靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

あの画家の目に、教えられたこと

2013-10-06 06:04:36 | 私史
学生時代のこと。古い家屋を改造し、いろりを囲んで食事をいただく、そんな少し独特の雰囲気の居酒屋で、知り合いとお酒を飲みながら話をしていた。私とは一回り以上違う、小さなギャラリー経営者や人形作家や画家の方達。皆生活は豊かでなく、その画家は、昼間肉体労働し、夜くったくたになりながら、描き続けているんだと笑っていた。

赤くまたたく炭を見つめながら、友人関係、家族関係、いかに授業がつまらないか、いかに今の社会がくだらないか、私はそんな不平不満いっぱいの言葉を並べていた。

すると、じっと話を聞いていた向かいの画家が、静かに言った。

「あんたはね、自分がどれほど与えられているか、ちっとも分かってない」

当時、その言葉よりも、その画家の目が、私の心に突き刺さったのを覚えている。

私を憐れむ目。

その目に、私は小さな小さな存在として映し出されていた。私の見ているものは、広がりの中のほんの小さな点のようなものだと。

「そろそろ行くかな、寝る前に形にしておきたいことがあるしね」

その画家は口元に少し微笑みを浮かべそう言うと、一人席を立ち、居酒屋を後にした。



今でも、あの目を、ふと思い出すことがある。「どれほど与えられているか」という言葉と共に。

点から顔を上げ、見回し、その広がりに息を呑む。小さな小さな自分、無限の地平へ踏み出して行きたい。

伯母からのプレゼント

2013-09-15 03:00:32 | 私史
友人と話していると、その日なぜかオカルトちっくな話に。知り合いに起こったという不思議話に、ひょえ~、きゃ~と。

私自身そういったことにほとんど興味がないのですが、それでも不思議なことというのはあるのだなと感じたことは、今までに何度かあります。

小学生六年の冬のこと。大好きだった伯母が亡くなりました。男の子二人を一人で育て、女の子も一人欲しかったわと私を実の娘のように可愛がってくれた伯母でした。名古屋と大阪で離れて暮らしていたのですが、仕事に忙しい母に代わって時々家事をしに来てくれました。かんきつ類が大好きだった伯母。酸っぱいねえと互いに目を細め口をすぼませながら、きれいに剥いてくれた甘夏やネーブルを一緒に食べ。今でもかんきつ類を見ると、伯母を思い出すのです。

幼稚園のとき、一ヶ月ほど伯母の家に預けられたこともありました。中学生の従兄弟を送り出すと、伯母の自転車の後ろに乗り買い物へ。母と別れるのが嫌だと駅のホームで泣いた始まり、一ヵ月後には伯母と別れるのが嫌だと新幹線を前に泣いたのを覚えています。

癌と診断され入院することになり、病院の公衆電話から電話をくれました。「よくなったらまたそちらに行くからね。お土産もって、美味しいものたくさん作ってあげるね。」それが伯母と話した最後でした。

伯母が危篤だと連絡があり、母は新幹線で駆けつけ。翌日教室で四時間目の授業を受けていると、お腹が痛くなり保健室へ行きました。そして給食の時間になり、初潮を迎えたことを知ったのでした。

お腹の痛みと気分の悪さに、帰宅してからも横になり。兄にも父にも言えず、電話で母に知らせました。

後になって、あの給食の時間というのが、伯母の亡くなった時刻だったのだと知りました。喉の血管が切れ、ものすごい量の血を噴出しての最期だったと。

子供なりに、ああ、おばちゃんからのプレゼントだったのかな、そう感じたのを覚えています。


今でも、ふと伯母のことを思い出します。天国にいる伯母は、いつも微笑んでいます。

そのまぶしいものを、胸に

2011-12-17 02:41:37 | 私史
親から何を受け継いでいきたいか。父と母を思うとき、一番に浮かぶのが「思いやりの心」かもしれない。

小さな頃からいかに世界には苦しみ悲しむ人々がいるかを聞かされて育った。社会の構造の底辺で踏みにじられ虫けらのように消されていった人々の歴史を教えられて育った。その教えは徹底していて、子どもには強烈過ぎる面もあった。

