靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、ホースラディッシュをマッツァに挟み

2013-03-31 03:20:46 | 今週の整理
1.冬に逆戻りのさむ~い日が続いています。雪も降る降る。週の始まりには、大雪で明日は学校が休みになるかもと、先生がクラスで子供達に言うほど。結局雪の中元気に登校していましたが。それでもあと一ヶ月もすればまだらになっているだろう雪、最後の一ヶ月、そりにスキーに、楽しみたいです。

2.次男とのんびり(を心がけ)お出かけな毎日。次男の件で、自宅でのプレイデートはちょっと難しくなってきたかなと話すと、じゃあ外で毎週会おう!ということに。こうして気の置けない友人達の笑顔に触れ、随分と元気をもらっている。ありがたいなあ。少しずつ暖かくなってくるし、外でキャーキャー走り回ろう!

3.今年も過ぎ越しの祭りを祝った。「自由」ということを思い出すユダヤの祭り。奴隷から抜け出るそのステップを儀礼によって再現する。自由への道に終わりはないというメッセージ。過ぎ越しの祭りに限らず、「奴隷から自由へ」というのは、現代の全ての人々の心にとって、大切なスピリットじゃないだろうか。同じことに向き合うのでも、奴隷的マインドか自由なマインドで向き合うか、常に選択がある。自分で自分の手綱を握る。それができる限りのことをする、人事を尽くすということ。


今日は三女の誕生日! 今から長男をNPO活動に降ろし、もうプレゼントは買ってあるのですが、自分達もプレゼント買いたいという姉達を連れてショッピング。その後、ウサギ型のケーキを一緒に。明日は、友人宅でイースターのエッグハント。子供達ウキウキ続きの週末です。

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように。まだまだ雪舞うアンカレッジより。

Have a wonderful week!

日常風景:

散歩そり、それ~。


こうえ~ん!


ふ~。


へへへ。


翌日は丘へそり!


いくよ~。


ひゃっほ~。


過ぎ越しの祭り。


ホースラディッシュ(奴隷時のにがみの象徴)をマッツァ(イーストなしパン)に挟んで。


うぐっ。


ひゃ~。

チック症について

2013-03-31 03:20:13 | 子育てノート
まだまだ渦中にあるのですが、随分と気持ちの整理がついてきたので、ここ一ヶ月ほどのことをまとめてみます。私自身、この一ヶ月という間、悩み、落ち込むなかで、同じような症状のある子供さんを育てられる親御さん達の話を聞き、頑張ろうと励まされたように、こうして向き合い改善へと取り組んでいる私達一家族の様子を伝えることで、少しでも楽になる方がいるのならば、そう願っています。

・次男の発症

三歳次男にチックのような症状が出始めたのが先月の終わり。プレスクールの帰りに車の中で物を落としてしまったという普段なら何でもないことが原因で、赤ちゃん以来こんなに激しく泣くのは初めてと感じるほど泣き叫んだ翌日、始まりました。秋以来何ヶ月間か行きたくないとぐずっていたプレスクール、やっと一人で行けるようになったのもつかの間、泣くことはないものも朝になると行きたくない!というのが再び始まっていました。そこで症状が出て日以来、しばらくお休みすることに。実は四番目の子にも四歳半の時、それらしい症状が出たことがあり、その時週一日で通っていた習い事を止めたところ、一ヶ月ほどでなくなったという経験があります。

 それでも、今回のものは少し違っています。三女のものが、鼻風邪をひいたあと、鼻をぐずぐずする表情が少し癖になったのかな、といった程度で、チックとまでは言わないのかもしれない、という様子だったのですが、次男のものは、首ふりを主に、時に表情や手も少し動くのです。その仕草の大きさも頻度の多さも三女のときとは比べ物になりません。小児科医に診察を受けたり、チックについての様々な情報を集め、彼の様子を見つつ、私と夫に何ができるかと探ってきました。


・チックとは

 自らの意志に関わらず繰り返し同じ仕草を繰り返してしまう症状を言います。瞬き、顔をしかめる、首を振る、などの動作チックと、あっあっ、ふんふん、などの声を発してしまう音声チックに分けられます。子供の一割から二割に見られるといわれ、男の子の方が女の子より三倍の確率で多いそうです。指や首をポキポキならしたり、貧乏ゆすりなども含めると何らかの「癖行動」をもっている人は、二人に一人という見方も。

 三歳頃から見られることのあるチック、子供のチックは一年以内に消える一過性のものがほとんどで、繰り返し出たとしても、90パーセント以上が大人になれば治るもの。それでも稀に残る場合も(ビートたけし氏や石原慎太郎氏のように)。

 その症状が重くなるとトゥーレット症候群と言われ、動作チックと音声チックが絡み合い、命に別状はないものの、日常生活に支障をきたします。症状を抑える薬はあるものの、根本的な治癒は今のところなし。


・原因と対処

 一昔前は、原因は全て母子関係にあるという説明が主。今は、脳の仕組みに原因があり、何らかの発達障害という説が主流。成長の過程で、脳のバランスがうまくとれなくなっている状態。ほとんどの場合は、成長と共に脳がよりスムーズに機能するようになっていくため消えていくのだそう。

 全く同じ環境にあっても、出る子と出ない子があり(一卵性双子の一人のみに出る例など)、小児科医によると、緊張や興奮を緩めるための、その子特有の表現方法、個性と。ある意味こうして「緩める」方法を学ぶことで、ストレスを溜め込むことなく、その子にとっての助けになるとも。

「予防とか、こうしたら良くなるとか、何かできることはないのですか?」と尋ねる私に、小児科医、きっぱり「ないです」と。「症状については『無視』が一番です。普通どおりに生活してください。プレスクールもあなたの選択ですが、戻して全然構いませんよ。ストレスに対し自分で慣れていこうとしている過程なんですから。日常生活で普通に出会うストレスくらいならば、慣れていかなくてはいけません。私達は子供達をcripple(不具)にはしたくないのです、いずれ自立して一人で歩いていかなくてはならないのですから」と。

「感受性の強い、敏感な子がなりやすい」とも。

 他の人が普通に通り過ぎてしまえることでも、何倍もの強烈さで感じてしまう、それは五人の子に共通して言える特徴かもしれないな、と感じることがあります。次男はその緊張を、こういった形で表現しているのでしょう。

 確かに「その子特有の表現方法」というのは納得のいく説明でした。同じように育ててきたはずの上の子達は発症せず、次男にだけ発症。ああ、私がああしてしまったから、こうしてしまったからと、かなり落ちこんでいたのですが、冷静に考えてみると、「母子関係に全て原因がある」ということならば、全員に何らかの症状が出ているはずなのです。思い返せば、上の子達に対しての方が申し訳なかったなあという失敗を多くしていたもの。何か他にも原因があるはずです。

 「ストレスに慣れていく過程」、それでも「習い事を止めたとたん治りそれ以来出ていないという三女の例」が示すように、取り除いても差し障りない原因は取り除いてやる、他の子が何ともないことでも、その子に対して無理過ぎるのならば、ハードルを下げるというのも必要だなと感じています。その子にとって「日常生活で普通に出会うストレスくらい」でないものは、取り除いていく。

