靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

「ギフテッド」と呼ばれる人々整理

2013-11-16 00:22:31 | 「ギフテッド」教育について
「ギフテッドチャイルド育児」カテゴリーの皆さんの記事を読ませていただき、私の中で少しこんがらがっていたことを整理してみました。



Ⅰ.「ギフト」について

「ギフトは全ての子に与えられている」
「子供達皆に与えられたギフトを伸ばしていこう」

という言い回しで浮かぶのは、こんな図です。


ところが、特に教育現場では「際立ったギフトAを持つ者(緑色部分)」のみが「ギフトテッド」として言及されることが多いため、

上の言い回しは、
「『際立ったギフトA』は全ての子に与えられている」
「子供達皆に与えられた『際立ったギフトA』を伸ばしていこう」とも捉えられてしまう。

ここから、「いやいや『際立ったギフトAを持つ集団』とは万人を含むものでなく特殊なんです」と、「食い違い」が出てくるように思います。

この「ギフテッド」という言葉が難しいですね。なにかいい名称はないものかと思いますが、何十年もの研究の積み重ねのある「ギフテッド」という名称を今更どうこうというわけにもいかないでしょう。

ただ用いる場合はその言葉の「意味の層」を意識する必要があるのだと、心に留めていきます。




Ⅱ:種類そして程度の様々な「ギフト」

図1を眺めている者としては、「なぜ『際立ったギフトAを持っている者』だけが、教育現場では『ギフテッド』と呼ばれるのだろう? 語義的にはBCDを際立って持っている人だって『ギフテッド』ではないか」という疑問が湧いてきます。そしてここに、私自身、学校で子ども達が「ギフテッド」という名称でくくられることへの「違和感」があります。

その問いへの答えは、「ギフトA」とは、現代の学問や知性の中心とされる「言語知能」や「論理数学的知能」を指しており、現代の学校は主にギフトAを磨くための場だからということになるのでしょう。

それでもなあ、と思うのです、そういった能力だけでない「知のあり方」にも価値が置かれることで、世界はもっと豊かになるのではないか。例えば多重知能理論(Multiple Intelligence)を提唱した心理学者のハワード・ガードナー(Howard Gardner)博士の言う、「音楽的知能」、「身体運動的知能」、「空間知能」、「対人的知能」、「内省的知能」、「博物的知能」、「霊的知能」、「実存的知能」など、または、相手の心を読む能力、共感する能力、無私の能力、心遣い能力など(「音楽的」や「身体的運動的」能力は、通常の学校外で「ギフテッド」や「タレンティッド」として捉えられますが)。

また、普通学級で「ギフテッド」のカリキュラムを用いることにより、より多くの生徒が「『ギフテッド』とみなされる結果を出すようになった」といった実験結果もあるように(Duke大学にて)、「ギフテッド」と線引きするだけでなく、「ギフテッド」と認識されている子ども達以外の「ギフトA」の可能性を、引き出し伸ばす教育も重要です。


こういった意味から、教育とは、子供達『それぞれの(種類も程度も含め)』ギフトを伸ばすものであってほしいと願っています。





Ⅲ .「ギフテッド」と呼ばれる人々

現在「ギフテッド」と呼ばれる人々というのは、以下の二つあるように思います。

1.IQ優秀者もしくは学力優秀者 (図1「ギフトA」の緑色部分)

2.より深く、もしくは特殊な角度から世界を認知する人々
対象に極端にのめり込む傾向などが見られる。専門家によって定義も様々。




・2は1の部分を含み、1より大きな集団。

一昔前までは(60年代以前)、もっぱら1のみが「ギフテッド」とされてきた。現在ギフテッド専門家の研究は2まで進んでいるが、最もギフテッドについての研究が進んでいるとされる米国でも、実際の教育現場では、今でも結局ほとんどの場合1しか掬い取られていない。
 それは2をはかるのが難しいという理由によるところが大きい。2をはかる今のところの唯一の手段は、専門家による観察や主観

・2の多くの人々は、学校現場で見出されることなく支援を受けられず、成人しても社会の中で苦しんでいることがある。不登校、引きこもり層にも見られるかもしれない。

・また日本では「ギフテッド」という概念が行き渡っていないため、「発達障害」と誤診されたり、2E(発達障害とギフテッドの両方を持ち合わせた人々)層の凸面への支援がなおざりにされているという問題も見られる。

・日本の場合は、「学力優秀者」ならば、よりチャレンジングな学校へ進むことで、知的面の欲求は満たされる。それでもそれは「ギフテッド」人口のほんの一部ともいえる。

・2の研究が進み、「はかる手段」が発達することで、図3のように、より「多重な知能」が組み込まれていくことにもなるのではないか。





Ⅳ.境界の意味

こうしたカテゴリー分けにどんな意味があるのか? 

一つには必要な支援を受けるため

そしてもう一つには、自分や他者をより理解するため
 これまで悩み苦しんできた理由が納得でき、今後の対処に繋がるということもあるでしょう。「ギフテッド」であるという自覚が、辛い時に自分を支えるものになる、また「より多くを持っている者」としての責任のようなものが、自分を励まし明日へと進ませることにもなるかもしれません。そして他者に「ギフテッド」な部分を見出すことで、他者の言動への理解が進む、といったこともあるかもしれません。

またカテゴリー内に入っていたとしても、カテゴリー分けには何の意味を見出さない人々もいるでしょう。私自身そんな「ギフテッド」だろうと思われる人々を周りに多く見てきました。


最後に、私自身は、2と「マジョリティー」の境界は曖昧なものだろうと思っています。人は変わる可能性がある、体験や出会いなどを通し2に流れ込む可能性もある、そしてその可能性は一生続くと。そもそも後天的なものは「ギフテッド」とは呼ばないと言うことならば、元々持っていたつぼみが後に開花する可能性は一生続くと言ってもいいでしょう。「境界は流動的」、そう感じています。





支援が必要な方々により多くの手が差し伸べられること、そしてより多様な「ギフト」が掬い取られ、生かされていくこと、願っています。

今の時点での整理はここまでですが、これからも学んでいきますね。

皆様のそれぞれ異なる「ギフト」に、エールを送りつつ!

