靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

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悪口を言いたくなる時、思い出すこと。

2014-04-06 06:59:22 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)




他人に対してネガティブなことを言いたくなる時、

自分を観察してみる。

そこには往々にして、「自己評価の低さ」という動機がある。


自己評価を上げる方法には二つある。

1.最も簡単で即効性がある方法:他人の悪口

2.難しく大変で時間のかかる方法:自分自身の改善


相手を下げることで、自分を上げ、ハイな気持ちを味わおうとしているのか。

「有名人」をこき下ろすメディアや、ゴシップにはこういった効果も。



『タルムード』によると、人間の身体は「悪口」を防ぐのを助けるつくりになっていると。

・歯と唇は、口から発せられる言葉を律する門。

・二つの目、二つの耳、二つの鼻孔があるのに対し、口が一つだけなのは、余計な言葉を話すよりも、より見、より聞き、より新鮮な空気を吸うため。

・耳たぶは、悪口に触れた時、聞かなくても良いよう耳に蓋をするため。



「自らの低さに落ち込む? 簡単な道を行こうとするな。ハードワークで、自身を改善しなさい。」                                                         『トラ』より


*より良きものをもたらすことを目指す「建設的な批判」というのも確かにある。その批判の動機はどこにあるのか、その違いを見極めること。


例え亀の歩みに見えたとしても、こつこつと、自分のペースで歩いていこうね、そう話し合った昨夜でした。


参考資料:
"The Power of Speech" by Shraga Simmons aish.com
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鏡の貴さ

2014-02-23 09:19:44 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

鏡の貴さ("Life as a Mirror" by YY Jacobsonを参考に):

シナイ山から『トラ』を持ち帰ったモーセ、寺院を立てる準備を始める。様々な寄付が持ち寄られる中で、一人の女性が鏡を持ってくる。モーセは断る。「鏡は、自らの容姿を映し整えるといったあまりにも世俗的なものであり、寺院には必要ではない」と。すると、「神」がモーセの誤りを指摘する。「鏡ほど貴いものはない」のだと。『トラ』より。

当時の鏡とは、ガラスに銀紙を貼ったものだったという。

この「ガラス」と「鏡」の違いが、なぜ「鏡ほど貴いものはない」のかを象徴しているとされる。

ガラスは、透けて向こう側が見える。
鏡は、向こう側ではなく自分を映す。



ユダヤ神秘主義カバラでは、「二つの神性なエネルギー」があるとされる。

1.決められた構造の中で、生き生きと発せられるエネルギー
2.構造を超え、構造自体を進化させていくエネルギー


ガラスを突き抜ける外からの日差しは、1のエネルギーを、
鏡から発せられる光は、2のエネルギーを持っていると。

「鏡から発せられる光」とは、自分に向き合い、自分のエゴを、自分の弱さを、自分のネガティブな性質を、突き破り突き破りたどり着くところから発せられるとされる。

鏡に映してみること、自分に向き合い、突き抜けていくことの貴さ、覚えておきます。
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踊り、空白に、繋がる

2014-02-16 08:20:57 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

文字と空白部分と(”The Ink Left In the Quill” by YY Jacobsonを参考に):

モーセがシナイ山から二つのタブレット(トラ)を持って下りてきた時、「コラン」が見えたという。ヘブライ語は同じ言葉でも違う意味を持つことがあり、この「コラン」は一般に「角」と訳されてきた。

ミケランジェロによるものなど、古くからモーセを表した多くの彫刻や絵にも、「角」が表されたものがある。

それでも、これは「角」ではなく、「頭部から光が放たれていた状態」を表していたとユダヤの世界では言われている。

では、この「頭部から光が放たれていた状態」とは何を意味しているのだろう

モーセは、「二度」二つのタブレットを持ってシナイ山から下りてきた。「頭部から光が放たれていた状態」とは、二度目にシナイ山から下りて来た時のこととされている。

一度目のタブレットは、四十日間山の中で、「神」から直接『トラ』の内容を習い、一語一語書き記していった。そして山を下り見つけたのが、ユダヤの民が「金の牛」という偶像を、「神」として崇め拝する様子。この時、タブレットから一語一語飛び去り、タブレットは地面に叩きつけられ壊される。

こうして『トラ』は粉々となり、一旦人々は、『トラ』との関係を失った。ちなみに、『トラ』の一文字一文字は、一人一人の魂と繋がっているとされている。

そして、モーセは「許しを請う」ため、シナイ山に再び上る。四十日間、どうかユダヤの民を許して欲しいと、叫び、嘆き、議論し、自分はどうなってもいいからどうにか彼らを助けて下さいと。「神」は、一度目とは異なる『トラ』を授ける。

一度目と二度目では、『トラ』と人々との関係は、違ったものになっていた。

この時与えられ、現代まで受け継がれている二度目の『トラ』は、二つの部分からなっている。

1.インクで記される文字
2.文字の周りを囲む空白部分
 

文字部分は必ず四方を空白で囲まれていなければならないという決まりがある。

そして

1のインクで書かれた文字部分は、人々の意識、言葉や形で表される部分と繋がりを持ち、

2の空白部分は、人々の無意識の領域、奥深くにある言葉や意識を超えた部分との繋がりを持つとされる。



モーセは羽のペンにインクをつけ、「神」の言葉を書き記していく。そして全て書き終わると、残っていたインクを、頭にふりかける。この「残ったインク」は、『トラ』の「空白部分」を表し、それが、「頭部からの光」となったとされる。

一度目には与えられず、二度目に与えられたこの「空白部分」、『トラ』との新しい関係、それが「光」となって周りを照らしたと。

『トラ』とは広義には、「人生の知恵」とされる。「文字で表される部分」「意識でとらえられる部分」だけでなく、「空白部分」を感じてみる。そのサイレンスに、潜ってみる。


『トラ』は読むだけでなく、トラを抱え共に踊る儀式などもある。踊ることで、この「空白部分」に繋がると。

旋律に身をゆだね、感じてみる。

言葉を超え、沈黙に、空白に、繋がる。

このイメージを覚えておきたいです。
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香をたく前に、すること

2014-02-09 11:02:52 | ファミリーディナートピック
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(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

香をたく前にすること(”When You Need To Borrow Your Father”by YY Jacobsonを参考に):

ユダヤの毎朝の祈りの中に、祭司が寺院で朝の儀礼を行う三千年ほど前の様子を描写した部分がある。その「儀礼の手順」について、何千年にも渡って議論されている。

1.五つのキャンドルに火を燈す → 香をたく → 残りの二つのキャンドルに火を燈す

2.五つのキャンドルに火を燈す → 外の祭壇で動物の生贄 外の祭壇に血をまぶす → 残りの二つのキャンドルに火を燈す → 香をたく


(三千年前の儀礼の描写であり、今は「動物の生贄」という慣習はない)

1が正しいのか、2が正しいのか? 

