靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、喜びと寂しさが入り混ざったこの気持ち

2013-10-27 06:39:43 | 今週の整理
1.雪ちらほら。来週は子供達指折り数えるハロウィーン。ここ何年か、ハロウィーン前後に積雪だったのですが、さてさて今年はいかに。しかしもう今年も残すところ2ヶ月だなんて~!



2.夕方学校から電話。授業後、週に一度の一時間半のコーラスの練習を終えた次女、入口で迎えを待っていると。わ、忘れてた・・・。子供を忘れるというの、多くの方にとって考えられない!でしょうが、実は今まで何度かあるんです。学校や習い事の終了時間や場所などが変更となり、アップデートされていない私の脳みそ、そのまま忘れる・・・。スーパーに行き、トイレに行った一人を忘れ、車を発車させたことも(しかも気づいたのは子供、あっ、○○がいない!)学習した子供達、トイレに行く際は必ず「忘れないでよ」と私以外にも他の兄弟姉妹に声をかけます。(笑) 赤ちゃん時代は、カーシートにおさまったまま手提げ鞄のように持ち歩くので、ついつい友人宅に「置き忘れ」てしまったり。

「点呼」を習慣にしないといけませんねえ。



3.次男、シャツのボタンをはずそうとするも、硬い布地でなかなかうまくいかない。は~とため息をつき一言、「Holy Cow! (“なんてこった”といった意の俗語)」。ああ、ティーンネージャーと暮らす四歳児・・・。



4.長男の高校の進路について先生と話し合い。11年生まで続く今のHGプログラムに残る子はほんのわずか。高校のHGプログラムは大幅に縮小され、主に英語に力を入れたカリキュラム(数学はなし)。宿題課題の量も半端でなく、生徒によっては勉強以外の活動ができず、Aを取るのも至難(というよりコースを落とす場合も。そしてカレッジ審査にもカウントされる)。HGに行かずHonors Classを取るという選択があるが、結局Honors Class を終えても、HGプログラムを終えても、11年生では同じAPクラス(アドバンスクラス)かIBクラス(バカロレア)を取るというスタート地点に立つ。周りから聞いていたのと同じ内容。長男の友人達もほとんどがHonors Classへ行くと。

 特に若い時は「より難しい道」をとった方がいいとは常々思うのですが、それほど英語(LA)に時間とエネルギーをかけたいか(彼にとってはいい訓練になるとは思うのですが)、それとももし他に伸ばそうとエネルギーを注ぎ込みたいものがあるということならば、そうした方がいいと話し合ってます。「楽をするため」でなく、「より前へ進むため」と心を決めるならと。話し合い続けます。



5.今週二度ほど、以前暮らしていた家の近所を車で走る機会があった。思い出のつまった家を通り過ぎ、近所を回り。屋根の上におにいちゃんの投げた赤いボールのったままだったね、この坂道何度行き来しただろう、ああこの公園! この景色に日が沈む様子! ああ、うわあ、と叫ぶ子供達。

「何て言ったらいいんだろうこの気持ち。叫びたくなるような、苦しいような、嬉しさと寂しさと入り混じったような・・・。」長男と長女。

「日本語だと『懐かしさ』とか『郷愁』だよね、『切なさ』というのもぴったりくるかな。心をきゅっとつかまれるような感覚」

「そうそう!」

「でも確かに、英語だと一言では表せられないね」

そんな会話を交わした夕暮れ時。また来ようね。
たくさんの思い出に感謝。



今日は朝から長男と長女をNPO活動に送り(長女小型飛行機で飛ぶそう)、その後長女はハロウィーン祭り会場にてダンス・ショー。下三人を連れ鑑賞。その間長男は今日から毎週始まるアラスカ大学でのロボティックス・ミーティングへ。中学校の友人君行き帰りお預かり。明日は長男長女、課題宿題に一日取り組み、残り組みはサイクリングへ!


皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

前の家の近所にて。

ひゃ~。


ここに、勿忘草がいっぱいあったんだよね。


ああ、この景色の中で子供達も大きくなり。


夕暮れ。



Mちゃんの誕生日会に次男と三女。

ケーキ。


プレゼント開封。


大人井戸端会議の下で子供井戸端会議。


お父さん達、ありがとうございます!




次男と博物館な午後。

いえ~い、嬉しパイロット。


こうしてこうしてね。


砂に埋まる家観察。




すっかり枯れはかさかさ。

長男が夕方下二人を連れ出してくれるので助かります。

山姥というビジュアル・イメージ

2013-10-27 06:39:04 | 思うに
ウォルドルフ(シュタイナー教育)のバイオグラフィー・ワーカーなる資格を三年かけて取得した友人。来週NYでワークショップをするそうで、その予行練習の実験台にならないかと声をかけて下さった。

もう一人の友人と三人テーブルを囲み。次男、仲良し息子君と傍らで遊びつつ。

青森県八戸市の山姥の民話のストリーテリングで始まる。


・「山姥ってね、私の子供時代、悪夢に出てくる常にコアのキャラクターでね」と言う私。

自らの想像が作り出したイメージというのはね、決してその人を苦しめないと言われるのよ」と友人。

この説明、とてもすとんと納得しました。子供時代、悪夢に出てきた山姥、アニメで見た『日本昔話』のフィギュアそのままの姿形でした。ものすごく大きな顔に大きな目に白い髪、いつも橋の上に立っていて。

テレビや絵本などの外からのビジュアル・イメージ、それは時に強すぎる子には強すぎるのかもしれないなと。私自身怖い映像というのは今も苦手なのですが、子供時代はかなり極端でした。地震のニュースを見た後、何ヶ月も苦しんだり。我が家の子供達を見ていても似たようなところがあります。小さな頃は他の子達が平気な映像でさえ、泣いたり隠れたり。「どうしたらこのイメージを頭から取り除くことができるの?」そう泣きながら聞かれたことも何度か。悪夢になって出てくるの~と。着ぐるみなどに出会ってもこの世の終わり状態に。

昨夜そんな話を子供達としていると、小さな頃確かに色々怖かったけれど、今は本を読んで映画を見ると、台無しにされたと感じることがよくあるなあと。

ウォルドルフが、小さな頃は絵本さえ用いずストリーテリングに徹するというの、「想像力を豊かにするため」などの説明がありますが、「自分を脅かすことのない想像の世界」といった面もあるのだと、私にとってかなりの「ああそうかあ!体験」でした。



・山姥の民話を聞きながら、どうしても意識が飛びます。これは人の話を聞いている時も感じること。耳から入ってくる情報のみだと、私は吸収が弱い。ここに目で追う活字が加わると、断然頭に刻まれやすい。