父と母は言葉だけでなく、その教えを生きていた。常に何らかの市民政治運動の中におり、小さな頃からストライキやデモが生活の一部、労働組合を本業としつつ、友人達と生活協同組合を立ち上げ、福祉施設で働き。夜になると毛布をもってホームレスの人々を訪ね、毎週重度障害者の風呂介護を手伝いに出かけ、家の敷地を改築してカルチャーセンターを作り。「男女雇用機会均等法を」「北方領土を返せ」と掲げるシールの貼られたジープを運転する父は、パキスタンのゲリラに加わると遺書を書き一ヶ月ほどいなくなったこともある。近くにいると火傷しそうなほどのパッションを持続する父は、今も福島支援を含む様々な活動に忙しく、母は高齢者が働け集う場所をとカフェギャラリーを開いている。

家族という枠組みをはずした共同体のような環境に育ち、「普通の家庭」に憧れた時期もあった。常にコミュニティー他者優先に開かれた環境に、一体家族とは何なのだろうと考え込むこともあった。世界に対してもっと「普通の見方」ができないものかと悩んだ時期もあった。自分の子にはどう教えていこう、そう自分に問いかけてきた。まずは家族という枠組みから始め、内に温もりの桃源郷を築きつつ、小さな子には徐々に痛みや苦しみに触れさせていくのがいいのじゃないか、そんな風にも思う。

父母に育てられた歩みを振り返るとき、確かに、まぶしく輝く大きな宝物を差し出されている。それは「他者の痛みを思いやる気持ち」。例えトラウマになるような環境に育ったとしても、暗闇に見える中に、眩しく光るそんな宝石のようなものが散りばめられているのかもしれない。

受け継ぐ流れ、父母は祖父母、祖父母はその曽祖父母から受け継ぎ、脈々と続き今の自身を形作っている。内に脈々と息づく流れ。受け継いだ宝をしっかりと抱き、目の前の子ども達に向かっていきたい。10年会っていない父と母に心よりの感謝を込めて。

あのハードな日々が

2011-10-24 00:40:37 | 私史
あれやこれやの行事続き、そんな中家のあちらこちらの修理に工事の人々が毎日のように出入り、そこへ食器洗浄機が壊れ床水浸し、山のような食器洗いに普段の倍以上の時間、しかも次男鼻水たらし始め夜中何度もぐずる・・・。

なかなか チャレンジグな日々が続いていますが、こうして早朝少しでも書く時間がとれるということ、ありがたいです。

こういったちょっとしゃれになってないと笑っちゃうような状況になってくると思い出すのが、日本語を教えていたときのこと。

それまで「日本語」を教えたこともなく、教壇に立ったのは教員免許修得のため2週間教育実習で母校の高校に戻ったときのみ。しかも英語での授業。大学で授業を持つと決まったのが長女が生まれる直前。産後すぐから夜な夜な日本語文法・教授法の勉強、長女4ヶ月で研修や授業が始まってからは、2歳と0歳の長男長女の世話をしながら勉強授業の組み立て採点などで睡眠2時間続き何日かおきに5時間も寝られたらいい、週末の1日だけ10時間の寝だめで乗り切る、という日々だった。夫も夜勤があり夜中や明け方出かけていく。もう互いにいつ寝たのか首を傾げるような状況。

寝不足ヨレヨレながらも生き生きとしていたと思う。長かった学生時代、教師教授に向かってあれやこれや思っていたこと、全部ここで形にするぞと張り切っていた。教えることの大変さそして楽しさ。

こちらの学生が「日本語」を学ぶ動機は、第二外国語が必須なので何となくからビジネスを目指すまで様々。日本文化など日本が大好きな学生も多かった。漢字博士なんかもいて「『薔薇』ってこう書くんですよ」と教えてくれたり。あと必ずクラスに何人かいたのが漫画や日本のサブカルチャー好きの学生。彼らは漫画の台詞のような日本語をよく知っていた。「『来る』は『参上!』ですよね」とかセーラー服でクラスに来た学生も!授業後アニメのDVDを嬉しそうに見せてくれたり。(笑)

