靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、シンプルに絞ってゆったりする時を

2013-12-15 08:08:39 | 今週の整理
1.三女と次女が小学校からもらってきたニュースレターに、「この時期のストレスの減らし方」というのがあった。あれやこれやしようと思わず、絞込むと。外のライトアップは省いて、居間のツリーの飾りつけだけにしたり、来客の料理も手の込んだものより、簡単でヘルシーなものにしたり、クリスマスショッピングはセールだからとあれやこれや回らず、一軒で終わらせ後はゆったり過ごすといったように。何年かストレスフルなホリデイシーズンを過ごした後、するべきことリストを半分に削り、家族でゆったり過ごすことにしたと言っていた友人を思い出した。

 来週金曜日からは冬休み! シンプルに絞り込んで、皆でゆっくり楽しめる時を持ちたいです!


2.来週も行事が立て込みますが、忙しい時ほど、子供達にかける声のトーンに気をつけたり、スキンシップを心がけることで、よりスムーズに進む。ゆったりしている時は自然にできることでも、きちきちのスケジュールになってくると、ついついぴりぴりトゲトゲ角々してしまうもの。日に何度か思い出しリセット、生き生き笑顔が広がる!


3.次女のクラスメートのお母さん、二週間前に五人目出産。今週、コーラスの発表会で出産後初めて母子に対面。五人目が一番大変な出産だったわと、笑いながら元気そう。来週はこのコーラス部、市内何箇所かを歌って回ることになっているのですが、その「運転手募集!」という先生の声に、手を上げるお母さん。生後二週間児を連れ、子供達の送迎に何箇所も回ると!出 産後一週間で、校内のスケートリンクで靴紐を結んでやるボランティアに現れ、新生児をストローラーに乗せ滑っていたお母さんにも出会ったことがあったけれど、もうほんと、こちらの元気な人のパワーってすごいです、脱帽


4.長男が中学校からもらってきた心肺機能蘇生(CPR)用の人形。

日中一人で兄姉の真似をして蘇生する次男四歳。ふ~と一段落し、一言。

ママ~、これってBPAフリー?


5.問題に出会ったら、これは解決への一つのフォーマットを作り出す機会だととらえてみる。するとアイデア溢れ、あれやこれやと試す意欲も湧く。解決した時のやった!という気持ち、一連の流れを記しまとめ、それがひょっとして誰かの参考になるかもしれないという喜び。目の前の「問題」が、喜び体験のチャンスに変わる。


6.昨日、友人が次男を二時間ほど見てくれた。大好きなS君と遊べて大喜びな次男、バイバイ!と満面の笑顔で手を振って。私はカフェへ駆け込み一時間半程、あれやこれやのまとめに没頭。今週は夫出張で、朝から寝る直前まで、ほっと一息がなかなか取れない状態が続いた。そんな中の予期せぬプレゼント。一分一分かみ締めました。本当にありがと~!


7.ちょうど一年前の今日、コネチカットで起こった小学校襲撃事件が、お友達の間でも話題になったよう。長女十二歳が夕食時に言う。

 小さな子でね、あの事件みたいに、何の理由も無く殺されちゃう子達いるでしょ。なんでだろう、どうしてこの子達は生まれてきたんだろう、こんな短い間だけって思って。本当のことは、人には分からないのかもしれないけれど、でもこの子達がね、こうして普通に暮らしていられることが、どんなに貴いことかって教えてくれる。あの子達のイメージがね、何が大切か、何を見過ごしてはいけないのか、何を改善していくべきなのかって、突きつけてくれる。
 今でも世界を見回すなら、こうして何の理由も無く殺されちゃう人や子供ってたくさんいて、それはこうして暖かい部屋にいて美味しいものを食べてると、まるで夢物語のように感じるのだけれど、本当のことなんだよね・・・。

少し涙をためて言う長女、こうして色々なことを思い感じながら育っているんだなあと感慨深かったです。



今日は、朝長男と長女をNPO活動に送り(雪の墓地に花輪をかけにいくそう)、下三人とスケートに行き、上二人を迎えに行った足で長女のドレスを買いに(明日のピアノ発表会と来月の友人君バル・ミツバのため)、そのまま長男をロボティックス(昨夜は夜中2時頃まで作っていた!)に。明日は友人家族とクッキーを作り、夕方から三女と長女のピアノ発表会。

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!




