靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

ろろんぱ

2013-11-30 23:59:02 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
死角に転がる球を

勢いよく割り

水平面の支点を跨いで

すっくと立つ


左足を踏み込み 右足を上げ

右足を踏み込み 左足を上げ


規則正しいリズムで揺れる

半球と私


両足の曲線が切り取る空間は

螺旋階段への入口でもあり出口でもあり


ろろんぱ ろろんぱ

風が吹く

ろろんぱ ろろんぱ

草木が揺れる


しなう枝にぶら下がり

逆上がりを三回

近況整理、慈悲に満ちた友人の目

2013-11-24 10:35:51 | 今週の整理
1.今週はマイナス20度!近くが続いた。朝、いつも外に並び、鐘がなるとクラスごと列になって順番に校舎に入っていく子供達。「今日は屋内で並ぶんじゃないかな、この寒さ」と言いながら学校に着くと、皆外で並んでいた・・・。「ほら、私達アラスカンだから!」と元気に車を降りて行く次女と三女。放課もきゃっきゃと外を走り回ったそう。ビバ、アラスカン!


2.次男四歳、本をよく眺めているのだけれど、「読んであげようか?」と言っても断ること多し。なぜだか聞いてみると、「だって、ママ寝ちゃうもの」と・・・。確かに、普段あまり座るということがないので、ぽかぽかとした次男とくっついてソファなんかに座り、ほっかりした子供絵本などを読み始めると、つい最後までいかず眠ってしまうこと何度か。途中から無意識に夢の話などしていたりして。(笑) はっと目が覚め、いかんいかんと再びあれやこれやに取りかかり、本は一体どこへやら。

思えば、私にとって子供への読み聞かせは、「睡魔との闘い」だったとも言えるかもしれない。重いお腹を抱えながら、赤ちゃんを抱きながら、山積みの洗濯食器を横に、寝不足の目をこすりながら。絵も内容も素晴らしい絵本が多いのだけれど、とにかく身体がついていけない。

夜だけは、夫と交代で、毎晩ベッドに並んで横になりながら、一冊は読むことにしているけれど。上の子達が大きくなるにつれ、下の子達に読んでくれることも増え、下の子達、幸せです。


3.次女が、「今日のMrs. C(社会面・情緒面のカウンセラー)、こんなTシャツ着ていたよ!」と教えてくれた言葉。
 
「90%聞き、10%話なさい。神が二つの耳と一つの口を与えてくれたのには、理由があるんですよ。」

子ども達の目に、いつもはっとさせられるメッセージ焼き付けてくださって、ありがたいです。



4.友人と、ティーンの話になり、あの言葉遣い!あの反抗的な態度!もう昔のあの子達じゃないよねと。

能力的なことをいえば、身体的にも頭脳面でも、子供のほうがどんどん先へ行く。それは子供達自身が日々感じていることだろう。

親の相対化を、着々と進めて欲しいなと思う。いい面もあれば、よくない面もあり、強いところもあれば、弱弱でもあり、親も全く完璧なんかではない、世界中にたくさんいる人々の中の一人。これからどんどん外へ出、様々な体験をし、ますますそう実感として捉えられるようになって欲しい。

子供から親への繋がりというのは、最終的には「慈悲」のようなものだといいなと思う。「尊敬」でも、「服従」でも、「道徳」でもなくて、「慈悲」。

子供達の水泳帰りに、雪道を歩きながらそう言うと、友人が吹き出した。笑いながら私を見る友人の目に、「慈悲」があった。(笑)



5.今週は、八日間のハヌカが始まり、木曜日には感謝祭、そして四連休! この時期毎年わいわいと集まるのだけれど、今年は家族でゆっくり過ごそうかということに。感謝祭が終わり、二週ちょとすれば冬休み! そしてクリスマス! 車に乗るたび、クリスマスソングを聴きたがる子供達、ああこの時期がまたやってきたなと思う。クリスマスにはわいわいと集まろうねと友人と予定を立て。年末に向け、賑やかな日々となりそうです。


今日は朝から長男床屋、その足で長女とNPO。夕方から長男ロボティックス。明日はそりに、宿題課題に、下の子達は誕生日会!


皆様の一週間が素晴らしいものとなりますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

そり!

長男と友人君。14歳も大いに楽しめます。

僕丸いのでね。


私は長いの。


空気を入れた浮き輪みたいなのもあり。


ひゃっほ~とこんなものも。


よいしょ、


よいしょと坂を上り。


夕焼けに氷の上。




三女のクラスでスナックの時間に用いるナプキン、二週に一度一クラス分お持ち帰り。洗濯してたたんで姉妹。


昨夜のファミリーディナーパン! by 三女

ドイツで出会った活動家

2013-11-24 10:09:45 | 子育てノート
十代最後の年、ドイツを訪ねた。議員や活動家の団体に加わり、最年少の参加だった。各地の市民運動団体と交流し、ホームステイしながら、強制収容所や秘密警察の施設跡を巡り、最後は同じ過ちを繰り返さないためにと、ベルリン市長に広島の被爆瓦を手渡し。二週間のスケジュールが終わり、その後二週間、知り合いになった人々を訪ねて一人旅した。

マインという町では、「緑の党」の元議員の家に泊まった。元議員といってもまだ二十代。私が接していたグループがそうだったのか、緑の党全体がそうなのか分からないけれど、若手の党員が議員をするといいんだ、そういった誰かがしなければならないことは、早い内に終わらせておけば、より本格的に活動に没頭できる、そう言っていた。議員であることの「ステイタス」とか、そういうものには全く頓着しないんだなと、驚いたのを覚えている。

「捕鯨」についてとてもラディカルな立場をとる緑の党、彼の友人達と集まると、何度も議論になった。他の党員が、食べ物に困っているわけでもないのに、まだ捕鯨を続けているなんて言語道断! といった態度に対し、彼は、僕達だって慣れ親しんだ牛や豚や鳥を食べ続けてる、日本人にとって鯨は同じような位置づけなんだよね。僕たちがあなたたちを批判する立場にはない。僕はね、肉を食べることを減らしつつある。そう言っていた。