やりがいがあって楽しく充実した2年間だった。それでも結局このままの生活ではどうしても後ろの隅の隅に追いやられてしまう「子育て」にしばらくじっくりと向き合おうと外での仕事をやめた。外での仕事と子育て両方をバリバリと切り盛りうまくいっている友人もたくさんいるけれど、不器用な私にはこの選択が必要だったと思っている。

あの頃の「体力の限界に挑戦」体験が今の大きな力になっている。この笑っちゃうような状況、もう20代後半とは違う身体を労わりつつ(笑)、 今日も子ども達と思いっきり絡み合っていきたい。

こうしていられる一時一時に感謝を込めて。

ある体験、そしてある詩集との出会い

2011-07-15 23:59:04 | 私史
4年ほど前、状況的に難しい時期で、毎晩枕が涙で濡れていた。

ある晩、風に揺れる窓の外の木々を見ていると、自身の奥底から、不思議な感覚がふつふつと湧き出てくるのに気がついた。その感覚はやがて炎のように体中を駆け巡る、まるでそれまでの自分を焼き尽くすかのように。

その感覚を言葉で表すのなら「感謝の集積」といったようなもの、「爆発的な喜びであり幸福」のようなもの。涙はいつしか歓喜の涙に変わっていった。

絶望的にも思える自身の置かれた状況で、喜びの涙にあふれている自分がいた。


そんな体験をしてしばらくのこと。大手ホールセールの店で、まだ赤子だった三女をあやしながら本売り場を通り過ぎようとしたとき、一冊の本が目に入った。同じ向きに均等に積まれた何冊もの本の上に、その本だけ斜めにポンと置かれてあった。何気なく手にとってみる。周りを見、その本が積まれた箇所を探してみても同じ本は見当たらない。その店で売られている本にはその店の名前や値段のついたシールが貼ってあるのだけれど、青いカバーのどこにもそのシールが見当たらない。

誰かが置き忘れていったのかもしれない、そう思った。

レジで「この本この店のものではないのかもしれないのだけれど、もし売り物なら買いたい」と差し出すと、店員たちは首を傾げながら値段のついたシールを探している。試しに本自体のバーコードを機械に読ませてみると、ピッという音とともに「7ドル」という数字をはじきだした。

こうして手にしたのが、

“I Heard God Laughing” by Hifiz 

Hifiz(1325/26–1389/90)はペルシアの詩人、イスラム神秘主義スーフィーの修行者。

この詩集には喜び溢れる詩が並んでいる。希望や喜びに満ちた詩、なんて能天気な人なのだろうとあきれるほどの。


このブログの『引用』にも一度載せたのだけれど:

I am happy even before I have a reason.

I am full of Light even before the sky can greet the sun or the moon.

(引用終わり)


私は理由ある以前でさえ幸福である

空が太陽や月に挨拶する以前でさえ私は光に満ち溢れている



この詩を読むと、あの歓喜の涙に溢れた夜を思い出す。


幸福であることに理由などいらない。

日々、瞬間瞬間に、あの歓喜の源に戻る。


幸い、あの夜以来、周りの状況は改善していった。

まずは内に。外の状況は、内の状態の表れとして後からついてくるのかもしれない。

「あちら」から「こちら」へ

2011-06-03 00:03:24 | 私史
今までの自分の苦しみの極限の状態は、精神を病んだときのことなのだけれど、発狂という「あちら」から、穏やかに安定した「こちら」へ戻ってくる感覚というのが、今の自分にとって大きな力となっていると感じている。

大きな発作は7年前に治ったのだけれど、発作への「小さな芽」までもが消えたと思ったのは本当にここ1年そこらのこと。

大きな発作から戻る、小さな芽が消えていく、それらを繰り返す内につかんだ感覚。それは机上の理論ではなく、自身の身体に染み付いた感覚。


「こちら」へ戻ってくる瞬間を繰り返し体験するうちに、自身の中心には自身の枠を超えた場があると、感じるようになっていった。自身の本質はその自身の中心であると。自身の中心に近づけば近づくほど瞬時に癒される。