そんな話をシェアすると、マルチセンサリー学習の話などに。子供によっても、聴覚優位視覚優位触覚優位などがあるだろうねと。

昨夜子供達ともそんな話に。長男は聴覚視覚というのはどちらでもいいんだけど、「物語」になっていると瞬時に頭に焼きつけられると。記憶世界チャンピオンが数字の羅列をどう覚えるかの説明で、自分はそれぞれの数字を物語りに仕立てるんだ(たとえば六はろくろくび、八は蜂にして物語)と言うのを聞いたことがあるけれど、だったらファクトが並んでいるような情報も、物語仕立てにする手があるねと。長女は、耳からのインストラクションはどこかへ飛んでいってしまうと、だったら活字と合わせて頭に入れるようにするといいね。次女は目からだけでなく、声を出したり耳からも入れるとよさそうと。他にも動きながら、踊りながらとか、何でもよさそうな方法試してみよう、そう盛り上がり。



・民話を聞いた後、印象に残るシーンを絵で表し、三人の描いたものをストーリー順に並べ、それぞれの絵を擬態語で表してみる。ピンとくる擬態語を手に、最近感じたことに繋げて話す、そうワークショップは進みました。

私の描いた二枚のシーン、牛方が山姥に川岸に追い詰められ枯れた柳の木と生き生きとした柳の木を前にするシーンと、駆け込んだ民家の女性に栃の実を渡され天井裏に隠れるシーン。さっと深く考えることもなく選んだのですが、「柳」と「栃の実」は、牛方を救うことになるもの。私は「希望」のようなものを、見つめていたいんだな、そう感じたり。




「山姥、いなくなるといいね」と友人。

「うん、今は一緒に陽だまりでお茶を飲んだりできる仲かもしれないな」

顔を見合わせて笑い、集まりを後に。


様々な気づきがあり、感性が刺激され、とても面白い一時間でした。ありがとう。



友人は幼児教育に携わりつつ、「バイオグラフィー・ワーク」をライフワークにしたいのだそう。
興味のある方はこちらへ:primrose_garden@yahoo.com


プレスクールクラスルームにて。

秋。


いいね、このきのこ。


三人の描いた絵。

理想と自分のできる範囲と

2013-10-27 06:37:47 | 思うに
今週、あるネイティブアラスカンの知り合いから、携帯にテキスト&メール。14歳の息子君を週に3日1時間ほどずつ預かってくれないかと。

我が家はその息子君の通う中学校から歩いてすぐのところにある。普段スクールバスで通っているのだけれど、授業後のチューター(宿題や遅れた部分を見てくれるサービス)に参加することになったので、従兄弟が迎えに行ける5時まで預かってほしいと。

その知り合いには車がなく、シングルマザー。上の子は家を出、息子君と二人で暮らしている。福祉で暮らせるので、普段教会の活動などをしているものの、給料をもらう仕事はしていない。

14歳だし、週に3時間くらいと最初は思ったものの、考える内に頭を抱え込んでしまった。


・長い付き合い、時間にアバウトなのをよく知っている。迎えに来るという従兄弟さん、週3回、時間通りに迎えということは多分ないだろう。今日は迎えに行けないから家まで送っといてということもちょこちょこ出てくるに違いない。

・平日夕方は、家にとって最もクレイジーな時。車で5分の小学校迎え、車で30分の中学校への迎え、軽食のあと水泳、コーラス、アートクラブ、ピアノなどへの送迎が順繰りに毎日。上の子達は宿題・プロジェクトの山と取っ組み合い。

・かなり荒れた家庭環境、上の子の修羅場(様々な犯罪に巻き込まれ、更生院と自宅を何度も行き来し)も見てきた。私の「小さな親切」など、そんな背景の闇に太刀打ちなどできないだろう。

・授業後、友達を連れて来るということもあるかもしれないな。

・14歳という不安定な時期、家に来るなら家族として扱い、ルールも守ってもらうようにするけれど、それにしても私たち自身出たり入ったりで目も届かない。スマートフォンやネットに夢中と言っていたなあ。

・家に大人だけ大きい子だけだったら、引き受けただろうに。週3回これから何ヶ月も、我が家のちびっ子達への影響を思う。


それくらいしてあげればいいじゃないという声と、起こりうるリスクを並べる声が頭を駆け巡る。

夫と話し合う。「自分だったら、まず働いて車を確保し、自分の子を迎えに来られるようにする」

確かに。それでも彼らは全く違う考え方をするのというのを知っている。持てる者が持たざる者に手を貸す。頑張って自分もできるようしよう、頑張ってあなた自身できるようにするべき、というより、ただできる人ができない人に手を差し伸べ合う。

学ぶべきことがある考え方だと日頃から思いつつも、こうして実際に身近に物事を頼まれると、できない自分がいる・・・。

散々悩んだ挙句、赤裸々に夕方のクレイジーさの具体的な様子を書き、すぐ隣のアラスカ大学の図書館で待つというのはどうかなどと提案し、どうしても方法が見つからなかったらまた声かけて、とメールを返した。

自分の基盤が崩れてしまっては、結局人助けにも何もならない。自分の体は一つしかなく、自分のできることというのは限られているのだから。でもなあと、複雑な気持ちを抱えたまま。

即効でメールが返ってくる。「アラスカ大学っていい考え!Thanks! そうするわ!」

どっと肩の力が抜ける。


理想と実際に自分のできる範囲、また一つ謙虚にさせられた出来事でした。

頑張れるということ

2013-10-27 06:37:31 | 思うに
昔、知り合いの集まりにて。

子供もおり、周りも何とか止めさせようとサポートし、それでも、どうしてもまたドラッグに戻ってしまうという男性についての話に。

まだ若かった私(二十代初め)。なんて情けない!大変な境遇から立ち上がり頑張り続けている人なんていくらだっているのに!