また彼は民族音楽とロックを合わせたようなバンドもしていて、ベースを担当。トルコ人などの移民の友人と一緒にしているんだと、LPをプレゼントしてくれた。

ベースを弾きながら、彼はこんなことを言った。

いつも世界の問題について考えていたら、普通の生活ができなくなってしまってね。世界は問題に溢れている、暖かい家で、ママ手作りのルバーブケーキを食べていたとしてもね。いつしか僕は、笑うことさえできなくなってしまったんだ。世界の問題を嘆きながら、その次の瞬間にビール片手に笑って冗談を言い合う人々が、偽善者に見えてしょうがなかった。

でもね、それは違うのかなと思い始めたんだよ。ここで僕が楽しんでいるということは、世界を不幸にしない。むしろここで楽しんでいる、そんなスピリットが、世界を照らすんだよ。

それでね、僕はベースを始めたんだ

僕は今世界の問題について少しでも何かできないかと毎日活動してて、そして毎日音楽もしている。両方を続けることでね、僕が僕であるということを、より生かせられる、そう思っている。

彼の人生に対する姿勢は、当時十九歳の私に、その後どう生きていくかのヒントを与えてくれたように思う。

具体的現実的に周りへ何かをしていくということ、そして、ここに自分が楽しんでいるというスピリット。


今までの人生を振り返ると、こんなスパークの瞬間となるような出会いが、あちらこちらに散りばめられている。

これから大きくなる子供達、どんな出会いを重ねていくのか、楽しみです。

底辺の自分と共にいるということ

2013-11-24 10:09:14 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

底辺の自分と共にいるということ("Wisdom of Joseph" by YY Jacobsenを参考に):

兄達に奴隷に売られ、雇われていた女主人の企みにより、無実の罪のまま牢に何年も暮らすことになったジョセフ。ある日、夢の解釈ができる力を持つと聞きつけたファラオ(エジプトの王)に、王宮へと呼ばれる。ファラオは毎晩夢にうなされ、何人かの賢者が解釈するも、納得できないでいた。

「川から健康でよく肥えた七頭の牛が岸へ上がる。続いて病み痩せこけた七頭の牛が岸へ上がる。両者隣に並び、病んだ牛が健やかなる牛を食べる」

ジョセフは、肥えた七頭の牛は、七年間の豊かな収穫を、痩せた牛はその後に続く七年間の飢餓を示しているとする。そして、豊かな収穫の七年間に、少しずつ食物をため、次に続く飢餓の七年間に備えるべきだと提案する。

ファラオは、ジョセフにエジプト中を司る地位を与える。
 (『トラ』より)


ファラオはなぜ、ジョセフの解釈に驚き、これほどまでの待遇を与えたのか?

他の賢者も、ジョセフと同じ解釈をしようとした者がいたとされる。肥えた七頭の牛と、痩せた七頭の牛から、豊かな年と飢餓の年と解釈するのはそう難しいことではないと。

それでも賢者達は一箇所がどうしても理解できなかった。それは、「岸に健康な七頭と病んだ七頭が同時に並ぶ」という箇所。豊かな収穫の後、飢餓の年へと続くという解釈では、「同時に並ぶ」ということはありえない。そこで、「娘が七人生まれ、娘が七人死ぬ」とファラオに説明したとされる。当時のファラオは、女王以外にいくらでも相手がおり、子供の数もかなり多かったとされる。そこで七人が生まれ七人が死ぬと、同時に並ぶことが可能。

ジョセフは、この「岸に隣り合わせに並ぶ肥えた牛と痩せた牛」を、豊かなシーズンに、少しずつ取り分け蓄えることで、飢えに備えるという対策を表していると解釈した。そして王が感銘を受けたのは、ジョセフの解釈が、「起こること」だけでなく、「起こることへの解決」を含んでいたということ。


いい時と、うまくいかない時とが、隣り合わせであるというイメージ、それはまた重要な教えを含んでいると説明される。

いい時には、周り一つ一つの物事を丁寧に大切に扱うことを忘れ、ただ使い捨て、他の痛みに無関心となり、自分から人や物を必要とすることもない、世界が自分を必要としているとさえ思うもの。

人の繋がりや物や、うまくいかない時にも持ちこたえられる環境を整えているか。底を這いつくばっている時には、ふと見つけた小さな花にさえ、涙を流すもの。いい時に、そんな底辺の自分と共にある。

そうならば、例えうまくいかなくなったとしても、常に豊かさと共にある。

それが「起こる」ことへの、「解決」。


心に刻んでおきます。

夢の調整

2013-11-24 10:08:18 | 
昨夜夢をみた。ここに書くのを控えるほどの悪夢。

知り合いと今まで出会ったことのない大人子供が入り交ざり、血と肉欲と死と惨劇と人の持つあらゆる悪が噴出したあまりにもリアルな映像。

明け方ベッドに座り、呆然とする。



確かに目まぐるしく賑やかではあるけれど、心穏やかな日々を送っている。

街は一足早いクリスマスキャロルに包まれ、子供達はホリデイを指折り数え、大はしゃぎ。

「一年で最高の時~」と車のスピーカーから流れるクリスマスソングの歌詞を聞きながら、ああそうかもしれないなあと、しみじみ思ったり。

長男も最近何だか勉強にもやる気を出し頑張っている、長女も相変わらずこちらが指示をあおぎたくなるほど全般に渡りしっかりしていて、次女も読書にクラフトにと忙しく学校の勉強も今のところ順調、三女もハッピーで最近は本に夢中、次男も日に日にその成長振りがまぶしい。夫も次のチャレンジに向け猛進中。確かにあれやこれやと問題は起こり、言葉遣いや態度や、兄弟姉妹喧嘩にと本気で怒ったりもするけれど、三十分もすればまた笑い声。