一連の苦しみが、今はありがたい。

「全てはよくなるためにある」

苦しみの渦中ではとんでもない言葉だけれど、今は心の底からそう思える。


これからも色々なことが起こるだろうけれど、

それらもまた気づきがもたらされる機会なのだと、信じられることに感謝。

アラスカでの始まり

2011-06-02 03:03:32 | 私史
フェアバンクス、私にとってアラスカ暮らし始まりの地。

15年前、村々を回りネイティブの人々と1ヶ月程過ごした後、フェアバンクスの大学図書館で資料探しをしていた。10日程の滞在予定の2日目、キャンパスで日本からの留学生に出会った。「今夜、日本人の集まりがあるけれど来ない?」 その集まりの場所がSさんの家だった。学生、写真家、冒険家、研究者、旅人と様々な顔ぶれ。

アラスカに30年以上暮らす日本女性Sさん、集まりの終わりに「家に泊まったら?」と。翌日B&Bから荷物を運び込んだ。

Sさんの家で夫と出会ったのだった。3ヶ月間居候していた夫。

Sさんの家では毎日のように何らかの集まり、そしてほとんどいつも誰かが居候。夕方Sさんは仕事から戻ると台所に直行し、大量の食事を用意する。歌を歌いながら。

「夢を追う人を助けるのが好きなの」 そう笑っていた。


Sさんが病に倒れたと聞いたのは4月のこと。自宅でホスピスケアを受けるSさんを、やっと見舞うことができた。

朝日を浴びながらSさんの家に向かう。

ありがたいことにSさんの家へ歩いて10分ほどの友人の知り合いの持ち家に滞在させていだだいた。

最後にお会いしたのは4年前。居間に置かれた医療用ベッドで、Sさんはまるで昨日別れたばかりのように迎えてくれた。穏やかな微笑み。目の前にずらりと並んだ子供たちを目を細めて眺め、「歌って」と。照れた様子の子供たち。Sさんに出会わなかったらこの世にいなかっただろう子供たちを前に、Sさんは歌い始める。15年前に聞き慣れた声より小さな、とても透き通った声で。


冗談を言い、笑い、

「台所に行って何か甘いものでも食べておいで」「美味しいものいっぱい持って帰るのよ」

いつものSさんが、ベッドに横たわっている。


居間に飾られた石の数々に見入る子供たちに、「好きな石いくつでも持って帰りなさい」とも。

世界中あちらこちらから持ち寄られた石。

子供たち大喜びで一つずつ選ぶ。

別れるとき、Sさんは手を握りながら「またね」と言って微笑んだ。アラスカの空のような微笑み。

手の温もり、今も感じている。

アンカレッジから祈りつつ。



いただいた石。

桜石(どの角度から見ても桜にみえるそう)やクリスタルなど。

脳みそ、決意を新たに。

2011-04-22 23:41:48 | 私史
ここ数年程風邪をひくこともなく、「そんなにいつも元気で大丈夫?」と心配されるほどなのだけれど、ひとつだけ健康面で気になっていたことがあった。

8年ほど前、精神肉体共にヨレヨレボロボロだったとき、「回転性のめまい」を何度か経験したのだけれど、それ以来、時々右半分の脳のあたりに圧迫感を感じることがあった。右と左の脳を意識してみると、どうしても右の方が重い気がする。

「ここらへんに何かある気がするんだよねえ」と右脳の前方を指差して周りにつぶやいてみたり。ここ2年程の間に「脳腫瘍」を患った知り合いが何人かいるのだけれど、「脳腫瘍」という言葉を聞くたび、脳みそが反応するような気がする(ほとんどの方は皆手術後元気に暮らしている)。もともと1を知り100の妄想にふけるようなところがあるので、自身に起こりうる最悪ケースも色々と想像したり。


闘病している方々の様々な記録などを読み聞きし、ああ皆さんすごい、よし、私の脳みそがどういうことになっていても、覚悟して治療に専念しよう、ともうほとんど患者のつもりで先週病院に出かけた。周りにも「もう覚悟できてるから」とか言ったりして。

様々な質疑応答、視力聴力平衡感覚などの診察を経、

医者: どうみても何の異常もないねえ。

私: (右脳前方を指差しながら)でもこのへんに何かねえ。どうしても右脳の方が左脳より重いし。

医者: ・・・・・。まあ、君がそれほど言うなら、MRIやってみようか。


ということで、一昨日生まれて初めてMRIへ。このMRI技術者の人「日本へ2度行ったことがあり昔の彼女も半分日本人だったんだ」そうで、日本の話で盛り上がりながら電磁波を浴びまくる。

昨日夜医者から電話で結果、

医者: 脳みそ、何の異常もないよ。

私: えっ、きれいさっぱり何にも?

