靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、心の奥で支えとなる場

2013-12-01 10:55:05 | 今週の整理
1.師も走る忙しさ! といっても結構のんびりしてますね、こちら。感謝祭終わり、ハヌカを祝いつつ、クリスマスまでニューイヤーまであと何日!と指折り数える子供達。コンピューターのスクリーンに2014年までのカウントダウン表示が貼り付けられ(次女に頼まれ長男が)。何だかつい最近御節を食べたような気持ちなのですが、細部を振り返ってみると、今年も本当にたくさんのことがありました。こうして皆無事今年最後の月を迎えられ、こうしてブログを書いていられること、感謝



2.休みが続き、夜も川の字になって合宿気分。電気を消し、お休み~とハグを交わした後、横になって三姉妹。

次女9歳:肛門を閉めて緩めるとね、リラックスして眠れるよ。
長女12歳:う~ん、そう? 私は何だか怒りたい気持ちになるなあ。
三女6歳:わたしはね、何だか悲しい気持ちになる。


3.「合宿」といえば、友人家族が訪ねて来、夕食を共にしていた時のこと。「ああ賑やかだなあ、子供時代、従兄弟の家に遊びにいって夜もこうしてはしゃいで遊んだの思い出すなあ」と友人。確かに、家ではまさにそんな「子供時代訪ねた親戚の家状態」が、「毎日」とも言えるかもしれない。(笑) 毎年従兄弟や友人家族と集まったあの夏の海の家を、思い出しつつ。皆真っ黒になった夏、ああ懐かし~い。


4.つくづく思うのですが、7人家族というのは、ホント食べます。2キロ強のみかんは一晩で、1ダースの卵はランチのスクランブルエッグに、900gのヨーグルト容器もあっという間に空、一食でラーメン七袋、ピザラージが二つなくなる、梨剥いたら大きいの6個一気に!

二週間に一度、ホールセールの店で食料調達状況。

一つのカートに乗りません。

私達家族にとって食料調達は、「エキソサイズ」という位置づけです。カートを押し、レジに降ろし、再び乗せ、車まで運び、車に積み、ガレージから運び、収納。(笑)


5.子ども達のいない内に、食料調達を終わらせることもできるのですが、一緒に行く時を持つようにしています。一つには、これだけを運ぶための労働力確保の問題(笑)、もう一つには「過程」に関わらせたいということ。食卓にぽんと食事が並べられるよりも、食卓に上るまでの過程を体験できるように。農場や工場まで行ってというわけにはなかなかいきませんが、せめて店まで行き、選び、家まで運び、収納し、できる時は調理やテーブルセットに関わり。いつもとはいきませんが、なるべく。目の前に食べ物が降って湧いてきた!とならないように。


6.思春期になると、家族で過ごす時よりも、外の世界や友人との時間が魅力的に見えてくる。休日を前に、「今年は誰も呼ばないのお?!」「友達の家へスリープオーバーに行きたい」と言っていた上の子達。共に過ごす内に、日々の学校生活での気張りも緩み、尖った角も取れ、胸の内を話し、笑い、楽しんでいる姿がある。

家族の時間や家族の価値観、そういったものが凡庸で色あせたつまらないものに見える時期がある。外の世界はもっと刺激的で新鮮な色や強烈な匂いを放っている。それでもいつか、そんな一時「つまらなくみえたもの」が、その子の心の奥で、支えになることがある。それは、足下に咲き続けていた花に、ある日はっと気がつくといった様子にも、似ているのかもしれない。

離れ、それでもいつか戻ることができる、そんなその子の支えとなるような、空間時間を築いていけたら。楽しい休日でした!



今日は、NPOもロボテッィクスもお休みなので、長女も長男も友人家へ。次女は友人家族とネイチャーセンターへ。下二人を連れ散歩&図書館。クラフトの整理も続けて。明日は家族揃ってランチへ出かける予定。夕方夕焼けを見にいこうねと。

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

友人娘ちゃんの誕生日会!


ジンジャーブレッドマンの飾りつけ。


友人手作りカップケーキ!

ドレスも手作り。かわい~、きれ~、連発。


家にいるとクラフト三昧。

先生への感謝の手紙。by 次女


31の感謝の言葉。by 次女

友達に、チャレンジしてくれる先生に、学校に、犬に、家族に、空に、雪に感謝といった言葉。

豆やパスタや唐辛子でターキー。ハヌカのメノラーも。by 次女


長女が少し手伝いつつ、次女と


三女が最近はまっているのが、


輪ゴムアート。


感謝祭にはみんな分作ってくれました。


皆へ感謝のカードも。by 次女


クラフトセクション整理しながら(整理途中のこの散らかりよう!)、上の子達に作り方を聞き、


こんな編綱作ったりも。


絵の具でお絵かきしたり、


眺めてみたり。


昨夜は、ファミリーディナーのパン作り。


作っては作る、の毎日です!