家族の幸せというもの、それは私自身あまり知らなかった喜びともいえるのだけれど、こうして体験することができ。

これ以上、本当に何かが必要なのかな。ふと、そんなことを思ったりもした今週。 



そこへ、この悪夢。

私にとって、夢というのは「調整」でもあるように感じている。

本当にこれでいいの?! そんな奥底から揺り動かし目を覚ましてくれるもの。



ユダヤの結婚式で、誓いを交わし、歌や踊りが始まる直前に、新郎が右足でグラスを踏み潰す儀礼がある。粉々に砕けるワイングラス。

これは、「世界はまだ完全ではない」と思い出すためとされる。愛する者と結ばれた幸せのピークに、グラスを踏み潰すことで、世界はまだ粉々なのだと思い出す。そして二人こうして手を取り合っているのは、少しでも破片をつなぎ合わせていくためなのだと。

グラスを、割り続けていきたい。

「ギフテッド・チャイルド育児」カテゴリーに感謝を込めて

2013-11-24 10:07:59 | お知らせ
「ギフテッド・チャイルド」カテゴリーを抜けることにしました。

短い間でしたが、たくさんのことを学ばせていただき、本当にありがとうございました。

様々な方のブログにコメントし、やり取りができたらなと何度も思いつつも、なかなか今はまだそういったこともできない状況。それでも、これからも皆さんのブログ楽しみに、覗かせていただきたいです。

アウトポイントだけという宙ぶらりんでの参加で、私に何ができるかを考えてきたのですが、「ギフテッド」という枠組みの中から発信することに、やはりどうしても突き進めない自分がおり。チクチクとしたその違和感は、次第にズキズキへ。これはもう、生い立ちから関わる根の深いものなのだと思っています。

カテゴリーを通し、読んでいただいた方々に感謝を込めて。



ブログの発信は、これまで通り続けます。そしてこれからの活動に向けての土台作りも、こつこつと進めています。もう少し子供達の手が離れ、より本格的に動けるその日まで、一歩一歩積み重ねていきます。



その子なりの「ギフト」を最大限生かせるようにと

山を越え谷を越え旅を続けられる全ての方々へエールを送りつつ

こうして同時代に共に歩いていることに 喜びと感謝をかみ締めつつ

子供達とインターネット

2013-11-23 01:03:19 | 子育てノート
学校から帰宅した長女が、「ママ! SとKが新聞の一面に出てるの!」と、大親友のKちゃんが送ってくれたという「アンカレッジ・デイリー・ニュース」を見せてくれる。ほらっ!と、スマートフォンの小さな画面をスクロールしながら。

記事は、今年度からアンカレッジ市周辺の高校と中学で実験的に始められている「BYOD(Bring Your Own Device:自分自身の機器を持ってきて)」について(こちら)。高校七校の内三校、中学十校近くの内一校が実験校となっていて、長男長女が通っている中学がそれに当たる。

「BYOD」とは、授業に、自分自身のスマートフォンやiPadやラップトップを活用するというもの。記事には、社会の授業に自分のラップトップでインターネットにアクセスしてリサーチするSちゃんの様子が一面に、ブラスバンドの練習にiPhoneでチューン合わせをするKちゃんのインタビューも載っている。

現在、高校では十人に九人、中学で十人に八人が持っているとされるスマートフォン。

EdModoというアプリでホームワークをチェックし、ネットに日々アップデートされる成績をzangleで見て、フラッシュカードのようなアプリQuizlet で勉強する。そんな高校生の勉強風景が紹介されている。「身体の一部」と喩える高校生も。



我が家でも、お友達とスカイプで問題を解き合い、先生も含めてテキスト交換で宿題や課題の確認をし合っている。教科書もネットにアクセスするので家に持ち帰る必要もなくバックパックが軽いと喜ぶ長女、そして課題があれば、必ずネットでリサーチ。毎日の生活で、インターネットにアクセスしない日はない。

「教科書は静態的だけれど、インターネットはダイナミック、果てしない広がりがある」と長女の社会科の先生のインタビュー。確かに、興味をもったことについて、どんどん深め広げていくことのできるツールだと思う。




それでも、勉強に活用できるどころか、勉強などにはますます身が入らなくなるといった声も。授業中にネットソーシャルしていたり、禁止されている時間でもWiFiから4Gに切り替え使い続けたりと、「違反者」も後を絶たないという高校のケースが取りあげられている。確かに、常に「誘惑の元」を手にしているようなものともいえるかもしれない。

中学では、今のところ高校よりも「使ってよい時間」がより厳しく監視されているようで(ランチ中に用いて取り上げられる子も)、メールチェックや関係ないサイトを見るなど「他ごと」をしていると、クラスでもすぐに分かると長男長女。

また「いじめ」を気にする親の声も載せられている。あっという間に全校中そして世界中に情報がいきわたってしまう、それが特定の人物に対するネガティブなコメントであっても。

友人とこういったテーマについて話していると、昔は「学校での誘惑」といえば、「早弁」くらいだったよねえ、私達の子供時代って、今思うと、なんて「牧歌的」だったんだろう・・・、そうついつい遠い目で頷き合っていたり。




 「道具としてうまく使う」姿勢を教えていけたら、と思っている。「テクノロジー・リテラシー(tech literacy)」をもっと教えていく必要がある。生徒は自分が読んでいる情報の質を評価することができなければならない」という社会の先生の言葉に頷きながら。

我が家では、長男と長女がスマートフォンを持っているけれど(長女には電話回線をまだつけてない)、使う時間が決めてあり、電話やテキストの送信先・受信先や時間を管理できるシステムを用いている。

今年から 小学四年の次女の宿題に、「タイピング練習」が出されるようになった(中学では課題のほとんどはタイプして提出)。インターネットにアクセスし、タイピング学習のオンライン練習プログラムを活用するというもの。算数もネットにアクセスして練習できるようになっている。親として、「私はアナログ人間だから」とも言ってられない状況。