医者: うん、きれいさっぱり何にも


この与えられた体を、精一杯労わろうと決意を新たに。感謝。

小学五年のあの朝

2011-04-08 23:59:33 | 私史
あの、小学五年生だったあの朝、先生が教室に入って来、皆が立ち上がり、私は大きな声で「おはようございます」と言う当番だった。

私は人前で話すということは得意な方で、率先して自分から前に出て何かをするような子だった、あの朝までは。


あの朝、声が出なかった。ようやく絞り出した声は、震え上ずっていた。

あの朝から、何かが変わった。それまで気がつかなかった何かを意識するようになった。

誰かに何かをされたわけでもなく、何かこれという確固とした理由があるわけでもなく、あの朝の教室での瞬間からふっと始まった。

あの瞬間まで、私は完全にみえる世界にいた。その完璧にみえる世界が崩れるかもしれないという「恐れ(fear)」。私はそんな「恐れ」を初めて「意識する」ようになったのだと思う。


この「恐れ」は自分の内の色々な面に伝播し、ジワジワと広がっていった。この「恐れ」が顔を出すと、私はしどろもどろになり、強張った身体の表面を冷や汗が覆い始める。真夜中、突然この「恐れ」に覆われ、パジャマのまま庭を歩き回った。この「恐れ」が7年前私の精神の奥を蝕み、廃人寸前にした。

7年間紆余曲折しながら何とかこの「恐れ」と向き合い、そして3年前に自分にとっての大きな体験をした。それでも時々また「恐れ」が顔を出してきた、7年前とはくらべようのないほどマイルドなものだけれど。


ここ一週間ほどのこと、あの「恐れ」がほとんど消えているのに気がついた。あの五年生の朝以来初めてのような状態。乖離していた「自分」がひとつになったような恍惚感。ひたすら「内観」することが、私にとって大きな助けとなってきたように思う。


ただアップダウンのアップ状態といえるのかもしれないけれど、(笑) 静かで穏やかな状態でいられることに感謝。

ある「自身」との出会い

2011-03-10 11:53:34 | 私史
内には様々な「自身」がいて、その様々な「自身」が話し合うことで「私」の道ができていく。

内には長老のような人もおれば、宇宙人のような人もおり、キャピキャピとした者もいれば、常に冷静な者もいる、いつも疑っている者もおれば、夢ばかりみている人も、そして幼い子供もいる。

「自身」間での議論を続けても、「私」のみえない「外側」は常にある。「私」以外の「他者」と交流し、「外側」を指摘されることにより、大きな気づきがもたらされる、そして気づきがもたらされるたび、「自身」達はどよめき、また議論を始めるのだ。


「私」は「他者」に分裂症寸前といわれたことがあった。「私」にとって大きな気づき。(笑) 精神が安定できたのは、議論に参加することはないけれど、いつも静かに眺めている「自身」に出会ったからだと思う。


とここでまた会話が始まる。

自身B: その「議論に参加することはないけれど、いつも静かに眺めている自身」こそ「自神」であり、宇宙だ。

自身A: はあ。確かにこの「自身」の眼差しにはどんな問題も溶けていくような感じではあるけれど。その「自身」でいると、温かくて一瞬にして癒されて、その「自身」は何も言わないのだけれど。

自身B: どんな人の内にも「自神」がいる。

自身A: ほお。

小説を書くということ

2011-03-08 00:02:32 | 私史
初めて、小説というものを書き上げた。正確には、「書き上げた」と思ったけれど、見直せば見直すほどだめだめだらけで、ここ何日か推敲している。