まず、七つのキャンドルとは、人の持つ七つの側面(愛、強さ、美、勝、一貫性、絆、リーダーシップ)を表し、毎朝一つ一つに火を燈すことにより、人としての一日が始まるとされる。では、最後の二つに火が燈され、一日を始める前に必要なのは、「香をたく」か?それとも「動物の生贄」か?

ユダヤ神秘主義では、人は神性魂と動物魂を持っており、神性魂はより「神」に近い自身、動物魂はこの世で肉体をもち生きていくための生命活力エネルギーに溢れた自身とされる。神性魂は動物魂を抑え付けるのではなく、その生命活力エネルギーをうまく導いていく必要がある。

「香をたく」とは、神性魂へのフォーカスを意味し、「神」と近くなる行為を象徴している。香りの中に溶け込み、喜びと一体感に包まれる。

「動物の生贄」とは、動物魂へ向き合うことを意味する。神性魂の「導き」なしには、暴れ始める動物魂。肉体的個を生かすためのあらゆる欲望に溢れ、自分!自分!とエゴが肥大し、物質的快楽へはまりこみ。「生贄をし、祭壇に血をまぶす」とは、そんな自身の「獣」に向き合い、昇華させることを象徴している。


この記事では、毎朝の儀礼の手順としては、1と2のどちらも正しさの一面を表しているという解釈が取りあげられる。1は、「ヨムキッパー」(年中行事の一つ)の日の手順、残りの364日は、2の「動物の生贄」の手順と。「ヨム・キッパー」とは、人の努力を必要とすることなく、「神性魂」がさらされるとされる祝日。その日以外は、常に自身に向き合い、葛藤と闘いを通し、よりよき方へと足を踏み出していく。



人と人との関係にも、キトラスとカルバノスという二種類あるとされる。
キトラスは「香をたく」のように、喜びと一体感に包まれる関係。
カルバノスは「動物の生贄」のように、自身の「獣」に向き合い、常に葛藤と闘いを通し、よりよき関係になるようにと踏み出し続けていく関係。
ほとんどの場合、両者が絡み合い、一つの関係が作られる。夫婦関係もキトラスとカルバノスが入り組んでいる。



2の「動物の生贄」手順を主張したラビAbayeには、父母がおらず、孤児だったと言われる。リアルな父母という感覚を知ることなく育ったラビAbayeと他のラビRavaが子供時代話し合う場面がある。「神はどこにいるか?」という質問に、答える二人の少年。Ravaは屋根を指差し、Abayeは外に出てはるか遠くに広がる空を指差す。すぐに触ることのできる屋根と、はるか遠くに広がり包み込む空と。


ラビAbayeの視点は、「神」の遠い現代に、どんな姿勢が必要なのかを教えてくれる。香をたき、うっとりとアロマに包まれる前に、自身に向き合い、自身に潜り、溢れる生命活力エネルギーを導いていくこと。果てしなく続く、大空の下で。

このイメージ、覚えておきたいです。
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子供とパン、生き続けるということ

2014-02-02 06:50:28 | ファミリーディナートピック
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(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

ダビデ王の死体と腹をすかせた犬("A Dead King and Hungry Dogs" by YY Jacobsonを参考に):

 ダビデ王は、庭の階段から落ち、亡くなった。ステップのひとつがはずれたためという。『トラ』(聖典、広義には「人生の知恵」)を学び続け、落ちた瞬間に学ぶことを止めた途端亡くなり、天使が迎えに来る。その日は、サバス(完全なる休息日)。「サバスに弔ってならない」という戒律があるため、ダビデ王の死体は、庭に横たわったままとされた。
 ダビデ王の息子が賢人に尋ねに来る。「父の遺体が庭に横たわっています。太陽に照らされ、腐敗が進んでしまう。父の犬達が腹をすかせて吼え続けています、餌をあげるべきでしょうか?」
 賢人は答える。「犬に何か動物の死体の餌をやりなさい、ダビデ王の死体の上に子供かパンを乗せ、家の中に運びなさい」
『トラ』より


ダビデ王の息子の質問、そして賢人の答えの意味とは?

 後世までユダヤの英雄と語り継がれるダビデ王、その背景には、人妻の夫を戦いの前線に送り、夫が亡くなるとその妻を娶った(その妻との間にソロモン王が生まれる)など、ネガティブに噂される面もあった。「盗み」は高さのある崖から落とされるという罰が当時あり、階段のステップがはずれ落ちるというのは、その罰に違いない。またベッドではなく、突然階段から落ちて亡くなるなんて、やはり、報いを受けることになったのだろう。亡くなった後の準備がされることなく、王が突然いなくなった国では、そんなゴシップも沸き立っていた。

 「犬が吼え続ける」とは、このゴシップを言う人々を象徴している。犬が象徴する「忠誠」には二種類あるという。1.どんなことがあろうとも主についていく忠誠、そして、2.誰であろうと何かを与えてくれる者に尻尾を振りついていく忠誠。このゴシップをいう人々はこの2にあたる。彼らがダビデ王に対してネガティブなこと言い続けるのは、善悪を正すためではなく、ただ新しい国でのよい立場が欲しいだけのこと。キャリアを与えてやりなさい、彼らの望むポジションを与えてやりなさい、そうすれば彼らは黙る。そして新しい主にも喜んでついていくだろう。

 ダビデ王の上に乗せられる「子供かパン」は、彼が「この世に残したもの」を象徴している。学び続けること、「教育」の大切さを体現し教え伝え、物質的にも精神的にも人々を豊かにしたダビデ王。それらを死体の上に乗せることは、ダビデ王は今も生きていることを意味する。生きている人を家の中に運ぶことは、何ら戒律に触れることはない。


ーーーーーーーーーー
ある師と学生が歩いていると、強烈な死臭がただよってくる。炎天下に横たわる死体。学生が鼻をつまみ「うわあ、こりゃ堪えられません」と悲鳴をあげる中、師は「見てごらん、あの歯の白さを!」と示す。

師は、どんな時でも、その者の光る面を見い出す姿勢、ネガティブ面に、光る部分を覆い隠させない姿勢の大切さを教えたという。

ーーーーーーーーーーー
先週、子供達を公園で遊ばせながら、学校のこと、子育ての悩み葛藤についてなど話していると、「結局、こうして生きている意味って、どれだけ次の世代に残せるかってことなのよね」とさらり言う友人。一瞬びっくりして「えっ?」と彼女の顔を見る。するといつものようにニコニコとしながら、もう一度同じ言葉を繰り返してくれた。目の前の日常が、はるかかなたの視線と合わさった瞬間。ダビデ王の話を読みながら、あの公園での瞬間を思い出した。