 「愛情不足」「がみがみと叱りすぎ」「神経質」「過干渉」「ニグレクト」、そういった母親の姿勢や態度が原因でチックになるのだと、一昔前は母親のみが矢面に立たされてきたチック。次男の様子を見、私達の生活を振り返り、調べていくと、そんな単純なものじゃないでしょう、そう思えてきます。


・次男の症状観察

 次男の観察を続けて約一ヶ月。次男を見ていると、症状が出るときというのは、緊張、とまどい、チャレンジ、興奮状態にある時のようです。それは一概に「嫌だ」とストレスを感じている時だけでなく、嬉しくて興奮状態にある時などもです。まさしく興奮の緊張や張りを、症状によって緩めバランスをとっているのでしょう。

 そして最も出る時というのが、上の子たちと遊んでいる時。特に磁石なんじゃないかというぐらい、一心同体状態の四番目の三女と遊んでいる時。朝から今日もあなたに会えてよかった!と抱き合うことから始まり、学校から帰ってくる三女を待ち焦がれ、帰ってくればもう離れることなく遊び続ける互いに大好きな二人。これだけ一緒にいるのに喧嘩もたまにするくらい、三女も次男が可愛くてしょうがない。三女が右といえば、右、上といえば上、次男に何かを聞くときは、三女に聞くだけで、どっちみち三女と同じ答えを言うから分かっちゃうね、と上の子たちと言い合っているほど。

 それでも二歳上のおしゃまな(女の子の方が発達面でより早く色々器用にこなせるようになる場合が多いと感じています)姉と、付き合っていくには彼もかなり背伸びして張っている状態なのでしょう。そんな三女とこれほどべったり、しかも三女以外にも、姉達兄に囲まれ、家族が揃えば、興奮状態が続きっぱなし。

 ただでさえ色々なことを強烈に感じてしまう僕、兄姉のいないせっかくゆったりできる機会に、プレスクールという新しい環境で緊張続き。ママも一日中家事や兄姉達の世話に走り回ってるし、もうたまらな~い! 次男の状態とはそういうことなのかなと。


・ドーパミンを抑える?

 チックの研究では、「ドーパミンの過剰放出が原因」とする説が最も有力とされているようです。「ドーパミンの放出量」を抑えることで、症状も緩和されると。

 ならば、落ち着いてゆったり穏やかに三歳児であれる環境を作り出すことで、症状も治まっていくのではないか。確かに、同じ年齢の子達と遊んでいる時や、私と二人でゆっくりのんびりしている時は、あまり症状が出ないのです。

他にもドーパミンを減らすのに良い方法を調べてみると:

1.睡眠をたくさんとる
 ああ、これもまさしく。上の子たちと同じペースで寝起きしている三歳児。昼寝しないことも。ということで、外で思いっきり身体を動かす活動を午後一時半くらいまでし、その後ドライブして帰宅(昼寝を嫌がる彼も運動の後車に揺られいつしかすやすや)という昼寝を取り入れた生活パターンを始めました。

2、チョコレート、カフェインを避ける 
 チョコレートなんて上の子達が三歳の頃は周りになかったので与えたこともなかったのですが、今は周りにそれぞれの子供達が学校やお友達からいただいく様々なキャンディーやお菓子類が溢れてます。食べるのは時々ですが、上の子達が三歳だった時に比べ、口に入れる機会も圧倒的に多いです。

3、テレビやパソコンの使用を控える
 これらはドーパミンを増やすのだそう。これも、上の子達が三歳のときは、今のようにいつも誰かがコンピューターの前にいる(宿題やリサーチで上の子達の日常に必要、その他にコンピューターゲームだって時間を決めているものの、上の子達が交代でしていたら、全体的にはかなりの量)なんて状態はなかったです。スマートフォンも家に三台あるし。テレビを見るという習慣が家にはないのですが、映画は週に一度見るし、上の子達が育った環境に比べ、メディアに触れる機会に溢れてます。

こう見てくると、なぜ次男だけに症状が出ているのかが、かなり納得できます。四人の兄姉達に囲まれ、この生活ペースに環境、ドーパミン次から次へとどんどん放出状態だといえるかもしれません。


・これから

 まずは変えられる環境から変えていくこと。「ゆった~り、ドーパミン抑える環境を整えよう作戦」というのが、今の私と夫とが行き着いた計画です。上の子達がいない時は、今の内に!と走り回っていた家事もひとまずそこそこにして、まずは次男とゆった~り、けたけた笑えるような遊びをしたり、外で自由に思いっきり走り回る。たくさんスキンシップをとり、安心してゆった~りとした気持ちになれるよう。

 それでも、こうして症状を促すだろう環境に囲まれずとも、普通の日常生活以上の無理を与えていなくても、愛情たっぷりでスキンシップをとり、ゆったりと暮らしていても、「その子特有の表現方法、個性」と言われるように、元々出易い脳の仕組み、体質というのがあり、症状が出る子には出るのでしょう。そして一生この「個性」と付き合っていくという可能性もあり得る、その覚悟もできてきました。

 私達にできる限りのことをし続け、それでもどうしようもないことは受け入れる、そう進んでいきます。


 チックに取り組む全ての方々へ、心からのエールを送りつつ。


三歳児アクティビティーに遊ぶ日々:

公共のリクリエーションセンターにて、

いえ~い。

こうやって、


それ~。


図書館で歌たった後は、塗りえ。

悲劇に向き合う

2013-03-31 03:20:00 | ファミリーディナートピック
昨夜のファミリーディナートピック。

(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

悲劇に向き合うには:

もし、全体的な図を眺める視点があるのだとしたら、私達が見ているのは、その一部分。私達が分かった!と思っているのは、全体的図のほんの一部分。

何の罪もない善き人々が事故に会う、病気になる、亡くなる。周りに日常的に起こる「理不尽」なこと。

なぜ? そう問い続けたとしても、言葉だけが宙に空回り。

もしその全体図に近づく術があるのだとしたら、それは「沈黙」のみ。

聖書より:

寺院に初めて「神」を迎えるというめでたい祝いの日。モーセの兄Aaronの二人息子が、香をたき、その器を神前に差し出す。すると、炎が二人に燃え移り、モーセとAaronの目の前で二人の息子は焼け死ぬ。Aaronはただ沈黙。(Levit.,Chapter 10)

モーセが未来の賢者アキバ(大人になっても読み書きのできなかった貧しい農民だったアキバ、子供に混じり勉強を始めやがて何万人という弟子を持つ賢者に。彼の聖書の解釈も多く残され、その知恵は温もりに溢れている)について知らされ、「これだけの貢献をしたアキバ、どれほどの報酬を手にしたことでしょう!」と「神」に問うと、ローマ人に拷問を受け、吊り下げられ生きたまま焼かれ死んでいくアキバの様を見せられる。「なぜですか?  報酬はどこにあるんですか?」そう詰め寄るモーセに、「沈黙せよ」と「神」は言い放つ。(Minachot 29b)

「分かってしまったら」それはもう「神」ではないのだと。論理的に説明ができ、小さな人間の頭で理解してしまうのなら、もうそれは「神」ではないと。


「理不尽」な悲劇に、向き合う姿勢を教えられた話に、ホロコーストを体験した精神科医フランクルの著書に記された女性の話がある。

その女性は、金に埋め込まれた歯を繋ぎ合わせたブレスレットをしている。

「これは○○、これは○○、これは○○で、この小さなのは○○・・・」

そう一つ一つの歯を指しながら、ヘブライ語の名前を言う女性。ホロコーストで亡くなった九人の子供さん達の歯を、繋ぎ合わせて身につけているのだと。

「なぜそれほどの悲劇を思い出すものを、そうして常に身につけていられるのですか?」

そう問うフランクルに、その女性は笑顔で答える。

「私は今イスラエルの孤児院を経営しています。このブレスレットは私がこうして生きていく力の源なのです」


注意点:

・これらは自分にのみ当てはめる。悲しみの淵にいる他者に対し、私達にはなぜだかは分からないのだから、受け入れ、他のために生かしていきなさい、といった態度では接しない。他者に対しては、その悲しみ苦しみにただ寄り添うのみ。

・どうせ分からないのだしもう受け入れたのだから、と何もしないのではなく、受け入れつつ、自分にできる限りのことをし続けるということ。

イースター、卵塗り!