昨夜そんな話を長男としていると、「あと十年もしたら、どの学校でも当たり前の光景になっているよ。こういった方向に進むのはもう避けられないことだと思うよ」と。二台しかない教室のコンピューターの順番待ちをするよりも、自分のiPhone使ったほうがよほど効率的だし、サイエンスの実験やホワイトボードに書かれた宿題や予定を写真にとったりもできるし、と。

昔彼が十一歳のころ、「僕たちが大きくなるころにはさ、どんな知識だって注射一本で注入できるようになってて、もう学校なんていらなくなっているのかもね」と言っていたのを思い出した。(子供言葉)確かに、もし学校が「知識」のみを教える場ならば、その必要性も薄くなっていくのかもしれない。

知識面を「身体の一部」の機器が担ってくれるのならば、人の役割は、それらをいかに「用いられる形」に組み立てるかだろう。清濁入り交ざる中から「情報を選び取る力」、「考える力」、「クリティカル・シンキング」がこれからますます必要になる。

そして「用いられる形」=「持続可能な形」とするための「根本的なバリュー」を身につけていくこと。

一歩一歩、家庭での取り組みを続けていきたい。

レゴ整理で思ったこと整理

2013-11-23 01:02:20 | 子育てノート
マイナス二十度近くの日が続いた今週、屋内で過ごすことも多く、これまで少しずつ進めていたレゴの整理を終わらせました。

組み立て玩具大好きだった長男、その後娘三人が続き「もっぱらクラフト系/ 時々組み立て玩具」と熱は少し収まっていたものの、ここにきて次男四歳。寝ても覚めても組み立てたい!状態。

昔のインストラクションを引っ張り出し、作ろうとするものの、小さな部品を見つけるのに呆れるほどの時間がかかり。ジャラジャラ~、ザラザラ~と部品で埋まったいくつかの入れ物をかき混ぜ目を凝らし。一センチにも満たないパーツを子ども達と一緒に探し続け一時間程があっという間に過ぎてしまい、あああああ~と頭を抱える(私が)ことも何度か(レゴリーグを上三人がしていたことがあり、結構量あり)。かといって、そうそう新しいキットを買い与えるわけにもいかず。

3日ほどかけての整理が終わり、ほっ。何よりも毎日のように何かしら新しいモデルを作ることができ、うっきうきの次男。

今回のレゴ整理を通し思ったことなど整理:

1.嵐のような日常に「整理の時間」を搾り出すのは大変だけれど、結局、時間的そして経済的にも助かることになり、急がば回れだなあと実感。


2.我が家での整理の際のフォーカスは、レゴに限らず「できる限り子供達が自分でできる空間作り」。手も目も、なかなかかけられないという理由のため。


3.「レゴの整理」という検索でブログを訪ねて下さる方もいるのですが、以前は見た目もきれいということで、「色別」に分けていたのですが、今回全て「形・サイズ別」に。やはりパーツを識別し易く、こちらの方が断然使いやすいですね。


4.分類というのは、見方によっていくつものパターンができる。「厚さ」を見るか、「長さ」を見るか、「機能」を見るかなどで、くくり方も全く違ってくる。「分類の恣意性」をつくづく思う。


5.レゴなどの組み立て玩具は、二通りの楽しみ方がある。

A. インストラクションにそって作る
B. 自分で好きなように作る


AとBを交互に行き来きすることで、アイデアも膨らみ、より複雑なものや面白いものが作れるようになっていく。そしてBのためには、自由に遊べる時間がたっぷり必要


6.5のAにとっては、パーツがそれぞれ離れた引き出しに整然としまってあってもいいのだけれど、Bにとっては、小さな目からも全体を眺められるようになっていた方がいい。

 「面白いもの」というのは、多様さの入り交ざったカオス的な状況から生まれる場合が多い。意外な組み合わせ、たまたま隣にあった普通だったら組み合せようとは思わないものを一緒にしてみることで、おっ!と思うようなものができたりする。

 そこで、小さな引き出しを取り出せていくつも隣同士に並べられるような戸棚がいい。





冬休みに向け、「クラフト・セクション」にも手を入れる予定。「カオスから創造」という意味では、最高の状態にはなっているのですが。(笑)

子供達の意欲・想像力が湧くような空間作りができたら、そう思いつつ。


没頭次男。


あれやこれや組み合わせて。


昨日の「インストラクションにそった作品」。

パーツを揃える手伝いもスムーず!

近況整理、すれ違うお爺さんの笑顔

2013-11-17 08:08:38 | 今週の整理
1・先週末、「見慣れぬ雪なし冬景色」を楽しみたい、と書いたその日から、こんこんと雪が降り。「見慣れた雪だらけ冬景色」、楽しんでます! 初めて雪の積もった日、毎年あれほど皆見慣れているのに、何だか街中うきうきとした雰囲気。子ども達はもちろん大はしゃぎ、大人までも、とうとうきたねえと口元緩め。四月まで、この銀世界!



2・昨日久しぶりに友人達と集まった。去年までは毎週のように集まっていたママ達だけれど、子どもが大きくなるにつれ、幼稚園や保育園が長くなったり、ママも仕事を始めたり、大学の授業を取り始めたりと、生活リズムも大きく変わり、皆予定もなかなか合わず。長男長女のママ友ともなると、今はもう全く違うライフスタイル。ああ、この雰囲気懐かしいねえ、このカオス!子ども達の走り回る様子に、そう皆で笑い合いながら。五人の子育て期間、どれほどこうした交わりを通し、気づかされ励まされ支えられてきたか。ばりばりお菓子食べながら、時にしんみり時に笑い転げ、本当にありがとう!