日常風景:

動物園! 五人プラス長男の友人君と。


感謝祭にはあなたを食べたのね。


狼と見合い、


雪豹と見合い、


ダルシープをなで、


グリズリー、あれ、冬眠は?


下の子の世話をしてくれる長男の友人君。(笑)


楽しかったね。



皆で蘇生な夜。


S君と次男。

きゃっきゃと紙飛行機飛ばし合い。


次男、「インストラクションに沿った作品」:

火星に向かうスペースシップ。


ツリーハウス。


モンスターカー。



昨日のファミリーディナー:

レモネード作りな長男に、


パン作りな四人!

ティーンな長男、その子の内のせめぎ合いに委ねて

2013-12-15 08:07:59 | 子育てノート
夫出張の今週、山積みの家事と次男の相手と共に、いつもは手分けしている長男早朝のジムや中学小学校そして放課後の習い事の送迎、おまけにホリデイ前ということで学校で親を招いた行事があったりと、なかなかチャレンジグな日々でした。

そこへ木曜日、次女の放課後のアートクラブと三女と長女のピアノレッスンが重なってしまい。三女と長女をピアノに降ろし、往復四十分程の小学校へ次女を迎えに行き、再びピアノの先生宅に戻って、とできなくもないのですが、週末のピアノ発表会前の最後のレッスン、直すべきところなど私も傍で見ていた方がどうもよさそう。
ということで、次女にアートクラブを休ませることに。ところがこのアートクラブ、年に二度のそれぞれ二日セッションのみ。先週作ったものをこの日完成させ、持ち帰ることになっているの!そう指折り数え楽しみにしていた次女、さめざめと泣き続ける。

長男と相談。いつもはピアノについていく長男、家にいて、往復四十分ほど、歩いて次女を迎えに行き連れ帰ってくれないかと。

最初あまり考えずに「OK」と言っていた長男、前夜になり、「ピアノの先生宅の静かな部屋で宿題をしたい。雪降るマイナス十度の真っ暗な中、歩き続けるのは嫌だな」と。
他の保護者に三十分ほど見て貰う(知り合いは誰も参加していない)、学校で一人で待つ(その時間校舎に生徒一人は許されない)など、他に何か方法がないかと長男と共に考えるも、解決策は見つからず。「○○(次女)が休めばいいんだよ」という長男の言葉に、次女また泣き始める。

「これくらいの道のり何でもないじゃない、いい運動よ」「手伝ってくれたら本当に助かる」「パパのいないこういう時こそ助け合おうよ」

そう言葉をかけるほど、長男も不機嫌になり。最後は私も怒り始め、

「もういい! ママが何とかするから」と言い放つ。

お互い気まづいまま就寝。



ベッドに寝転びながら、

まずは、「こうあって欲しいという彼の姿」と「現実の彼の姿」のギャップに、「がっかり」している自分にこれは「過程」なのだと声をかける。

次に、彼の側に立って、彼の内面に何が起こっているのか整理してみる。

1.暖かい屋内で心地よく過ごしたい (自分のため)

2.親も妹も困っているのだから手伝いたい (他者のため)

3.親に左右されない自我を確立したい。 (親離れ反抗期)

大人に成りかけ反抗期子供の十四歳、彼の中では、どうもこの「3」が大きいように感じる。「1」を感じ始めて、「3」がますます増大といったところか。

突き放すことで、「1」や「3」を叶えさせるより、強制的にでも行かせて「2」を体験させた方が、結局は彼のためになるんじゃないかなあとも思ったり。

あれやこれや思いながら、眠りに落ちる。


翌朝、ジムは六時前と早いので、いつも起こされないと起きないのに、自分で起き準備を黙々とする長男。こんなこと初めて! どうも彼もゆっくりと寝られなかったようで、気まずい表情をひきずったまま。

ジムへ向かう車の中で言う。

「僕は行きたくない。でももし行かなければならないなら行くよ」

「助かる。ありがとう」と言うと、頷いて、窓の外を向いた。



その日午後中学へ迎えに行き、アートクラブは何時に終わり、校舎のどこで落ち合いと具体的な予定を立てる。「で、僕はこれでいくらもらえるんだっけ」と冗談言って笑う長男。すっきりしたいつもの表情。