2013-03-31 03:18:54 | 出来事や雑感や (行事)
さて、始めよう!

友人:「卵ボイルしといてくれたんだ、ありがとう!」

私: 「えっ?」

用意しておくから!と皆に言っておいたものの、忘れていたというより、分かっていなかった。ボイルしとくものなんですね。(笑)

ぐつぐつぐつぐつから始め。


酢と水とフードカラーを合わせ。


つけて、


待つ。


出来上がり!


何度か繰り返し。


皆完成!

友人娘ちゃんと。少女にパステルに、ああ何だか春~。

走って走ってきゃーきゃーと。


学校帰りの娘達も加わり。

近況整理、「真夜中」という言葉に目をまん丸

2013-03-24 03:02:15 | 今週の整理
1.夫出張プラス普段長男の送迎を分担している知り合いも留守、しかも上の子達の学校中も学校終わってからもそれぞれのアクティビティーが立て続けに入り、ホント今週は毎日よく運転しました。(笑) 

2.次男のホームスクール開始というわけで、毎日特に朝から午後過ぎまで様々アクティビティー。月水金と全く違う場所で同じ親子連れに出会ったりして「あらっ、同じルーティンなのね」と互いに噴き出したり。博物館や図書館や公共のリクリエーションセンターなどでの幼児向け毎週の催し物、助かります。

3.午前四時半起きな毎日。その前にだいたい一・二度は目を覚ましてしまうのですが、とにかく四時半まではベッドから出ないと決めて以来、いいリズムです。十時寝る四時半起きるだと、以前二時や三時に活動を始めてしまっていたときよりも、だるくなることもなく、運転中眠くなることもなく、いいです。この朝の二時間ちょっとの書く時間、うんうん唸りながらスクリーンに向かってはいるのですが、何とも言いようのない嬉し楽しい時です。

4.知り合いに「アルカリ水」というのをいただき、試してみている。飲んでいてさして変化を感じるということはないのですが、飲み水(9.5pH)よりも強いアルカリ水でブドウをつけて、水道水で洗ったものと比べたら、そのあまりの違いに子供達と驚く。美味しい! いつもは水道水で洗っているのですが、強アルカリ水で洗ったものを口にした後は、その渋みにうわっと口から出してしまったほど。
 普通の水は油とは決して混ざらないのに対し、何でも強アルカリ水は油とも混ざるのだそう。そこで、油性の農薬などが強アルカリ水と共に流れるということらしい。洗った後の水も黄色く。普段、こういったものも身体に入れているんだなあ、としみじみ。

5.ダンスレッスンを終えた長女、学校に翌日提出する必要のある宿題の問題集を忘れたと気づき、もう誰もいないかなと言い合いながら、夜八時近くに取りに行く。電気が消えひっそりとした校舎、掃除夫の方が教室の鍵を開けて下さる。毎日忘れ物を取りに来る子達がちらほらいてね、僕にいいなさい、いつだって開けてあげるからと。何と毎晩真夜中まで掃除をしているのだそう! 
 日本の小学校の、生徒が毎日分担で学校中を掃除するシステム、本当にいいことだと思う。こちらではこうして掃除夫の方にまかせっきり。アジアの島からの移民というその方、「問題集、あってよかったね」そう手を振って送り出してくださった。せめて毎晩真夜中までこうして掃除している方がいるからきれいなのだと、日々思い出させていけたら、「真夜中」という言葉に目をまん丸にして驚いていた長女の様子にそう思う。学校最終日のプレゼント、今年は担任の先生だけでなく、あの方にも用意しようね、そう長女と話しつつ。

春日が続いていたのですが、昨日から再び雪がちらつき、空も地面も銀世界。まだまだ五月まではこんな調子でしょう。
今日は朝から長女水泳、長男はNPO活動、皆そろった夕方には、雪雲の下散歩にでも。今週は友人達とわいわいイースター卵塗りの予定!楽しみです。
雪の舞うアンカレッジより。

Have a wonderful week!


日常風景:

近所のトレール散歩。


長男と次女。

次女は長男にくっつきたがるのですが、長男はあまりべたべたしたくない年頃。この後も手をふりほどき。(笑)

走り回って。


ちょうど良い杖を探す姉妹。


翌日は近所の池。


冬を越した鴨たち。


もうすぐ赤ちゃん生まれるね。


兄に雪を投げる下二人。


きゃ~、


子育てノート、失敗を成功の元ととらえる

2013-03-24 02:59:42 | 子育てノート
成長することを止めてしまう大きな理由が、「失敗への恐れ」です。これだけ努力してもしうまくいかなかったら・・・、こんなに頑張っても失敗してしまったら・・・、ならば初めから足を踏み出さなければ安全、そう次の扉を開けることを止めてしまいます。成長とは今の自分から変化していくこと、新しい自分へと足を踏み出していくことです。まずは踏み出さなければ、失敗もありませんが、成長もありません。

失敗は、どうしてうまくいかなかったかという理由を学ぶ機会、どうしたら今度はうまくいくのかというヒントを手にする最高の機会だと教えていきたいです。子供が何かをうまくできなかった時は、責める時ではなく、失敗からの学びを手に、進み続けるよう励ます時です。

失敗から立ち上がる体験を何度もさせる 
 赤ちゃん期から、その子の様子を見ながら少しずつ、失敗から立ち上がる体験をさせていくことができます。転んでも大した怪我をしたのでなければ、自分で起き上がるよう励まし、その後抱きしめてやります。手に持っている玩具を落としてしまったのならば、すぐに手を貸し拾ってやるのではなく、場合によっては気づかないふりをし自分で取らせます。食べ物をこぼしたのならば、「どうしたらいいかな、布巾はどこにあったかな」と布巾を持ってきてふき取るまで、年に応じて自分でできることは自分でさせます。飲み物をお気に入りの服にこぼしてしまったのならば、一緒に染み抜きをしてみます、算数の問題を間違えてしまったのなら似たような問題をいくつか繰り返し同じような間違えを防ぐようにし、廊下でボール遊びをしていて大切な置物を割ってしまったのならば、危険でないようならば自分で処理させ、その後に今度はどうしたら割らないですむかを考えさせてみます。「屋内ではものを投げない」「柔らかいボールを転がすだけならいい」など、様々なアイデアを出し、これからどうしたらいいかを学ぶでしょう。もし失敗によって、人に迷惑をかけてしまったのならば謝り、今度はどうしたら迷惑をかけないですむか考えさせます。