子育てノート、過敏さ、「過度激動(OE)」について

2013-04-14 05:13:09 | 「ギフテッド」教育について
次男を見ていると、その「過敏さ」に気づきます。

例えば最近でも: 大人が子供を追いかけ、周りの子がきゃ~と楽しそうに走り回る中でも、部屋の隅やベッドの下に丸まって本気で恐怖におののき泣く(今まで何度か。泣いている子など誰もおらず皆楽しそう)。動物園で泳ぐアザラシを見ながら隣の小さな子がガラスをどんどんと叩くのを見て、血相を変え私にしがみついてくる(ガラスが割れて水が溢れアザラシが出てくると思ったよう)。トイレに「落ちる」のが怖くてついてきて欲しいと言う。私が隣にいても眠る際「怖い」と言うことがある。まぶしさや、風が吹き付ける感覚(周りの子達が元気に走り回っている程度でも)が苦手で、しゃがみこんだり屋内(日差しの強い日はカーテンを閉めたがる。カーペットに写る日向と日陰のシルエットを見て日が当たってるのはあそこだけよと分からせカーテンは開けたままにしておきます)や影に行きたがる。

こういった普通は通り過ぎてしまえることでも、こんな過敏に反応していたら、確かにストレスもたまり易く、チックといった症状としても出てしまうのだろうなと感じています。

「怖がり」という面では、長男の方がもっと強かったかなと思いますが、対処としては、子供の「恐怖」や「深刻さ」を助長せず、優しく明るく「たいしたことないのよ」と笑い飛ばしていく、実際にハードルを下げつつ(まぶしさや風の弱い日から徐々に強い日へと)慣らしていく、そう繰り返していくことで、長男などがそうだったように、成長と共にうまく対処していけるようになるのだろうなと思っています。

私自身ネガティブに捉えてばかりだったこういった「過敏さ」ですが、ポジティブにもなり得るとパラダイムが変わった考え方に、ポーランドの精神科医で心理学者Kazimierz Dąbrowski氏 (1902–1980)が唱える、「積極的分離(Positive Disintegration)」と「過度激動(overexcitability)」があります。こうして私自身の「認識」が変わることで、子供の行動への理解も進み、より対処もし易くなってきたかなと感じています。

Dabrowski氏は、内面的な葛藤や苦痛こそが人を成長させると考えます。内面的苦痛こそが、一般的で受身の人生から離れようと対象から主体的に分離し、物理的精神的に対象からの距離をおくことで、より広い視野や俯瞰する視点、物事に対するより深い理解、より高いレベルの認識を求め続ける『積極的分離』を促すと。そして『過度激動』という、より強い葛藤や苦痛を起こさせる激しい感情作用を持っていることは、高度な成長を可能とする「積極的分離」をより促進することにもなると。

つまり、簡単に言ってしまえば、「外からの刺激を過敏に強烈に感じてしまうことで起こる内面的な苦しみや苦痛が、その人をより高度に成長させる契機にもなり得る」ということです。

刺激に対する並ならない反応「過度激動」は以下のように分類されます(ウキペディアより):

1.精神運動性OE(overexcitability):一般的に「落ち着きがなく頭の回転が速い」印象を与えるもので、身体的多動だけでなく、話すスピードが速い、話が一気に飛躍する、頭が働いて眠れない、という精神的多動を示す。

2.知覚性OE:「神経質」という言葉で表される性質で、増長した知覚意識を持ち、まぶしい光、大きい音、匂い、触感など感覚器官に与えられた刺激に過剰に反応する。靴下の縫い目や服のラベルが気持ち悪かったり、隣室の時計の時を刻む音が気になって集中できない、などの例がある。鋭い感性は、幼少の頃から絶景に息を呑み、名曲に涙を流すといった美的感覚にも通ずる。

3.想像性OE:隠喩などの詩的表現に優れる。「注意力散漫」と見られ、「おとぎの国の住人」と揶揄されるほどの強い想像力をもつ。白昼夢を楽しみ、前夜見た夢にも過剰に反応する。いわゆる英語圏で言うところの、"think out of the box"(枠にとらわれない独創的な考え方)あるいは"think different"ができる能力として賞賛される資質である。

4.知性OE:一般に広く知られているギフテッドの特徴。知識とロジック、新しい意味を渇望し、疑問を追求し、理論的な分析や真実の探求を愛する。そのため高度な科学・ドキュメンタリー番組を好んで見たり、頭脳パズル、知覚・論理ゲームを好む。

5.感情性OE:感情の種類と幅が大きく「ドラマチック」な反応を示す。より楽しみ、より悲しみ、より腹立ち、より驚き、より恐れ、より共感する。深く感情移入し、愛着心、責任感、自省意識も非常に強い。ある程度の人生経験を持つギフテッドには、相手の気持ちを鏡のようにリアルタイムで読取り、共感する人もいる。
                                               

そして「ギフテッド」とされる人々は、「誕生時より常に外界・内界両方からの刺激を増長した精神で感じ、激しく深い幅をもって経験し、内省を繰り返していることが、彼らの著しい成長に関連している」。また「OEが強いほど毎日の生活が強烈な体験となるが、特に想像性、知性、感情性において過剰に反応する人は、他人に比べて日常生活を深遠に体験し、人生の苦楽も激しく感じる」と。

ーーーーー引用終わり

「過度激動OE」は、「ギフテッド」の特徴とも捉えられており、「ギフテッド」教育で頻繁に用いられる理論でもあります

 私自身は、度合いの違いはあれど、多くの人々に何らかのこういった傾向や面があるのだと思っています。この子のここがしんどい、そう思われる方がいらしたら(全くないという親などいないかもしれませんが)、照らし合わせてみて下さい。周りの子とは違った「過敏さ」や「反応の仕方」も、何かを生み出すかもしれない「ギフト」、そう思うと少し軽くなります。こういった傾向があるからこの子やあの人は「ギフテッド」だということよりも、こうした考え方を知ることで、何でこの子は?何であの人は?と思うことでも、私がそうであったように「成長に繋がり得る過程」なのだと、もう少し大らかに見守れるようにもなるのではないでしょうか。

Dabrowski氏自身が「過度激動」は「悲劇的なギフト」とも呼ぶように、これらの性質や傾向を持つことで、確かに暮らしていくのにしんどい面や、マイナス面もたくさんあります。それら「負の面」についてはこんなようにもまとめられています(ウキペディアより):