家に長男を降ろし、三女を迎えに行ってピアノへ。長男はその間に次女を連れ帰って暖かい家の中にいるだろうとピアノから戻ると、家の周りをうろうろしている長男が。何でも、鍵を持っていくのを忘れ、三十分程外で待っていたと! 次女は凍りついたドライブウェイに留めてある車の中に! 家に入り、真っ赤な頬に冷え切った手を合わせ、けたけたと笑い転げる長男と次女・・・。

つられて笑いながら、ああよかったと思う。それでも、行ってよかったと一番感じているのは、他の誰でもない長男自身なんじゃないかな、彼の笑顔を見ながら、そう思った。




整理:

・思春期の子に、同じことを言い続けても、反発するだけ。伝えることを伝えたら、少し離れ、その子自身でその子の内面のせめぎ合いを体験させてみる。今回はそう意図したということではなく、私自身もたなくなって突き放したのですが、結果的にそれがよかったです。(笑) 時には「1、自分のため」を選んだり、「3、親離れ反抗期」に囚われ続けることもあるかもしれない。それでも、それも「過程」として、こちらが大切に思うことをさりげなく伝えながら、見守る。


・「なければならない」といった「義務」のような部分を強調する長男、それでも、その奥に「2、他者のためにしたい」がある。そしてこれから自分が本当に辛いときに助けられたりといった体験を何度も重ねる内に、心の底からの「2、他者のため」が開いていくだろう。まずはハード面(義務)を整えておくと、ソフト面も開き易いということもあるだろう。


・思春期は、「3、親離れ反抗期」が絡んでより複雑だけれど、「1、自分の心地よさのため」と「2、周りのため」のせめぎ合いは、大人になっても常にあるもの。このせめぎ合いには、自分の内に「1」があるのだと認め自覚しつつ、ここぞというときには、「1」を赤子のようになだめあやしながら、とにかく「2」の「行為を刻む」ということなのだろう。



伝え、下がり、こちらも頭を冷やし、後はその子自身のせめぎ合いに委ねてみる。

押して、引いて、ティーンとのダンス!




真っ暗闇のこんな車の中で、三十分ほど待機。(笑)


アートクラブから長男と戻り外で凍えて一時間後、宿題して夕食さっとすませ、次女コーラスの発表会へ。


じんぐるべ~る、クリスマスキャロル!


じゃ~ん、と終わり。


アートクラブも、コーラスも無事参加できて、良かったね。

「神」を見ないことを選んだモーセ

2013-12-15 08:06:29 | ファミリーディナートピック
真のリーダーの条件とは? (”When Moses Was Afraid to Gaze Upon G-d” by YY Jacobsonより): 

モーセがリーダーとして選ばれたのには、四つの出来事があったためと言われる。

1.奴隷だったユダヤの老人が、鞭で打ちのめされ死にそうになっているところ、その鞭をふりかざす兵を突き飛ばした。

2.その翌日、ユダヤ人同士が争っているところ、仲裁に入った。

3.エジプトを出、砂漠をさまよっている時、井戸のそばで遊牧民の娘がいじめられているのを救った。

4、しげみの炎に「神」が現れた瞬間、顔を覆った。

1から3は、ユダヤの内と外に関わらず、「不正」を前にすると、いてもたってもいられず行動を起こすモーセの人物像が伺え、リーダーとして相応しいのが理解できる。



ではなぜ4か? まずはこの時の状況:

モーセが羊の世話をしていると、一匹の子羊が群れからいなくなったことに気が付く。辺りを探し回り、ようやく見つけたと子羊を抱いたところ、しげみの中に炎を見つける。「なぜあれほど激しく燃え盛っているのに、しげみを焼き尽くしてしまわないのだろう?」そう訝しく思い、近寄る。
 すると、炎の中にイメージが浮かび上がる。人類が生まれて以来、未来まで、争いが絶えない様子が映し出される。罪なき人々が無残に命を奪われ、善き人々が虫けらのように殺され、古代から未来までの繰り返しの、残忍な悲劇と血みどろの歴史。
 モーセは嘆く、なぜ善き人々がこれほどまでに苦しまなくてはならないのか。この世界のどこに公平さがあるというのだ? この世はどうしてこれほどまでに理不尽なのか?「神」よ、あなたはどこにいるのですか。あなたは完璧であるはずなのに、なぜこれほどまでの悪を創りだしたのですか。なぜこれほどまでの悪を許すのですか?
そこへ、炎の中から声が響く。「私があなたの神だ」
 モーセは顔を覆った。
     『トラ』より