3.雪こんもりな朝。「今日はバレーボール部の最後の日でピザ・パーティなの」と言いながら長女十二歳が準備している。夫がささやく、「あの格好、ちょっとあれじゃないか。」 長女を改めて見ると、真っ白ひらひらのミニスカートに素足。そう言われるとそうねえと、レギングスをクローゼットからいくつか出してくるも、皆小さい。普段ジーンズばかりでスカートなんて履きやしませんから。結局、二ヶ月程前の長距離走部の大会で、チーム合わせて作ったピンクのハイソックスを履いていくということで同意。

 ティーンネイジャーの女の子がねえ、真冬にミニスカート生足で外歩いてて、凍傷にかかったんだってえ、さすがティーン、無茶苦茶だよねえ。むか~し、そう友人達と話していたことがあったけれど、じ、自分の娘が、「さすが無茶苦茶ティーン」になる日が来るとは~~! 感慨深いです。(笑)



4.今週の七年生長女のS.A.T単語の宿題(英語の授業)、demure, cacophony, benign, nefarious, burgeon, vapid onerous, stratify, verdant, hackneyedなど十五単語を、どういう方法でもいいからとにかく「グラフ」にしなさいというもの。長女は母音の数と子音の数などから折れ線グラフを作り。数学の先生でないと理解できないかなり複雑なものを作ってきた子もいたそう。単語の練習に「グラフ」、新鮮でした



5.長男十四歳、週に一度のロボティックス・ミーティング、アラスカ大学のエンジニア学部の教授や学生がコーチしてくれ、五人一組のチームでロボット(VEX)を作っている。先週末は家に持ち帰り、部屋は部品で足の踏み場なし。平日は宿題課題でちょこちょことしか取り組む時間もなく、昨夜ようやく少しまとまった時間がかけられると目を輝かせ。「今日寝ないでもいい?」と。結局真夜中過ぎまで組み立てていたよう。組み立て玩具からレゴリーグ、ロボテッィクスへ。小さな頃からパッションを持ち続けていることの一つ。好きなことをしているときの勢い、表情、傍で見ていると、嬉しくなりますね。



6.朝三女と次女を小学校へ送った帰り道の住宅街、お爺さんが白いラブラドール犬を散歩させていることがある。すれ違う度に、背筋をしゃんと伸ばし、手を上げ、運転席に向かって笑いかけてくれるお爺さん。今からあれを済ませてここに行ってこうしてああしてと、予定でぎちぎちいっぱいの頭に、ほかりと隙間ができ、懐かしくて温かい気持ちに満たされる。お爺さんの笑顔が、私の一日を調整してくれる、そんな風に感じたり。いつか、お礼を言いたい。



今日は長男長女をNPOに降ろし、落ち葉の山などトレーラーに積んで、ゴミ捨て場に。夕方はロボティックス。明日は長男の友人君が朝から来て、二人課題宿題にジムに映画に。残りは長女が課題をすませたら、お友達とそりに!

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

降った! 積もった!


雪の舞う公園で遊ぶ。


スマイルフェース!



友人宅での集まり。


持ち寄りお菓子。

チョコやクッキーに混ざり、たくわんが素敵。これでしょっぱい甘いしょっぱい甘いと永遠にいけるじゃない、と友人。おかげさまで永遠でした!

子ども達も憩いの一時。



ガムテープアート。by 次女九歳

何年位前からだろう、小学校中高学年の子達の間で流行っている。クラフトショップなどには、カラフルなガムーテープがずらりと並ぶ。

ビーズな僕四歳。

アイロンかけて色々な形に。最近は3Dのものまで売っている。

翌日の弁当準備をする次女。アルファベット型サンドイッチ。

手の込んだことは自分達でね。(笑)

昨夜のパン作り。

毎週金曜日のファミリーディナーでいただきます。

長男部屋。足のふみ場なし。

次男くっつきっぱなし。昔の長男を見ているようです。

あの心理博士の言葉、ゆっくりね

2013-11-17 08:07:00 | 子育てノート
長女が五歳の時IQテストを受けた心理学博士は、リタイヤ間近の男性だった。

テストの結果を聞き終え、帰り際、息子さん夫婦とお孫さん達の写真を見せてくれた。息子さんの奥さんは日本人なのだと嬉しそうに。

息子さんは、高校を出たものの、これといって何をしたいのか分からず、しばらく働きながら旅を続け、パートタイムの仕事を続けながらコミュニティーカレッジ(誰でもすぐに入れる大学)に何年も席を置き(その時学生結婚)、二十代も終わり頃、マイノリティーの言語に興味を持ち、それから猛勉強を始めたという。そして学部大学院と進み、もうすぐ博士号を修得するのだと。暖かい家族に囲まれ、ネイティブ・アメリカン居住区でのフィールドワークに大学講師にと、毎日生き生きしていると。

「急いで焦って、芽を潰しちゃいけない。ゆっくりとね、いくんですよ。」

最後に握手すると、私の目を見つめ、そうおっしゃった。



こんなことをしていては間に合わないんじゃないか、子ども達を前にそう思う度、この心理学者の言葉を思い出す。そして思う。

一体、何に間に合わないのだろう?

でもでも現実的には・・・、そんな自身の内の声も、年とともに、大声からささやき声へ。

いつか蚊の鳴くような声になって、消えるかな。(笑)



その時その時の精一杯で進んでいこうね

その小さな積み重ね一つ一つの全てが

今はまだはっきりとは見えないかもしれないけれど

いつかは必ずたどり着く地点へと 繋がっている


そう子ども達に声をかけつつ。

病室の情景を眺める視点

2013-11-17 08:05:33 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

病室を外から眺める視点("inoculations" by Charlie Hararyを参考に):

八ヶ月の赤ちゃんを連れて小児科医へ定期健診に出かける父親。二人で出かけるのは初めてのこと。心躍る父親、きゃっきゃと腕の中ではしゃぐ赤ちゃん。

病室に着き、白い服を着た人々が現れる。あれ? ここはどこ、何が起こってるの? 服を脱がされ、あちらこちらに器具を突きつけられ。お父さん、どうして私をこんなところに連れてきたの? 楽しいお出かけのはずだったのに、痛い! とがった針がいくつも!(こちらでは、この年月で太ももに一気に4本ほど予防注射)、ひどい!

