靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

「神」を見ないことを選んだモーセ

2013-12-15 08:06:29 | ファミリーディナートピック
真のリーダーの条件とは? (”When Moses Was Afraid to Gaze Upon G-d” by YY Jacobsonより): 

モーセがリーダーとして選ばれたのには、四つの出来事があったためと言われる。

1.奴隷だったユダヤの老人が、鞭で打ちのめされ死にそうになっているところ、その鞭をふりかざす兵を突き飛ばした。

2.その翌日、ユダヤ人同士が争っているところ、仲裁に入った。

3.エジプトを出、砂漠をさまよっている時、井戸のそばで遊牧民の娘がいじめられているのを救った。

4、しげみの炎に「神」が現れた瞬間、顔を覆った。

1から3は、ユダヤの内と外に関わらず、「不正」を前にすると、いてもたってもいられず行動を起こすモーセの人物像が伺え、リーダーとして相応しいのが理解できる。



ではなぜ4か? まずはこの時の状況:

モーセが羊の世話をしていると、一匹の子羊が群れからいなくなったことに気が付く。辺りを探し回り、ようやく見つけたと子羊を抱いたところ、しげみの中に炎を見つける。「なぜあれほど激しく燃え盛っているのに、しげみを焼き尽くしてしまわないのだろう?」そう訝しく思い、近寄る。
 すると、炎の中にイメージが浮かび上がる。人類が生まれて以来、未来まで、争いが絶えない様子が映し出される。罪なき人々が無残に命を奪われ、善き人々が虫けらのように殺され、古代から未来までの繰り返しの、残忍な悲劇と血みどろの歴史。
 モーセは嘆く、なぜ善き人々がこれほどまでに苦しまなくてはならないのか。この世界のどこに公平さがあるというのだ? この世はどうしてこれほどまでに理不尽なのか?「神」よ、あなたはどこにいるのですか。あなたは完璧であるはずなのに、なぜこれほどまでの悪を創りだしたのですか。なぜこれほどまでの悪を許すのですか?
そこへ、炎の中から声が響く。「私があなたの神だ」
 モーセは顔を覆った。
     『トラ』より

モーセが顔を覆った理由には、あまりにもまぶしかったから、畏れから、など様々な解釈があるが、ここでは、ある一つの解釈について。

この時「神」は、この世の理不尽さの背景にある、「神からの視点」をモーセに見せようとした。

人は壮大なタペストリーを織り成す一つの糸のようなもの、周りの黄や青や赤の糸の連なりを見ることはできても、壮大な紋様の全体図を見ることはできない。
それでもモーセは、その「神」からの眺めを、壮大な全体図を見ることを、顔を覆うことで、拒否した。

なぜなら、彼の内にもし一パーセントでも、全ての理不尽を納得してしまえる「神からの視点」があるのならば、彼は周りの人々と共に悲しみ、苦しみ、共感し、嘆き、戦い、なぜだ!と拳を振り上げることができなくなってしまうから。

天国への階段を差し出した「神」に対し、モーセはこの地球に留まることを選んだと。

こうしてモーセは、「真のリーダー」となった。


¥ユダヤでは、「神」にはいくつもの名前があるとされる。神は一つでありながらいくつもの面をもっていて、その一つ一つの面に名前がある。一説には七十二の名前があるとも。

モーセが炎の中に見たのは、その中の一つ「Elokim」、審判を司る神。

そして『トラ』にはこんな記述がある: 

モーセは審判の神Elokimを見ることを恐れたため、慈悲の神Havayaを見るというメリットを与えられた。


嘆き悲しむ人々を前に、ああそれはね、あなたにこういった罪があったから、その罰なのですよ。これであなたの罪もぬぐわれますよ。よかったですね。「神」は完璧なのですから、全てに意味があるのです。全ては「神」のご計画通りなのです。

この地球に生きている人々のミッションとは、そんな「分かった気」になってしまうことではない。「分からない」という前提に立ち、共に悲しみ、嘆き、なぜだ!と問い、少しでもよくしていくためにと行動を起こしていくこと。そうして一人一人が、慈悲に溢れた存在となること。

(私自身、「神」と言及されることのある「存在」を感覚として信じているのですが、時に「無神論者」や「不可知論者」に感じる「正しさ」も、上の下線太字部分にあるのだと思います。
 また未だかつて「そのもの全てが表された言葉」はない、限りなく近い表現はあるけれど、そもそも言葉で表された時点で「ずれて」しまうと感じていて。そうした既成の「神」にすっぽりとあてはまらないからこそ、敢えて「無神」や「不可知」と唱えている人々もいるのでしょう。
 といって「神」という言葉で表し讃え集う場、「その存在」に限りなく近い言葉を伝える人々も必要であり。「全て」ではなくとも確かに「神」に触れられる場や言葉。このラビであるJacobson氏の記事は、そうした場を作り役割を担う人々が、そんな「神の信仰」の諸刃の刃的な面を自覚し、進んでいこうということなのだと思っています。あの最も「神」を信じ、「神」と近く歩んだともされるモーセが、顔を覆い「分かってしまうこと」を拒否したように。)



子供達も、「分からない全体図」について、感じることがあるようで色々話していました:

・「タペストリーの全体図」は、一人でも糸が欠けたら成り立たないんだよね

・この世に来る前に、自分でどんな人生がいいかを選んでいる。大変な人生を選ぶ人もいるし、短いものを選ぶ人もいる。人生を終えたら戻り、しばらくしたら、また新しい人生を選ぶ。

・卒業というものもあって、自分のミッションを完全に果たしたのなら、もう生まれ変わらなくてもいい。

信じているというより、こういう話も聞くことある、本当のところはどうかは分からないけれど、何となくそうかなとも思うという調子で話していました。こんなこと思っているんだと少し驚きました。


様々なストーリを想いつつも、ジャッジするのではなく、人の気持ちに寄り添い、共により良くなるようにと動いていけるといいね、そんな話をしました。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2013-12-15 21:33:48
・・・そこへ、炎の中から声が響く。「私があなたの神だ」
 モーセは顔を覆った。

神に形どられて作られた「人間」私達一人一人は=『神』すなわち『私』というモーゼは神自身『私があなたの神だ』という表現に。モーゼは恐れおののき、モーゼは顔を覆った。と解釈できますけど~どうでしょう? 難しいね。
返信する
ヨーキさんへ、コメントありがとうございます! (マチカ)
2013-12-18 08:35:17
畏れ多くて、私もそうだと思います! 流れからいって、自然ですよね。そしてユダヤの間でも、もっともな解釈の一つとして、そうあげられているようです。

ここでは、その上に、この「顔を覆う」という行為にはどんな意味があったか、という議論が取り挙げられていたようです。ユダヤにはこんな一つの行為に対しても、何千年にも渡る様々な議論解釈があって、本当に驚いてしまいます。そして私自身こうした姿勢を通し、一つ一つの物事を、様々な側面、層から眺めることを学んでいます。

本当、難しいですね。この切りがないように見える無限の奥深さ!学ぶべきことが多くあるなあと感じています。

読んでくださり、思われたことシェアしてくださってありがとうございます!

今日は摂氏マイナス20度!今次女のコーラスの発表から戻ってきました。市内何箇所かを回り、花屋さんの駐車場などでも歌ったり。スットキングにハイヒールの子なんかもいて、凍傷が心配でしたよ。さすがに途中建物に入り暖を取り、再び屋外で歌うということをしていました。(笑) 今から中学の迎え行ってきます。テキサスも冷え込んでいるでしょうか。どうぞ残りの週、暖かくお過ごしください!


返信する

コメントを投稿