OEが強い場合、周囲のあらゆる刺激に過剰に反応してしまい、所属する集団から浮いてしまうことがある。例えば、感情の起伏が激しいことから気分屋、知覚が鋭く些細なことで不快になってしまうことから神経質、といったレッテルを貼られる(ラベリング)。また反応が表面化しない場合でも、普通であるべき行為が心から自然にできない、相手の感情・欲求・反応などを考えすぎるあまり行動に一貫性がなくなる、などの対人距離、反社会的反省に常に駆られ、状況を満足に楽しめないケースも多い。逆に、感情や五感への刺激を避けるために敢えて集団から離れていると、今度は人付き合いが悪いと非難される。それらの状況下で感じるあらゆる気分的うつ(慢性のうつ病とは異なる)や自己嫌悪といった否定的な感情も、OEゆえに必要以上に増幅され強く感じてしまうため、逃げ場を失う危険を内包する。

ーーーーーー引用終わり


Dabrowski氏によると「高度な成長の要」というこの「過度激動」。どう対処していったらいいかのヒントを引用しておきます。
英文のままですが:

精神運動性OE
•Allow time for physical or verbal activity, before, during, and after normal daily and school activities-these individuals love to “do” and need to “do.” Build activity and movement into their lives.
•Be sure the physical or verbal activities are acceptable and not distracting to those around them. This may take some work, but it can be a fun project and beneficial to all.
•Provide time for spontaneity and open-ended, freewheeling activities. These tend to favor the needs of a person high in Psychomotor OE.

感覚性OE
•Whenever possible, create an environment which limits offensive stimuli and provides comfort.
•Provide appropriate opportunities for being in the limelight by giving unexpected attention, or facilitating creative and dramatic productions that have an audience. These individuals literally feel the recognition that comes from being in the limelight.
•Provide time to dwell in the delight of the sensual and to create a soothing environment.

想像性OE
•Imaginational people may confuse reality and fiction because their memories and new ideas become blended in their mind. Help individuals to differentiate between their imagination and the real world by having them place a stop sign in their mental videotape, or write down or draw the factual account before they embellish it.
•Help people use their imagination to function in the real world and promote learning and productivity. For example, instead of the conventional school organized notebook, have children create their own organizational system.

知性OE
• Show how to find the answers to questions. This respects and encourages a person’s passion to analyze, synthesize, and seek understanding.
•Provide or suggest ways for those interested in moral and ethical issues to act upon their concerns-such as collecting blankets for the homeless or writing to soldiers in Kosovo. This enables them to feel that they can help, in even a small way, to solve community or worldwide problems.
•If individuals seem critical or too outspoken to others, help them to see how their intent may be perceived as cruel or disrespectful. For example saying “that is a stupid idea” may not be well received, even if the idea is truly stupid.

感情性OE
•Accept all feelings, regardless of intensity. For people who are not highly emotional, this seems particularly odd. They feel that those high in Emotional OE are just being melodramatic. But if we accept their emotional intensity and help them work through any problems that might result, we will facilitate healthy growth.
•Teach individuals to anticipate physical and emotional responses and prepare for them. Emotionally intense people often don’t know when they are becoming so overwrought that they may lose control or may have physical responses to their emotions. Help them to identify the physical warning signs of their emotional stress such as headache, sweaty palms, and stomachache. By knowing the warning signs and acting on them early, individuals will be better able to cope with emotional situations and not lose control.

ーーーーー引用終わり(http://www.sengifted.org/archives/articles/overexcitability-and-the-giftedより)


「過敏さ」や、人と違ったように感じ、周りと違ったことをしてしまったり、集団の中で浮いてしまったり、それらは高度な成長を成し遂げる「ギフト」にもなり得る。個性として、負の面を考慮しつつ、プラス面を伸ばす助けになっていけたら、そう思っています。

「ギフテッド」教育について、その五

2013-03-03 01:44:04 | 「ギフテッド」教育について
違いと差別
 日本では、「ギフテッド」プログラムが取り入られるのは難しいと言われています。頑張れば皆が同じ道で同じレベルになれるはずだという「平等主義」が、行き渡っているためともされます。
 一方、異なる人種や文化背景を持った人々が隣り合わせで暮らす米国では、個々人は違って当たり前という前提から始まっています。そこでアカデミックや論理的思考に生まれつき優れた人々がいても、当たり前だと考えるのです。そしてそれぞれが違う道で、それぞれに合ったレベルに到達するのが理想とされることから、ハンディキャップを持つ人々と同じように、「ギフテッド」の人々のニーズに子供時代から答えるべきだということになるのです。個々人の「違い」は「違い」であって、それに上下優劣をつける「差別」とは同じではない、私自身もそう思っています。 
 同じような熱意ややる気のある子供達だけを集めて学習するのならば、それは確かにどんどん進んでいくでしょう。それでも同時に、今のシステムの中で萎えてしまっている「やる気」を引き出す教育も、必要だと思っています。やる気は、「できた!」の喜びの繰り返しで培われていきます。今はやる気がなえている子には、他と比べることなく一度ハードルを低くして何度も何度もその子に合った「できた!」を体験させていくのも一つの方法です。夢中になって気がつけば、周りとは全く違った能力を花開かせているかもしれません。
 プログラムの中にでも、優劣はあります。「上」を見れば限りないものです。周りから学べることは学び、それでも周りと比べてではない、その子自身の「できた!」を一つ一つ大切にしていきたい、そう日々思っています。