・人に物事に、光る部分を見出し続けていくこと。

・過去未来の中継者としてできる限りをしていくこと。


思い出していきます!
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インスピレーションの後に

2014-01-25 23:59:00 | ファミリーディナートピック
インスピレーション、暗闇を割く稲妻(” Shavuot: The Secret of Inspiration“ by Charlie Hararyを参考に):

 出エジプト、奴隷から解放されエジプトを出るユダヤの民を、エジプト軍が追う。前方には紅海。追っ手と海に挟まれ、絶体絶命というところ、海水が真っ二つに割れ、向こう側への道ができる。追っ手が海の底の道を渡り始めると、海水の壁が崩れ落ち、道は塞がれ。無事向こう岸へ渡るユダヤの民。
 その後砂漠を行行き続け49日。シナイ山で「十戒」を受け取る。そしてその後も40年砂漠をさ迷う。
「『トラ』より」

インスピレーションは、暗闇を切り裂く稲妻のようなもの。「そうあれる」という方向を、一瞬の光の中に見せてくれる。やがて暗闇が戻る。それでも歩き続ける、内に鮮明に刻まれたビジョンを頼りに。すると、また稲妻がやってくる、一瞬全てが明るく照らされ見通しがよくなり、あああそこへいくのだったと確信でき、そしてまた暗闇に戻る。それでもより鮮明に刻まれたビジョンを基に進み続ける。そして再び稲妻、一気に明るく行き先もはっきり。

「砂漠をさ迷う間」というのは、インスピレーションを受けた後のこんな様子を象徴しているとされる。

海が割れ、十戒を受け取りと、とてつもないインスピレーションを目の当たりにしたとしても、食べ物飲み物に欠く砂漠の暮らし続きに、気持ちは萎え、インスピレーションは薄れ、行き先を見失い。

暗闇に囲まれ、あのインスピレーションの瞬間に見た鮮明な風景が、今この目の前には見えなくとも、目を閉じれば、内にしっかりと刻まれている。感覚を澄ませ、歩き続ける。すると再び、十戒を受け取り、マナが空から降り石から水が沸き出、そして新しい地にたどり着きといった「閃光の時」もやってくる。暗闇、歩き続け、閃光、暗闇、歩き続け、閃光、その繰り返しが、また内への刻みを、よりはっきりとしたものにする。

そして内の刻みが深くはっきりするほど、日常に閃光溢れ、どんな暗闇をも行くことができるようになる。

暗闇を割く稲妻、内に刻まれる風景、このイメージ、思い出していきたいです。
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山へ上らないという境界

2014-01-19 13:00:22 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


「山へ上らないという境界」について、三つの解釈(“Borders Built of Roses” By Rabbi Y.Y. Jacobsonを参考に):

モーセがシナイ山に上ると、神が言う。「人々の間に、ここからはこの山を上ってはいけないという境界を設けなさい。どんな人も動物もその端に触れるのならば、生きてはいられない。」
そしてモーセは十戒(『トラ』)を受け取る。
神はもう一度言う。「山を下りて人々に告げなさい、山へ上ってはならないと。多くの『神に仕える者』(priests)達が境界を越え主へと上り寄ろうとするだろう。境界を越えてはいけないと伝えなさい。」モーセは答える。「あなたはもう既におっしゃったじゃないですか、シナイ山へ上らないよう境界を設け聖別(sanctify)するようにと。ですから人々は上るはずがありませんよ。」神は言う、「下りなさい、そして人々に伝えるのです。」そこで、モーセは山を下り人々に告げた。
(Yisro 19:12『トラ』)

この箇所について、何千年も議論がされている。境界を設けるとはどういうことなのか? なぜ「神」は二度も同じことをモーセに言ったのか?

ここでは三人のラビ(18世紀―20世紀)による解釈を。それぞれの解釈に理解のエッセンスと学びがある。


一.「バラによって作られる境界」が与えられたということ。

「境界」には二種類ある。
1.物理的な境界。明らかに目に見え、具体的で触ることのできる境界。
2.目に見えることなく抽象的メタフィジカルな境界。


1は動物でもぶつかり前に進むことができないが、2は理解しない動物や子供はやすやすと越えられる。「神」が一度目に言った「境界」とは1を指し(端に触れるなら動物でも生きていられない)、二度目のは2の境界を指している。

2とは、1のように明らかな罰があるわけではない。越えるならばこうなるといった恐怖を脅かすものでもない。『トラ』(広義には「人生の知恵」)を受け取った後の境界とは、2を指している。

2とは、「バラやユリの花で作られた境界」(Song of Songs 7:3『トラ』)とされるもの。その美しさその香りに、踏みにじりたくないと心の中に芽生える繊細さのようなもの。それは正義、公平さ、一人一人の尊厳、理想、夢であり。自身の真を大切にし、より理想に近い自分の人格を傷つけず、より高い自分に嘘をつかない、より高い魂を妥協しないというようなこと。

罰せられるからではなく、踏みにじりたくないという繊細さにより、境界を越えない。

『トラ』を受け取ることにより、人々が与えられたのは、こうした「バラによって作られた境界」。



二.一瞬一瞬自らに「境界」を問うことが大切だということ

動物も自然も、あらゆる存在は「法則」によって規則正しく動き続けている。ただ「人間の心」だけがパターンを越えた選択の幅を持っている。その複雑な「人の心」の指針となるのが『トラ』とされる。トラを受け取り、モーセは言う「神よあなたはもう既に境界を越えるなとおっしゃったじゃないですか、だから人々はもう越えるわけがないのです」と。それでも「神」は繰り返す、「越えてはならないと告げなさい」と。

『トラ』を受け取ったのだから、人生の知恵を知ったのだから、自分達はもう「善き人々」になったというわけではない、一瞬一瞬の選択の繰り返しの大切さを、「神」は教えようとしていたということ。



三.肉体や物質を置き去りにして「上る」のではなく、肉体や物質的世界にこそ、天を下ろしてくるのだということ。

『トラ』を与えられ、「神」にキスしようと山を駆け上ろうとする人々が増えるだろう。「山に上る」とは、世俗を離れ、聖域へと足を踏み入れることを象徴的に表した言葉。

「山へ上るな」とは、世俗に留まるということ。世俗の中に、『トラ』(人生の深い知恵)のエッセンスを実現していくということ。

『トラ』(人生の深い知恵)に触れ、二つの流れができる:
1.何時どのように祈り何時何をどのように食べ何時何をどのようにしと戒律に細密忠実に従い、自分達は境界をしっかりと守っているとする流れ。
2.瞑想、祈り、エクスタシー、センセーションなど形なきものを追い求め、物理的な境界を置き去りに、山を駆け上ろうとする流れ。