子供が静かに遊んでいる15分、野菜の煮える間の10分、子供の送り迎えに駐車場で待っている5分、とにかく1分でも多く原稿に向かいたいと時間を搾り出して書き続けてきた。できあがったものを全部通して読んでみると、その時の状態や、集中していた度合いによって、ちぐはぐでスムーズでない。あと、書けば書くほど文体も違ってき(良くなっていると信じたいが)、全体のトーンを同一人物が書いたというように揃える必要もある。

初めてのことだったので、まあこんなものだろうと自身を励ましながら、ここ3日程夫が仕事休みだったので、早朝カフェへ出かけ、皆が朝ごはんを食べ終わる頃戻ってくるということを繰り返している。何にも遮られることのないまとまった数時間原稿に集中できる、ということのありがたさ。本当に何年ぶりかに、こんな貴重な時間を味わっている。

本格的に書き始めたのは今年に入ってからで、とにかくまるでとりつかれたように毎日書き続けてきた。現実と書いているストーリーの世界が、まるでパラレルに進んでいっているような不思議な感覚だった。


きっと、この原稿用紙120枚の作品を振り返り、懐かしく思い出す日が来るのだろう。そしてその時も、様々なストーリーを書き続けていると願いつつ。

このブログで早朝内面を整理することが、一日をおくるためのとてつもない大きな動力となっています。
読んで下さる皆様に、心よりの感謝を込めて。

内に生きる流れ

2011-02-18 23:59:29 | 私史
内に生きる流れを感じ考えるとき、父方からの流れを最近よく思い出す。
(http://blog.goo.ne.jp/nmachika/e/0ad0fc47079b0b42da961b2d1c740d86)

父は団塊世代の最後の世代。マルクス思想に傾倒していた。「富が分配され人々が平等に暮らす」世界を実現していくために彼の全精力を注ぎ込んでいた。私と兄は「宗教は阿片」という考えの下、宗教色を排した家庭に育てられた。

天皇制、被差別、戦時中アジア諸国で何が起こったのか、自由主義史観の流れ、教科書書き換え問題、男女平等そういったことを考えながら大きくなった。

大学へ進み民俗学などに興味をもっていた私は各地の祭や地域の神社などを訪ねることが好きだった。一度そういう話をしているとき父が「思い悩むと一人でよく神社を訪ねる」というようなことを言ったのに驚いたのを覚えている。

アラスカに暮らし始め夫の母国語であるスペイン語のクラスをとっているとき、家系図を作って来いという宿題が出た。父にコンタクトをとる。そのとき初めて、父方は代々神官であったと知った。草薙の剣を神体として安置するとされる神社の副宮司だったと。父が生まれる前に戦死した祖父も曽祖父も。亡くなった祖母が兄に会う度に「神官になりなさい」と言っていたのを思い出す。


父が神社の寄り合いに出かけるようになったと母から聞いたのは去年のことだ。白装束に身を包み儀礼に立ち会う父の後姿が写った新聞の切抜きを母が送ってくれた。神官には世襲枠というものがあるのだとも知った。9年会っていない私の知っている父とかけ離れたイメージ。まるで2人の父がいるようだ。

私の歩いてきた道、私が生まれる前からの流れ、それらがどう交わっていくのか、感覚を澄まし進んでいきたい。感謝しつつ。

他の誰かの名前

2011-02-09 01:23:58 | 私史
20代前半、アラスカ南西部の村々を旅した。偶然知り合った先住民の方々が家に泊めて下さった。

ベリー摘みやサーモン漁、結婚式や葬式などの儀礼、色々な体験をした。

1ヶ月程の滞在の後、滞在していた家のお父さんが、こちらへ来いとダイニングルームへ呼ぶ。ダイニングには成人して家を離れた子供達も集まっている。中央に座る。

私に名前をくれるという。

そのお父さんは呪文のようなものを唱えながら、私の周りを囲むように手を動かす。

普段冗談ばかり言い合っている息子さんや娘さんたちも真剣な顔。


一つ目の名前。養子に迎えた息子さんの母親の名前。他の兄弟には叔母にあたる。

二つ目の名前。お母さんの叔母の名前。


私の歩き方、お茶ばかり飲んでいるところ、どうみてもこの二人が私のなかに生きているのだという。


アラスカ南西部に住むユピックと呼ばれる人々はこうして亡くなった親族の名前を再び用いる。一人がいくつもの名前をもっているのである。その人のもつ雰囲気などから、周りの人々は故人を見出す。名前を受け継ぐことで亡くなった方々も内に共に生き続ける。