 転んだら起き上がり、今度転ばないためにはどうしたらいいかな?と模索する、この一連のセットを、何度も何度も繰り返えすことです。アラスカの長い冬、スケートはこちらの子供達がとても身近に感じているスポーツです。我が家も毎週のように湖に出かけるのですが、子供達の様子を見ていてもつくづく思います。転ぶことで上達していくのです。初めは滑っているよりも、転んでいることの方が圧倒的に多いものです。

何度も何度も転んでやっと学ぶこともあります。失敗にいつまでも拘り、くよくよとする時間やエネルギーを、問題の解決や今後の改善のために用いるよう促していきたいです。

 長男が四年生の時、一年ほど、本人のたっての希望で劇団の活動を熱心にしていた時期があります。その頃の出来事です。

 年にいくつかある公演のオーディションを受け、役を獲得すると、二ヶ月程の間ほとんど毎日のように集まり、一つの舞台を仕上げます。公演は、市のダウンタウンにある本格的な劇場です。

 結構な長さのある台詞も早いうちから覚え、公演を楽しみにしていました。公演間近になると、本番さながらの舞台リハーサルが何日か続きます。普段ならば就寝の時間に車で迎えに行くと、ネオンに照らされた車の中で、その日のリハーサル風景を毎晩興奮して話していました。今日はあの子が途中で台詞を忘れてしまった、あの子のタイミングがずれてしまった、そしてどうやって皆でフォローしてごまかしたかを面白そうに。

 そしていよいよ本番初日、舞台を無事終わり、拍手を浴び二ヶ月間共に頑張った仲間達とお辞儀をする長男。楽屋口に迎えにいくと、花束を抱えうつむき加減、そのまま無言で車に乗り込みました。車を発車させても、いつものように興奮して話すということはなく、窓の外を向いたままです。

「公演うまくいってよかったね。みんな本当に上手になって。毎日一生懸命頑張ってきたものね。公演もあと三日したら終わりね」
 そう明るい声で話しかけても、話しません。よく見ると、涙が頬をつたっています。
「どうしたの?」
 そう聞く私に、すすり泣きながら声を絞り出すように言いました。
「間違えたの。台詞を一行とばしちゃったんだ」
 拳を握り締め、泣きじゃくる彼。
「そう? ママ全然気がつかなかったわ」
 他のメンバーの子達がすぐにフォローに入ったのでしょう、観客席からは全てがスムーズに進んでいるように見えました。泣き続ける長男に少し明るい声で言いました。
「そっか。あれだけ頑張っていたのに悔しかったね。でも失敗したものはもうしょうがない。まだ初日だし、これから取り返していけばいいのよ。皆でフォローしてくれたんだね、ありがたいね」

 リハーサルでも誰かが間違えると、自分がフォローしたんだと得意げに言っていた長男。この失敗が、彼にとって大きな転機になったようでした。

 それ以来、「失敗」した周りの子に対して、その悔しさや恥ずかしさなどの痛みに、より共感できるようになったようです。面白おかしく他の子の失敗を報告することもなくなりました。「大丈夫、次に頑張ろう」そう失敗してしまった子に、心から声をかけ励ませるようになったのです。

 また演じる面でも、「もう自分は覚えちゃったからいいんだよ」といった態度ではなく、より謙虚に、練習の朝もう一度台本を見直してみるといった姿勢が見られるようになりました。どうしたら失敗を繰り返さないか、そう自分から行動を起こすようになったのです。そして「失敗」を過度に恐れることもなくなりました。失敗を乗り越えることで、失敗してしまったのならば、それまでの何倍も努力して取り返せるんだ、そう思えるようになったようです。

 公演最終日、初日には比べ物にならないほど、のびのびと演じている長男の姿が舞台にありました。


 「失敗」によって得たこれらの態度や姿勢を「成功」と言わずして、何を成功と言いましょうか。「失敗」を通し、長男はその後の人生に必要な、かけがえのないヒントを手に入れたともいえるかもしれません。

 子供達と共に、たくさんの失敗を体験してきました。そして子供というのは、言葉で諭し先回りして頭で学ぶよりも、時には実際に「失敗」を体験をすることで、本当に心から学ぶものだと感じています。周りや本人の安全が脅かされるような失敗は、できる限りしないよう最善をつくしつつも、たくさんの失敗をさせながら、自分なりの道を見つけていく手助けをしていけたらと思っています。傍で失敗の痛みに寄り添いつつ、周りに迷惑をかけてしまったのならば、一緒に頭を下げて回る。子供時代から失敗を常に恐れていた私自身でしたが、五人の子供達と何度も失敗を通る内に、随分とそう腹も据わってきました。


先達や周りの人々から学ぶ

 歴史に名を残した人々の伝記を読むことで、大成功を収めたとされる人々が、どれほどの失敗を繰り返してきたか、知ることができます。

 千回近くも実験に失敗したとされるエジソンは、「失敗」を「千回のステップだった」と言いました。奴隷解放を成し遂げたリンカーンは、十回近くも選挙に落選しています。相対性理論を提示したアインシュタインは、四歳までまともに話すこともできず七歳まで読み書きもできず、小学校の先生にも知能が低くてお手上げだと言われていました。第二次世界大戦でイギリスの危機を救ったチャーチルは、士官学校の試験に三度落ち、学校では落ちこぼれ扱いでした、進化論を唱えたダーウィンは、医者になることに挫折しています。六十年代世界中が熱狂したビートルズは、七回もオーディションに落ちたのです。世界中の人々にインスピレーションを与えたアップル社のジョブス氏は、大学をドロップアウトし、自分の作った会社から追い出されています。アメリカで最も読まれている絵本の著者ドクター・スースは、二十七回も出版を断られたといいます。

伝記を読むことで、失敗は後の大成功の元にもなり得るのだと知ることできます、そして人生がいかにアップダウンの連続か、そのダウンからも立ち上がり、歩き続けることがいかに大切かを学びます。

また世の中に良く知られた偉人とされる人々だけではなく、周りを見回せば、身近なところにも、失敗や難しい状況から立ち上がり、一生懸命歩いている「偉人」がたくさんいるはずです。事業に失敗したり、大切な人々を失ったり、事故災害に合ったり、病気だったり、苦しい状況の中、一歩一歩必死で足を踏み出している人々の存在を思い出してみます。それらの体験を直に聞かせてもらうのも、子供達にとってとても貴重な体験となるでしょう。

夫の母親は、六十間近で博士号を取りました。三十二歳から大学に行き始め、三つの学士、二つの修士を取り、高校や大学でスペイン語や社会学を教えつつ、三十年近くかけようやく手にした教育学博士号です。南米から米国へ移民して来た当時は、学位もなく、幼い子供を連れ、メイドや掃除婦をしていました。子供達はそんな祖母の昔話を聞くのが大好きです。目の前の明るい祖母が、どれほど苦労し困難を乗り越えてきたかと、励まされるようです。

 チャーチルはこんな言葉を残しています。
「成功するためには、失敗しても失敗してもその熱心さを失わないで取り組むこと」

 いくつもの失敗を乗り越え歩き続け、遂には大成功を収めたチャーチルの言葉は、とても説得力があります。子供達と歴史上の人物や周りの方々から学ぶことで、私自身も親としてどれほど励まされてきたか分かりません。