より多様なものさしを 
子供の得意分野を伸ばすためのプログラムがあることは、素晴らしいと思います。ただ「成績優秀者」や「言語能力や論理数学的能力に秀でた者」だけを対象とするのではなく、様々異なる分野を伸ばすプログラムがあるのが、理想だと思っています。
 勉強が得意な子もいれば、スポーツや音楽が得意な子や、人付き合いや人の気持ちを察するのに優れた力を発揮したり、想像力溢れて既存の枠からはみ出すような子もいます。机上の「勉強」だけでなく、多様な得意分野を捉えることのできる、「多様なものさし」が教育現場に導入されるのならば、より多くの子供達がもっと生き生きとし始めるでしょう。そしてこれからの学問も技術ももっと豊かになるはずです。
 子供達も、様々違った個々人の得意分野を伸ばすことで、より自信がつき、他の分野も向上していくということもあるでしょうし、何か一つのことに秀でていても、勉強が得意だけれど運動も楽しむ時間を持ってみる、人の気持ちを察するのは得意だけれど、言語面の勉強にも興味を持ってみようといったように、バランスを取る機会にもなるかもしれません。また何か一つのことに際立って秀でていなくとも、様々な分野の組み合わせによって、その子にしか歩くことのできない独自の道が築かれていくこともあるでしょう。
 カリフォルニア州などでは、ガードナー博士の研究に基づき、子供達の異なる個性を伸ばすため、成績優秀者や論理的思考に優れた者だけを対象とするのではない、様々な「ギフテッド」・プログラムの試みがあると聞いたことがあります。このカリフォルニアの試みのように、子供一人一人が持つ異なるギフトを伸ばし育てるために、多様な受け入れ場が整えられることを願っています。
 まずは、大人一人一人が「多様なものさし」でもって、子供達を見つめることから始めていきたいです。多様なギフトを合わせ創り出される未来の世界とは、画一的なものさしのみが評価される現代の世界とは比べ物にならないほど、豊かで魅力ある世界となるでしょう。ギフトはすべての子供に与えられていると信じています。



「ギフテッド」教育について、その四

2013-03-03 01:42:33 | 「ギフテッド」教育について
子供の力を伸ばすには
プログラムに子供を通わせる周りの方々を見ていて思うのは、親がいわゆる「エリート」かどうかということに関わらず、小さな頃からその子の好奇心を大切にし、興味を持つことに対して一つ越えたのならばまた次へと、陰からハードルを少しずつ高くしてやることに長けている方が多いということです。
プログラムに入っていようが入っていなかろうが、子供の能力を引き出し伸ばす子育てに共通するのは、周りに比べてのハードルの高さではなく、その子自身に向き合うことで調節される高さを用意し、自分でできた!という喜びを繰り返し繰り返し体験させ続けることだと思っています。目先の結果よりも、できるようになっていく過程を、親子で楽しんでいるような家庭が、子供の持てる才能を最大限引き出し伸ばしていくのではないかと感じています。  

努力の継続
 家の子供達は、謙遜でも何でもなく本当に普通です。「ギフテッド」の特徴としてよく挙げられる、「小さな頃からこれが他の子より際立っていた!」、そういったことはほとんど思い出せません。歩くのも一歳過ぎ、言葉も達者だったというわけでもなく、文字数字も三歳四歳から「教えられて」覚え始めましたし(二歳で勝手に読み始めたんです!というようなことは全くありませんでした)、パズルや何かを組み立てたり迷路などが大好きでしたが、それらも一緒に何度か遊ぶ内にそうなっていったのです。
 敢えて言うのなら、人の気持ちやその場でどう振舞ったらいいかについてはやけに敏感だったかなとは思います。やけに泣き虫だったり、過剰にお友達に気を遣ったり、小さな頃から周りのサインや張り紙を読んで欲しがり自分はここで今何をしたらいいのかと気にしたり(もっと伸び伸びしたらいいのにと気の毒に思ったものです)。それらの特徴も人の間で揉まれる内に、過度という程ではなくなっていきましたが。
 それでも、とにかく勉強面は亀の歩みでした。周りの子がぽんぽんと覚えていくことも、ああこの子達には何度か繰り返す必要があるんだな、よくそう思ったものです。そこで例え人より何倍も時間がかかったとしても、こつこつ歩き続けていこう、そう覚悟を決め歩き続け、そうして気がついたら、「ハイリー・ギフテッド」といったラベルをいただいている、今までの歩みをまとめると、そういったことのように思います。
 今、こうして「ギフテッド」とされる子供さんを持つ家庭と付き合う機会も多いのですが、「一回で覚えてしまって」「いつの間にかできるようになってたんですよ」、そんな言葉を聞くたびに、「そんなことがあるんですねえ」と感心してしまう私達です。
 家はこうして「こつこつ続ける集団」ですが、プログラムの中には、ああこういう子を天才というのかな、そう思うような子も確かにいます。それでもよく見ていると、その子達も、かなりの努力をしていることに気がつきます。しかもその努力というのも、ものすごい食いつき方と勢いと迫力なのです。そしてその勢いを情熱をキープし続けられる。「天才は99パーセントの努力」、そして「努力を努力と思わないのが天才」それは本当にそういうことなんだな、彼ら彼女たちを見ているとそう気がつきます。
 要は、周りなどはそれほど気にせず(ついつい比べて落ち込んだりしてしまうものですが)、その子にあったペースで、やり方で、こつこつ続けていくことです。周りのママやパパさん達が、自分の子供さんを指して「この子はどうせだめなのよ」と言うのを聞くことがありますが、家の子達の始まりよりもずっとずっとできてますよ、そう言いたくなることが多くあります。
歩き続けていく過程で、高いテストのスコアや、「ギフテッド」というような名称を手にすることもあるかもしれません。それでもそれらは目的なのではなく、その子の持つ才能が開花する過程に過ぎません。「ギフテッド」プログラムを卒業する子供達の進路も様々です、ストレートに大学に行き専門職につく子もいれば、シェフになりたい、まずは世界中を旅したいと、大学に進むことなく独自の道を歩いていく子もいます。
 家の子達も、今たまたまラベルをもらっていますが、それも、歩き続ける途中でいただいた、ほんのちょっとした印のようなものです(このラベルのおかげで、恵まれた学習環境を提供していただいていることは、ありがたく思っています。そしてこの環境をいただいた恩返しをする責任のようなものがあるのだとも)。自分たちにできる限りをし続ける、成長し続ける、日々こつこつと、そう進み続けていきたいです。