そこへ、私より二周り年上の女性が、静かに言った。

「頑張れない人っていうのもいるのよ。頑張れる、努力できるというのも、恵まれているということなのよ」

当時、鳩が豆鉄砲をくらったようにぽかんと口を開けていたた私。年を経るにつれて、その言葉が心に染み入るようになっていった。


最近、より豊かな層の暮らす市の南部に、ホームレスや精神病患者の施設を建設するという政府の計画が、お流れになった。小学校や大きな自然リクリエーション場の近く、反対意見も凄まじかった。

「どうして不釣合いな場にそんなもの建てる必要があるんだ! しかも働かない人のために、身を粉にして働く人々のお金を使って!」

友人とそのトピックについて話していると、「努力できるというのも、恵まれているということなのよ」そう口にしている自分が。



何らかのシステムがあれば、必ずはみ出る人というのは出てくる。そのシステムでは頑張れない人々。そのシステムの中で努力することができ、富を享受できる人がはみ出る人を支えるのは、そのシステムに生きることとセットのようなものなのかもしれない。

与えられ、それでどんどん甘やかされ、ますます自立できないということもあるかもしれない。確かに一人一人が希望をもち、自分の足で立ち上がれる方向へと支援は進むべき。それでも、その人の奥から湧き上がる意欲というのは、生い立ちや出会いなども複雑に絡み、そう簡単に解決するものでもない。

支援に携わる人々に、敬意を込めて。

望みが叶うとき、邪悪さの自覚

2013-10-27 06:37:01 | ファミリーディナートピック
ァミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)



願いが叶うとき、まずは相矛盾するネガティビティーを自覚すること(“Discovering Your Hidden Agendas  And Not Despairing “ By Y.Y. Jacobson を参考に):

先週の「アンビバレンスの旋律」が見られる四つの箇所の一つ、エリエゼル(Eliezer)がアブラハムに息子アイザックの配偶者を見つけるよう命ぜられる部分は、『トラ』の中で最も長い章とされる。67の節(verse)が冗長に物語を繰り返す。

エリエゼルの「アンビバレンスの旋律」とは、配偶者探しの使命を成し遂げたいという望みと、アイザックに自分の娘と結婚して欲しいという望みを行き来する揺れ。配偶者が見つからないまま40になったアイザック、エリエゼルは、アブラハムが最後には妥協し、ふさわしくないとされた自分の娘との結婚を許してくれるのではないかと望んでいる。

「冗長な繰り返し」は、アンビバレンスに揺れるエリエゼルの心理的な変化を表しているとされる。


初めの部分でエリエゼルは言う、「『もしかすると』その女性はついてこないかもしれません。」アブラハムは「もしその女性がここへ来たくないというのならば、お前の使命はもう満たされた」と伝える。その後エリエゼルが使命を果たそうと祈る場面で「アンビバレンスの旋律」が表れる。

そして目当ての女性が見つかり、その家族にエリエゼルはアブラハムとの会話を再現する。「私は『もしかすると』その女性はついてこないかもしれないと、私の主人に伝えたのです」

この二回目の「もしかすると」は初めの「もしかすると」と表記が異なり、「私のために」といった意味にも取れる単語が用いられている。

そして結局その女性はエリエゼルとともにアブラハムのもとへ来、アイザックと結婚する。



何が起こったのか? この二回目の「もしかすると」を口にした時、エリエゼルははっきりと自分の内にあるもう一つの望み(アイザックに自分の娘と結婚して欲しい)を自覚したとされる。

相矛盾する望みは、時に片方が片方を隠し、無意識の領域に抑え込む。潜在意識に潜り込んだ「望み」は、見えないところで肥大化し、その者の根底を揺るがし始めることがある。闇の中で怪物が力を持ち、闇の中で悪が蔓延るように。

自らが矛盾した望みを持っていると自覚すること、無意識から意識にあげること。いかに邪悪な望みであろうとも、まずは正直に向き合う。すると、邪悪さは力を弱める、まぶしい光の中では闇の怪物が生きていけないように。

そして、エリエゼルがアイザックの配偶者を連れ帰ったように、望みは、現実となる(物質化materializeする)と。

ユダヤには「思いは両手で押す必要がある」という言葉があるという。多くの場合、人は、片方の手で思いを押し、もう片方の手で相矛盾する思いを抱き寄せようとしている。



人は何層もの複雑な意識を持っているもの。

大切なのは、いい人正しい人であろうと自らのネガティビティーに蓋をし続けるのではなく、自らに渦巻く邪悪さ・ネガティビティーを正直に自覚し続けること。

そうして初めて、光の力に頼ることができる。

更新について

2013-10-27 06:36:06 | お知らせ
日々新たに立ち上がり続ける感覚を形にしたいという思いと、今まで書き留めたものを編集してより届けやすい形にしたいという思いと。

何とか両方同時進行でと思うものの、日々形にしていきたいことはますます溢れ、早朝の限られた時間だけでは、過去書き留めたものの編集に手がつけられない状態。

しばらく編集に集中し、より完成に近い形にしあげていきます。ブログの記事の量は減るかもしれませんが、週一の更新を続けます。


子供達の手がもう少し離れたら、両方をより深めつつ進んでいくことができるだろうなと思いつつ。

今は、日々の気づきを、時間を見つけて形にできるよう、まずはせめてメモという形に記号化だけし続けて。

優先順位を絞り込み、目の前の子供達との時間を大切にしつつ、限られた時間を最大限生かせるよう工夫していきたいです。



今後の活動のためにも、こつこつと歩き続けます!

読んでくださる皆様に、心よりの感謝を込めて。

「怒る子供」な朝

2013-10-26 23:59:10 | 子育てノート
夢を見て怒って叫び、先に起きた下の子の声に「○○に起こされた!」と怒り、眠いまだ寝たい、靴下が片方ない、このシリアルじゃないのがいい、いつもミルクをこぼしてしまう、ハムサンドイッチは嫌だ、学校に渡す教材費がぴったり用意できず向こう側がおつりを用意しないといけない、車の中が寒い。

立て続けに怒り続ける朝。

この子のいいところは、引きずらないところ。どっか~んと怒り、しばらくしたらニコニコしている。ただ、周りに余裕がないと一緒に怒りのスパイラルに落ち込んでしまう。

学校に送り出した後、新学期に学校からもらってきた様々な用紙の中に、こんなプリントがあったのを思い出した。

“怒る子供(Angry Kids)” by Love and Logic Institute. Inc。以下、意訳部分は斜体。


子供は、怒りを通して他の感情を表現しているのかもしれない。人生はこうあるべきではないのだと、世界に知らしめているのかもしれない。

確かに。忙しすぎたり、思うようにいかないのに誰も手を貸してくれない状態が重なると、こんな「怒りの朝」を迎えることがある。ペースを少しゆったりさせ、一緒に過ごす時間をとろう、そう生活を見直すサイン。



その場の解決としては:

どうして怒るべきではないか、どうしたらよくなるかなど、子供の怒りに、論理的な説明(reason)で対処しない。「○○がうまくできなくて怒っているのね」、そうまずはその子の気持ちを理解していると示すこと。

確かに、気持ちを理解していると示してやると、おさまっていく場合が多い。論理的な導きは、落ち着いてから。


怒鳴り返すというのは、最もよくない。子供もフラストレーションには怒鳴るという対応をするべきなのだと学び、悪循環に。

まさしくなのだけれど、子供によっては、時にどかんと目を覚まさせることも必要かなとも。ショック療法。はっと目が覚めたら、あとは穏やかに温もりをもって接し続ける。



怒り、火照った表情から、「これでも私のこと愛してくれる?」 そんな声が聞こえることもある。時にこちらも取り乱し、き~となり、それでも、変わらぬ温もりで接し続けてみる。そんな温もりを確認すると、怒りは長引くことなく静まっていく。

時間的エネルギー的余裕がない時はやはりかなりチャレンジングですが、こうして取っ組み合いながらも、共に成長していきたいです!