顔を真っ赤にして泣き喚く赤ちゃん。検診が終わり、父親の腕の中でしゃくりあげ、次第に落ち着く。

八ヶ月の赤子に、定期健診の意味、予防注射の意味、それらがいかにあなたにとって良いことなのかを説明しても、理解はできない。ただ辛く苦しく痛い。連れてきた父親を、なぜ私をこんな目に合わすの、そう恨めしそうに見上げ。


苦しい時というのは、こんな「病室の情景」に似ているのかもしれない。自分にとって、それらがいかに良いことであるかは、理解できない。ただ、目の前の痛みに悶え、なぜこんなことに?と恨めしく天を仰ぎ。

それでも、次第に内の奥深くの温もりに包まれ、癒され落ち着きを取り戻す。あの父親の腕の中の、赤子のように。


年を経、より理解する力がつくにつれ、通り過ぎたいくつもの痛みの意味を、知ることもあるかもしれない。赤子が小学校にもあがれば、徐々に、検診や注射がなぜ自分にとって必要だったのかが、理解できるように。

「全てはよき事のために」、病室を外から眺める視点を、覚えておきたい。
 



憎しみと愛("When Love Becomes Hate" by YY Jacobsonを参考に):

Menassehはユダヤ史上最も悪名高い王。偶像崇拝をもたらし、悪事の限りを尽くしたと言われる。聖典『トラ』を鼻で笑い、ユダヤへの改宗を拒否されたことにより、ユダヤを憎み続けた女性Timnahに自身を重ねる。
アッシリアに拷問を受け、あらゆる偶像への祈りが届かないと分かった死の寸前、偉大な指導者とされた父親が唱えていた祈りの言葉を口にするMenasseh。祈りが神に届かないよう天使達が遮る。あれほどの悪人が許されるべきはないと天使達が止める中、神はMenassehを救う。
(『ゲマラ』より)

なぜMenassehは救われたのか?

とてつもない憎しみと愛とは、常に表裏一体であるためと説明される。

必死で離れようとする裏には、とてつもない執着がある。

むき出しとなった憎悪の裏には、とてつもない愛情がある。


自身の、他者の、「憎しみ」の裏を見つめてみる。

拒否された痛み、受け入れられない痛みといった「憎しみの原因」を越えるには、「病室の外の視点」が有効。「全てはよき事のために」、例え生きている間にはその意味が分からないとしても。

「愛」の側にフォーカスすることで救われるのは、他の誰でもない、その人自身。

「怒る子」な朝2、外と内とのバランス

2013-11-17 08:05:04 | 子育てノート
1はこちら

フィールドトリップの許可証が見つからない! フォルダーに入れておいた算数のテンプレートがない! 取り乱した様子で、部屋中探し回る娘。登校まであまり時間もない。

昨夜はばたばたと用事が立て込んで、次の日の準備確認忘れてたね、そう言いながら手伝ってやり、許可証は見つかったものの、テンプレートはどこにもない。昨日全員でピアノに出かけたし、待ち時間に置き忘れてきたのかもねと言うも、ヒステリックに叫び、今日は最悪の日と呪い、学校に行けないと金切り声で当り散らす。

テンプレート一つでここまで・・・。夫と顔を見合わせ、先生にメールを送ってあげるから落ち着きなさいと声をかけ、すぐに「探し中で今日は時間切れです。お願いします。」とメール送信。
少し落ち着くも、ぶすっとした顔をしたまま。手伝ってもらってパパにお礼言いなさいというと、「ありがと」とぞんざいに。
 
甘やかしてはだめだと、こちらも怒鳴る、よけい泣く、また怒鳴る、おびえて黙り、涙を流しながら無理やり機嫌の悪くない表情を作る。そんなパターンも何回か通ったけれど、良い方法とも思えず。こちらが取り乱さず、できる限りの手伝いをしてやる、それが一番よさそうです。



家の中で、こういった出来事に、これほどの反応をするのはいつもこの子だけ。派手に悲しみ怒り取り乱す様子に、周りの兄弟姉妹も少し異質な者を見る目で見ていることがある。

ああ、なんでこの子はこうなってしまうのだろう。どうして見えないのだろう。

もう少し周りを見なさい、どれほど皆が助けようとしているか、そう声をかけようとして、はっとしたことがある。

外では見えている、というより他の誰よりも気を遣い過ぎるほど見えている。この子が、外で取り乱しことは今まで一度もないと言っていいほど。いつもにこにこ元気でしっかりもののAちゃんで通っていて。きっとお友達や先生が家での彼女の取り乱しぶりを見たら、別人に思うことでしょう。

外で周りにフォーカスし過ぎる故に、家の中でこうなってしまうのだろう。外でもう少しリラックスしてちょこちょこボロ出せばいいのに、何度そう思ったことか。


家でゆったりできる環境を整えつつ、周りにどう思われるかといった外から内へ向かう視点を、内から外へと向かう視点へシフトできるようサポートしていこう。そう夫と模索中です。内にどっしりとした安心感を養うこと、それがまずは要なのでしょう。取り組みを通しての気づきなど、またまとめていきたいです。

夫達の「良き部分」を伝えたい

2013-11-16 00:24:01 | 夫婦ノート
 私はね、新しいことにも挑戦して、常によりよくなるよう道を切り開いていくというタイプなのだけれど、夫はすぐに手に入る目の前のもので満足してしまうタイプでね。それは生活の質も、子供の教育の質も、全般に渡って。私ばっかり頑張って走り続けてきてきつい。でもね、最近夫の姿勢の良さも分かるようになってきた。夫はストレス・フリーだなって。求めない分、葛藤もないし、ゆったりとしてられるの。