1と2を重ねる。物理的な境界を大切にしつつ、祈りを、「神」に触れる喜びを、世俗に、日常に行き渡らせていく。


結婚式で、壇上に上がるための階段の幅が狭く、誰が先に行くべきかと話し合いになる。あなたにはより多くの弟子がいるのだから先に、いやあなたの方が高齢なのだからあなたが先に。そこへ一人が言う、階段のないところから上りましょう。大切なのは結婚の祝いなのであり、こういう時は柔軟に壁(階段を上るという決まり)を突き抜けていきましょう。そこへ一人が言う「壁(決まり・境界)を突き抜けるのではない、ドアを広げ、ドアを通るのです。階段を継ぎ足して広くしましょう」

境界を越え突き進むのではなく、この世俗物質世界の境界の中に現実的な変化を起こしていくということ。




一.バラを踏みにじらない繊細さ、二。一瞬一瞬の自身を見つめていくこと、三、肉体・物質面と心面を共に大切に、心の奥深くにある「山」を形に実現していくということ、心に留めていきます。
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自身にとっての「真」と共にあり続けるということ

2014-01-12 08:02:12 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

共に行くということ (“Ruth and Arpah: A Tale of Two Daughters-In-Law” by YY Jacobsonを参考に):

ユダヤの町JudeaのリーダーだったElimelechは、飢饉になると、自身の富を分け与えることに堪えられず、家族でモアブ(Moav)という町へ移る。リーダーとしての責任を逃れ、家族でひっそりゆったりと暮らすという願いをかなえたElimelechは、やがて亡くなり、妻のナオミと二人の息子が残される。二人の息子はモアブ人の王室の娘二人と結婚。十年して二人の息子共に亡くなる。ナオミと義理の娘二人アルパとルースが残される。

ナオミはJudeaに戻ることを決意。旅の途中、二人の義理の娘に、あなたのオリジンに戻りなさい、あなたの母の元へ帰りなさいと説得。ナオミを慕う二人は泣き叫んで拒否。あなた達はまだ若いのだから新しい夫に嫁ぎまた新しく家族を始めなさいと諭すナオミ。泣き喚いて拒否。私の子宮にはもう赤子はいない、あなた方の夫になる子供はもういないのです、そして例え今から子供を育てたとしてもその子達が大きくなるまであなたがたは待てるはずがない。そう「三度」、モアブへ戻るよう話す。

アルパは承諾し、泣きながらナオミにキスし去る。ルースは言う、「あなたがどこへ行かれようと、私は行きます。あなたが住まれるところに、私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神。あなたが死ぬ地で私も死にます、そしてそこに葬られるのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」そしてナオミと共にJudeaへ。
『トラ』より

(ユダヤ教では、改宗したいという者に対し「三度」断ると決められており、それはこのシーンからの学びだとされる。)

当時、モアブは退廃した町として知られていた。快楽を追い求め偶像崇拝に浸る人々に溢れていたと。十年ナオミの家で暮らし、アルパもルースも全く違う暮らし方があるのだと体験し、知り、その新しい価値観や慣習を讃え感謝し愛していた。だからこそナオミをそれほどまで慕い。

それでもナオミは今では財産も何ももっておらず、貧しい暮らし。それはJudeaに戻っても同じこと。一方、モアブの実家に戻るのならば、アルパもルースも何不自由ない恵まれた暮らしができる。

アルパは戻ることを選び、ルースは共に行くことを選んだ。


ルースはJudeaで裕福な裁判官のボアズに嫁ぎ後に王となるダビデの祖母となる。アルパはナオミから離れたその晩に百人の男と関係し、その後嫁ぎ四人の巨人を産む。三番目の子がゴライア。少年ダビデと無敵の強さで人々を震撼させたゴライアは対峙し、ダビデが投げた石の額への一撃でゴライアは崩れ落ちる。『トラ』より

(こちらで子供向け物語などでもよく聞く「ダビデとゴライア」にそんな関係があったとは驚きでした)。

 何らかの「真」に触れたと心の底から感じ、深いインスピレーションにこれが私の進む方向だと確信し。それでも「本当にこれでいいの?戻った方がいいよ」と思わされる試練は、幾度となくある。それでもその一つ一つの試練を越えることが、その道を行くために必要な覚悟と決意を鍛える。

 そして進む過程で表に表れる美やロマンスだけでなく、それらを支える犠牲やハードワークや努力にも同じように「喜び」を見出しているか。美やロマンスだけを見ているのならば、根のない草花のように、少しの風で宙に舞う。「ナオミ」というのはヘブライ語で「スイート」という意味を持つ。「スイート」な面だけを見ていていたのか、それを支える見えない部分をも見ていたか。

 アルパは、ナオミから去った後の空虚さをどんなことをしても埋めることができず(「百人の男」という極端な行動に走るも)、その「空しさ」を次世代へと渡し、憎しみの塊ゴライアを産むことになる。ゴライアは母が触れたにも関わらず背を向けた「真」を心の奥に受け継いでいたからこそ、あれほどの強烈な憎悪の塊になったと。強い愛が強い憎しみを生むように。


触れてまでも、まだ元に戻ろうとするのか? 自身に問いかけていきたいです。

前に広がる「喜び」の圧倒的な大きさを思うなら、軽やかに踏み出せます。共に前へ。
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「靴を脱いで渡す」という交換方法

2014-01-05 07:27:53 | ファミリーディナートピック

お金や物を超え「大切なもの」を見出すこと(“Why Do the Highest Souls End Up Sometimes In the Lowest Places?”を参考に):

何かを手に入れるための手段といえば、お金で買う、物々交換などがあるけれど、その昔、ユダヤの慣習では、「靴を脱いで渡す」というものがあったそう。
それはあまりにも不釣合いに見える取引に用いられた。あの家を手に入れたい、靴を脱いで渡す、あの食器が必要、靴を脱いで渡すといったように。

「靴」は、ユダヤ神秘主義カバラでは、地上的な汚れや危険から身を守るもの、また、地上と魂を隔てるもの、つまり目に見える物質的なものと永遠に続くものを隔てるものと捉えられる。そして「聖なる場」では「靴を脱ぐ」ことになっている。そこではもう「靴」など必要でなく、地上の物質的なるものと、永遠に続くものが一体となる。

また夫が亡くなると、その夫の兄弟に嫁ぐのが善行(mitzvah)とされる慣習がユダヤにはあり、もしそれができないならば、その兄弟が特別な「靴」を履き、その未亡人が脱がすという儀礼がされた。兄弟に嫁ぐことがよしとされるのは、兄弟と未亡人の間にできる子供が、亡くなった夫の魂を生かすことになるためとされ、それができないならば、未亡人が「靴を脱がす」ことにより、亡き夫の魂が地上的な縛りから放たれると信じられていた。