夫婦ぶつかるパターンの一つ

2013-10-24 00:01:43 | 夫婦ノート
夫とぶつかるパターンの一つ。

一時同意したにも関わらず、うまくいかなくなると、相手を責める。

こちらの道へ行こう、いや、あっちの道の方がいいと思うよ、いやいやこっちだろう。そんな話し合いを経、共に一つの道を歩き始めるのですが、途中迷ったり、渋滞に出会ったり、道路工事などでうまく進めなくなってくると、「ほらあっちの道の方がいいって何度も言ったじゃない!」と相手を責め始める。

一緒にこちらの道を歩いていこうってあの時納得したじゃない! 今更ぐだぐだいうなんて情けない! そんな非難の言葉を投げ、話し合いも泥沼化。

何度もあるパターンなので、最近は、ああ自分たちまた「このパターン」にはまっている、そう喧嘩の最中などにも特定できるように。(笑)


 
「何かを決定する時の話しあいを、もう少し丁寧にする」、最近心がけていること。

相手の心に吐き出せないものが残ったまま、無理やりねじ伏せられ、しぶしぶ相手にくっついて道を歩き始めた場合は、やはり「このパターン」にはまり込む確率が多い。自分で「決めた」より、決め「させられた」感がある場合。

その道を選択する場合の、いい面悪い面、起こりうるリスク、最悪のケース、それらを出し合い吟味し、どんなことがあっても二人で乗り越えていこうと納得し合う。二人で歩き始める前に、そうしておくと、例え道中困難にぶちあたっても、「このパターン」に陥ることは少ない。

一旦歩き始めたのならば、潔く、「あなたの選択」でなく、「自分達の選択」として主体的に引き受けること、心に留めておきたい。



子供が大きくなってから、だからあの時ああしたらよかったって何度も言ったじゃない!とならないように。

ラーメンか焼肉か、焼肉にしたもののの柔らかさがいまいち、だからラーメンにしよっていったじゃない! とならないように。




追記:

一昔前のような、「妻は夫についていくべし」といった価値構造が行き渡っていた頃ならば、例え夫とは異なる意見を持っていたとしても、「ついていくものだ」と自分を納得させもできただろう。もちろん今だって、「夫に従う」ことを「美徳」として自ら選択することも可能。男女がより「対等」に見えもする「西洋社会」であっても、その背景にあるキリスト教やユダヤ教には、「夫が大きなことを決め、妻は小さなことを賄う」が骨子としてある。「違い・役割分担」と「対等・平等」はまた別のことだと覚えておきつつ。

テレビとの付き合い方

2013-10-24 00:00:37 | 子育てノート
「昨日プレーデートした家ね、六歳の子なんだけれど、今まで一度もテレビを見たことないっていうの。その子ね、もう違う世界の住人というか、ピュアで全く摺れていないというか」

驚いた顔をして言う友人。私自身テレビのない家というのを何件か知っている。子供達は確かにそれと分かる雰囲気を持っている。


先週訪ねた小児科医の壁には、「テレビの見過ぎは学習障害に繋がります」という記事が貼ってあった。子供によって、影響を受けやすい子と受けにくい子というのがいるのだろう。毎日テレビつけっぱなし、小さな頃からスクリーンのキャラクターを操るゲームに浸っている子供でも、学習成績優秀という子を何人か知っている。



テレビの見過ぎが子供達に影響を与えるのは、学習成績といったことよりも、物事に対する「繊細さ」のように感じる。相手の気持ちや、周りに対する丁寧さ繊細さ。切り取られのっぺりとした架空の世界が当たり前となり、五感で触れる現実の微妙な変化や色彩に疎くなる。



アメリカの子供達がテレビを見る平均時間は、1日5時間だそうだ。1年に4万のコマーシャル、18歳までに20万の暴力的映像を見ているそう(by the National Institute on Media and the Family)

これはいくら何でも多過ぎるのじゃないかと思うけれど、こういった現実の中で、あまりにも「繊細」であっても、生きにくいだけかもしれないな、そう感じることがある。守り続けてあげられるのならばいいが、家は経済的にも時間的にも、そんな環境を作り出す(冒頭のお子さんのように私立やホームスクールや)ことは難しい。ある程度の「荒さ雑さ鈍さ」は、この世を渡っていくために必要なのかもしれない、特にこのタフなアメリカ社会、そう思う。

全く見ない子や見過ぎの子よりも、適度に見る子の方が、学習面では優れた結果を出すという統計もあるらしい。適度に見ることが脳への刺激にもなると。



我が家では、ケーブルをひいておらず、テレビをつけるという習慣がないのだけれど、DVDはちょこちょこ見ている。外へ行けば、コマーシャルが珍しいようで子供達は釘付けになる。

大切なのは、どれくらいの長さ、そして何をどう見るかだろう。素晴らしい内容の番組やDVDもたくさんある。一緒に見て、一緒に笑い転げ、内容について話し合ったりするのもいいだろう。

うまく活用していきたい。



参考:
"Pros and Cons of Watching Television" By Jimmy Hermann
"The pros and cons of television viewing for children" by University of Missouri Extention

近況整理、見守って下さる方々に感謝週

2013-10-20 06:41:58 | 今週の整理
1.ここ何日か暖かいんですよねえ、この時期にしては異例なほど。10度越えてます。山の頂の雪も解けちゃったりしてて。太陽ポカポカ、楽しませてもらってます。


2.今週は水曜日木曜日と懇談会で学校半日、金曜日は休み。長男長女のコアクラス(英数科学社会)の先生7人(息子さんの懇談会で不在の先生1人)、次女と三女の担任の先生合わせて9人の先生方と立て続けに話し合い

 三女の先生には4人の子供がお世話になった、全員を振り返り思い出話しをして下さった。時々クラスを訪ね先生の授業が終わるのを待っていた娘さんも、今では成人しサブとしてクラスの手伝いをすることもある。「時間はどこに飛んでいってしまったのかしらね」このH先生と話すたびに出る言葉。
 