モーセが顔を覆った理由には、あまりにもまぶしかったから、畏れから、など様々な解釈があるが、ここでは、ある一つの解釈について。

この時「神」は、この世の理不尽さの背景にある、「神からの視点」をモーセに見せようとした。

人は壮大なタペストリーを織り成す一つの糸のようなもの、周りの黄や青や赤の糸の連なりを見ることはできても、壮大な紋様の全体図を見ることはできない。
それでもモーセは、その「神」からの眺めを、壮大な全体図を見ることを、顔を覆うことで、拒否した。

なぜなら、彼の内にもし一パーセントでも、全ての理不尽を納得してしまえる「神からの視点」があるのならば、彼は周りの人々と共に悲しみ、苦しみ、共感し、嘆き、戦い、なぜだ!と拳を振り上げることができなくなってしまうから。

天国への階段を差し出した「神」に対し、モーセはこの地球に留まることを選んだと。

こうしてモーセは、「真のリーダー」となった。


¥ユダヤでは、「神」にはいくつもの名前があるとされる。神は一つでありながらいくつもの面をもっていて、その一つ一つの面に名前がある。一説には七十二の名前があるとも。

モーセが炎の中に見たのは、その中の一つ「Elokim」、審判を司る神。

そして『トラ』にはこんな記述がある: 

モーセは審判の神Elokimを見ることを恐れたため、慈悲の神Havayaを見るというメリットを与えられた。


嘆き悲しむ人々を前に、ああそれはね、あなたにこういった罪があったから、その罰なのですよ。これであなたの罪もぬぐわれますよ。よかったですね。「神」は完璧なのですから、全てに意味があるのです。全ては「神」のご計画通りなのです。

この地球に生きている人々のミッションとは、そんな「分かった気」になってしまうことではない。「分からない」という前提に立ち、共に悲しみ、嘆き、なぜだ!と問い、少しでもよくしていくためにと行動を起こしていくこと。そうして一人一人が、慈悲に溢れた存在となること。

(私自身、「神」と言及されることのある「存在」を感覚として信じているのですが、時に「無神論者」や「不可知論者」に感じる「正しさ」も、上の下線太字部分にあるのだと思います。
 また未だかつて「そのもの全てが表された言葉」はない、限りなく近い表現はあるけれど、そもそも言葉で表された時点で「ずれて」しまうと感じていて。そうした既成の「神」にすっぽりとあてはまらないからこそ、敢えて「無神」や「不可知」と唱えている人々もいるのでしょう。
 といって「神」という言葉で表し讃え集う場、「その存在」に限りなく近い言葉を伝える人々も必要であり。「全て」ではなくとも確かに「神」に触れられる場や言葉。このラビであるJacobson氏の記事は、そうした場を作り役割を担う人々が、そんな「神の信仰」の諸刃の刃的な面を自覚し、進んでいこうということなのだと思っています。あの最も「神」を信じ、「神」と近く歩んだともされるモーセが、顔を覆い「分かってしまうこと」を拒否したように。)



子供達も、「分からない全体図」について、感じることがあるようで色々話していました:

・「タペストリーの全体図」は、一人でも糸が欠けたら成り立たないんだよね

・この世に来る前に、自分でどんな人生がいいかを選んでいる。大変な人生を選ぶ人もいるし、短いものを選ぶ人もいる。人生を終えたら戻り、しばらくしたら、また新しい人生を選ぶ。

・卒業というものもあって、自分のミッションを完全に果たしたのなら、もう生まれ変わらなくてもいい。

信じているというより、こういう話も聞くことある、本当のところはどうかは分からないけれど、何となくそうかなとも思うという調子で話していました。こんなこと思っているんだと少し驚きました。