交換の際「靴を脱ぐ」とは、目に見える物質的な「はかり」を超えた場を作り出すことを意味する。地上的な縛りを解き、お金や物には代えられない「大切なもの」を見出す場。それは、関係、愛、友情、家族、子孫、未来の世界、魂などであるかもしれない。あの家はあの食器は、確かに物質的にはこれほどの価値だろう、それでも、その交換によって生み出される「大切なもの」を見ていこうという姿勢。

ルースと結婚しないかと申し込まれる男二人。一人は、自分のような立派で地位もあり金持ちで人気のある者が、ルースのような生まれもユダヤでなく(改宗者)、貧乏で、不人気な女と一緒になるわけがないと断る。もう一人のボアズ(Boaz)は、裁判官で世間的にもう一人の男と同じようではあったが、「靴を脱いで渡し」、ルースと一緒になった。そうしてルースとボアズの間に生まれたのが、後にユダヤを救うことになるダビデ王だった。(『トラ』より)

チャーチルは言う「資本主義は富を不平等に分配することになり、共産主義は惨めさを(misery)を平等に分配することになった。」



ユダヤには、「低いところへ、高い魂が送り込まれる」といった考え方がある。魂は殻に覆われており、その魂(神性)が崇高であればあるほど、幾層もの悪しき殻に包まれている場合があるという。なぜなら、殻が存在するには中心の魂(神性)の力が必要であり、より厚く悪しき殻が生を受けるには、より強い魂(神性)が必要となるため。そして、その悪しき殻を破り神性を引き出すのに必要なのが、より悪しき苦しく汚い「低きところ」。「低きところ」から悪しき殻を突き抜け放たれる神性は、殻を破る必要もほとんど無く善き美しき「高きところ」から放たれるものとは、比べものにならないほど、とてつもない力を持つことがある。

宝石商と泥棒が同じ宿に泊まることに。宝石商に気をつけるようにと注意する知人。宝石商は高価な宝石を全て隠し寝床に。案の定、その泥棒は宝石商が寝入ったと思いきや、起き上がり、宝石を探し始める。部屋中隅々、宝石商の衣服や布団まで探すも、見つからずとうとう明け方になって諦める。宝石はどこに隠されてあったか? 泥棒のカバンの中。唯一泥棒が探さなかったところ。


大切なものは、最も予期しなかったところにある場合がある。それは自分の内でもあるのかもしれない。

お金や物や世間的な上下の価値を超えたところにある「大切なもの」を見てみること、「靴を脱いでみる」、子供達とそんな話をした夜でした。
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言葉と情熱の責任について

2013-12-29 07:27:06 | ファミリーディナートピック
言葉と情熱の責任について("God's arrow"by YY Jacobsonを参考に):

タルムードにある賢人達のディベート。

火を燈し、その火が広がり、隣の敷地まで及び被害を出してしまう。

この時の火は「矢」のようなものか? それとも「所有物(property)」のようなものか?

1.矢のようなものであり、放った者、燈した者に全責任がある。

2.所有物のようなものであり、所有者としての責任がある。


例えば広がる火によって死者が出た場合、矢を放って直接殺したと捉えられるか、所有する飼い犬が殺したと捉えられるかでは、罪は罪でもその重さは違ってくる。

どちらが正しいかについて、何千年もの間議論されている。


ここでは、それぞれの立場から学べることを:

.矢も火も、放ち、燈した瞬間に、その行為を行った者に全責任がある。例え燃え盛る火に自ら命を落とし、隣の敷地の人々に被害が及んだ時点で生きていないとしても、罪は、火を燈した瞬間にある。

「矢」と「火」は、「言葉」と「情熱」にも喩えられる。一旦言葉を放つならば、どんなに本人の意図と異なり広がろうが、その言葉を放った者に全責任がある。情熱も同じ。何かに燃える情熱を持ち、それがあらぬ方向へと燃え上がることになろうとも、情熱に火をつけた時点で、その全責任を負う。

言葉と情熱、放ち燈す時点で、その責任を自覚していること。


.矢(言葉)も火(情熱)も、飼い主の意図に反して凶暴化してしまう飼い犬になり得る。それでも言葉も情熱も源では「神」によって創られる。神が所有者で人はその所有物を使う者「仮の所有者」でもある。そして「神」と人との違いは、一旦放たれ燈された矢も火も「神」ならば、取り戻しコントロールできるということ。誤った言葉溢れ、誤った方向へと燃え上がる情熱、それら人のコントロールを超えたものを、人としてのできる限りの最善を尽くしガードし、後は委ねるという気持ちを持ってみる。自らの全責任を自覚し行動を起こしつつ、あとは天命にまかせるという姿勢。

1と2、どちらが正しいというよりも、どちらもまた違った側面の「真」を表し、それぞれに学ぶべき知恵が含まれている。


言葉も情熱も、用いる方向によって、とてつもなくポジティブなものを創りあげることができる。情熱なくしては、何も成し遂げることはできない。方向を見定め人事を尽くしたところで、委ねるという気持ち、覚えておこうねと話し合った夜でした。
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「種」を大切にするということ

2013-12-22 06:07:09 | ファミリーディナートピック
今週夫と私が目を通した項目、性的なことでまだ子供には早いかなという内容でした。

そこで今週のファミリーディナートピック、子供達には、「相手も自分も大切にする、自分のエネルギーを大切にする」というようなことについて、表現を変えて話しました。十四歳の長男には個別に話せるといいねと夫と話し合いつつ。


「種」を大切にするということ(”Guarding Your Seed of Eternity” by YY Jabobsonを参考に):

ユダヤの葬式では、亡くなった男性の子孫は、お棺についていってはいけないことになっている。なぜなら、その男性が生かすことのなかった「種」の「子孫(作り出したもの)」全てが、ついていってしまうから。

ただジェイコブのお棺には全ての子孫がついていくことができた。なぜなら、ジェイコブはただの一つの「種」さえも無駄にすることがなかったためとされる。全てが生きた関係、新しい命に結びつく行為のために使われたため。(これは例え実際の命を作り出すことがなくとも。ジェイコブの妻サラには長い間子供ができなかった。もう一人の妻レアとの間には多くの子供がいる)

ユダヤではラビも妻子を持ち、夫婦間の「行為」は最も神性な行為とされる。なぜならそれは、「新しい命を作り出す」という最も「神」に似せた行為であるため。その「神性さ」ゆえに、強烈な喜びを伴う。『トラ』では「一人での行為」は禁じられているのだけれど、それは「夫婦の親密さへ向かうエネルギーを下げることになるため」とされる。また月に七日から十二日程(妻の生理と重なる時期)、夫婦別のベッドに眠り、日中も互いに全く触れてはいけない期間というものも決められている。これも「夫婦間のエネルギーを高める」役割を果たすとされる。