 失敗を責めるよりも、失敗を学びの機会だと捉え、先達や周りの人々から学びつつ、失敗を成功の元と捉える習慣を身につけさせていきたいです。


上に描いていける

 昔、子育てのワークショップで、インストラクターが、「親に一番必要なのは『自分を許すこと』です」と言っていたのを思い出すことがあります。その時はあまりピンとこなかったのですが、子育てを続ける上で、ああこういうことかなと思うようになりました。

 毎日続く子育て、私自身、失敗の繰り返しです。疲れていたりするべきことがたまっていてイライラとしているところに、理不尽なことをする子供についつい怒りすぎてしまったり、地面に咲く花にしゃがみこんで感動している子供を、「早くしなさい!」と怒鳴って前へ進ませたり、子供の言い分を聞かず頭ごなしにあなたが悪いと決め付けてしまったり、本人が一番堪えているだろう子供の失敗を必要以上に責め立ててしまったり、うまく物事がまわっていかなかったのは自分の段取りが十分でなかったのに子供達のせいにしてしまったり。自己嫌悪に陥り、より不機嫌になり再び周りに当たり、そう坂を転げ落ちるように悪循環にはまり込んでしまうことが何度もありました。

 そんな時、「自分を許す」ということは、確かに助けとなるかもしれません。ノンストップで続く育児、瞬時に切り替え、新しく足を踏み出すことの大切さをつくづく思います。罪の意識にがんじがらめになっていたとしても、何らかの解決策や改善策が手に入るわけでもありません。間違えたと思ったのならば、次にどう良くしているかと立ち上がり進み続ける、子どもに、「怒りすぎてごめんね。他にしなければいけないことがたくさんあってイライラしていたの。これから気をつけるね」まずはそう謝るのもいいです。

 「言ってしまった言葉」「してしまったこと」、私も何度後悔してきたか分かりません。それでも子どもというのは、大人よりもずっと「今」に生きています。それはもう小さな子であればあるほど。子供にとっては、大人が思う以上に、「過去どうであったか」より「今どうであるか」が大きいのです。失敗から気持ちを切り替え、今、そしてこれからを良くしていく。子供達は、今のあなたの笑顔に、ほっとするのです。

 子供達にも良くなるチャンスをすぐに与えるよう心がけたいです。叱った後、いつまでもそのイメージを引きずり、その子の顔を見る度、そのイメージを重ねてしまうことがあります。それでもその子自身も、良くなりたい良くありたい、そう思っているのです。切り替え、リセットし、今この瞬間に持ち直す。

 誤った線を引いてしまったのなら、上からどんどん新しい線を引いていく。小学校低学年の頃、親の友人だった画家が、近所の子供達を集め、絵を教えて下さったことがあります。絵を描くといういうことに、消極的だった私、間違えたらどうしようと恐る恐る真っ白なキャンパスに、黒い線を描き入れます。まちがえた、あっ、またまちがえた、そう下書きの線を何度もごしごしと消す私に、横で見ていたその若い画家は、「消す必要なんてないんだよ、上からどんどん描けばいいんだ」そう言いました。

 思い通りに引けなかった線の上から、何度も何度も線を引き直すうちに、初め頭で描いていたのとはまた違う、思いもよらない深みのある絵が出来上がり、ペンを置いて、絵を前に呆然としました。こんなやり方があったのかと、小さいながらも衝撃を受けたのを覚えています。

 引いてしまった線は消さずとも、上に描いていくことができる。一度してしまったことは、もう消せないけれど、その上からどんどん新しい線を引いていくことはできる。「なんて線を引いてしまったんだろう」と落ち込んでいる間に、上から一本でも新しい線を引いていく。そうすることで、初めから完璧な線で描かれた絵よりも、味わいのある心に響く絵ができあがります。

 あの幾つもの線が重なる絵に、はっと息を呑んだ時を思い出しつつ、今日も子どもたちに向きあっていきたい、そう思っています。

子育てノート、叱る時と場を選ぶ

2013-03-24 02:58:54 | 子育てノート
公に、人前で、お友達の前で、大声で叱り飛ばす、確かにそんな咄嗟に動く必要のある場合もありますが、叱る場や時を選ぶことができる場合も多くあるもの。

公に叱られるのならば、子供は人の目や恥ずかしさばかりに気をとられ、「改善」にはなかなかフォーカスできないことも。また恥ずかしさから怒りをためてしまったり。

静かな部屋で一対一、や、寝る前の静かな時間などに話し合うと、「改めよう」そうよりフォーカスしていける場合が多い、そう感じています。

良くなるため、そこに親も子もフォーカスできるように。

「安心場」という救い

2013-03-24 02:58:34 | 思うに
親のどっしりとした佇まい、太陽のようにカラカラとした笑顔に、子供達は安心するもの。

大丈夫よ、どんとこい、そんな肝っ玉母さんの笑顔。

からっと空気をかえ、大丈夫よと明るく元気に接しているうちに、子供達もああ大丈夫なんだと元気になっていく。暗闇に一緒にはまり込むよりも、暗闇を背に、太陽に向かって歩く姿勢を見せる。

そうはいっても、私自身、もう元々弱弱なんです。そんな線が細いことでどうするのだと、自分を自分で叱咤しつつ今でも進んでいる状態。

今回の次男の件でも、心が痛くて。あげく心臓がちくちくしだし、やばい心臓病?と思いきや、「ちくちく」という痛みは精神的なものである場合が多いと聞いたとたん、ちくちくが消えたり。

こんな私が、日々走り回り笑顔で五人を育てていられるのも、心の奥にある「安心場」のおかげです。安心場に戻り、癒され、また進み続ける力をいただき、この感覚をはっきりと感じることがなかったのならば、私はとっくに潰れていたでしょう。私はこの安心場の温もりに生かされているのです。

この「安心場」とは、私自身が創りあげた妄想にしてはあまりにもリアルで、確実に私自身の感情から心の状態から身体にまで影響を及ぼし。とにもかくにも、たただだありがたいとしかいいようがない救いです。


どうしようもないことというのはあります

それらどうしようもないことを受け入れ 自分にできる限りのことをしようと進んでいく 

その力の源 それが 私にとっては この心の奥の安心場です

次男のホームスクール

2013-03-24 02:58:02 | 子育てノート
次男のプレスクール、結局来年度の九月まではお休みして、ホームスクールをしながら様子をみることに。

彼のぽつりぽつりと吐露する断片的な言葉を組み合わせると、それが今は彼にとっての最善なのかなと感じています。泣かずに行けるようになり、もう僕は泣かないでママと離れられる、そんな自信がつき嬉しそうではあったのですが、それでも、どうしてもまだ一緒にいたいと。一日何度かの言葉でそう表すだけでなく、それが感情面身体面にも表れ始め。

五人の末っ子。特に赤ちゃんではなくなり自分のことは自分で随分とできるようになり始めた頃からは、上の四人がいる時は、私はどうしても上の子たちにかかりきり。日々上の子たちのペースに引っ張りまわされ、それでもほとんど駄々をこね困らせることもない次男。ついつい私自身まだまだ三歳児だということを忘れ、ついてくるのを当たり前と捉えてしまうのですが、普段周りの様子に合わせ一生懸命必死に頑張っているのかもしれないなあと、今月に入ってからの彼なりの自己主張にはっとする日々です。