「ギフテッド」教育について、その三

2013-03-03 01:42:10 | 「ギフテッド」教育について
先天的?後天的? 
 では「成績優秀」や「言語を操ることや論理的思考が得意」というのは、「先天的」「遺伝的」に与えられた「ギフト」なのでしょうか? 私自身は、その子の素質とその素質を伸ばす環境というコンビネーションもまた、恵まれた「ギフト」なのだと理解しています。素質があったとしても、働きかけがなければ伸ばしていくことはできません。またその素質を現時点目に見えるような形で捉えることができないとしても、働きかけによって伸ばしていくことは可能でしょう。
 こんな米国デューク大学での実験があります。千人の生徒を対象に「ギフテッド」とされる生徒を教えるメソッドを使ったところ、しばらくして「ギフテッド」と見なされる基準に二十パーセントの生徒が達したといいます。普通のメソッドを用いたグループでは、十パーセントの生徒が基準に達したのみだったにも関わらずです。
 また英国の学校で、学期の初めに、最下位のクラスと最上位のクラスの情報を、誤って入れ替え教師に伝えたところ、学期の終わりには、上下の順位が入れ替わっていたという出来事もあります。
周りの大人が、その子の能力や可能性を信じ伸ばそうとすることで、子供の能力は伸びていきます。現在、教育学の分野でも、先天的な素質と育つ環境が相互に作用し合うことで、「ギフテッド」の子供が育つという説が主流のようです。


親が「エリート」?
 「ギフテッド」プログラムに子供を通わせる親は、教育レベルも高く高収入で社会的地位のある専門職を持った、いわゆる「エリート」の割合が、普通の学校に子供を通わせる親に比べ多いということが聞かれることもあります。確かに、親が成績優秀であったりIQ的能力に優れているのならば、子供達の持つ素質に加え、それらの能力を伸ばす環境が作り出される場合も多いでしょう。そして経済的余裕があるのならば、その子を伸ばす環境を最大限整えることも可能です。
 プログラムに通う周りの子供達を見ていると、確かにそれらの家庭環境に恵まれている場合も多くあると気づきます。授業で政治について学んでいるから、週末にワシントンDCに行き知り合いの議員に面会してきた、メキシコのことを地理で学んでいるからクルーズで旅してきた、テスト勉強で少し煮詰まったから、南の島にバケーションへ行ってきた、一年休学して家族で世界一周してきた、そんな豊かなリソースを日常的に子供に与える余裕のある、教育熱心な家庭もあります。
 それでも、実際は「ギフテッドとされる子供達はあらゆる経済的社会的地位、エスニック・人種グループに見られる」(Dickinson, 1970)と言われています。息子さんをプログラムに通わせる移民の知り合いは、経済的に難しい状況に暮らしながらも、「私達はほとんどの人々がテレビを見ている間に、世界地図を広げ、世界の人々がどんな暮らしをしているのかを話し合うわ」そう言っていました。例えリソース的には恵まれなくとも、親が日々子供に向き合う姿勢によって、その子の能力を開花させることができるのだと、こうした周りの親御さんたちを見ていて励まされます。
 我が家はまだまだ子育ての途上にあり、どうしたら子供達の力を伸ばすことができるかと、日々試行錯誤している状況ですが、いわゆる「エリートコース」からは、ほど遠い暮らしです。
 私自身は、子供時代から学校の勉強への関心がとんと続かず、成績もアップダウンを繰り返し、中学時代は高校は夜間に行き昼間は働きたいとその本当の大変さも分からず親に言い、結局高校を出て地元の私立の大学に入学したものの、学部時代のほとんどをアルバイトしてはお金を貯め世界を安旅して過ごすことに費やしました。学校の勉強にはどうしても興味がもてなかったのですが、それでも考えることや読書が大好きで、研究者になろうと奨学金を借りつつ大学院に進んだのでした。そして三人目の子供が生まれてからは、外での仕事も止め、育児に駆け回る毎日です。
 夫といえば、大変な家庭環境に育ち、「重度のディスレキシア(読書障害)」もあったことから(成人してからの努力で人並みになったようです)、学校の勉強は全くだめ(彼に言わせると、この「ディスレキシア」というラベルは、改善に向け用いられるというより、この子には障害があると初めから全てできない扱いするために用いられ、違ったやり方や人の何倍もの努力でできるようになるかもしれない機会も全て奪っていった、そんなように感じているようです。ですから教育現場で用いられる「ギフテッド」やどんな分類ラベル貼りにも、彼はかなり慎重でその必要性を感じていないようです。ただプログラムの内容がいいから入れる、それだけです)。十八歳で米国に移住してからレストランで皿洗いなどしながら英語をゼロから学び、ピアノや演劇などのクラスをとりながらコミュニティーカレッジ(誰でも入学OK)に八年も籍をおいた後(膨大な学生ローン・・・)、ようやく今取り組んでいる専門分野へ進むことになります。それでも夫を見ていて気がつくのは、学校の勉強などは全く苦手ですが、子供のニーズを敏感に察知し、子供たちの目の前に適切な高さのハードルを用意し、励まし飛び越える楽しみを体験させるのが得意であるということです。また発想も豊かで、私には真似できないほど、子供の目線に立った献身的な父親です。