『トラ』には、ジェイコブの亡くなった場面で、「埋める」などの言葉は用いられるものの、一言も「死」という言葉が用いられていないという。アブラハムやアイザックや他の登場人物については「死」という記述があるにも関わらず。

なぜなら、ジェイコブの肉体は朽ちても、「種」は全て生き続けているためと説明される。


ソロモン王の言葉に、「種(semen)は、その者の身体であり、生命力(vitality)であり、目の光。浪費すればするほど、身体や力は減退し、生命力は失われる」[Proverbs 31
:3]というのもある。


むやみめったらに浪費するのでなく、dignityを持って、「生命力を高める使い方」をしていってくれたら、そんなように思うわけですが、長男に伝えるのは夫にまかせます。(笑) いつかそんな話ができる日もくるかなと思いつつ。
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「神」を見ないことを選んだモーセ

2013-12-15 08:06:29 | ファミリーディナートピック
真のリーダーの条件とは? (”When Moses Was Afraid to Gaze Upon G-d” by YY Jacobsonより): 

モーセがリーダーとして選ばれたのには、四つの出来事があったためと言われる。

1.奴隷だったユダヤの老人が、鞭で打ちのめされ死にそうになっているところ、その鞭をふりかざす兵を突き飛ばした。

2.その翌日、ユダヤ人同士が争っているところ、仲裁に入った。

3.エジプトを出、砂漠をさまよっている時、井戸のそばで遊牧民の娘がいじめられているのを救った。

4、しげみの炎に「神」が現れた瞬間、顔を覆った。

1から3は、ユダヤの内と外に関わらず、「不正」を前にすると、いてもたってもいられず行動を起こすモーセの人物像が伺え、リーダーとして相応しいのが理解できる。



ではなぜ4か? まずはこの時の状況:

モーセが羊の世話をしていると、一匹の子羊が群れからいなくなったことに気が付く。辺りを探し回り、ようやく見つけたと子羊を抱いたところ、しげみの中に炎を見つける。「なぜあれほど激しく燃え盛っているのに、しげみを焼き尽くしてしまわないのだろう?」そう訝しく思い、近寄る。
 すると、炎の中にイメージが浮かび上がる。人類が生まれて以来、未来まで、争いが絶えない様子が映し出される。罪なき人々が無残に命を奪われ、善き人々が虫けらのように殺され、古代から未来までの繰り返しの、残忍な悲劇と血みどろの歴史。
 モーセは嘆く、なぜ善き人々がこれほどまでに苦しまなくてはならないのか。この世界のどこに公平さがあるというのだ? この世はどうしてこれほどまでに理不尽なのか?「神」よ、あなたはどこにいるのですか。あなたは完璧であるはずなのに、なぜこれほどまでの悪を創りだしたのですか。なぜこれほどまでの悪を許すのですか?
そこへ、炎の中から声が響く。「私があなたの神だ」
 モーセは顔を覆った。
     『トラ』より

モーセが顔を覆った理由には、あまりにもまぶしかったから、畏れから、など様々な解釈があるが、ここでは、ある一つの解釈について。

この時「神」は、この世の理不尽さの背景にある、「神からの視点」をモーセに見せようとした。

人は壮大なタペストリーを織り成す一つの糸のようなもの、周りの黄や青や赤の糸の連なりを見ることはできても、壮大な紋様の全体図を見ることはできない。
それでもモーセは、その「神」からの眺めを、壮大な全体図を見ることを、顔を覆うことで、拒否した。

なぜなら、彼の内にもし一パーセントでも、全ての理不尽を納得してしまえる「神からの視点」があるのならば、彼は周りの人々と共に悲しみ、苦しみ、共感し、嘆き、戦い、なぜだ!と拳を振り上げることができなくなってしまうから。

天国への階段を差し出した「神」に対し、モーセはこの地球に留まることを選んだと。

こうしてモーセは、「真のリーダー」となった。


¥ユダヤでは、「神」にはいくつもの名前があるとされる。神は一つでありながらいくつもの面をもっていて、その一つ一つの面に名前がある。一説には七十二の名前があるとも。

モーセが炎の中に見たのは、その中の一つ「Elokim」、審判を司る神。

そして『トラ』にはこんな記述がある: 

モーセは審判の神Elokimを見ることを恐れたため、慈悲の神Havayaを見るというメリットを与えられた。


嘆き悲しむ人々を前に、ああそれはね、あなたにこういった罪があったから、その罰なのですよ。これであなたの罪もぬぐわれますよ。よかったですね。「神」は完璧なのですから、全てに意味があるのです。全ては「神」のご計画通りなのです。

この地球に生きている人々のミッションとは、そんな「分かった気」になってしまうことではない。「分からない」という前提に立ち、共に悲しみ、嘆き、なぜだ!と問い、少しでもよくしていくためにと行動を起こしていくこと。そうして一人一人が、慈悲に溢れた存在となること。

(私自身、「神」と言及されることのある「存在」を感覚として信じているのですが、時に「無神論者」や「不可知論者」に感じる「正しさ」も、上の下線太字部分にあるのだと思います。
 また未だかつて「そのもの全てが表された言葉」はない、限りなく近い表現はあるけれど、そもそも言葉で表された時点で「ずれて」しまうと感じていて。そうした既成の「神」にすっぽりとあてはまらないからこそ、敢えて「無神」や「不可知」と唱えている人々もいるのでしょう。
 といって「神」という言葉で表し讃え集う場、「その存在」に限りなく近い言葉を伝える人々も必要であり。「全て」ではなくとも確かに「神」に触れられる場や言葉。このラビであるJacobson氏の記事は、そうした場を作り役割を担う人々が、そんな「神の信仰」の諸刃の刃的な面を自覚し、進んでいこうということなのだと思っています。あの最も「神」を信じ、「神」と近く歩んだともされるモーセが、顔を覆い「分かってしまうこと」を拒否したように。)



子供達も、「分からない全体図」について、感じることがあるようで色々話していました:

・「タペストリーの全体図」は、一人でも糸が欠けたら成り立たないんだよね

・この世に来る前に、自分でどんな人生がいいかを選んでいる。大変な人生を選ぶ人もいるし、短いものを選ぶ人もいる。人生を終えたら戻り、しばらくしたら、また新しい人生を選ぶ。

・卒業というものもあって、自分のミッションを完全に果たしたのなら、もう生まれ変わらなくてもいい。

信じているというより、こういう話も聞くことある、本当のところはどうかは分からないけれど、何となくそうかなとも思うという調子で話していました。こんなこと思っているんだと少し驚きました。


様々なストーリを想いつつも、ジャッジするのではなく、人の気持ちに寄り添い、共により良くなるようにと動いていけるといいね、そんな話をしました。
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後悔と癒し

