靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

夫達の「良き部分」を伝えたい

2013-11-16 00:24:01 | 夫婦ノート
 私はね、新しいことにも挑戦して、常によりよくなるよう道を切り開いていくというタイプなのだけれど、夫はすぐに手に入る目の前のもので満足してしまうタイプでね。それは生活の質も、子供の教育の質も、全般に渡って。私ばっかり頑張って走り続けてきてきつい。でもね、最近夫の姿勢の良さも分かるようになってきた。夫はストレス・フリーだなって。求めない分、葛藤もないし、ゆったりとしてられるの。

 そう友人。

 夫は全く反対のタイプでね。常に「より良く」を考えている。子供の数が多くてするべきことが立て込んでいるということもあるけれど、家ではソファに座ってテレビを前にほっと一息といった光景が見られたこともない。今もフラッシュカードを常にいくつも携帯して、次へのステップだと四六時中勉強している。何をしても、常にここがもっと良くなるはずという視点から眺めていて、それは時にきつくてぶつかることもあるのよ。あなたは私が苦労してここまで形作ったものを、ここが足りないという見方でばかりとらえてるとね。でも、確かに夫のこのとてつもない頑張りがあるからこそ、私達は今こうして暮らしていられて。私自身は入れ込むことと気に留めないことが極端なのだけれど、彼はいつも私の視野を広げてくれる。

 と私。


足して二で割ると調度いいのかもしれないけれどね、そう笑い合い。




「育ち方」というのは大きいのだろうね。そんな話になる。

友人の夫さんは、専業主婦で常に傍にいる母親の下、上げ膳据え膳至れり尽くせりの環境で育った。

一方夫は、六歳の時に母親が去り、働きづめで家にいない父親、極貧。毎晩米とスクランブルエッグを自分で作って二歳下の妹と食べていたそう。



今子ども達を前に思う。夫達に培われた、「良き部分」を、伝えていけたら。

両手で抱えるのでもなく 両手で突き放すのでもなく

「利き手で抱き、もう片方の手で押す」

(利き手には少し強く力が入るもの、常に「抱く」方に少し重きをおくということ)

そのバランスを 大切にしていきたい

夫婦ぶつかるパターンの一つ

2013-10-24 00:01:43 | 夫婦ノート
夫とぶつかるパターンの一つ。

一時同意したにも関わらず、うまくいかなくなると、相手を責める。

こちらの道へ行こう、いや、あっちの道の方がいいと思うよ、いやいやこっちだろう。そんな話し合いを経、共に一つの道を歩き始めるのですが、途中迷ったり、渋滞に出会ったり、道路工事などでうまく進めなくなってくると、「ほらあっちの道の方がいいって何度も言ったじゃない!」と相手を責め始める。

一緒にこちらの道を歩いていこうってあの時納得したじゃない! 今更ぐだぐだいうなんて情けない! そんな非難の言葉を投げ、話し合いも泥沼化。

何度もあるパターンなので、最近は、ああ自分たちまた「このパターン」にはまっている、そう喧嘩の最中などにも特定できるように。(笑)


 
「何かを決定する時の話しあいを、もう少し丁寧にする」、最近心がけていること。

相手の心に吐き出せないものが残ったまま、無理やりねじ伏せられ、しぶしぶ相手にくっついて道を歩き始めた場合は、やはり「このパターン」にはまり込む確率が多い。自分で「決めた」より、決め「させられた」感がある場合。

その道を選択する場合の、いい面悪い面、起こりうるリスク、最悪のケース、それらを出し合い吟味し、どんなことがあっても二人で乗り越えていこうと納得し合う。二人で歩き始める前に、そうしておくと、例え道中困難にぶちあたっても、「このパターン」に陥ることは少ない。

一旦歩き始めたのならば、潔く、「あなたの選択」でなく、「自分達の選択」として主体的に引き受けること、心に留めておきたい。



子供が大きくなってから、だからあの時ああしたらよかったって何度も言ったじゃない!とならないように。

ラーメンか焼肉か、焼肉にしたもののの柔らかさがいまいち、だからラーメンにしよっていったじゃない! とならないように。




追記:

一昔前のような、「妻は夫についていくべし」といった価値構造が行き渡っていた頃ならば、例え夫とは異なる意見を持っていたとしても、「ついていくものだ」と自分を納得させもできただろう。もちろん今だって、「夫に従う」ことを「美徳」として自ら選択することも可能。男女がより「対等」に見えもする「西洋社会」であっても、その背景にあるキリスト教やユダヤ教には、「夫が大きなことを決め、妻は小さなことを賄う」が骨子としてある。「違い・役割分担」と「対等・平等」はまた別のことだと覚えておきつつ。