 そう友人。

 夫は全く反対のタイプでね。常に「より良く」を考えている。子供の数が多くてするべきことが立て込んでいるということもあるけれど、家ではソファに座ってテレビを前にほっと一息といった光景が見られたこともない。今もフラッシュカードを常にいくつも携帯して、次へのステップだと四六時中勉強している。何をしても、常にここがもっと良くなるはずという視点から眺めていて、それは時にきつくてぶつかることもあるのよ。あなたは私が苦労してここまで形作ったものを、ここが足りないという見方でばかりとらえてるとね。でも、確かに夫のこのとてつもない頑張りがあるからこそ、私達は今こうして暮らしていられて。私自身は入れ込むことと気に留めないことが極端なのだけれど、彼はいつも私の視野を広げてくれる。

 と私。


足して二で割ると調度いいのかもしれないけれどね、そう笑い合い。




「育ち方」というのは大きいのだろうね。そんな話になる。

友人の夫さんは、専業主婦で常に傍にいる母親の下、上げ膳据え膳至れり尽くせりの環境で育った。

一方夫は、六歳の時に母親が去り、働きづめで家にいない父親、極貧。毎晩米とスクランブルエッグを自分で作って二歳下の妹と食べていたそう。



今子ども達を前に思う。夫達に培われた、「良き部分」を、伝えていけたら。

両手で抱えるのでもなく 両手で突き放すのでもなく

「利き手で抱き、もう片方の手で押す」

(利き手には少し強く力が入るもの、常に「抱く」方に少し重きをおくということ)

そのバランスを 大切にしていきたい

「ギフテッド」と呼ばれる人々整理

2013-11-16 00:22:31 | 「ギフテッド」教育について
「ギフテッドチャイルド育児」カテゴリーの皆さんの記事を読ませていただき、私の中で少しこんがらがっていたことを整理してみました。



Ⅰ.「ギフト」について

「ギフトは全ての子に与えられている」
「子供達皆に与えられたギフトを伸ばしていこう」

という言い回しで浮かぶのは、こんな図です。


ところが、特に教育現場では「際立ったギフトAを持つ者(緑色部分)」のみが「ギフトテッド」として言及されることが多いため、

上の言い回しは、
「『際立ったギフトA』は全ての子に与えられている」
「子供達皆に与えられた『際立ったギフトA』を伸ばしていこう」とも捉えられてしまう。

ここから、「いやいや『際立ったギフトAを持つ集団』とは万人を含むものでなく特殊なんです」と、「食い違い」が出てくるように思います。

この「ギフテッド」という言葉が難しいですね。なにかいい名称はないものかと思いますが、何十年もの研究の積み重ねのある「ギフテッド」という名称を今更どうこうというわけにもいかないでしょう。

ただ用いる場合はその言葉の「意味の層」を意識する必要があるのだと、心に留めていきます。




Ⅱ:種類そして程度の様々な「ギフト」

図1を眺めている者としては、「なぜ『際立ったギフトAを持っている者』だけが、教育現場では『ギフテッド』と呼ばれるのだろう? 語義的にはBCDを際立って持っている人だって『ギフテッド』ではないか」という疑問が湧いてきます。そしてここに、私自身、学校で子ども達が「ギフテッド」という名称でくくられることへの「違和感」があります。

その問いへの答えは、「ギフトA」とは、現代の学問や知性の中心とされる「言語知能」や「論理数学的知能」を指しており、現代の学校は主にギフトAを磨くための場だからということになるのでしょう。

それでもなあ、と思うのです、そういった能力だけでない「知のあり方」にも価値が置かれることで、世界はもっと豊かになるのではないか。例えば多重知能理論(Multiple Intelligence)を提唱した心理学者のハワード・ガードナー(Howard Gardner)博士の言う、「音楽的知能」、「身体運動的知能」、「空間知能」、「対人的知能」、「内省的知能」、「博物的知能」、「霊的知能」、「実存的知能」など、または、相手の心を読む能力、共感する能力、無私の能力、心遣い能力など(「音楽的」や「身体的運動的」能力は、通常の学校外で「ギフテッド」や「タレンティッド」として捉えられますが)。

また、普通学級で「ギフテッド」のカリキュラムを用いることにより、より多くの生徒が「『ギフテッド』とみなされる結果を出すようになった」といった実験結果もあるように(Duke大学にて)、「ギフテッド」と線引きするだけでなく、「ギフテッド」と認識されている子ども達以外の「ギフトA」の可能性を、引き出し伸ばす教育も重要です。


こういった意味から、教育とは、子供達『それぞれの(種類も程度も含め)』ギフトを伸ばすものであってほしいと願っています。





Ⅲ .「ギフテッド」と呼ばれる人々

現在「ギフテッド」と呼ばれる人々というのは、以下の二つあるように思います。

1.IQ優秀者もしくは学力優秀者 (図1「ギフトA」の緑色部分)

2.より深く、もしくは特殊な角度から世界を認知する人々
対象に極端にのめり込む傾向などが見られる。専門家によって定義も様々。




・2は1の部分を含み、1より大きな集団。

一昔前までは(60年代以前)、もっぱら1のみが「ギフテッド」とされてきた。現在ギフテッド専門家の研究は2まで進んでいるが、最もギフテッドについての研究が進んでいるとされる米国でも、実際の教育現場では、今でも結局ほとんどの場合1しか掬い取られていない。
 それは2をはかるのが難しいという理由によるところが大きい。2をはかる今のところの唯一の手段は、専門家による観察や主観

・2の多くの人々は、学校現場で見出されることなく支援を受けられず、成人しても社会の中で苦しんでいることがある。不登校、引きこもり層にも見られるかもしれない。

・また日本では「ギフテッド」という概念が行き渡っていないため、「発達障害」と誤診されたり、2E(発達障害とギフテッドの両方を持ち合わせた人々)層の凸面への支援がなおざりにされているという問題も見られる。

・日本の場合は、「学力優秀者」ならば、よりチャレンジングな学校へ進むことで、知的面の欲求は満たされる。それでもそれは「ギフテッド」人口のほんの一部ともいえる。

・2の研究が進み、「はかる手段」が発達することで、図3のように、より「多重な知能」が組み込まれていくことにもなるのではないか。





Ⅳ.境界の意味

こうしたカテゴリー分けにどんな意味があるのか? 