2013-12-08 09:51:34 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

後悔と癒し(“How Joseph Brought Healing to His Broken Family” by YY Jacobsenを参考に):

 ジョセフへの嫉妬の末、母違いの兄達に奴隷に売られるジョセフ。エジプトの雇用主に無実の罪で牢獄に入れられ何年か過ごし、ファラオの夢を解釈したことにより、ファラオの次に力を持つという地位を与えられる。
 夢の通り、七年の収穫の後、七年の飢餓が訪れ、少しずつ貯えておいた食糧を民衆に分配する。そこへ、遠くカナンの地からジョセフを売った兄達が食料を求めてやってくる。兄達はまさかジョセフがエジプトのトップになっているとは思わず、ジョセフに気が付かない。エジプト人がただで手に入れるのに対し、金と食料を交換させて欲しいと頼む兄達に「お前達はスパイだ!」と言葉を投げるジョセフ。何人家族がいると聞き、十人の兄の他にジョセフが売られた後同じ母の元に生まれたもう一人がいることを知り、そのベンジャミンを連れて来て家族の人数を実際に証明するまで兄の一人シミアンを牢獄に入れると言い放つ。
 カナンからベンジャミンを連れてくる九人の兄。シミアンは牢獄から出され宴が催される。手厚く歓待され、食料を持たされ帰途に着く兄達を追いかけるエジプト兵。持たされた食料を調べると、ベンジャミンの袋の中にジョセフの銀のゴブレットが。
 ジョセフの前へ連れてこられる兄弟。罰としてベンジャミンを奴隷にすると伝えるジョセフに、ベンジャミンの代わりに自分を奴隷にしてくれと嘆願する兄達。
 ジョセフは兄達の態度にエジプト人を全て下がらせ、自分が弟のジョセフであると告げる。互いの泣き声がエジプト中に響く。ジョセフ一族は豊かなエジプトに移り住む。
(『トラ』より)

牢獄を出、最高の地位を得たジョセフ。なぜ自分がエジプトで生きていると、すぐに父ジェイコブに知らせなかったのか?

この「ジョセフの話」について、ユダヤの間で何千年もの間議論されてきたテーマの一つ。

11人の兄がジョセフにひざまずくという若かりし頃ジョセフの見た夢を実現させるため、ジョセフは父ジェイコブが兄達の陰謀の背景にいたのではないかと疑っていたため、ジョセフが兄達に復讐したかったため、など様々な解釈がある中、ここではある一つの解釈について。

それは、「悔い改め(repentance英語teshuvaヘブライ語)」のプロセスを兄達に体験させるためだった、というもの。

「創世記」にはジョセフが「すすり泣く」描写が八度もある。『トラ』の中でジョセフは最も泣く回数の多い男。もしジョセフに兄達への復讐の気持ちがあったのならば、すすり泣きはしない。復讐の際、人は、攻撃性、決意、そして幸福感さえ感じるもの。

ジョセフは自らの復讐のために一連の行為をしたのではなかった。ジョセフは、より大いなる意志と計画のために、ただ泣く泣く従っていた。


ユダヤでは「悔い改め」には、三つのステップがあるとされる

1.感情的観念的な後悔。ああ~しなければよかったと心から思う。過去を振り返る。

2.これから同じことをしないでおこうという決意。未来へ向けて。

3.証明。同じ状況に置かれても、本当に同じことをしないかが試される。
[Maimonides, Law of Repentance, 2:1]

兄達のプロセス:

1.兄達は、ジョセフを奴隷に売り、父ジェイコブに羊の血塗りのジョセフの羽織を見せ、狼にジョセフが食われたと告げる。ジェイコブの悲しみは深く、兄達は、その父の悲しみを間近に、自分達の犯した罪の深さを、長い間苦しみ続けていた。

2.シミアンが牢獄に入れられ、ベンジャミンを迎えに来る兄達。父ジェイコブはジョセフの二の舞にはならせまいと、ベンジャミンをエジプトへ行かせることに反対する。兄達は命にかけてベンジャミンを守ると父を説得する。

3.父ジェイコブは、一人一人に土産を持たす。そしてベンジャミンだけに、皆の五倍の土産を持たす。かつて父のジョセフに対する態度から、ジョセフへの嫉妬に駆られた兄達は、再び同じ境遇におかれる。
 そして、ベンジャミンが盗みの罪で奴隷にされるという状況で、立ち上がり自分達を代わりに奴隷にしてくれと懇願する。


ここで、「悔い改め」が完了し、癒しが訪れる。それは、兄達自身への癒しであり、ジョセフへの癒しであり、家族への癒しであり。

家族が家族として再び機能するには、この「悔い改め」のプロセスが必要であったと。そうして初めて、ジョセフは自分が生きていたのだと家族に告げることができた。



ある国の王が敵から逃げて民家に駆け込む。その家の主人は王をベッドの下に隠し、敵がなだれ込む。「王など来てはいない」という主人の言葉に、家の中をざっと見回した敵は、外へ出て行く。

 ベッドの下から這い出る王に主人が聞く。「ベッドの下に隠れている時、どんな気持ちであられましたか?」王は怒り「民衆の分際で王に対して何てことを聞くんだ! 無礼極まりない、お前の罪は死刑に値する、すぐに王宮へしょっ引いていやる!」

 囚人のガウンを着せられ、絞首台へと上る主人。処刑を目前に、王が走り寄る。「これがあなたの質問への答えです」そう言うと、主人の手を取り謝る。そして主人を丁重にもてなし、一生豊かに暮らせるだけの財産を与えた。

「体験」を通さなければ、本当に分かったことにはならないという教え。





子供達と「悔い改めのプロセス」について話し合いました。

過去の失敗による痛み。1.ああ、あんなことしなければよかった、2.もう二度としないでおこう、そう決めたところに、3.似たような境遇が与えられることもあるかもしれない。それは、悔い改めへの絶好のチャンス。繰り返さない自分でいること。そうならば、真の癒しが訪れ、次への扉が開く。
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「実質」を伴う「美」

2013-12-01 10:51:23 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

美と実質について(”Substance Vs. Beauty” By Rabbi YY Jacobsonを参考に):

先週に引き続き、ジョセフの夢の話。今回はまた少し違った角度から。

兄達にエジプトへと奴隷に売られ、ジョセフを慕う雇い主の妻により、無実の罪で何年も牢に閉じ込められることになったジョセフ。ある日、夢の解釈ができるという噂を聞きつけたファラオに呼ばれ王宮へ。(『トラ』より)

『トラ』では、まずファラオの夢の内容として、「見かけ麗しく美しく健やかなる頑丈な七頭の牛が川から上がり、続いて、醜い病み痩せこけた七頭の牛が川から上がる」と描写されている。その後、ファラオ自身がジョセフに夢の内容を伝える場面で、「健やかなる頑丈な見かけ麗しく美しい七頭の牛が川から上がり、続いて、病み痩せこけた醜い七頭の牛が川から上がる」とファラオが話したとされている。

二度繰り返される夢の描写の中で、牛を形容する言葉の「順序」が異なっている。それはなぜか? 