中心の様相、子育ての目的、書くということ

2013-12-01 10:54:07 | 思うに
私自身の中心にある様相を、整理してみました。


私は「ある感覚」と共にあることで、今この瞬間にもこうして生きていられます。

この「ある感覚」なしでは、私は「闇」に瞬く間に呑まれるという「実感」と共に暮らしているのです。

これは私にとってあまりにも現実的な感覚であるため、「信仰」という言葉でもあまりしっくりときません。それは、「目の前のコップ」と同じくらい、具体的に触れることのできるものなのです。


この「ある感覚」は、十年ほど前、精神の不安定さがピークになった時に見出したものです。毎晩恐怖と不安感に襲われ、パジャマで裏庭を徘徊し、このままでは私は廃人になってしまうという絶望を通して。「発狂」というものは、論理的な手順や思考が通ずる状態ではなく、「正常」な時に手にした、様々な「落ち着く方法」なども、瞬く間にことごとく潰されます。どこからか「とてつもない力」が加わっているという感覚。脳の仕組み的には、何らかの理由で、そうなるしかない構造となってしまっている、といったことなのかもしれません。どうしてか、そうなるしかない道筋をなぞらされてしまう。「精神障害」によりとんでもないことをしてしまうという人の状況が、私にはよく分かります。もうそれは「その人」ではないんです。

私は自分が自分でなくなるという恐怖と絶望に毎晩震えました。それでも日が昇り始めると、すっかり「正気」に戻るのです。そして夜が再び来るという恐怖と共に一日を過ごす。

この恐怖と不安に呑みこまれ闇に向かう自分と、徐々に正気が戻る自分との間を何度も行き来する内に見出したのが、「ある感覚」です。「ある感覚」を意識することで、呼吸が変わり、温もりと静けさが訪れます。闇は確かに常にあるのですが、もう呑まれることなく、明るく静寂の内にあれるのです。「きた」と感じるのなら、この「ある感覚」を意識する、そうすることで、徐々に、真夜中恐怖や不安に襲われることがなくなっていきました。

この「ある感覚」を言葉で表すのなら、一番近いのが、「温もり」です。



「ある感覚」をはっきりと意識してから十年近く、子育てを通し様々感じ思うことを、箇条書きにしてみます。

1.この「ある感覚=温もり」の原型は、子供時代、親から愛情を受けることで、培われるものでもあるということ。

転んで膝をすりむき泣きべそをかいても
お友達と玩具の取り合いをしたと泣きじゃくっても
温かい腕の中で 「大丈夫よ」と声をかけられることで
笑顔で遊びに戻っていく

一生懸命作った工作が壊れちゃった! そうしかめっ面で家に戻っても
駆けっこ競争で転んじゃった・・・ そうしょげていても
髪をなでる手の温もりに包まれ眠ることで
また元気一杯に歩きはじめる

初めての場所に足を踏み入れ不安一杯だとしても
見知らぬ人々に囲まれ心細くても
振り返り温かい微笑が見守ってくれると認めることで
未知の冒険へと飛び立っていく

笑顔を取り戻したあの腕の中、頭をなでられ眠ったあの柔らかい手、よしいくぞっ!と勇気の湧いたあの微笑み。そんな「親の温もり」に何度も何度も包まれる体験を通して、培われる。


2.子供時代の「温もり」の体験から、自身の内に「温もり」を見出す方向へと向かうことで、人は安定する。何が「温もり」を見出す助けになるかは、人によって様々。日常生活の中で、無意識にこの「温もり」に触れ続け、何が「助け」となるかをはっきりと自覚する必要ない人が、ほとんどなのだろうと思う。私にとっては、宗教的テキストが、この「温もり」を、様々な形で表していると感じている。それは、聖書であり、ゾーファー(カバラ)であり、スーフィーの詩であり、マントラであり、神道の祝詞でり、ネイティブ・アラスカンの神話であり。


3.幼少期の「温もり」体験が十分でない場合、自身の内に「温もり」を見出すことがなかなかスムーズにいかなくなる。それは「親の愛情の不十分」という単純なものでもなく、親子の相性、その子の感受性の強さ、不安感の強さ(私のように底なし沼のような不安感を持つ子もいるもの)などが絡み、結果としてそうなってしまうもの。そんな場合は、後に「助け」に極度に依存してしまったり、宗教的方向の中でも、カルトや偶像崇拝へと向かってしまうこともあるかもしれない。