様々なストーリを想いつつも、ジャッジするのではなく、人の気持ちに寄り添い、共により良くなるようにと動いていけるといいね、そんな話をしました。

すっとできる子できない子

2013-12-15 08:05:51 | 子育てノート
屋内プレイ施設でお友達と次男を遊ばせながら、友人が絵を描いてくれた。

次女と私。


友人は、子供時代からこうしたイラスト画をスラスラと描けたらしい。周りの子達って、なんで描けないだろうと不思議だったと。

いました! クラスに絵のうまい子。

そして身近なところで、実兄もそうでした。小学生の時から結構本格的な漫画を描いていた。

私自身は描けない方。写生大会などで兄と共に入賞したことはちょこちょこあったけれど、こうしたイラスト画は全然。兄の傍で、さっさと引かれる線から浮かび上がってくる人や動物や物を見ながら、どうしてこんなことができるのだろうと不思議でしょうがなかった。

絵が描ける人を見ていると、周りの人や物を見ながら、描いてみようと色々試し、どうしたらもっと良くなるだろうかとあれやこれや工夫している。同じ人や物を見ても、私はそもそも「描いてみよう」という発想が生まれない。前者と後者とでは、「描く」ということにかける現実的物理的エネルギーから時間から大きな隔たりができる。

「もっと良くするためにあれやこれや工夫する」ことは、「努力」と呼ばれるものだけれど、絵が描ける本人達を見ていると、「努力している」なんていう感覚はなく、ただもう好きでどうしてものめり込んでしまうといった様子。

これが、「努力のこつ」なのだろうなと思う。「自分は努力している!」といった「固さや凝り」が溶け没頭した状態。この状態を継続することで、徐々に形が現れてくる。



絵はまだ描けなくても困ることはないのだけれど、子供達が一日の大半を過ごす学校で重視される「勉強」が「できないこと」であると、子供達にとってきついだろう。絵を描くことに興味がないのに、あれやこれや示されうまく描きなさいと言われ、その上「努力が足りないからよ!」と言われても辛い。「努力しなきゃ、努力するべき」と「固さや凝り」だらけになってしまう。

皆が皆、初めから絵を描くことができるわけでもない。鼻はこうして描くといい、目を描くにはこうしたらいい、そう一から手取り足取り習うことで、伸びていく子もいる。また、それまでには聞いたこともなかった方法に触れることで、楽しさを知る子もいる。

小学生の時、母親とその友人達が、地元の芸大の学生達に先生になってもらい、私の通っていた学童保育や近所の子を集めて「アート教室」を開いていたことがある。消しては描いてと、恐る恐る線を引く私に、「上から描けばいいだよ」と教えてくれた顎鬚の学生さん。様々な線が交わる中に浮かび上がる「描きたかったもの」を前に、こんな方法があるのか!と呆然としたのを覚えている。炭の線をパンでぼかしたり、石や小枝やプラスティックの容器や、身の回りの見慣れたものが、アートに変身する様が楽しかった。

「できなくて苦労する」子には、既成の方法では楽しさが見出せない場合もある。そんな時、楽しさを引き出すような機会に触れる場がもっとあればと思う。そして家庭も、そんな場であることができたら。学校に上がる前の家庭での準備とは、その子が自ずとはまりこんでしまえるよう、この「学ぶ楽しさ」を体験させ習慣にしてしまうことだとつくづく思う。



すっとできる子

工夫し続けることで、もっとよくなるという楽しさを教える

周りと比べて傲慢になったり胡坐をかいてしまわないよう、昨日の自分自身と比べるようにする。

感覚的にできることを、様々な角度から論理的意識的にもできるようトレーニング


できなくて苦労する子

「努力が足りない!」と言われても、途方にくれるだけ

その子に合ったペースとレベルで、忍耐強く教える

周りと比べ焦らず、その子自身の「できた!」を大切にする

違う方法に触れさす



我が家も五人様々。同じ子でも向かう対象によって、できたりできなかったり。その子のその時に合った対応をしていきたいです。

イラストは相変わらずさっぱりですが、今でも時々絵を描いたりと、私もアート、楽しんでます!