「全く手のかからない子」、プレスクールの先生方からもそう言われ。それは普段上の子たちの様子、彼に手のかけられない私の表情を読み取り、自分でぱっと動くことに慣れているからなのでしょう。

集団生活は、三歳児の彼には家の中だけで今はもう十分なのかな、上の子たちがいない間は、彼が彼であれる時間を、自分のペースで進める時間を作ってあげる方が、より必要なのかもしれないな、そう思い直し。

ということで! 月曜から金曜日まで、親と子のアクティビティーに走り回る日々です。博物館や図書館でのクラフトや歌や読み聞かせ、ジムナスティックで走って飛んで、音楽教室でリズムに合わせて共に踊り、公園遊びや散歩やそりで思いっきり太陽を浴び雪の中を転げまわり。新しい週のリズムができてきました。

次男、笑顔も増え、身体的な表れもひいていき、ハッピーな様子に。ああ思い切ってがらりと生活を切り替えよかった、そうほっとするここ数日です。

思えば、長男以外はほとんどプレスクールに行かなかった家の子達:

長男:三歳(週五日各三時間)、四歳五歳(週二日各三時間)
長女:三歳(週二日各三時間、兄と一緒のクラス九ヶ月のみ)
次女:五歳(週二日各三時間二ヶ月のみ)
三女:四歳(週一日各三時間八ヶ月のみ)

プレスクールをホームスクール(長男と長女はキンダーもでしたが)は、家にとってはまた例年通りの繰り返しといえばそうなのですが。上の子達とここ来たなあ、これしたなあ、と今の次男との毎日に懐かしく思い出しつつ。

よしっ、次男がプレスクールに行ったら・・・、そう膨らんでいた私自身の将来に向けてのあれやこれやの計画もしばし延期。ああ思うようにはいかないものだなあ、と思いつつも、次男との時をとことん楽しもうと私も腹を据え。一日中身体を動かすので、おかげさまで共にぐっすりです。

お世話になったプレスクールの先生方に、そしてこうして過ごせる環境に感謝しつつ。


自然博物館にて:

発掘作業。

粘土。


豆で遊び、


クラフト。


パペット。



ジムにて:


ぶら~んぶら~ん。


横になっていたら、


だんだん膨らんで、


ジャンプ!


しゃぼんだま!



リクリエーションセンターにて:

くねくねして動くこの乗り物お気に入り。

一緒にホッケー、バスケット、サッカー真似事して、次男も私も汗びっしょり!

イメージ、内の炎を燃やし続けるために

2013-03-23 23:59:58 | イメージ・ヴィジョン
昨夜のファミリーディナートピック。

火が燃えるイメージを浮かべつつ。

内の炎を、パッションを、燃やし続けるには

1.薪をくべる
炎は与えられ、それでも薪をくべるのは自分の仕事。

2.周りの灰を毎日掃除する
日々気分新たに始める。また炎を燃やすという人の目を引くような作業だけでなく、灰を掃除するという一見何でもないようにみえる作業も同じように重要。日々の生活でも、一つ一つの人目につかない何でもない作業も同じように重要という姿勢で向き合う。

3.インスピレーションに触れる。
インスパイアリングなソースに触れる時を。家ではここ九年近く毎週続けているファミリーディナーがいい機会になっています。

4.旅路(変化期)にはいつもと違ったケアを。
囲い、蓋をするなど。

5.火を消す因より燃やす因にフォーカス。
燃やす因にフォーカスすることで、消す因は溶けていく。

近況整理、ああ長い冬が終わろうとしている

2013-03-17 03:02:04 | 今週の整理
1.ここ何日か、日中の気温が零度以上になることも。道路の雪は日に日に解け、雪解け水の流れがあちらこちらに。真っ青な空が続き、真っ白な雪が照らされ、上から下からどこ見回してもとにかくまぶしい! サマータイムも始まり、夜九時頃でもうっすらと明るく。ああ長い冬が終わろうとしている。

2.春休み一週間。ぽかぽか日差しに誘われ、外遊びな毎日。上三人不在の前半は下二人連れて公園やトレールのはしご。後半は皆で連続三日スキー。自宅から車で十分ほどのところにスキー場。五歳三女も初アルペンスキー! 友人の娘ちゃんと二人でコーチからレッスンを受け、二日目にはリフトに乗り、山上から滑ってくる。私は三歳次男を連れ、スキー場周りをトレッキングにそりに。毎日太陽をたくさん浴びて、ぐっすり眠って。陽の熱が体に沁み、ぽっかぽかです

3.長男三日間の救援活動トレーニングキャンプから戻る。三十人程のティーンネージャーが集まって。
 初日は朝7時から夜の十一時までみっちり講義。マッキンリー山での遭難、幼児の捜索(どんなところを探すか、小さな穴のようなところに丸まっている場合があるなど)、アルツハイマーの老人の捜索(アルツハイマーの特性、昔に戻っているなど)、墜落した飛行機の位置確認、怪我の処置、洪水の時には、地震の際は、などなど、とにかく実際の救援救助に必要な知識を盛りだくさん。
 そして二日目三日目は朝六時から夜十一時まで、森や山に入り、実地訓練。電波を放つ機械を山の中に投げ、アンテナと探知機を駆使して探したり、怪我人が出たと想定して、その「怪我人」を山中から実際に運び出してみたり。
 もういくつかのトレーニングを積むことで、長男も実際の救援活動に参加することになるそう。このNPO、軍隊のような上下構造、規律、厳しさなのですが、生死に関わる集団活動、普段そういった雰囲気からはかけ離れた生活のなかで、長男にとって背筋を伸ばすとてもいい機会になっているとつくづく感じています。帰ってくるとびしっとした姿勢や顔つきに変わっています。まあしばらくするとまた戻るのですが。(笑) 何よりも本人がかなりやる気になっていることが大きいです。
 特にティーンにもなれば、家族や学校だけでは、その子のニーズを満たすことは難しいと感じています。こうして技術面だけでなくバリューも含めコミュニティーで若者を育てようとして下さること、本当にありがたいです。それは他にも、何らかのスポーツチームや、宗教的な組織や教会でもあったりするのでしょう。

今朝は、昨夜からの誕生会スリープオーバーの次女を迎えに行き、長男NPO活動に降ろし。明日から夫一週間出張なので、その準備。皆で散歩に出かけ春の太陽も浴びよう!

皆様の一週間が素晴らしいものとなりますように! 雪解けのアンカレッジより。

Have a wonderful week!


日常風景:

公園!


まぶしくてまぶしくて。


グリーンハウスにも立ち寄って。

さぼてん、へびみたい。

川岸も解けてきてるね!



スキー場にて。

友人娘ちゃんと三姉妹。

滑るよ~。

友人君と滑りづめであまり会うことのなかった長男。


次男は周辺でダンボールそり。


雪堀り遊びも。



夫の誕生日!

はっぴば~すで~。

キャンドル吹き消す!

一本ですが。


お友達とも毎日遊んで。

クラフトしたり。


楽器と共に、


練り歩いたり。


お医者さんごっこだったり。


友人宅にて


獅子舞したり。



長女、じゃがいもバッテリー実験中。



雪中ハイキング、変わらないもの

2013-03-17 03:01:02 | 風景・散歩・旅
雪舞う中、ハイキング!


