい微笑が見守ってくれると認めることで
未知の冒険へと飛び立っていく

笑顔を取り戻したあの腕の中、頭をなでられ眠ったあの柔らかい手、よしいくぞっ!と勇気の湧いたあの微笑み。そんな「親の温もり」に何度も何度も包まれる体験を通して、培われる。


2.子供時代の「温もり」の体験から、自身の内に「温もり」を見出す方向へと向かうことで、人は安定する。何が「温もり」を見出す助けになるかは、人によって様々。日常生活の中で、無意識にこの「温もり」に触れ続け、何が「助け」となるかをはっきりと自覚する必要ない人が、ほとんどなのだろうと思う。私にとっては、宗教的テキストが、この「温もり」を、様々な形で表していると感じている。それは、聖書であり、ゾーファー(カバラ)であり、スーフィーの詩であり、マントラであり、神道の祝詞でり、ネイティブ・アラスカンの神話であり。


3.幼少期の「温もり」体験が十分でない場合、自身の内に「温もり」を見出すことがなかなかスムーズにいかなくなる。それは「親の愛情の不十分」という単純なものでもなく、親子の相性、その子の感受性の強さ、不安感の強さ(私のように底なし沼のような不安感を持つ子もいるもの)などが絡み、結果としてそうなってしまうもの。そんな場合は、後に「助け」に極度に依存してしまったり、宗教的方向の中でも、カルトや偶像崇拝へと向かってしまうこともあるかもしれない。


4.その子の人生で起こることは、その子に必要だからこそそうなってしまうのであり、親が全てをコントロールはできない。それでも、親としてできるのは、できる限りの愛情で包んでやること、「大丈夫」という温もりの体験を何度も何度もさせること。それは、その子が、より良い方向へと進むための、強力な道しるべとなる。


親の愛情による「温もり」の体験 → 自身の内に「温もり」を見出す。

この移行のサポートが、私の子育ての最大の目的といえます。

そしてその「ある感覚=温もり」をより具体的に表していくこと、それはその「温もり」を日常生活の隅々に行き渡らせるという感覚でもあるのですが、それが私の「書く」ということの、ミッションでもあるのです。

何だかよく分かりにくい抽象的な話ですが、私の中心にある正直な気持ちです。お付き合いくださってありがとうございます!