 中学の先生もホント個性様々。どこから冗談なのか本気なのか読み取れない先生や、長髪を束ねピアスをつけたスタイリッシュな男の先生や。皆で「どうしたらこの子が社会に出て成功できるか」を考えて下さる。今年新しくチームに加わったLA(英語)の先生は、その課題の量の多さと厳しい評価で有名に。ほとんどの子が今までもらったこともないような成績をもらったそう。「今厳しくされて、たくさん失敗しておいた方がいいんだ」。成績に敏感で教育熱心な親が多い中、かなりの苦情もあっただろうに、一貫した姿勢。「膨大な量のやるべきことを前に、いかに時間管理をするかを学んで欲しい。学年の終わりには必ず多くを身につけているはず。」先生の真摯な様子に、頷く長男。

 ティーンの反抗だとか何とか言っても、真摯なところから発せられた言葉は、その子の心に届くもの、つくづくそう思います。その言葉がどこから発せられたのか、見分ける感覚も鋭いこの年頃の子供達、いい先生方に囲まれ、ありがたいことです。


3.小学校の廊下ですれ違う「社会&心理面のカウンセラー」の方、いつも凝ったTシャツを着ているのですが、今回こんな文句が「もし計画Aがうまくいかないなら、あと25の計画がある(アルファベットは26文字あることから)」。次女に聞くと昨日は、「Eliminate HHHHHHHH」というシャツを着ていたのよと。Hがeight(H8)=hate「憎しみを取り除こう」という意味だそう。毎日のようにこうしてメッセージを子供達の頭にインプットしてくださり、感謝です。


4.成績について、長男とストラテジー的な話し合い。先日友人に聞いた話から。アマゾン社は、米国の長者番付の上位に乗っているけれど、その戦略は他社と異なり、いわゆるどかんと収入の入る大きな仕事より、小さな仕事を漏れなく集めるといったものだったそう。「これはほとんどカウントされないワークだから」と言うことのある長男に、「一円を笑わないのよ」と。時事と絡めると、彼の場合、より記憶に刻まれるようです


5.毎年この時期、小学校で「お子さんのクラスでシラミ発見!」のお知らせをもらってきます。学校のナースが生徒一人一人を調べて回るんです。今年は三女のクラスに三人、次女のクラスに一人。上の学年に行くほど、誰?ということは内密にされるのですが、一年生ぐらいはもうあっけらかんとしていいです。「ぼくね~、しらみがいるんだよ~!」とクラス中に大自慢の大宣言。(笑) すぐに自宅で処理するよう親に知らされ、ナースがチェックし許可した日からまた教室に戻ることが出来ます。

実は五年前、小学校で大発生したことがありまして、家も漏れなくいただきました。それも学校のナースのチェックにはひっかからなかったものの、自宅で発見。まさかこの現代に文字通りの「虱潰し」をすることになろうとは・・・、いやあ貴重な体験でした。スーパーのシラミ除去グッズセクション、売り切れになってることなんかもあって、きっと日本では信じられない現象ですよね。

「シラミがいたっていうことよりもね、ママの取り乱した姿の方が恐かった」と当時を振り返り語る子供達。(笑)クラスで発見されたので、毎週チェックしましょう!というお知らせを片手に、努めて穏やかな表情を浮かべつつ、子供達の髪チェックしてます。



6.今週を振り返り、子供達を見守って下さる家族以外の人々の存在をつくづくありがたいなあと感じた週でした。先生方、学校スタッフの方、小児科医、ナース、友人達、そしてこのブログを読んでくださる方々、心よりの感謝を込めて!



今日は朝から長男長女NPO活動。帰宅次第、友人息子君のピアノリサイタル。その後次女クラスメート誕生会、その間残りを連れて買い物。明日はサイクリングに、夕方からは友人宅にて別の誕生日会。

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

週末はいつものように友人&息子君二人と。

散歩して、


パンプキンパイ作って、


ヨガしたりも。


夕飯作り手伝ってくれる六歳児二人。



朝ごはんのパンケーキ、

見て見てハート!とはしゃぐ娘。狙う犬。



五人家にいることの多かった今週。賑やかでした。

人間寿司。

ちびっ子たちに何度もせがまれ、ソファに投げ続ける長男。

ずっと何か作ってます。

レゴな下三人。


カード作り。

by 次女

お絵かき。

by 次女と三女

ティーンネイジャーとの向き合い方

2013-10-20 06:41:05 | 子育てノート
昨日は年に一度の小児科検診。朝長男14歳長女12歳、昼から三女6歳次男4歳。最大一家族から一日四人までといことで(キャンセルになった場合の穴の大きさのため)、先月風邪をひいて診察してもらったばかりの次女はまた次の機会に。

14歳ともなると、小児科医も大人として扱う。診察はプライバシーとして親も妹弟も部屋の外へ。12歳の長女には、自ら選択させる。「皆一緒がいい? 一人がいい?」、長女即答「一人」。下三人連れてぞろぞろ何度も移動。(笑)

診察が終わると、親を交えての話。プリティーンの長女に、「今こうして身体が変化しているけれど、こうした変化を起こすホルモンというのは、脳にも心にも影響を与えるもの。不安定に感じたり、泣きたくなったりすることもあるかもしれないけれど、何もおかしなことじゃないからね」と女医さん。

ああ、私も中学生のとき授業中突然泣きたくなって、気持ち悪いと先生に告げ教室を出、下駄箱の並ぶ玄関の隅でおいおいと泣き続けていたことがあったなあ、と思い出す。様子を見に来た若い男の先生がおろおろして「何かあったのか?」と聞き続けるも、自分でも何で泣いてるのか分からなかった。世界中の悲しみが押し寄せて、もうどうしよもないというような感覚。押し寄せるホルモン体験。


「青年期(adolescents)の反抗とどう付き合っていくか」(“Instruction for Pediatric Patients”by WB Saunders Company 1999)と書かれた紙も渡して下さった。以下意訳(斜め文字)&長男長女に接しつつ思うことなど:

大人として親と新しい関係を築く前に、青年期のティーンは、まずそれまでの親との接し方から距離を持つ必要がある


1.大人の友人のようにティーンネイジャーを扱う
12歳になるまでに、彼/ 彼女が大人になった時、どういった関係を築いていたいかを念頭に、関係作りをしておくこと。互いをリスペクトしサポートしながら、共に楽しめる関係を目指して。自分にこう接して欲しいという態度で、ティーンを扱う。心を開かせるために、なるべくジャッジメンタルなコメントは避ける。

これぐらいになると、会話をしていてもなかなか楽しく、子供というより、友人のように感じることも多いです。子供扱いせず、大人としてリスペクトを示すこと、何気ない雑談、一緒に出かけたりアクティビティーして楽しむ時間を持つこと、大きいですね、心がけていきたいです。



