靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、サンタファンタジーが心に刻むもの

2013-12-29 07:30:03 | 今週の整理
1.いよいよ今年も終わりですねえ。一年を振り返り、来年の抱負を思い。大きな怪我もなく病気もなく年末を迎えられることに感謝です。そしてブログを訪ねて下さる皆様、こうして思いや体験をシェアさせていただけること、本当にありがとうございます。これからも少しずつ書き続け、積み重ねていきます! 



.マイナス二十度近くになる日が続いているのですが、毎日一度は外に出たりと身体を動かすようにしてます。一日の予定がずれこみ、夜そりに出かけるなんて日もありましたが(これがなかなか楽しかった)。おかげさまでよく寝られます、というか、いつもより一時間は多く寝ないと持ちません。(笑) もう潔く、「早朝の一人の静かな時間」諦め、走り回ってます! 冬休み、期間限定ですものね。

 

.若かりし頃履いていたズボンをクローゼットの奥に見つけ。「これいいじゃな~い?」と子供達の前へ。すると、大ブーンイング。すごすごと着替えに戻り。しばらくして台所に一人でいると、次男四歳が寄ってきて耳元でささやく、「ママ、僕あのズボン、大好きだよ」、私の足をそっとなでながら。もう孫気分炸裂です。(笑)
 


.家では今までクリスマスにプレゼントを渡すものの、サンタクロースがプレゼントを持ってくるというファンタジーをすることなくきているのですが、周りのお友達の話から、サンタクロースを信じている三女と次男。

 そこで去年ぐらいから上三人主導で、あれやこれや工夫することに。プレゼントを包み、風呂場に隠し、明け方ツリーの下へ。朝目が覚め、プレゼントを見つけ大はしゃぎの三女と次男。「台所を歩き回る音が聞こえたの! 冷蔵庫を開けてた!(冷蔵庫を見に走る) あ~~!サンタさんヨーグルト食べたあ~!」

 ツリーもこちらの家では見かけることのないほど小さなもので(50センチほど)、遊びに来た子供達のお友達が「えっ、これ?」と絶句したり。そんなこんなんで「クリスマスするの?」と訝しがられることも。そんな様子ではありますが、プレゼント交換し、プレゼントで遊び、ゲームして、散歩に出かけ、我が家なりにゆったりといいクリスマスでした



.サンタクロースのファンタジーを子供達が信じる助けをするということについて、ああそういうことかと納得した考え方があります。サンタさんがトナカイに引かれそりに乗って空を駆け巡り、皆が寝静まる真夜中に煙突や窓から訪ねて来て、プレゼントを置いていってくれる、そうこの日を指折り数え、心待ちにする子供達。このわくわくと楽しい気持ち、日常を超えたところで誰かが見守ってくれ願いを聞き入れてくれるという感覚、受け取る喜び、サンタさんありがとうという気持ち、それらの体験は、例え大きくなりサンタが実は親だったと分かったとしても、生き生きとした喜び溢れる思い出として心に深く残る。この「感覚の体験」こそが、かけがえのないものだという考え方

 上の三人は、より「ハヌカ」に力を入れていたこともあり、また違った体験を積み重ねてきたわけですが、三女と次男には、来年からもサンタ・ファンタジーを続けていこうかな、そう思っています。



5.今日はこれから食料を買出しに行き、「詩と俳句の会」の忘年会が友人宅で。闇鍋! 子供達がとても楽しみにしていて。色々案を出すのですが、「食べ物」という最低ラインはクリアーしようね、と頷き合い。(笑) さてさて、楽しみです! 御節作りの日も間近!


日本ではあと二日!こちらはあと三日! 

年末年始、はじけた時をお過ごし下さい!

Have a wonderful week!




夜もそりです。


ひゃっほ~!


よいしょよいしょ。



トラだったり、


ツリーだったりのクラフトも。

BY 次女

巻き寿司や、


タコスも作って。


クリスマスブレッド!



三女大好物ざくろの芽が出ないかと育ててみたり、


友達家族とピザ食べたり、



朝から長男と次男ごそごそ。


こうして、


こうして、


とミニカーのトラック作り。




クリスマスイブは、大はしゃぎで五人並んでおやすみなさい!