カリフォルニアからの客人を連れて。


晴れていたならば、アンカレッジを一望できただろうにというフラットトップ山。

一望・・・。


客人と話しながら歩く。

メキシコ出身の両親を持つというその客人。走り回る子供達をニコニコと見守りながら、

「さて、五人それぞれのパーソナリティーはどういった感じかね」と。

「パーソナリティーですか。成長につれ変わっていきますからねえ」

自分の中に、この子はこうだとあまり決め付けたくない気持ちがあるのを感じつつ、そう答える。すると、

「いや、パーソナリティーというのはね、一生変わることがないものなんだよ。変わるのは、行動や考え方であって。知識や知恵をつけるうちに、馬鹿になっていく者もいれば、賢くなっていく者もいる」

メキシコでは多くの人々が、伝統的にたくさんの名前を持っているのだそう。母方と父方の苗字、プラス、あれやこれや。その中に、誕生時にその子のパーソナリティによって付けられる名前があるという。子供時代様々な手続きでフォームを渡されると、いつも名前を書く欄にどこまで書けばいいのかとまどったと、笑いながら。

用意はいい?とウインクし、ご自身の名前を唱える客人(「唱える」と感じたほど長い!)。

変わらないものと変わるものと。

もし変わらないものがあるとするならば、

その変わらない中心から、

少しでも良きものを生み出せるよう助けていきたい、

そんなことを思いつつ。


それ~。


ベンチ!


トンネルくぐり。


森の住人に。


静かだね。


よしまた出発!


登って走って。

ほっと一息。

子育てノート、バランスを支えるもの

2013-03-17 03:00:30 | 子育てノート
・バランスを支えるもの

 ある夏の休日、家族でサイクリングに出かけました。三十分ほど走り、公園にたどり着くと、遊具の隅に人だかりができています。覗いてみると、白樺の木の間にロープが張られ、その上を中年の男性が歩いていました。右に左に前に後ろに揺れながら、前へ前へと進んで行きます。ぴんと張った黒く平たいロープが、足を踏み出す度に曲線を描いてしないます。周りの視線を一身に集めた綱渡り師は、往復して元の地点に戻ると、ロープからぽんと飛び降り、拍手喝采を浴びます。すると今度は、周りの子供達に、順番に綱の上を歩かせて下さいました。

「ありがとうございます。子供達大喜びです」

 そう話しかける私に、さわやかな笑顔で「You are welcom」と答えながら、きゃ~きゃ~と綱の上を歩く子供達を眺めています。何度も落ちながらも、またよじ登り歩き始めようとする子供達。皆なかなか前に進まないようです。

「あなたが歩いている時は、あんなに簡単そうに見えたのに。難しいものなんですね。普段もお仕事でこういったことをされているんですか?」

「いやいや、楽しみのためだけにしているのですよ。だって、ほら楽しいじゃないですか、見て下さいあの笑顔」

 うわあ、あれ~、おっとっと、そう声を出しながらロープを歩く赤毛の男の子、目を輝かせその男の子を見上げる子供達、その1人1人をを指し示し、嬉しそうにそうおっしゃいます。

 長女と長男の番になりました。地上一メートル程のところに張られたロープの上へ、足を踏み出していきます。右に揺れ左に揺れ、なかなか前へ進むことができません。地面に立つ私が差し出す手を放せば、瞬く間にロープから落ちてしまいます。手をしっかりと握ったまま、一歩一歩進んでいきます。手には汗がにじみ、身体に力が入り緊張しているのが分かります。実際に綱の上を歩いてみることで、バランスを取ることの難しさを、体験したようでした。

 一通り集まった子供達が歩き終えた後、口々に質問が出ました。

「どうしたら、あなたみたいに、そんなにも軽やかにロープの上を歩くことができるようになるんですか?」

「毎日練習することだよ。私もね、トレーニングを欠けば、すぐに綱の上から落ちてしまう。とにかく毎日続けるんだよ。それがバランスを保つ秘訣だよ」

 ロープの上でバランスを保つためには、綱の上を歩く練習の他にも、身体の隅々の筋力を鍛えることに、毎日の大半を費やす必要があるのだそうです。真夏の太陽に照らされ、シャツを脱ぎ捨てた綱渡り師の身体に、はっと息を呑みました。首、胸、腹部から手の先まで、そしてショーツから伸びるふくらはぎからつま先まで、隙無く引き締まった筋肉。綱の上で、絶妙のバランスを支えていたのは、この見たことも無いほど鍛え抜かれた身体、毎日のトレーニングの積み重ねだったのです。


・バランスを支える習慣

 成長する力の要は、バランスです。そのバランスを支えるのも、また普段の積み重ねといえるのではないでしょうか。普段の筋力トレーニングの習慣が、綱の上でバランスを取りつつ軽やかに進むことを可能にするように、普段の心がけや実践の積み重ねこそが、子育てにおいての絶妙なバランスをとることを助けてくれるのです。

 何も無いところから、突然絶妙なバランスが取れるようになるということではありません。あちらに揺れこちらに揺れ、何度も落ち、それでも毎日こつこつとトレーニングを続けること、成長力を支えるのも、そんな日々の繰り返しです。

「バランスを取る」とは、感覚を基にした曖昧な言葉にも聞こえます。それでも、綱渡り師の日常のトレーニングが、分かり易い一貫したメニューを基にしているように、成長力を支える日々の習慣というのも、明確に表されるものです。成長する力を支えるためには、次の三つの習慣づけをしていくことが役に立ちます。

一、結果より過程を重視する
二、失敗は成功の元と捉える 
三、他人と比較して歩みを止めない

 これらの習慣はいずれも、「利き手で抱える」をより強調したしたものです。家庭から一歩外へ出れば、過程より結果を要求され、失敗をすぐには許されることがなく、一直線上に並べられ他人と比較されることが多いでしょう。「もう片方の手で押しやる」がより優位の社会で、家庭では一貫して、もう一方のバランスを強調していく習慣づけをしていくことが、子供を健やかに成長させるバランスだと感じています。

 これらを習慣として持つ子供達は、将来どんな荒波にさらされようとも、潰れることなく力強く進み続けていくための、しなやかなバランス感覚を身に着けているのことになるのではないか、そう感じています。

子育てノート、バランス

2013-03-17 03:00:01 | 子育てノート
大切なのは「バランス」

 無条件に愛することが大切です、いっぱい抱きしめてあげましょう、信じてあげましょう、少々のことは目をつぶって大らかに、のびのびと育てましょう! そんな言葉を育児書やどこかで聞いては、その子のしたい放題させ、否定的な言葉を一切使わず、「いいのよいいのよ」とニコニコ微笑み続ける母になってみる。

 しばらくして、小さな時にしっかり躾けておかなければ、後から取り返しのつかないことになります、最近叱られたことのない子供というのが増えてきて、そんな子は何かあるとすぐに挫折してしまうのです、何をしていいのかよくないのかの境界を、よく分かっていない子が増え集団生活が成り立ちません! そんな世間の声を聞くと、子供達の日常生活の逐一まで口を出し、頭ごなしに叱り飛ばす母に変わる。