4.その子の人生で起こることは、その子に必要だからこそそうなってしまうのであり、親が全てをコントロールはできない。それでも、親としてできるのは、できる限りの愛情で包んでやること、「大丈夫」という温もりの体験を何度も何度もさせること。それは、その子が、より良い方向へと進むための、強力な道しるべとなる。


親の愛情による「温もり」の体験 → 自身の内に「温もり」を見出す。

この移行のサポートが、私の子育ての最大の目的といえます。

そしてその「ある感覚=温もり」をより具体的に表していくこと、それはその「温もり」を日常生活の隅々に行き渡らせるという感覚でもあるのですが、それが私の「書く」ということの、ミッションでもあるのです。

何だかよく分かりにくい抽象的な話ですが、私の中心にある正直な気持ちです。お付き合いくださってありがとうございます!

子育てノート、子供達から親へ

2013-12-01 10:53:08 | 子育てノート
連休、子供達とも一緒に過ごす時間が増え。

忙しくしていると、こうした方がいい、ああしなさい、そんなこちら側からの考え思いを伝えることでついついいっぱいいっぱいに日々進んでいってしまうのですが、少しゆっくりと長男14歳長女12歳が思っていることを聞く時間を持ってみました。

ママとパパがもっとこうであったらいい、というような提案ある?

1.もっとフレキシブルであってほしい。

2.怒って叫ばないでほしい。落ち着いて話してもきちんと聞いてるから。

3.もっと忍耐を。

4.もっと同意してほしい。

5.僕達私達の視点からも、物事を眺めて欲しい。

6.できないことばかり咎めるのでなく、できてる時も見て欲しい。

7.注意ばかりでなく、もっと褒めて。

8.特にママへ、ここにいながらいないことがよくあるけれど、きちんとここにいてね。



「でもね」と言葉を挟みたくなる衝動を抑え、とにかくまずは聞いてみる。その衝動の大きさといったら! 自分でも驚きました。(笑)


8については、普段考えごとや空想の世界に入り込んでしまうことが多いためです。子供達の言葉もすぐに届かなかったり。「これ食べていい?」と聞かれ、まずは「これ食べていい?」と口に出し自分に繰り返すことで空想妄想の世界から戻ってき、「これ食べていい?」の意味を考え、そして食べていいかを考えて答えるといったことがあります。「何でママって質問を繰り返すの?」と聞かれ。それでも、「本当に危ない」など危機の時は咄嗟に動きます(はずです)。

思えば五人の子育ては、こうした私の空想壁にダイナミックさを与えてくれました。だらだらと浮遊し考え続けない、こまめに中断することで、新しい観点が生まれたり、リフレッシュすることで、こつこつとより長い間かけて集中できたり。

今はここにいる、今は考え事をする、そう優先順位を整理し、子供達が必要とする時はできるだけプリゼントである(今ここにいる)ことを心がけたいです。



日々一つ一つ思い出していこうと、1から8まで書き留め。

彼彼女が親となり、いつかその「難しさ」を理解する日も来るのでしょうね。

こうして子供達の思いを聞くことで、こちらの言葉もより届くようになる、そう感じています。




・長男とは昔についての話もしました。

泣き虫で繊細だった幼少期。長男曰く「ピーピーすぐ泣いてたのは、ママの存在が大きかったように思う」と。

彼自身、周りの様子を敏感に察知する子だったのですが、確かに私自身初めての子で、右も左も分からず、一つ一つのことに極端に動揺し驚き不安定といったことがありました。善い悪いを小さな頃から大人に話すように論理的に説明し当てはめようとしたり、随分無理があったなあと。

こういうことは相互作用で、その子の性質と母親とどちらだけが原因ということはないのでしょうが、家の場合は、確かに私の影響は大きかっただろうなと。

他の四人も、周りの様子を敏感に察知するといった面では似ていて、私の心の動揺や私からルールを守らせることへのプレッシャーは、なるべく与えないようにしています。周りに迷惑をかけない範囲ならば、周りを気にせずもっとのびのびと自分であらせようという方向で。それが子供時代、彼・彼女の内面を整える上で、必要なように感じています。

周りを見回してもネットを見ても、本当に様々なタイプの子がいて。その子に合ったバランスを、身近な大人が探っていけるといいですね。



大人子供な年となった長男長女、こうして「子育て」について共に振り返るときも来るんだなあと感慨深いです。下の子達の子育てについて、一緒に話し合ったり。(笑)

子供達とたくさん話した連休。これからに生かしていきたいです!