成長は横ばいだったり下がったり

2013-12-29 07:28:32 | 子育てノート
冬休み子供達と一日中密に過ごしているのですが、日々接する上で、覚えておきたい大切なことを一つ整理。

子供達を見ていると、すっと初めからできないということが多くあります。

それは何も難しいことだけでなく、シンプルな例をそのままあてはめて問題を解いてみるとか、シンプルなインストラクションを理解して何かをするとか、シンプルな楽譜そのままにピアノを弾いてみるなどもです。

えっ?なんでこんなことができないの? とぎょっとして周りを見回すと、多くの子はさらりとできてしまっていたり。

それでも、ああこの子には無理なんだなと諦めた頃、突然できていたりすることがあります。

四人見てくださった小学校の先生も、同じようなことを言っていました。

「ああこの子には難しすぎるのかな、何度言ってもどうしても分からないのかな。そう思ったら次の日突然全部できていたりするのよね」


つくづく思うのは、子供が何かをできるようになるプロセスというのは、大人が思うほど単純じゃないということ。

線にするとこんなイメージ:

一直線に上へ向かって伸びていくわけじゃない。変化がないように見えたり時に下がったりもして、ちょっとずつ伸びていく。そしてこの横ばいになったり、下降したりの時期というのは、より深く潜りより根本から「分かろう」としている時期だったりもするんだな、子供たちの変化を何度も目の当たりにする内に、徐々にそう思うようになりました。

それでも1や2や3の時点で、多くの場合、「ああもうこの子はだめだ」と諦めてしまう。

この成長の波が、決められた時期にある試験や発表に間に合わないことも確かにあるかもしれない。そんな時は、「あなたはこんな程度ですよ」といった「結果」を手にすることになり。そんな結果の連続に、ああ自分はこの程度なんだなと思い込んでしまい。

それでも「結果」は成長の「過程」なのだと、歩き続けていくこと。親は子供達がもらってくるレッテルを剥がし続け、まだまだ先があるのよと励ましその子の持てる最大限の地点にたどり着けるようサポートしていくためにいる。

長い目で、見守っていきたいです。

自分のしたい!と周りのしたい!

2013-12-29 07:28:30 | 子育てノート
冬休みの大まかな予定を学校最終日の夜話し合い。そり、スキー、スケートなどとにかく一度は出かけることにしよう、出かける前に済ませておくこと、夜することは何かを確認、そして忘年会や御節作りなどのイベントと共に、カレンダーに書き込む。

毎晩、その大まかな計画をより煮詰める話し合い。明日の朝ごはんはパンケーキ、オムレツ、フレンチトースト、クレープ、ポリッジ、シリアルが食べたい! どこに何をしに何時に出かけたい!

五人、これが見事にばらばらで。食事などは出されたものは文句言わずに食べると確認し合ってあるので、話し合わずに「では食べましょう」と出してしまうこともよくあります。

問題は、どこに何をしに出かけるか。

ちょっとだけ出かけることにして、家でゆっくり過ごしたい。ちょっと気合の入ったアドベンチャーをしたい。あの坂はそりには急すぎる、こっちの坂は緩すぎる、あの湖は込んでいる、この湖はスケートには小さすぎる。あのトレールは長すぎ、このトレールは短すぎ。

年齢も違い、満足する運動量も違う五人、なかなか「ここにこれ!」と皆が同意するのは難しい。

それでも「話し合い」のいいところは、子供一人一人が主体的になれること。今日はこうします、と親が決めた予定を差し出されるよりも、自分が決めたことだと、準備も意欲的で、楽しみ方も違う。また何かうまくいかないことが起こっても、部外者の心持で人のせいにせず、今度はどうしたらいいだろう?と考えていける。

話し合いの基本として同意しているのが:

1.自分の意向を整理して表す

2.相手を理解しようとする

3.自分と相手が共に納得する着地点を見出そうとする



例えば、

まずは意向を出し合います。

A:スケートに行こう! 