一つ目の名前をもらうとき、養子に迎えられた息子さんは泣いていた。


この日以来、私は彼らの家族の一人として、末っ子の娘として扱われている。
年末年始村に帰っていたアンカレッジに住む「姉」は先週電話で「父と母と兄姉達」の近況を伝えてくれた。


私の内に生きるお二人、脈々と続く日本の先祖、そして縁あって一緒になった夫の先祖、私は一人で生きているのではないんだなあ、と最近つくづく思う。

先祖をたどっていけば一つのDNAにいきつくともいわれている。


内に生きている流れに感謝を込めて。





日常のリズムとカオス

2011-02-01 00:00:35 | 私史
子供達皆回復。やっと夜も咳き込むことなく通して寝る。

日常のリズムが戻ってきた。

心地よいリズム。


昔、決まったことの繰り返しを軽蔑する自分がいた。

そんな面白おかしくもない人生なんかおくるものか!


それが今は、面白おかしいことを形にしていくには、決まったことの繰り返しのリズムこそが必要なのだ、と感じている。

繰り返しのリズムこそが、面白おかしいことを形にしていくための筋肉を鍛える。


カオスの海に、筋肉なしで浸るのならば、溺れる。


溺れもがきながら、偶然つかみ、放り投げたものが偶然陸にあがる、こともある。

できあがった形は同じなのかもしれない。

それでも、筋肉があるのならば、スイスイと泳ぎながらこれだと掴み、ひょいひょいと陸にあげていける。休んで体力補充! なんてこともできてしまう。


筋肉があろうがなかろうが、カオスは逃げも隠れもしない、常にここにある。

過去、これから、そして今

2011-01-25 00:45:38 | 私史
初めての海外旅行はインドだった。16歳の時のこと。父親と二人、インド人のガイドさんとともに1週間。

「どうしてもインドへ行きたい。」と頼み込み、裕福な家庭ではなかったのだけれど、父親が連れて行ってくれた。

汚物にまみれた熱気、道端で眠る人々、やせこけた牛やヤギが人力車のような乗り物の横を歩く。市場に並ぶ見たこともない食べ物の匂い。服が引き裂かれそうな程の物乞い。ガンジス川に流される死体、その横で歯を磨く人々。街に溢れるサリーの色彩。

学校と家の往復で毎日が過ぎていた生活。世界には全く違う暮らしが存在するのだ、と全身で感じた。

帰国後、ガンジス川の水にあたり、一ヶ月ほど体調を壊した。多感な思春期、精神面でも、しばらく口を聞けない程のショック状態だった。

あの時、文化人類学を学ぼうと決めたのだった。自身が埋め込まれた仕組みが唯一ではない。世界は様々な仕組み・文化に溢れている!



研究者になろうと、大学院へ進み、「アラスカ先住民の仮面」を3年間追い続け、修士論文を書き終えた次の日に、長男妊娠を知った。

ちょうど12年前の今頃。日本・アラスカでの2年間の別居婚からアラスカ移住。

子育て・家庭と勉学、バリバリ両立!とならなかったのは、もちろん状況もあるのだけれど、私の場合は、ひとえに「自身の未熟さ」ゆえだった。

数年抱えた葛藤から、身体も精神も壊した。7年前のこと。



ここ数年、劇的に自身が変わってきたのを感じている。価値観から何から。根拠のない安心感とやる気。開き直り?(笑)

目の前には、粉々に砕かれた思春期の理想、が横たわっている。そして、今、欠片を集め、これからの道、を築き始めている。

一歩一歩進んでいきたい。「結果」は「今ここ」に踏み出す一歩に、後からついてくるもの。執着を手放しつつ。



10年近く会っていない父母、夫、子供達に感謝。そして、こんな私の近くにいてくれる友人達、ブログを読んでくださる方々に、心よりの感謝を込めて。