感謝祭とハヌカ、奇跡に感謝を込めて

2013-12-01 10:52:55 | 出来事や雑感や (行事)
今週は、大きな行事が二つ! 感謝祭とハヌカ

感謝祭は、米国とカナダをあげての祭。イギリスから1620年メイフラワー号に乗って北米大陸プリマスにたどり着いた移民者達、慣れない土地での冬の厳しさに多くの飢餓者を出したが、ネイティブ・アメリカンのワンパノアグ族に助けられ、生き延びることができたと感謝する祭。

ハヌカは、八日間続くユダヤの行事。マカバイ戦争(紀元前168年 - 紀元前141年)時のエルサレム神殿の奪回を記念するもの。荒らされた神殿を清めるために灯したキャンドルの炎が、一日分の油で八日間持ったとされる奇跡を祝う。

このグレゴリオ暦に則った感謝祭とユダヤ暦に則ったハヌカが重なるのは珍く、1863年にリンカーンにより感謝祭が国の祝祭日と決められて以来、数回程。次回は2070年と言われる。

感謝祭は、今では、多くの人にとって、家族親族が集まり感謝を捧げる日という位置づけ。子供達のクラスでも、他州の親族を訪ねるためと欠席する子何人か。学校では、この日に向けてピルグリム(米国への移民者)の歴史について学んだり、様々なクラフトや感謝カレンダー(31の感謝を書き出したもの)を作ったり。木曜日からは休日に。学校では教えられませんが、ネイティブ・アメリカンの中には、この感謝祭を「虐殺占領の始まりの日」と捉える人々もいるのだということも、覚えておきたいです。

我が家ではここ数年、ハヌカも祝うのですが、この二大行事に向け、週明けから準備に走り回り。

ハヌカについては、アンティオコス4世エピファネスによる宗教弾圧に立ち上がったマカバイ戦争の象徴的側面、「自分の信じるものへの抑圧に立ち向かう姿勢」、また大軍に勝ち、キャンドルの炎が燃え続けたとされる「奇跡」、祭で用いられる「コマ回しゲーム」の象徴的意味などから、子供達が何かを学んでくれたらと思っています。



奇跡は、

何兆もの細胞が働き、心臓が規則正しいリズムで血液を送り出し、こうして生きている奇跡

太陽の光、空気、水に溢れ、命を生かす地球という環境が可能となっている奇跡

身の回りの人々に出会えた奇跡

友人、夫婦、親子、家族として供にいる奇跡

そう、身近な周りに見出すことができます。



今年は、感謝祭と合わさり、その一つ一つの奇跡に感謝を捧げる。

とてもスペシャルな時を味わっています。

今日はハヌカ四日目。

四つ目のキャンドルに火を灯しつつ、

こうしてネットを通じ出会えた方々

以前からの知り合いでネットを通じ繋がっていられる皆様

その奇跡に

感謝を込めて!




感謝祭前、店にはターキーがこんな状態!


調理用具、オーブンに入れる銀色のトレーや、ターキーをしっとりと仕上げるための袋など。


前日、洗って、


塩とスパイスを入れた器につけ一晩。一昨年昨年とこの方法で、しっとり!と集まった友人達からも好評でした。


翌朝取り出し、


バターを塗りたくり、オーブンへ。

途中染み出た脂分を上から何度かかけて、5時間ほど。1パウンド(0.453g)に15分ほどの計算。21パウンドのターキー(約10kg)!

長男はポテトの皮むき、サラダ作り、


長女はヤム芋の皮むき、パンプキンパイとアップルパイを作り、


できた!こんがり~。


伝統的な食事としては、他にクランベリーソース、グレービーソース(ターキーの脂と小麦粉を混ぜたもの)、マッシュポテト、ヤム芋甘煮、インゲンのクリーム和え、ドレッシング(ワイルドライスやオイスターやクルトンなどまぜたもの)など。

感謝を捧げ、いただきました。


ハヌカ初日。窓の傍で一本目のキャンドルに火を灯す。

真ん中は火を灯す用キャンドル。こうして一つのメノラー(燭台)に8日間で36本プラス8(真ん中)のキャンドル。祈りを捧げ、歌を歌い。

コマ回しゲーム!