B:私はクロスカントリースキーがいい!

C:家の近くの湖に散歩に行って、後は家でゆっくりしようよ。

D:そりがしたい!


次に互いにどうしてそうしたいのか、より整理して表すようにします。

A:昨日行きたかったけれど、雪が降ったばかりで湖の雪かきが追いついていなかったじゃない? 明日はもうきれいになっているはず。

B:先週行って、靴がきつくてうまく滑れなかったもの。

C:本ゆっくり読みたい。

D:この前行った時、とっても楽しかったから!


そしてなるべく相手の立場気持ちにたって、相手の意向を理解しようとしてみます。その上で、皆が納得できる着地点はないかと模索。

結局、この日は、

きつい靴を店に取替えに行ってから湖に行く、
スケートは長くてせいぜい三時間程の外出、帰ってきてから寝るまでだって五時間以上はあるから、それから本をゆっくり読む、
そりへ行ったのは三日前、スケートは五日前だから、そりはまた明日以降に。

と決定。皆それなりにそれぞれの意向が満たされ、満足のようでした。



自分のしたい!と周りのしたい!

自分の主張だけを通そうとするだけでなく、自分を抑えて周りに合わすだけでもなく、

共に納得できる着地点を見出そうとすること。



毎日が練習の機会です。

ランタンと雪の夜道

2013-12-29 07:27:35 | 風景・散歩・旅
ネイチャーセンター近くのトレールにて、ランタン持って夜道を行こうというイベント。

入口で松明のパフォーマンス。


うわあ!


こんなランタン持ってね、出発!


道の端に、

こんな、


キャンドルが、


並び、


それはそれは幻想的で。


折り返し地点では、焚き火の炎勢いよく、

火の精なる装いをした人が。

こんなテントに、


持ち寄られたスナックも!


雪道に、

光と闇を楽しみました。


氷の輝き!

俳句、恒星の死して輝く雪夜かな

2013-12-29 07:27:17 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
「雪百句」年内に百句を!ということで句を出し合ってきたのですが、九十九句まできて、最後の一句、遠慮の塊状態になってます。(笑) リフレッシュな俳句週間をありがとうございました!

私の拙い俳句に感想のコメントを下さるヨーキさんの短歌のお師匠さん、八十八歳だそう! そのお師匠さん、ますます今年に入ってからも磨きがかかり、いくつかの歌が入選を果たされているそう。

八十八、それぐらいになって、やっと肩の力が抜けたいい句が作れるようになるのかもしれないなあ、そんなことを思ったり。八十八といえば、まだ折り返し地点にも届いていない! まだまだこれからこれから、何だか楽しくなってきますね。


「雪百句」参加句  byマチカ:

真っ青な地球の話外は雪
         
立居地を思ひはかりし雪煙

雪面を走って綴る頭文字





太陽が月を孕みて雪の空 

まっさらな雪踏みしめて森の中        

来し方を白く塗り替え雪の朝       

恒星の死して輝く雪夜かな       
    


言葉と情熱の責任について

2013-12-29 07:27:06 | ファミリーディナートピック
言葉と情熱の責任について("God's arrow"by YY Jacobsonを参考に):

タルムードにある賢人達のディベート。

火を燈し、その火が広がり、隣の敷地まで及び被害を出してしまう。

この時の火は「矢」のようなものか? それとも「所有物(property)」のようなものか?

1.矢のようなものであり、放った者、燈した者に全責任がある。

2.所有物のようなものであり、所有者としての責任がある。


例えば広がる火によって死者が出た場合、矢を放って直接殺したと捉えられるか、所有する飼い犬が殺したと捉えられるかでは、罪は罪でもその重さは違ってくる。

どちらが正しいかについて、何千年もの間議論されている。


ここでは、それぞれの立場から学べることを:

.矢も火も、放ち、燈した瞬間に、その行為を行った者に全責任がある。例え燃え盛る火に自ら命を落とし、隣の敷地の人々に被害が及んだ時点で生きていないとしても、罪は、火を燈した瞬間にある。