将来、あなたがパートナーと暮らすときにね

2013-07-28 08:14:55 | 夫婦ノート
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

アップもダウンも、より良くなるための機会と捉える。

キャンプに出かけた兄弟。隣のキャンプ地で泣き叫ぶ赤ちゃんに、「イライラしない?」と兄に話しかける弟。「これはテストだって考えたらどうかな。自分たちの忍耐を鍛えるためのね」と答える兄。そして翌朝、隣の家族がいなくなり、「テストが無事終わったね」という弟に、「今度は次のテスト。静けさの中で感謝してキャンプを楽しめるかというね」そう答える兄。そんな子供向けの話(aish.comより)を次女が読み、説明。

このかゆさ!(水泳者の痒み)も、テストかあ、とつぶやく次女。足や腕のスイマーズイッチを指しながら。

不快でしゃれになってないけど、起こってしまったことは、今度は濡れたらすぐにふき取る、あの湖には入らないなどの予防を学ぶ機会や、不快さへの忍耐を鍛える機会
と捉えて、次への糧にしていけるといいね。

ダウンはより強く大きくなるため、アップは感謝と謙虚さを忘れないためのテスト、アップとダウンの波に、磨き続けて。


親密感(intimacy)を培う (“The Intimacy of Little Things “ by Chana Weisberg. Chabad.orgより)

二人に一人が離婚という昨今。離婚カップルの多くが、結婚当初あった「親密感」が薄れていったと答えると。

では、親密感をどう培うか。それはこの記事にあるように、豪華なプレゼントや、華やかなお祝いということではなく、日常の小さな積み重ね、普段の生活に散りばめる小さな心配りなのかもしれない。

何気なくかける優しい言葉、小さな気遣い。出やすいように車を止め、翌日運転する相手のためにガソリンを満タンにし、朝コーヒーを飲みやすいようセットし、弁当に一言添え、あるといいなとつぶやいていたものを揃え、疲れていたらほっとする言葉をかけ、落ち込んでいたらそっと温もりで包み。

ちょっとしたことの積み重ね。

うまくいかないときほど、こうした小さなステップを散りばめてみる。

将来ね、あなたがパートナーと暮らすことになったら、覚えておくといいことの一つ、そう娘たちへ。

夫婦は、一人が痛いなら、両方が痛い

2013-04-28 01:46:02 | 夫婦ノート
昨夜のファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)



「潤す時」を生活のサイクルに組み入れる

道端の井戸。そこにいけば、渇いた喉を、潤すことができる。

そんな井戸に戻る時を、生活のサイクルに組み入れる。

朝こうして何兆もの細胞が働き、心臓が規則正しく血液を送り出し生きていることの不思議を思い、食べ物を前に「いただきます」「ごちそうさま」と感謝の気持ちを思い出し、眠る前にその日あったことそれまであったことへの感謝の言葉を言い合い、周りの人々の最善を祈り、週に一度のファミリーディナーには少し着飾り人生について話し合い、年に一度の祭りを繰り返し祝い。

それは、旅路に立ち止まり、どこから来て、どこへ向かっているのかと見直す時。

長いドライブに「いつつくの~?」「あとどれくら~い?」と、き~き~言い出す子供たちが、途中ところどころ休憩し、少し散歩して外の澄んだ空気を吸うことで、リフレッシュする時のようなもの。

そんな井戸に赴き水を汲む時を、生活のサイクルに組み入れる。



夫婦間の話し方について心に留めておきたいこと。(将来のために上の子たちも交えて)

結婚し、子供を持ち、つくづく思うのは、結婚生活や子供を育てるということが、現実的にどういうことなのか、どうしたらよりよいかの知恵やヒントを、若い時分からもう少し学ぶ機会がないものかということ。

以下(aish.com, Emor 5771)より: 夫婦は二人が一つの存在になるということ。一人がうまくいかないのならば、両方がうまくいかない。一人が痛みを負うなら、両方が痛みを負う。ある夫婦が病院へ行き、医者が「どこが痛むのですか?」と聞くと、夫が「妻の足が痛むということが痛いんです(Her foot is hurting us)」と。