毎晩きゃ~き~と盛り上がってます。

「実質」を伴う「美」

2013-12-01 10:51:23 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

美と実質について(”Substance Vs. Beauty” By Rabbi YY Jacobsonを参考に):

先週に引き続き、ジョセフの夢の話。今回はまた少し違った角度から。

兄達にエジプトへと奴隷に売られ、ジョセフを慕う雇い主の妻により、無実の罪で何年も牢に閉じ込められることになったジョセフ。ある日、夢の解釈ができるという噂を聞きつけたファラオに呼ばれ王宮へ。(『トラ』より)

『トラ』では、まずファラオの夢の内容として、「見かけ麗しく美しく健やかなる頑丈な七頭の牛が川から上がり、続いて、醜い病み痩せこけた七頭の牛が川から上がる」と描写されている。その後、ファラオ自身がジョセフに夢の内容を伝える場面で、「健やかなる頑丈な見かけ麗しく美しい七頭の牛が川から上がり、続いて、病み痩せこけた醜い七頭の牛が川から上がる」とファラオが話したとされている。

二度繰り返される夢の描写の中で、牛を形容する言葉の「順序」が異なっている。それはなぜか? 



『トラ』についての文献には、本当に小さく細かく見えることにも、何千年もの間、様々な賢者が議論し見解を示した記録が載っている。ユダヤにとって『トラ』とはその存在の中心、どんな細部にも意味があり、何らかの象徴的メッセージが隠されているとされるため。

また『トラ』を広義に捉えると、『人生の書』ともされ、「人生そのもの」が『トラ』であるという見方がされることもある。文献の『トラ』に向き合う姿勢を、「人生そのもの」である周りへ、今この目の前への事象へと向けてみる。するとどんな日常の細部からも、学ぶべきことが浮かび上がってくる。

『トラ』に触れることで、私が学んでいるのは、『トラ』の内容自体だけでなく、そんな周りへの視線、今目の前のことへと向き合う姿勢でもあるのかもしれません。


と、話はそれましたが、この七頭の牛を形容する言葉の順序について。この「順序の違い」は何を表しているのか?

1.美(見かけ麗しく美しい)、そして実質(健やかで頑丈)
2.実質(健やかで頑丈)、そして美(見かけ麗しく美しい) 

『トラ』や『タルムード』には、この「美」と「実質」についての議論が、いくつか記されている。

脂ののったうっとりするほどの肉と、引き締まり贅肉なく痩せた健やかなる肉、どちらのヤギの肉を買うべきか?
答えは後者。

バビロニア時代の賢者二人。一人はより狭い範囲の中で深く鋭くインスピレーショナルで驚くべき考察をする、もう一人は広い範囲に渡って知識を持っている。どちらが勝っているか?
答えは後者。教えを請うどんな人にも地に足の着いた妥当で適切な言葉をかけられるため。

こうした「美」と「実質」の関係は、ユダヤの特性をよく表している。「実質」は必ず「美」の前に来る必要がある。「美」は必ず「実質」を伴わなければならない。

スピリッチュアル的には、こう説明される。

「美」カバナ: 瞑想、インスピレーショナルな衝撃、霊的でセンセーショナルな体験、エクスタシー、感覚、香り、雰囲気

「実質」マイサ: 善い行い、儀礼儀式、慣習、律、習慣

モーセに手渡されたとされる『トラ』。『トラ』以前は、「美」のみが存在していた。十戒や613の善行(Mitzvot)が記された『トラ』は、その「美」に「実質」である「乗り物」を与えたのだと。


ここで、先の七頭の牛について。

まず、ジョセフは『トラ』の中で唯一「美しい」と形容された男性(女性は何人かいる)。その「見かけのゴージャスさ、麗しさ」が何箇所かに記されている。同時に、ジョセフは「見かけ」以上に「実質」を持っていたされる。「見かけの美」はその実質の表れに過ぎないと。ジョセフは、「見かけの美」と「実質」の両者を持った象徴的存在。

ファラオがジョセフを前にした時、そのジョセフが「体現するもの」に触れ、言葉の順序を変えたという説明が、何千年にも渡る議論の中での「一つの解釈」(Yosef Rozinというラビによる)。



強烈な「美」を前にすると、ついくらくらうっとりとそこに留まってしまいがちなのですが、こつこつと形にし続けていきたいです。

パッと目を惹く「美」、次から次へと周りに溢れる「見かけの美」に惑わされ、「美」のみを追い求めるのでなく、「実質」に目を向けよう、「実質」をしっかりと磨いていこう、「美」は、それらの乗り物にのってにじみ出る、子供達とそんな話をしました。