「ギフテッド」教育について、その二

2013-03-03 01:41:48 | 「ギフテッド」教育について
IQというものさし 
 これまで子供達が五歳から六歳にかけて、心理学者による一対一のIQテストを四度体験しました。テストが終わると、英語を用いたものや言語を用いないものから、世界共通という例題をいくつか見せてもらい、スコアやその子の特徴についての説明を聞きます。
 IQテストを見て思ったのは、IQテストというのは、人の持つ知性の一部を測るための、「ものさしの一つ」であるということです。「ものさし」に拠って、高い低い長い短いという順列は生まれますが、「ものさし」を変えるのなら全く違う高い低い長い短いになるはずです。
 山間部や離島などの辺境地域に暮らす子の方が、都市部に暮らす子よりも、IQテストのスコアが低いという比較結果を見たことがあります。それでも、鳥の声を聞き分けられるか、海の状態で魚の群れの動きが分かるか、空の色で明日の天気が分かるか、野生動物の糞を見てその動物がどんな状態であるか分かるか、仮面を彫るのに最適な流木を見分けられるか、もしそんな「ものさし」で、辺境の村々に暮らす子ども達を測るのならば、とてつもない高スコアをはじき出すかもしれません。IQテストとは、「普遍的な頭の良し悪し」を測るわけではなく、一部の限られた知能を測る「ものさしの一つ」なのです。
多重知能理論(Multiple Intelligence)を提唱した心理学者のハワード・ガードナー(Howard Gardner)博士は、IQテストというのは、人が持つ様々な知能の内、「言語知能」と「論理数学的知能」の二つを測ることができるのみだとします。ガードナー博士が挙げるその他の知能、「音楽的知能」、「身体運動的知能」、「空間知能」、「対人的知能」、「内省的知能」、「博物的知能」、「霊的知能」、「実存的知能」などの「多重な知能」は、IQテストでは測ることができないとするのです。
 また、十二歳頃までのIQテストのスコアには、年齢が大きく影響します。前倒しで問題が解けるのなら高いIQとされるのです。だからといって、それらのスコアが全く変わらず一生続くということではありません。後になって周りが追いつき、単に早熟だったということもあり得ます。幼稚園から大学まで教えたことがあるというIQテストを専門とする方に、テストしていただいたことがありますが、「これらのテストの内容は全て、後何年かすれば必ずできるようになるものばかりなのです」とおっしゃっていました。「スタンフォード・ビネー」というIQテストを考え出した、アルフレド・ビネー(Alfred Bine)博士は、IQテストを受けた子供達が成人してからの様子を調査した結果、子供時代に高得点を出したグループから外れた二人が、成人してからノーベル賞を受賞していたという例もあります。
 小学生時分のIQスコアが示すのは、能力の多様性といった面だけでなく、時間的スパンで捉えたとしても、その子が人として持つ能力のほんの一部に過ぎないといえるでしょう。
 また特に子供に対してのテストの場合、テスターの態度や姿勢などもスコアに大きく関係すると体験から思います。無表情で問題を与え続けるテスターよりも、ゆったりと笑顔で励ましの言葉も用いながら問題を与えるテスターの方が、子供達も答えやすいのです。どんな状況でも気にならない子もいれば、相手の表情や仕草に敏感な子もいるものです。一つ問題を終え次の問題にいくまでの間に、テスターがため息をついたのが気になり、なかなか次の問題に集中できない、そんなこともあるでしょう。特に小さな子のIQテストとはゲームのようなものも多く、ゆったりとリラックスした雰囲気の方が子供達も最大限の力を発揮できます。
 また採点の仕方でもスコアは上下します。できたできないと白黒に分けられない問題も多いものです。迷路の枠に鉛筆が触れていた、ブロックが少しゆがんでいる、そういったことも細密にマイナスにするのとしないのとでは、スコアも変わってきます。地球儀を見せられ、「地球」と答えたら誤りで、「地球儀」だと正解だと言われ、納得ができないと他の心理学者にテストをしてもらったら、全体的スコアも随分と上がった、知り合いからそんな話を聞いたこともあります。
 また子供というのは体調や気分によって随分とできるできないに差がでるものです。鼻水が少し出ていたり、朝兄弟げんかした、家を出るとき転んでしまった、そんなことで問題へのやる気がへこんでしまうこともあるものです。
 こういったことを考えるとき、子供を数時間テストしただけで、その子の能力がどうこうという話になること自体、私自身の中で抵抗感があります。それでも、恵まれた学習環境の提供されるプログラムに入るための必須条件ということで、テストを受けさせてきたというのが本当のところです。


「ギフテッド」という名称への違和感
 IQテストの特徴を見るとき、現在の「ギフテッド」プログラムに通う子供達とは、限られた知能に、早い内から秀でた子供達、そういった結果をテストのときに出せた子達ということになるでしょう。ならば、「ギフテッド」プログラムというよりは、「言語を操ることや論理的思考が得意な子達」や「成績優秀者」のプログラムと言った方が適切だと感じています。確かにそれらは、今日の学問的思考の根幹的能力ともいえるかもしれません。またそれらの分野を得意とする子供達を集めて、集中的に能力を伸ばす環境を提供するのは、素晴らしいことだと思っています。
 それでも、それら特定の限られた範囲内で結果を出した子供のみが、「ギフト」の与えられた「ギフテッド」と呼ばれることには強く違和感を感じています。「ギフト」は全ての子供に与えられています。そして本来の教育の現場とは、ギフトがあるないとより分けるのではなく、一人一人の異なる「ギフト」を伸ばしていく場であるべきではないでしょうか。そしてより多様な才能を掬い取り伸ばしていくことができる時、これからの技術や学問なども、より豊かに発展していくのではないかと思っています。
 子供達には、全ての人に「ギフト」が与えられている、今あなたたちは、努力と多くの人の助けと運によって、たまたまこうして恵まれた学習環境を与えられているけれど、その環境に感謝して、少しでも身に着けたことを周りに還元していけるといいね、そう話しています。

「ギフテッド」教育について、その一

2013-03-03 01:38:32 | 「ギフテッド」教育について
 「ギフテッド」教育についての問い合わせをいただくことがあり、日本でも関心が高まっているのかなと思っています。以前書いたものなどを、改めて考え直したり書き足すなどして、整理してみました。まだまだ言葉足らずに感じているのですが、今のところのまとめです。これからも、また何か思うごとに少しずつつけ足していけたら、そう思っています。

 
その一.「ギフテッド」?・選別方法、選別基準・「ハイリー・ギフテッド」プログラムの内容
その二.IQというものさし・「ギフテッド」という名称への違和感
その三.先天的?後天的?・親が「エリート」?・
その四.子供の力を伸ばすには・努力の継続
その五.「違い」と「差別」・より多様なものさしを


 昨今の米国経済の状況により、アメリカ全土で教育予算も削減されつつあります。何を削るか、そう議論になると挙げられるのが、この「ギフテッド」プログラムでもあります。州によって対応が違いますが、プログラム縮小または取りやめの州も。ここアラスカ州でも、何度か廃止するかどうか話し合われていて、ちょうど二週間程前にもプログラムに関わるスタッフを減らすことが決まったようです。このようにいつまで続くか分からない状況ですが、現在までの七年間、四人の子供達が「ハイリー・ギフテッド」プログラムに通っています。



「ギフテッド」?
 「ギフテッド」というのは、一般的に「先天的に平均よりも顕著に高い能力を持っている人のこと、またその能力を指す。その人物における高能力の傾向は誕生時から生涯にかけて見られる。外部に対する世間的な成功を収めることではなく、内的な学び方の素質・生まれつきの学習能力を持つことを指す」(ウキペディア)とされています。
 米国では約三十八州に、何らかの「ギフテッド」プログラムがあると言われます。通常の学級では必要が満たされない生徒への救済措置として、障害のある生徒と同じ「特殊教育(special education」という位置づけで、公立学校のシステムに組み込まれているのです。
 それら「ギフテッド」とされる子供たちの特徴を表すのによく用いられるのが、次の分類です。