 振り返ると、あちらに揺れ、こちらに揺れ、そう何度も繰り返してきました。特に子育てを始めたばかりの頃は、周りに溢れる情報に翻弄され、その「揺れ」も半端ではなかったかもしれません。ようやく揺れ幅も少なく、丁度よい加減というのはここら辺かなと感じ始めたのは、随分と後になってから、四人目五人目の育児が始まってからといっても過言ではありません。

 今ならば、たくさん抱きしめ、のびのびとさせ、無条件に愛しつつ、その子の心の底の部分は信じながらも、心の底以外は大丈夫と信じ込むことなく、境界から向こうへは行かないよう躾けていく、それら全てが必要で、それらの「バランス」こそが大切なのだと言えます。無条件に愛するだけでも、信じるだけでも、いっぱい抱きしめるだけでも、細かいことは咎めず大らかにのびのびとさせるだけでも、厳しく叱って躾けるだけでも、十分ではないのです。どの方法が正しい正しくないというのではなく、全て正しさの一面であり、そしてあくまでも一面でしかありません。

 大切なのは、「バランス」です。そう分かったからといって、実際に実行できているかといえば、それはまた別の話です。日々子育てをしていれば、次々と問題も生まれますし、失敗の繰り返しです。それでも、「何らかのメソッド」に頼るよりも、巷に溢れる様々なメソッドを参考にしつつ、その時のその子自身に向き合い、それらのメソッドの間で最適な「バランス」をとっていこうとすることで、子供達に対する姿勢も随分と違ってくると感じています。

 一つの姿勢を、画一的にどんな子にもどんな状況にもただ当てはめるのではなく、その子がおかれた状況や、その子の性質や性格、その子自身をよく見、その時々によって適切な姿勢をバランスよく使い分けることです。

 たくさん抱っこしてやりながらも、その子がお友達を叩いたり、物をむやみに壊すのなら戒める必要がありますし、叱りながらも、無条件に愛しゆったりとのびのびさせる必要もあります。

 言葉にせずとも表情や声のニュアンスだけで、何をしたらいいかを感じ取る子もいれば、びしっと強く言われて初めて気がつく子もいます。前者の子には、厳しく叱る必要もないでしょうし、後者の子には、ゆったりと笑っているだけでは、境界を次から次へと越えていってしまいます。そして同じ子供でも、時と場合によって、違った対応が必要になることもあるでしょう。 

 植物に喩えると、また分かりやすいかもしれません。植物の成長には、光・水・土が必要です。光ばかり当てていても、水がなければ枯れてしまい、光や水があっても、土の栄養分が必要です。またそれらの要素を与え過ぎても与えなさ過ぎても、植物は健やかに育つということがありません。日差しの強い日は、直射日光を避け、日陰に移す必要もあります。たっぷりと水が必要の日もあれば、少しだけの水でよかったり、全く必要の無い日もあるでしょう。土への肥料なども、多過ぎず少な過ぎずと調整する必要があります。植物を成長させるためには、その時々の状態をよく観察し、光、水、土をバランスよく調整していく必要があります。

 ヒトは植物よりも複雑です。感情、感性、思考が絡み合い、日々変化していきます。ですからそのバランス加減も、植物のようにシンプルにとはいかないかもしれません。それでも、ヒトには言葉や仕草や動作などの表現の術がありますから、黙っている植物よりも、より分かりやすいともいえます。

 まずは、その子自身に向き合い、表に現れてくるもの、そしてその奥にある心や気持ち、そういったものをよく観察し、その子に今何が必要かを感じ取ることです。そうして、あちらに揺れこちらに揺れと繰り返すうちに、以前よりは今、今よりは明日と、徐々に少しずつでも、その子により最適な加減というのが見えてくるはずです。



子育てに最適なバランス

 子育てで心がけたい「バランス」を、的確にすっきりと表していると感じるのが、「利き手で抱き、もう一方の手で押す」という、「両手のバランス」です。両手で抱え込むのでもなく、両手で突き放すのでもなく、一見相反して見える動きを同時にすること、「抱きつつ押す」というバランスです。

 両手で抱え込んでしまっては、子供は成長することができません。歩き始めた子供を抱きかかえていたら、歩く力が育たないようにです。歩かせるには一歩一歩引き下がり、子供との距離を広げていく必要があります。二歩歩いたのなら三歩、三歩歩いたなら四歩、そう少しずつ後ろに下がっていくこと、それが「もう一歩の手で押す」ということです。
また両手で押しやり突き放してしまっても、すぐに倒れてしまいます。幼児は、周りの人々の喜びに満ちた笑顔に答えるように、一つ一つのことをできるようになっていきます。歩いた先に待っている笑顔や歓声、抱きしめられる腕の温もり、それらに励まされることで一歩一歩足を踏み出していくのです。どんな状況でも、例え押しやりながらも、常にそんな温かい眼差しで見守ること、それが「利き手で抱く」ということです。

 そして覚えておきたい重要なことは、この「抱く」と「押しやる」が、全く同じ力加減ではないということ、押しやるよりも抱くことに常により重きをおいていくということです。利き手の方がもう片方の手よりも強く力が入るのです。叱った後は思いっきり抱きしめてやり、間違いを起こしても必ず良くなっていくと信じ、「こんなことしてたら駄目じゃない!」と諭しながらも、欠点も弱さも含めその子を受け入れ、「何てことしたの!」と叱り戒めつつも、心の底で愛し続ける。子供はどんなに咎められ叱られたとしても、両手で突き放されているのか、利き手で抱かれているのかを感じ取るものです。

 普段の生活から親の愛情を十分に感じさせるのも大切です。抱きしめ、背中をさすり、膝に据わらせ、手をつないで歩き、冗談を言い共に笑い、愛情のこもった眼差しと声の調子で接し、そう常に温もりや愛情を示すことにより重きをおく。この力加減が子供を無理なく健やかに成長させるバランスだと感じています。

 私自身、常により「抱く」ことに力を入れると心がけることで、子供達との関係がスムーズになってきたと感じています。教えなければ、しっかり躾けなければ、将来のこの子のために、そう厳しく叱り、決め事を守らせ。この子のために、この子を愛しているから、それでもそうして元にあるはずだった愛も、いつしか境界を守らせることに必死になり奥深くへと隠れてしまい。「こうしなさい」「こうであるべき」、そんな頭ごなしで批判的な物言いばかりでは、子供の心は閉じ、こちらの声は届きません。そして子供はただ怖いから、怒られないためにいいなりとなり、主体性も育ちません。突き放しつつも利き手でしっかりと抱き、普段から愛情を感じさせるよう心がけることで、子供の扉は開き、こちらのアドバイスや要望も心に届きやすくなります。

 大地に根を張る力が「安心する力(安心場にたどり着く力)」だとすれば、成長する力は、地面の上に芽を出し、天目指し高く高く伸びていく力です。幹が一見スクスクと伸びているように見えたとしても、根がしっかりと張っていない木は、風が吹き荒れ嵐になれば、すぐに倒れてしまいます。利き手でしっかりと抱くこと、それが丈夫な根を育みます。そして、その利き手の動きに、もう片方の手とのバランスが加わることで、頑丈な幹が育つのです。利き手でしっかりと抱き、尚且つもう片方の手で押しやっていくこと、この一見矛盾して見える動きのバランス、それが、成長を育む鍵です。