『トラ』についての文献には、本当に小さく細かく見えることにも、何千年もの間、様々な賢者が議論し見解を示した記録が載っている。ユダヤにとって『トラ』とはその存在の中心、どんな細部にも意味があり、何らかの象徴的メッセージが隠されているとされるため。

また『トラ』を広義に捉えると、『人生の書』ともされ、「人生そのもの」が『トラ』であるという見方がされることもある。文献の『トラ』に向き合う姿勢を、「人生そのもの」である周りへ、今この目の前への事象へと向けてみる。するとどんな日常の細部からも、学ぶべきことが浮かび上がってくる。

『トラ』に触れることで、私が学んでいるのは、『トラ』の内容自体だけでなく、そんな周りへの視線、今目の前のことへと向き合う姿勢でもあるのかもしれません。


と、話はそれましたが、この七頭の牛を形容する言葉の順序について。この「順序の違い」は何を表しているのか?

1.美(見かけ麗しく美しい)、そして実質(健やかで頑丈)
2.実質(健やかで頑丈)、そして美(見かけ麗しく美しい) 

『トラ』や『タルムード』には、この「美」と「実質」についての議論が、いくつか記されている。

脂ののったうっとりするほどの肉と、引き締まり贅肉なく痩せた健やかなる肉、どちらのヤギの肉を買うべきか?
答えは後者。

バビロニア時代の賢者二人。一人はより狭い範囲の中で深く鋭くインスピレーショナルで驚くべき考察をする、もう一人は広い範囲に渡って知識を持っている。どちらが勝っているか?
答えは後者。教えを請うどんな人にも地に足の着いた妥当で適切な言葉をかけられるため。

こうした「美」と「実質」の関係は、ユダヤの特性をよく表している。「実質」は必ず「美」の前に来る必要がある。「美」は必ず「実質」を伴わなければならない。

スピリッチュアル的には、こう説明される。

「美」カバナ: 瞑想、インスピレーショナルな衝撃、霊的でセンセーショナルな体験、エクスタシー、感覚、香り、雰囲気

「実質」マイサ: 善い行い、儀礼儀式、慣習、律、習慣

モーセに手渡されたとされる『トラ』。『トラ』以前は、「美」のみが存在していた。十戒や613の善行(Mitzvot)が記された『トラ』は、その「美」に「実質」である「乗り物」を与えたのだと。


ここで、先の七頭の牛について。

まず、ジョセフは『トラ』の中で唯一「美しい」と形容された男性(女性は何人かいる)。その「見かけのゴージャスさ、麗しさ」が何箇所かに記されている。同時に、ジョセフは「見かけ」以上に「実質」を持っていたされる。「見かけの美」はその実質の表れに過ぎないと。ジョセフは、「見かけの美」と「実質」の両者を持った象徴的存在。

ファラオがジョセフを前にした時、そのジョセフが「体現するもの」に触れ、言葉の順序を変えたという説明が、何千年にも渡る議論の中での「一つの解釈」(Yosef Rozinというラビによる)。



強烈な「美」を前にすると、ついくらくらうっとりとそこに留まってしまいがちなのですが、こつこつと形にし続けていきたいです。

パッと目を惹く「美」、次から次へと周りに溢れる「見かけの美」に惑わされ、「美」のみを追い求めるのでなく、「実質」に目を向けよう、「実質」をしっかりと磨いていこう、「美」は、それらの乗り物にのってにじみ出る、子供達とそんな話をしました。
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底辺の自分と共にいるということ

2013-11-24 10:09:14 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

底辺の自分と共にいるということ("Wisdom of Joseph" by YY Jacobsenを参考に):

兄達に奴隷に売られ、雇われていた女主人の企みにより、無実の罪のまま牢に何年も暮らすことになったジョセフ。ある日、夢の解釈ができる力を持つと聞きつけたファラオ(エジプトの王)に、王宮へと呼ばれる。ファラオは毎晩夢にうなされ、何人かの賢者が解釈するも、納得できないでいた。

「川から健康でよく肥えた七頭の牛が岸へ上がる。続いて病み痩せこけた七頭の牛が岸へ上がる。両者隣に並び、病んだ牛が健やかなる牛を食べる」

ジョセフは、肥えた七頭の牛は、七年間の豊かな収穫を、痩せた牛はその後に続く七年間の飢餓を示しているとする。そして、豊かな収穫の七年間に、少しずつ食物をため、次に続く飢餓の七年間に備えるべきだと提案する。

ファラオは、ジョセフにエジプト中を司る地位を与える。
 (『トラ』より)


ファラオはなぜ、ジョセフの解釈に驚き、これほどまでの待遇を与えたのか?

他の賢者も、ジョセフと同じ解釈をしようとした者がいたとされる。肥えた七頭の牛と、痩せた七頭の牛から、豊かな年と飢餓の年と解釈するのはそう難しいことではないと。

それでも賢者達は一箇所がどうしても理解できなかった。それは、「岸に健康な七頭と病んだ七頭が同時に並ぶ」という箇所。豊かな収穫の後、飢餓の年へと続くという解釈では、「同時に並ぶ」ということはありえない。そこで、「娘が七人生まれ、娘が七人死ぬ」とファラオに説明したとされる。当時のファラオは、女王以外にいくらでも相手がおり、子供の数もかなり多かったとされる。そこで七人が生まれ七人が死ぬと、同時に並ぶことが可能。

ジョセフは、この「岸に隣り合わせに並ぶ肥えた牛と痩せた牛」を、豊かなシーズンに、少しずつ取り分け蓄えることで、飢えに備えるという対策を表していると解釈した。そして王が感銘を受けたのは、ジョセフの解釈が、「起こること」だけでなく、「起こることへの解決」を含んでいたということ。


いい時と、うまくいかない時とが、隣り合わせであるというイメージ、それはまた重要な教えを含んでいると説明される。

いい時には、周り一つ一つの物事を丁寧に大切に扱うことを忘れ、ただ使い捨て、他の痛みに無関心となり、自分から人や物を必要とすることもない、世界が自分を必要としているとさえ思うもの。

人の繋がりや物や、うまくいかない時にも持ちこたえられる環境を整えているか。底を這いつくばっている時には、ふと見つけた小さな花にさえ、涙を流すもの。いい時に、そんな底辺の自分と共にある。

そうならば、例えうまくいかなくなったとしても、常に豊かさと共にある。

それが「起こる」ことへの、「解決」。


心に刻んでおきます。
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