成績優秀者      ギフテッド学習者          
答えを覚えている              思いがけない質問を持ち出す    
興味を持つ                      好奇心旺盛
注意深い                   選択的に精神的にはまり込む
先を行く考えを生み出す              複雑で抽象的な考えを生み出す   
集団のトップ           集団を超える                       
簡単に学ぶ                  既に知っている           
6-8回の繰り返しで習得             1-3回の繰り返しで習得  
課題を時間通りにこなす              課題のプロジェクトや拡張を導く 
Aを取る              成績はモーティベーションにならないかもしれない


選別方法、選別基準
 「ギフテッド」の選別には、IQテストと学力テストが用いられています。果たしてそのような方法で「ギフテッド」が見出せるのかと、様々な議論がされていますが、現在ほとんどの州の「ギフテッド」プログラム入学審査が、これらのテストに拠っています。
 ここアラスカ州アンカレッジの小学校には、「イグナイト」と「ハイリーギフテッド」と呼ばれる「ギフテッド」プログラムがあります。
「イグナイト」プログラムは、アビリティーテスト(IQテストの縮小版のようなもの)と学力テストで96パーセントタイル(全国の同年月の子供達と比べたもの)以上の子供達を集めたものです。ほとんどの小学校に「イグナイト」プログラムがあり、「ギフテッド」教育専門の教師が、週に一度授業をします。
 「ハイリー・ギフティッド」プログラムは、学力テストが98パーセントタイル以上、アビリティーテストで99パーセンタイル以上、IQテストが99.5パーセントタイル以上の子供達を集めたものです。アラスカに一校のみあり、アンカレッジ、および周辺地域から集まった約百五十人近くの子供達が、週五日間終日通うプログラムです。普通の公立小学校内に設置されていて、プログラムの生徒数は全校生徒の三分の一ほどの割合です。
 中学・高校になると、「ギフテッド」や「アドバンス」授業をより多く提供する学校も増え、選別はIQテストよりも、全国統一学力テストの結果に拠るなど、学力重視になっていきます。「ハイリー・ギフテッド」プログラムを提供する学校は中学一校、高校一校です。


「ハイリー・ギフテッド」プログラムの内容
 プログラムの内容は、詰め込みでなく掘り下げ考えることを重視し、生徒一人一人のレベルに合わせ、学年を飛び越えて学ぶことができます。「退屈させない」ためにチャレンジ満載で、方式を教えるよりも方式を考え出すような教え方をし、ストレートに答えを示すよりも、「なぞなぞ」のような形式で答えを自ら導き出すよう働きかけます。
 低学年からイカやヘラジカの目を解剖したり、様々な分野のかなり専門的な用語も学び、福祉関係のボランティアが取り入れられていたりと、毎日濃い授業内容です。進む速度も速く、「通常の学校が三日かけてすることを一日でします」と、子供達の担任の先生がおっしゃっていました。
 教師は皆「ギフテッド教育」専門の資格を持っています。クラスは十人から二十人前後と少人数で、感情面や社会性の養育を専門とするカウンセラーも、配属されています。
 私と夫がこのプログラムを選んだのも、そのカリキュラム内容のよさ、一人一人の生徒に対する待遇の良さが理由でした。四人の子供達も、楽しそうに通っています。

五歳児へのIQテスト

2012-05-27 00:18:03 | 「ギフテッド」教育について
元教師、今は様々なテストを基にした教育アドバイザーというTさんの自宅で、三女のIQテストをしていただいた。休憩含めて三時間半。山の上の家。はるか遠くに海の光。

小さな子のIQテストというのは、同じ月齢の子に較べ前倒しで様々なことができるほど数値が上がるようになっている。

「このテストに出てくるあれやこれ、結局はいずれできるようになっていくものでね」

休憩時間、キンダー(年長)から大学まで教えた経験を持ち、キンダーに入った子が一年で見違えるように様々なことができるようになっていくのを何度も目の当たりにしてきたTさんが言う。

「五歳児へのテストにどれほどの意味があるのかと、私自身疑問に思っています。早くできたところで長い目で見てだからどうなのだと。ただ上の子達と違う学校だと現実的に送り迎えが難しく、そしてギフティッドプログラムで用いられるカリキュラム自体はいいものだと思っているのが、このテストを受ける理由なんです」そう言う私。

この会話でTさんの姿勢がぱっと変わった。五歳児へのIQテストというものの茶番的な面、それを分かっているという暗黙の同意のようなもの。


本当に丁寧に接してくださった。できるできないと白黒つけてそぎ落とすのでなく、能力を引き出すような問いかけ方。無表情でただ問題を解かせ続けるのでなく、時に冗談を言ってほぐしたり、褒めて励ましたり、こういった態度で五歳児のスコアというものは随分と変わるだろう。よく知らない人に対すると「初めは」とても物静かになる三女、書いて答えるのはいいけれど、話して答えるのはどうしても硬くなってしまう。そんな時にはTさん、私がテスターになることも許してくれる。

こうしたTさんのおかげで、最終的にプログラムに必要な数値が出ました。
Tさんに出会えたこと、感謝しています。



IQテストはゲームのようで楽しいものが多い。間違え探しやブロックやパズルや迷路や。子供本人も「楽しかったあ」と終わる。

問題例:
1. 食べ物、名前、動物、思いつく限りそのカテゴリーの言葉を言う。それぞれ一分間。
2. 「5」「8」や「フラワー」「体重計」など、テスターが言う数字や単語をそのまま繰り返す。徐々に増える、「9」「5」「4」、「ドア」「象」「ブロッコリー」など。今度は反対に繰り返す。「9」「6」「3」だったら「3」「6」「9」、「カメラ」「風呂」「みかん」だったら「みかん」「風呂」「カメラ」。

知り合いや友人などからIQテストのために練習したり準備したりするの?と聞かれることがあるけれど、そのための準備というより、普段からゲームの一つとして楽しむといったスタンスが理想だと思っている。たくさんある遊びの中の一つという位置づけ。身体をストレッチするように脳もストレッチという感覚で。脳がほぐれる感がある。何かの待ち時間や、車の中でや、上の問題例などもゲームとして楽しむことができるだろう。小さな頃はとにかく遊び中心、1脳だけを使うなら10外で思いっきり身体を動かして遊ぶ、1対10くらいの比率が調度いいように感じている。