1・とにかくまずは聞く (単に気持ちを聞いて欲しいこともあるもの) 

2・相手を遮らない  

3.声を荒立てない (忘れて相手が荒立て始めたら、手をそっと相手の手の甲におき思い出させるなどあらかじめ決めておいたり)  

4.もし主張を通したいのならば、質問形式にしてみる。 (やめて!でなく、あなたがそうされたらどう思う?など)

5.非難しない。相手のせいにしない。 (これは本当につくづく思うこと。非難からはどこにも行き着かない。「せい」にしている間に、どう解決していけるか、解決のために自分が何をできるか相手をどう助けていけるかを話し合う)

6.問題の元は他にあるかもしれない。(ジャムのふたを閉めてない!と怒る理由は、三日前の約束事を忘れていることにあったり)

7.相手の言ったことを繰り返すことで、理解していると示す。(あなたの言いたいのは、こういうことなのよねとまとめてみる)

8、問題に対する解決案を尋ねる (自分の言い分をレクチャーするだけでなく、相手の案を聞きだす)

9.常に覚えておくこと:何十億と地球上にいる人々の中から、この人を相手に選んだのだということ。相手の輝く部分にフォーカス。欠けた部分を補い合い、共に成長していくためにこうして一緒にいるのだということ。

子育て夫婦の役割の一つ

2013-02-17 03:02:11 | 夫婦ノート
子供を育てる夫婦の役割の一つとして、配偶者が子供達をどれほど愛し、どれほど子供達ために働き続けているかを、さりげなく子供達に伝えるというのがあると思います。

「お父さん今日は早く寝ちゃったね。毎日毎日朝から晩まで外で働いて、あなた達が必要なものを手にとることができ、幸せに成長していけるようにといつも考えてるのよ」

「クタクタに疲れている仕事帰りでも、あなたが電話して『明日ノートがいる』と言えば遠回りして買ってきてくれる。お父さん本当に優しいね」

「きれいに片付いた部屋、お母さん、毎日お前たちが気持ちよく過ごせるように考えてくれてるんだね」

「見て、食パンが一斤なくなってる。お母さん朝から六人分のサンドイッチを作って大変だったね」

「お母さんの髪型・・・。まずはお前たちにご飯を食べさせ、支度できるようにと一生懸命なんだね。自分の支度よりお前たちのこと先に考えてくれて、お前たちは幸せだね」

そんな言葉をさりげなく生活の隅々に散りばめていく。

それは子供にとっても、「してもらうことを当たり前にとらない」とはっとする機会でもあるし、夫婦間でも、ああちゃんと見ていてくれるんだなとほっとする機会でもあり。また自分で「あれしてやってる、これしてやってる」と言葉にするよりも、気づかれなくてもするという人としてのいいモデルを示すことにもなる。いいことづくしです。

夫婦でこぞって気づき、こぞってさりげなく言い合ってみよう、そうこの役割について夫と話し合ったのですが、互いに実行してみることで、親子間、夫婦間にとって、とてもいいと感じてます。

「ヴィジョン・ノート」という土台

2012-03-24 00:13:55 | 夫婦ノート
パートナーと二人だけで向き合う時間を生活のなかに取り入れる。子どもが小さかったりするとなかなか難しいのだけれど、30分でも15分でも。そんな風に搾り出した時間、ただゆったりと時を空間を共有するのもいいけれど、あらかじめ何を話すのか決めておくのもいい。家では「ヴィジョン・ノート」を作る時間に当てたりする。そしてこの共に「ヴィジョン・ノート」を作る時が、二人を大きく支えていると感じている。

どんな暮らしをしたいのか、どんな家族でありたいのか、どんな子育てをしていきたいのか、どんな二人でありたいのか、家族を超え何をしていけるのか、どんなことに力を注ぎたいのか、どんなことを大切にしていきたいのか。そしてそこへ至る為にどうやって二人で道を築いていけるのか。

「ヴィジョン・ノート」に書き留めていく。アイデアを出し合い、パズルのピースを組み合わせるように。具体的に詳細に。それは相手だけでなく自身により深く向き合う時間でもある。

全く違った環境に育ち、価値観や考え方も違う二人、既に築かれた「互いに異なる土台」に立っている。その既に築かれた「違い」をつつき合い、なんで分かってくれないと嘆いたり衝突したりするエネルギーを、今ここに、二人が共に立つ「新しい土台」を創り上げることに用いていく。