2.非難を避ける
 青年期の親子関係がうまくいかない多くの原因は、親が青年期の子を非難しすぎることにある。ムードや、言葉遣い、仕草や、服装や、嗜好や、小さな反抗は許す。小さなことを非難し続けていると、反抗はより長引くもの。ネガティブで怠惰な態度は、非難ではなく、「いい例」と「褒める」ことによってのみ変えられる。


確かに、と思います。カチンと来る仕草や言葉遣いやムードはしょっちゅうですが、細かいことは無視し、相手のムードに振り回されず、「いい例」を示し続けるなら、落ち着いていく。同じ土俵に乗らず、ゆったり構えて。



3.社会のルールや結果から、家の外での責任というものを学ぶようにさせる
 ティーンは自らのミステイクから学ぶたくさんの機会が必要。いずれ家を出、何のサポートも無いシステムの中で自ら問題を解決していかなければならないのだから。


いちいちはらはらしていたら、もう私の心も持ちやしないと学んでます。失敗も、将来への学びの機会として、家を離れたくさんの体験をさせていきたいですね。




4.家庭のルールと結果を明確にしておく
家庭のルールをしっかり「書いておく」と誤解も避けられる。


 帰宅時間、出かける場所、メディアを用いる長さ、電話をしていい時間など、周りがどうであろうと、家ではだめなものはだめとしっかり境界をひいておく。子供も、こちらが一貫し無理過ぎる条件(例えば皆は10時までなのに、私だけ6時に帰宅など)でないならば、「家はだめなんだな」と聞くもの。また年齢によってアップデイトする必要がある場合もあるということも覚えておきたいです。頑なに「だめ!」でなく、14歳なら友達と映画を見に行くのもありかな、など。



5.家族会議で家庭のルールを交渉する
一週間に一度ディナーの後になど。民主的に物事が決められていくと、家族としてよりうまくまとまっていく。

家庭のルールで変えたいとティーンが思っていること、うまく機能してないと感じるルールなど、出し合って話しあう。ルールを作る段階から関わらせると、ティーンもより責任を感じて守るもの。


6.ティーンが機嫌が悪いときは、たっぷりとしたスペースとプライバシーを与える
こんなとき話してもどこへもたどり着かない。


確かにこういう時は、こちらからあれやこれやと突っ込まず、まずは離れるのが一番。何か助けが必要ならここにいるからねと感じさせつつ、ほかっておくと、しばらくしてご機嫌な様子で寄ってきたり。とにかく振り回されないこと。



7.無礼な態度には、“I”メッセージを用いる
小さな「無礼な態度」は無視するのが一番ですが、見過ごしてはいけない言葉や態度もあるもの。そういった時は、「何て態度なの!」「そういうことは良くないことよ!」 よりも、「そういう態度をとられるとママ(I)の気持ちが傷つくのよ。」と伝える。また取り乱して怒鳴ったり、ヒステリックに当り散らしたりを避け、自ら「いい例」を示すことは、子供の無礼な態度を防げることにもなると覚えておく。


確かに、「いい/ 悪い」と一般化するよりも、「今ここでの私とあなたの問題」とした方が、伝わりますね。




その他、私自身ティーンとの関係作りに役立っていると感じること:

・話し出す前に一呼吸おき自分のトーンを整えるようにする。動揺、怒りは落ち着かせ。自分のトーンを整え、相手もクランキーでないときに話す。

・興味を持ちそうなトピックに目を通しておく。家では科学系記事、時事への食いつきがいいです。

・小さな心配りを日常生活に散りばめる。好物のフルーツなどを部屋に差し入れたり、プロジェクトや宿題に埋もれているときに少し部屋を整えてやったり、出かけるとき眠る前には必ずどんなにバタバタしていても声をかけハグしたり。

時にこちらが怒鳴って爆発してしまっても、しばらく互いに頭を冷やし、謝る必要のある場合は謝り、また関係作りそんな出来事も、その後の対応によって、雨降って地を固める働きになるもの。

ユーモア。関係の潤滑油は、もうこれに尽きます。さりげない一言ジョークや仕草を散りばめる。ユーモアにどれほど助けられているか分かりません。


12歳長女と14歳長男、そしてその後もどんどん続くティーンネイジャー、共にアップダウンを越えながら、鍛え鍛えられ、歩いていきます!

ディスレクシアの克服について

2013-10-20 06:40:24 | 子育てノート
フェアデュウさんという方のブログに、ディスレクシアの克服について寄せさせていただいたコメントです。フェアデュウさんご自身の娘さん、ディスレクシアを克服し、今は音楽大学に進み、音楽家への道を歩んでいます。


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こういった「障害」とされるもの、その度合いにより、メンタル面や環境面を整えたりなどの働きかけで緩和していく場合と、脳の構造的な要因が大きく、より専門的な働きかけが必要になる場合があるように思います。


家の場合は、夫も子供たちも、元々「障害」体質は持っているけれど、メンタル面の働きかけなどにより何とかなるタイプだと感じてます。そういったグレーゾーン・タイプにとって、どういうことが役に立ったか、書いてみますね。


夫は小学低学年で診断を受け、中学に入ってから初めて文章を読むようになり、症状だけをみると「重度」なのですが、育った環境の悪さも「重度」(物心ついてから母親が去り&極貧)だったというのが大きいように思います。二十代半ばから克服に向け自身で取り組み始め、その後様々な資格を取得し、商業パイロットを経、今は航空法に関する書類に囲まれ全米でも50人に満たないとされる職についています(職種を具体的に書いたのは、例えディスレクシアと診断され、何度も落第しそうになり高学歴のない「落ちこぼれ」でも、こういったことが可能だという例を提示するためです)。そして現在も、新たな資格取得に向け、勉強中です。


夫曰く、人の倍以上の努力、その努力を努力と感じないパッションを持つことが鍵と。


この努力とは、普通は生まれつきあるはずなのに、なぜか自分には組み込まれていない回路を、何度も繰り返すことで脳に刻んでいくイメージだそうです。


具体的に何をしたかというと、ビジョントレーニングなども試みたようですが、結局は彼の場合は、人が一回でできてしまうことでも何回も何回も繰り返す、これに尽きるようです。初めはそれこそ一行に十分二十分費やす、分かるまで何度も何度も人の何倍もの時間とエネルギーを費やす。そうして繰り返す内に、徐々に少しずつできるようになっていった。そして周りと同じ地点にたどり着くわけですが、そこからももう人より何倍もの努力をすることが身についているので、自然と突き出ていくと。