とにもかくにも、これまでのアビリティーテスト(IQテストの縮小版のようなもの)、学力テスト(算数・読み)、そして最後のIQテストと無事終わりほっ。新年に掲げた節目の一つを終えました。次への一歩を踏み出しつつ、感謝を込めて。

テスト終わり、カフェで祝杯。

キンダーがいかに楽しいかを話す兄姉、楽しみでしょうがない三女。

「ギフテッド教育」に思う

2011-10-07 00:11:49 | 「ギフテッド」教育について
こちらには「ギフテッド教育」といわれるプログラムがある。「ギフテッド」は一般的に「先天的に平均よりも顕著に高い能力を持っている人のこと、またその能力を指す。その人物における高能力の傾向は誕生時から生涯にかけて見られる。外部に対する世間的な成功を収めることではなく、内的な学び方の素質・生まれつきの学習能力を持つことを指す」(ウキペディア)。

全米約38州に何らかの「ギフテッド」プログラムがあるといわれている。通常の学級では必要が満たされない生徒への救済措置として、障害のある生徒と同じ「特殊学級」という位置づけで公立学校のシステムに組み込まれている。

アラスカには二種類の「ギフテッド」プログラムがある。「イグナイト(ignite)」と呼ばれ、通常の学校に通う「ギフテッド」と見なされた生徒を週一回集め「ギフテッド教育」を行うというもの。何校かにある。もう一つが「ハイリー・ギフテッド(highly gifted)」と呼ばれる週5日終日のプログラム。一校(近所の生徒が通う通常の学級が3分の2、プログラムには全校の3分の1の生徒)。

「ギフテッド」の選別には学力テストとIQテストが用いられる。それらのテストで「ギフテッド」を見つけ出すことができるかどうかについては長い間議論されているけれど、結局今のところテストを拠り所にするしかない状況と言われている。アラスカの場合、「イグナイト」が認知テスト・学力テストで96パーセントタイル以上、「ハイリー・ギフティッド」が学力テスト98パーセントタイル以上、認知テスト・IQテストで99パーセントタイル以上という基準となっている。

上3人がこの「ハイリー・ギフテッド」プログラムに通っている。

この6年間ほど通ってきた中で様々思うことがある。私自身は上の「ギフテッド」の定義にある「先天的」「生まれつき」という言葉をあまり信じていない。そして多くの子が「ギフテッド」と見なされるポテンシャルを持っていると思う。家の場合は4歳くらいから文字や数などの抽象的概念を学び始めたのだけれど、子供たちの「やる気」「楽しみ」を中心に据えながらもいくつかの教材も試してきた。この4歳以降のやりとりがなければ、5~6歳で受けたテストが「ギフテッド」の基準を満たすことなどなかっただろうと確信している。周りを見ても同じような状況だと感じている。ふってわいたような「先天的ギフテッド」なんて多分このプログラムに通う約150人(年長から6年まで)中数人もいるかどうかなのじゃないだろうか、ひょっとしたらいないかも。これはあくまでも個人的な感覚なのだけれど。

じゃあ「ギフテッド」を「作り出した」のじゃないか、となるわけだけれど、子供たちの興味に答えないことを選択することが、より自然で「先天的」なのだろうか。小さな子の「知りたい、できるようになりたい」欲求はとてつもない強いものだと私は感じている、そしてそれを伸ばす方向へと手伝うのが親の役割なのだと。またその「とてつものない欲求」がギフテッドの特徴ともされるのだけれど、そんな欲求も、周りの接し方で伸びもすれば萎えもする。ここからが「先天的」というような境界を見つけ出すことは不可能であろうし、そしてそんなことに果たしてどんな意味があるのだろう。

プログラムの内容については、詰め込みでなく掘り下げ考えることを重視し、その子のレベルに合わせ学年を飛び越えて学ぶことができる。「退屈させない」ためにチャレンジ満載、方式を教えるよりも方式を考え出すような教え方、ストレートに答えを教えるよりも「なぞなぞ」のような形式。低学年から解剖したり(イカやムースの目や)、様々な分野のかなり専門的な用語も学び、福祉関係のボランティアが授業に取り入れられていたり、と毎日濃い授業内容。進む速度も速く「だいたい通常の学校が3日かけてすることを1日で」と担任の先生が言っていた。教師は皆「ギフテッド教育」専門の資格をもっている。

クラスは少人数、感情面社会性をケアする専門家も配属されている。

夫と私がこのプログラムを選んだ大きな理由が、このカリキュラムの内容そして待遇のよさだった。生徒一人一人がより信頼され尊重されている(先生によって確かに色々あるけれど)。

私が強く思っているのは、子供は「そう扱われることでそうなっていく」ということ。以前このブログに書いたことがあったけれど、イギリスで行われた実験に、学期始めに最下位と最高位のクラスを教師に入れ換えて教えたところ、学期末には最下位と最高位が入れ換わっていたというのがある。一人一人が尊重され「ギフテッド」(与えられたgift)として扱われるのなら、子どもたちはまさしく「ギフテッド」になっていくのじゃないだろうか。

昨夜こんな記事(10月3日のもの)を見つけた。「ギフテッド」という境界を設けることへの批判、そしてDuke大学での実験が紹介されている。10000人の生徒を対象に「ギフテッド」とされる生徒を教えるメソッドを使ったところ、しばらくして「ギフテッド」と見なされる基準に20パーセントの生徒が達したと、通常のメソッドのクラスでは10パーセントだったのに対し。

一人一人が「ギフト」として扱われること、それは教育の根幹にあるべきなのじゃないだろうか。そして「一律のテスト」なんかで掬い上げられた一部だけを「ギフテッド」と呼ぶことのナンセンス。

私自身「ギフテッド」という枠組みに疑問を持ちながらも、そのカリキュラム内容や待遇ゆえに、待ったなしで成長し続ける子供たちをひとまずは通わせている状態だ。子供たちも今のところ楽しそうに通っている。プログラムは高校まで続いており、その後の進路は様々と聞く。大学へ行かない生徒もいる。

一人一人誰もが持っている「ギフト」を最大限伸ばしていくには? 自身に問い続けていきたい。