「矢」と「火」は、「言葉」と「情熱」にも喩えられる。一旦言葉を放つならば、どんなに本人の意図と異なり広がろうが、その言葉を放った者に全責任がある。情熱も同じ。何かに燃える情熱を持ち、それがあらぬ方向へと燃え上がることになろうとも、情熱に火をつけた時点で、その全責任を負う。

言葉と情熱、放ち燈す時点で、その責任を自覚していること。


.矢(言葉)も火(情熱)も、飼い主の意図に反して凶暴化してしまう飼い犬になり得る。それでも言葉も情熱も源では「神」によって創られる。神が所有者で人はその所有物を使う者「仮の所有者」でもある。そして「神」と人との違いは、一旦放たれ燈された矢も火も「神」ならば、取り戻しコントロールできるということ。誤った言葉溢れ、誤った方向へと燃え上がる情熱、それら人のコントロールを超えたものを、人としてのできる限りの最善を尽くしガードし、後は委ねるという気持ちを持ってみる。自らの全責任を自覚し行動を起こしつつ、あとは天命にまかせるという姿勢。

1と2、どちらが正しいというよりも、どちらもまた違った側面の「真」を表し、それぞれに学ぶべき知恵が含まれている。


言葉も情熱も、用いる方向によって、とてつもなくポジティブなものを創りあげることができる。情熱なくしては、何も成し遂げることはできない。方向を見定め人事を尽くしたところで、委ねるという気持ち、覚えておこうねと話し合った夜でした。

「喜びに蹴つまずく」

2013-12-29 07:26:54 | 引用
Hafizの詩、その出会いから、少し特別な思い入れがあるということもあるのでしょうが、今でも時々手に取り、何度も読み返しては、心の奥底からuplift。(「ある体験、ある詩集との出会い」)

年を経るごとに、彼の一つ一つの詩が、より深く響くようになってきました。

彼の詩は、ホントもう能天気と思えるほど、喜びと希望と明るさに満ちている。彼の「いたところ」は、きっと本当にそうだったのでしょうね。


Tripping over Joy


What is the difference

Between your experience of Existence

And that of saint?


The saint knows

That the spiritual path

Is a sublime chess game with God

And that the Beloved

Has just made such a Fantastic Move


That the saint is now continually

Tripping over Joy

And bursting out in Laughter

And saying, "I Surrender!"


Whereas, my dear,

I am afraid you still think


You have a thousand serious moves.




日本語にしてみます:

喜びにけつまずく


「その存在」の体験について、

あなたと聖人との違いは何だろう?


聖人は、霊的な道というのは

崇高な神とのチェスのゲームのようなものだと知っている


そしてその愛しい存在である神は、今ちょうど素晴らしい手を打った


聖人は、喜びに果てしなくけつまづき続けている

そして笑い転げて言う、「降参です!」


ところが、親愛なるあなたがた、

言うのもはばかれるのですが


あなたはまだ何千もの深刻な「うつ手」があると思っているのです。



真剣真摯精一杯でありながら、深刻に陥らない、そう自分に周りに声をかけつつ。

子育てノート、風刺について

2013-12-29 07:26:41 | 子育てノート
ティーンやプレティーンのジョーク、風刺を含んだ少しひねったものが増えてきた。


風刺というのは、普段当たり前に感じている風景を違う角度から捉え、その滑稽さを明らかにしようとする試みと言えるだろう。


私自身、風刺を連ね、ニヒルに毒づいているだけの時期が長いことあった。風刺が実際に行為を起こす力を弱める「ガス抜き」となり、ここぞと言う時に真摯に突破する行為をそぎ落としていた。

ニヒルの奥には、とてつもなく弱く傷つきやすく震える心がある。


風刺が「気づく入口」であること、そこから長い道のりを真摯に歩く、笑いに力をもらいつつ。


あと、弱者への風刺も何らポジティブな力を生み出さない。


親の風刺、体制の風刺、世間一般の風刺、より力を持って見えるものの滑稽さを浮かび上がらせる風刺。それらで緩め、元気を取り戻しつつも、実際に行為を起こす!

そんな話を子供達と。