こうした継続した努力を可能にするのややはりパッションだと。「天才は超人的な努力のできる人」という言葉がありますが、ディスレクシアと診断されたという学校制度では落ちこぼれだったアインシュタインも「99パーセントの努力と1パーセントの才能」「私が賢いというわけでなく、ただ問題に長く取り組んでいるだけなんですよ」と言いますね。天才と言われる人は、寝ても覚めてもしてしまうパッション、努力を努力とも感じないパッションを持っているのでしょうね。アインシュタインは宇宙の謎を探るというパッションに突き動かされ、夫は天才ではないですが、「家族を養わないと」がパッションに(五人ですからねえ、笑)。


「努力」というと、フェアデュウさんのおっしゃる「反復より方法を変えることで一瞬で頭に入る」などと相対するものですが、親御さんがサポートしての克服と、様々な回路ができあがった大人になってから自らが克服という場合では、また違ってくるのかもしれませんね。



子供達についてですが、長男は読解面は強いのですが、スペリングが苦手ですね。テストになると注意するので何とかなるのですが、普段何気なく書いた文章など、もう簡単な文字からピリオドからミス多発状態になってしまいます。先生にも「家系的なものですね」と言われ。(笑) 計算などのケアレスミスも多いです。今中二ですが、それでも年とともに身体が発達するにつれ、ミスも少なくなってきているようです。より満遍なく気を使えるようになってくるのですね。また自分の弱みを自覚することで、スペルは常にもう一度見直してみるなど、自分で対処することも学びますね。ディスレクシアを持つ多くの大人はこうした自分の弱みを自覚し、それなりの対処法を編み出しているのだとも聞きます。人の倍の時間をかけられるようあらかじめ時間調整する、トムクルーズが他人に台本を読んでもらい覚えるなど。


前回少しお話したのは、四年生次女なのですが、一ヶ月ほど一対一で「読み」に取り組む時を持ってみました。彼女の場合は、「分からないこと」に出会ったときの、メンタル面の「動揺」も大きかったように思います。ストレスに感じたら深呼吸をすること、すぐに分からなくてもいいのだから、落ち着いて自分のペースで何回か読んでみる。キーワードに思う単語に記しをつけたり、書き出してみたり、算数の文章題は図にしてみたり。そして私の説明も英語に絞ること、私自身彼女がいくら分からなくても忍耐強く落ち着いて付き合うこと。そんな練習を繰り返しました。一ヶ月ほどして、飛躍的に伸びたようです。今では、別人のように分厚い本に夢中です。


大学で長年日本語を教えていた方が、日本人ご夫婦でしたが、娘さんが四年生の時に家の中でも一切日本語を話すのをやめたということをおっしゃっていました。バイリンガル教育も、難しい子には難しいのだなと思います。夫もディスレクシアと診断された際、外国語の勉強は真っ先に止められたと。その娘さんかなりの学力レベルを要求されるこちらの大学に入ってから日本に留学し、今では上手に両方使いこなせてます。



様々な方法はあるものの、「傍で忍耐強く自分の能力を信じ助けてくれる人がいる」そう子供達が感じられること、それが一つの大きな鍵だと思っています。家は五人いると手も目も回らず、どうしてもほったらかしになってしまうんですね。次女は真ん中の子で、特に親の目が行き届かないところがあったなあと思います。


長くなってしまいましたが、学習障害に向き合う方々が、少しでも何らかの突破口を見つけられること、願っています。全科目何でもこいの子なんてそうはいません。また努力せずとも超人的な能力を持つ子なんて本当にそれこそ一握り。

どうしたらその子の力を伸ばしていけるのか、私自身試行錯誤しながら、こつこつと歩き続けていきたい、そう思っています。この方法がいい!というようなことがあったら、またお知らせしますね。


ディスレクシアと診断された人々のリスト:http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_people_diagnosed_with_dyslexia

やる気の出る言葉がけを

2013-10-20 06:40:08 | 子育てノート
どんな言葉をかけるかで、子供の「やる気」を萎えさせるか燃え上がらせるか、ずいぶんと違ってくる。子供にとって、普段傍にいる大人の言葉の力というのは大きいもの。

例えその子が家庭から外に出、打ちのめされることに出会おうとも(外ではそんなことも多いもの)、もし「やる気」になるような言葉が家の中で習慣となっているのなら、子供達はまた立ち上がり、明日に向かって歩いていくことができる。

朝起きての開口一番が、「ああまた雨・・・、どんより薄暗いし、気分が滅入るわねえ。は~(ため息)」だったら、周りの子供達もやはり気分が滅入る。

「雨って空気が清められる感じがして、ママ好きだなあ。今日は家の中でクラフトして、本読んで、暖かく過ごそうか。これぐらいの雨なら散歩もできそうだし。雨にぬれた後のシャワーって気持ちいいのよねえ」

子供達の前だけでもと、こうして元気な「ふり」、やる気のある「ふり」をし続けていたら、いつしか本当に身についていくものだなあ、そう最近よく思います。もともと能天気楽天家な面はありますが、それに拍車がかかり。(笑)


普段から、その子が穴から出られなくなるような言葉でなく、自分で穴から這い出、走り出せるような言葉を心がけてみる

「また計算ミス!何度も言ってるじゃない提出する前にチェックしなさいって。何でできないんだろう、あなたって」

「あと五点あれば百点じゃない! 計算ミスどうしたらなくせるかなあ?」
子:「もう少し時間かけて、提出前にチェックする」
「次回は満点目指そう!」

「早くしなさい! いっつものろのろして!」
まずは「いつもする/ いつもしない」といった「いつも(always、never)」という言葉は使わないようにする。事実ではないし(好きなことには素早かったりするもの)、決め付けられ穴から出られなくなるだけ。

「今何したらいいんだっけ?」
子:「あ、出かける準備」
「遅れたら大変よね。さっと準備して、その本、先に車に行って続きを読んだら?」


言葉を発する前に、一呼吸置いてみる。この言葉は、その子をその場から動けなくする言葉か、それとも前へと走らせる言葉か? 心がけていきたいです。

アンビバレンスの旋律を超えて

2013-10-20 06:39:19 | ファミリーディナートピック
ァミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


アンビバレンスを超えて(The Tragic Music of Ambivalence The Secret of the Shalsheles Note By Rabbi Y.Y. Jacobsonを参考に):

ユダヤの人々は、聖典「トラ」を独特のメロディーにそって読む。まるで「トラ」の言葉の一つ一つが楽譜であるかのように、それぞれの言葉は特定の旋律と繋がっている。傍で聞いていると壮大な物語を歌詞とした歌を聴いているよう。それは仏教のマントラやお経にも似ている。