一つには必要な支援を受けるため

そしてもう一つには、自分や他者をより理解するため
 これまで悩み苦しんできた理由が納得でき、今後の対処に繋がるということもあるでしょう。「ギフテッド」であるという自覚が、辛い時に自分を支えるものになる、また「より多くを持っている者」としての責任のようなものが、自分を励まし明日へと進ませることにもなるかもしれません。そして他者に「ギフテッド」な部分を見出すことで、他者の言動への理解が進む、といったこともあるかもしれません。

またカテゴリー内に入っていたとしても、カテゴリー分けには何の意味を見出さない人々もいるでしょう。私自身そんな「ギフテッド」だろうと思われる人々を周りに多く見てきました。


最後に、私自身は、2と「マジョリティー」の境界は曖昧なものだろうと思っています。人は変わる可能性がある、体験や出会いなどを通し2に流れ込む可能性もある、そしてその可能性は一生続くと。そもそも後天的なものは「ギフテッド」とは呼ばないと言うことならば、元々持っていたつぼみが後に開花する可能性は一生続くと言ってもいいでしょう。「境界は流動的」、そう感じています。





支援が必要な方々により多くの手が差し伸べられること、そしてより多様な「ギフト」が掬い取られ、生かされていくこと、願っています。

今の時点での整理はここまでですが、これからも学んでいきますね。

皆様のそれぞれ異なる「ギフト」に、エールを送りつつ!

近況整理、「横の成功」と「縦の成功」と

2013-11-10 12:13:19 | 今週の整理
1.十一月二週に入っても雪が積もってないなんて! 初めてです。寒くはなってきていて、昨日はマイナス五度の中、次男と公園梯子してました。滑るからと次男手袋を脱ぐも、握る遊具の冷たいこと。滑り台にも霜きらきら。一旦積もってしまうと四月頃まで解けませんから、見慣れぬ「雪なし冬景色」をしばし楽しみます。



2.「人間の身体の中に、新しい部分が発見されたらしいよ」ネットのニュースを読みながら長男。「えっ、どこ?」と私。スクリーンから振り向きながら、「脳の一部らしくて、言葉なしでコミュニケートする能力を司っているらしい」「ふ~ん」と答えながら、頭の中を様々な妄想が渦巻く。そんな目が遠くへと飛んでいる母の姿を横目に、長男、にやり。「うっそ~だよ~ん。膝の一部らしいよ」「・・・。」(11月6日付けTIMEより)



3.最近つくづく「運動」の効果を実感してます。気温も下がり、屋内で過ごすことも増えつつあるこの時期、ついつい運動不足になりがち。そこで朝夜と合わせて最低5キロ程自転車こぎ(去年友人にいただいた屋内運動用)を続けてみたところ、だるさ重さ消え、睡眠深く、身体ぽかぽか、膝の痛みも治り、身体の色々な循環がスムーズになった感覚。マシーンの前に本を開けておくと、本読みたいがために、いそいそとこぎにいけます。朝夜各10分ほどの贅沢。

 夫と長男も、今週は毎朝六時から隣のアラスカ大学のジムやプールやトラックで運動。調子良いようです。

 川へ水汲みに、山へ薪拾いに、畑の手入れにと、家事も「ただ立ちっぱなし」ではなかった昔の時代には、それはそれは大変だったでしょうが、それでも肉体的にはベネフィットもあったのだろうなと思ったり。今はマシーンに乗って故意にあちらこちら動かす



4.来週から夫出張10日間(の予定)。五人、ただでさえ目も手も行き届かないのに、大人一人減るというのは、届かなさダブルにトリプル。「自分でしてね!」と言う回数も増大。普段私がしていることでも、実は子供達自身できることがあるのだと、アップデートする機会でもあります。



5.長女の友人の誕生日会で、昔の知り合いに偶然再会。長男と長女が共にプレスクールに通っていた女の子のお母さん。あの小ちゃくておてんばだったMちゃんが、しっとりとした美しい中学生の娘さんに! 
 
 望んでいた中学のプログラムに、一ポイント足りなくて入れなかったのよと。本人もとてもがっかりして、私もがっかりしたけれど、でもね、大切なのは、今持てる力を尽くしたっていうこと。テストの結果や周りと比べた「横に向かう成功」よりも、持てる力を出し切ったという「縦の成功」は成し遂げたとも言えるのかな。そして将来、彼女を幸せにするのは、そんな「縦の成功」なのだと私は信じてると。

 10年前と全く変わることのない凛とした佇まい、そして深く澄んだ眼差し。元気をもらいました。


今日は早朝長女を市内中学対抗バレーボール大会に降ろし、NPO活動へ長男送り。今からバレーボール長女チームの応援。その後次女をクラスメート宅でのスリープオーバーへ。長男を迎えに行ったらその足で図書館、そして長男はそのままロボティックスミーティングへ。明日は朝から長男の友人君が遊びに来る予定、一緒に課題を終わらせジムへ行くそう。長女はお友達と映画館へ。次女を迎えに行ったら、残り組みでトレールに公園に。

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

友人息子君達、釣りしてるから遊びにおいで!ということでお邪魔。


釣れた?


まだみたいねえ。


湖周りのトレールで遊ぶ。


石のって、


幹のって。


家に戻れば、男二人落ち葉かき。


次男との午後、

ママおはな。


グリーンハウス!


おべんと食べて。

一歳Rちゃんの可愛さに、またもややられた午後。