「トラ」の中には四箇所だけに現れる「珍しいメロディー」がある。その箇所にさしかかると、傷がついたCDのように、上がり下がりと高低の旋律を繰り返す。表記としては、ジグザグを縦にしたような記号が文字の上に小さく記されている。

この「シャルシャレス(Shalsheles)」と言われる「珍しいメロディー」は、「アンビバレンス:同一の対象に対して矛盾する感情や評価を同時に抱いていること」を意味するとされる。ヘブライ語には、「アンビバレンス」を意味する「言葉」は無いけれど、「メロディー」がある。

その四箇所とは:

1.モーセが儀礼で生贄にした動物の血を、司祭アエロン(Aeron)の身体に塗りつける部分。[Levitikus ]

2.ロト(Lot)が家族と共に天使に連れられ、崩れ落ちるソドム(Sodom)の町を後にする部分。ロト慣れ親しみ自らを捧げた地ソドムが破壊されると天使に知らされ、それでも最後の最後まで去ることを拒む。そして結局天使に無理やり連れ出される。ロトの妻は、絶対に振り向いてはいけないとされながらも、振り向き、「塩」に変る。[Genesis]

3.アブラハムの召使エリザー(Elizer)がアブラハムの息子アイザックの配偶者を探しに行く場面。探すという命を受けつつ、エリザーの内面には自分の娘を嫁がせたいという思いがある。[Genesis]

4.ジョセフがマスターの妻に誘惑される場面。17歳で奴隷に売られ、異国の地でこのマスターに救われ地位を与えられ、ここにしか居場所がない。マスターの妻の毎晩の誘い、マスターを裏切るか、それでも妻の誘いを断れば奴隷の身でどんな立場に立たされるかも分からない、そして目の前の妻に対する欲望も入り交ざる。[Genesis]

「シャルシャレス」は、それぞれの人物が、枝分かれるする道を前に、決断を迫られる場面に現れる。どちらを選んでも、心の奥底から湧き上がるどちらかの誘惑や熱望を手放す必要がある。上へ下へのジグザグの旋律は、その人物が内面に引き裂かれんばかりの葛藤を抱き、激しく揺れ動いている状態を表している。



社会心理学的には、こうした互いに相矛盾する熱望を同時に抱いている状態を、「認知的不協和(cognitive dissonance)」と言う。そして人は、この不協和音に耐えられず、何とかこのアンビバレンス状態から抜け出ようとするとされる。

心理的な危機的状況アンビバレンスは、その人物を内面へと深く潜らせ、自分が誰なのか、つまり自分のよって立つバリューシステムがどういったものなのかに立ち返らせる機会でもある。そして、そこでどんな選択をするかが、その人の人となりの中核を明らかにする。

もし、その選択を前に、日々の蓄積がない場合は、こちらへ踏み出してもあちらを振り返りと、ジグザグのリズムに絡めとられ、挙句ロトの妻のようにその場に引き裂かれたままフリーズ状態に陥ることもある。また自分や周りに嘘をついたり、イソップの寓話「酸っぱい葡萄」のように言い訳をして決着をつける場合もある。

「日々の蓄積」とは、日々自らのバリューシステム、ミッションに立ち返ること。人は本当にすぐ忘れてしまうもの。よ~し!といったインスピレーションも時がたてば薄れ、元の日常に後戻り。日々生き生きと、自らが拠って立つバリュー、ミッションに立ち返る。

アブラハムは、故郷を離れ異国の地に暮らし、その地の行事や集まりに常に参加し人々と交わり、すっかりその地に馴染み安住しつつも、一生自らを「よそ者(stranger)」として暮らしたという。アブラハムがジグザグのリズム「シャルシャレス」に絡みとられることは、決してなかった。


ジグザグの旋律に何度も何度もはまり込んでしまう自分ですが、自らのミッションを書き出し、日々立ち返ること続けていきたいです。

泣き声それでも笑い声も混ざり

2013-10-19 23:59:00 | 子育て風景
金曜日は学校が休み。朝9時から長男長女の小児科定期検診だったのですが、朝起き、病院から戻る11時半までの2時間半ほどに起こったごたごたを書き出してみました。ABCDはその都度違う人物です。

・ぎりぎりの時間になっても準備が整わないABCの背中を押しつつ、朝ごはん食べられなかったAB用にサンドイッチを詰める。

・出発寸前のガレージの車の中に響くAの泣き叫ぶ声。言い合いしていたBとC の止めに入った仕方がまずいと横からDに非難されたと。「ありがとう止めに入ってくれて、でもそんなことで泣かないの!」とたしなめつつ、非難したDを注意すると、目を回す(反抗的態度)。

・シートベルトがうまくできないと泣き叫ぶA。

・予約時間ぎりぎり病院へ着くと、裏口のドアが開いておらず、どこから入るかでABCDママ口論。

・エレベーターのボタンを他の子に押されたとぐずるA、その後自動ドアを自分で開けることができ機嫌直る。

・検診中ぞろぞろと何度も部屋を移動。待たされ時間も長く、お腹すいた~、喉かわいた~とぐずるAB。

・家に着いてからABCクラフトを始めるも、クレヨンで丁寧に描いた後、水彩ペイントで塗ったら気に入らない色になってしまい、ここまで描いた絵が台無しになったと癇癪起こすA。

・部屋を片付けているはずのABをのぞくと、ぐちゃぐちゃの部屋で漫画を読んでいる&テキストをしている。

・Bが組み立てて一ヶ月ほど飾ってあるものを壊さないと、作りたいものの部品が揃わないとBに交渉するA。却下するB。本当は二週間前に壊す約束だったじゃない、写真も撮ったし念願だったお友達にも見てもらって、掃除機もかけにくいし、壊しなさい! 私も本気で言い合いに加わる。B泣く。結局、「その飾ってあるものを縮小する」に落ち着く。

・背景にBGMのように流れるティーンの態度や言葉遣い。

・この11時半の時点で、ふ~と座り込み、ちびっ子の相手をしながら小児科でもらった紙に目を通し、気がつくとレゴに囲まれ床に正座うつ伏せで寝てしまっていた私。額にカーペットの跡。10分ほどのリフレッシュ時間。(笑) 

・目が覚めると、Aが友達と電話で話している。電話片手に私にスリープオーバーの交渉。結局却下で不機嫌なA。


こうして毎日ぐるぐると回り続けます・・・。

それでも、少し距離を置いて全体を眺めるのならば、泣き声や叫び声の合間に、笑い声やはしゃぎ声もたくさん混ざっていて。またこうして10分ほど意識を失うことでリセットできる余裕があったり。総括的には、刺激に溢れた楽しい日々?でもあります。

こうして怪我もなく、元気に暮らせること、感謝を込めて。