相手の描くものと自身の描くものとの違いに愕然とすることもあるかもしれない。それでも創造的な工夫によって必ず二人が納得する着地点は見つかるはず。角度を変え、相手の深いところにあるニーズを優先し合い。

一人では到達できないところにたどり着くために、こうして縁あり二人でいるのだから。「違い」は苦しいものにもなり得るけれど、創造へ向けるとき、思いも寄らなかった作品を生み出すことにもなる。二人で共に立つ新しい土台創りへ。

パートナー、見上げる方向

2012-03-21 00:39:52 | 夫婦ノート
「口承律法」が収められたユダヤの聖典タルムード(ヘブライ語で「研究」の意)には「律法」と共にそれらの「律法」に関する何千年にもわたる様々な賢者の議論解説が書き記されている。一つ一つの「律」への様々な角度からの細密な議論展開が記されたタルムードを読むとき、ユダヤの「理性と信仰は共にあれる」という言葉を思い出す。

パートナーとの関係についての知恵として、強く心に残っていることの一つにこのタルムードにある「離婚」の項目をラビYY Jacobsonが論じたものがある。この論に触れた当時は頭で理解はしたもののなかなか心の奥深くにまで届くということがなかったのだけれど、後になってじわじわとその意味を噛み締めるようになっていった。

ラビYY Jacobsonは、タルムードの「夫が妻の内にふさわしくないモラル的問題(‘ervas davar,)を見出し、もし妻が夫の目に好意を見出さないとき、夫は離婚を決めることができる」”It will be if she does not find favor in his eyes, for he found in her an unseemly [moral] matter, an ‘ervas davar,’ then he may write a divorce." (Deuteronomy 24:1.)という箇所についての3つの異なる意見について論じている。

その3つの意見とは、
1. Shammai学派によるもの:厳しさで知られた学派。
衝動的でなく最大限慎重な調査に基づいた上で、モラルに反する不貞(infidelity)が認められたときのみ離婚できる。
2. Hillel学派によるもの:慈悲深さ(leniency)で知られた学派。
「例え妻が皿を焦がしたとしても」離婚が許される。
3. ラビAkivaによるもの:その妻レイチェルに対する献身と感謝が伝説になっているほど妻思いのラビ。「夫が妻より美しい女性を見つけたなら夫は妻と離婚してよい」

1は分かるけれど、2と3はどういうことなのか。字面通りとったらまるで「ハリウッドの倫理」のようじゃないか!とラビYY Jacobson。(笑)

2については、読み込んでいくと「わざと悪意をもって」夫に嫌がらせをし苦しませ続ける妻のことが取り上げられていることが分かっていく。それほどまでに妻が夫を疎ましく憎んでいる場合は離婚可能という意味。

3については、まずはラビAkivaについて知る必要がある。Akiva ben Joseph (ca.17–ca.137 CE)は貧しい羊飼いの出で読み書きもできなかった。裕福な雇い主の娘レイチェルは密かにAkivaが勉学することを支え、それを知った父親はレイチェルを勘当する。極貧の中でレイチェルはAkivaを支え続け、やがてAkivaはユダヤの中で最も知られた賢者の一人として語り伝えられることになる。2万人近い弟子を引き連れ帰宅したAkivaはレイチェルを指し「今の私があるのも今のあなたたちがあるのも、全て彼女のおかげだ」と言ったと伝えられている。

タルムードの議論の中心的存在でもあるラビAkivaの言葉には常に慈悲が愛が溢れている。

では、この3はどういうことなのだろう?これは「タルムードバージョンの男女関係、ロマンス」について述べているとYY Jacobsonは言う。離婚は「2つのレベル」で起こる、内面的と外面的。3は内面的離婚のメカニズムを表しているのだと。3の言葉の裏に真のパートナーとのあり方が表されている。ラビAkivaとレイチェルの見つめ合う姿が浮かび上がる。

魅力的な異性に溢れる世の中、隣で年老いていくパートナーが自身にとって一番美しく愛おしいと思える気持ち、それほどまでの内面的結びつき。外面的形だけのパートナーでない、内面的パッション・慈しみ・愛情・結びつきの深さ。様々な価値観の行き交うこの世の中で、私自身さまよい時には溺れもしてきたこの社会的価値観の中で、3のラビAkivaの言葉は見上げていく方向を示してくれる。

パートナーとの関係

2012-03-18 01:16:36 | 夫婦ノート
全く違った環境で育ち価値観も考え方も違う他者と毎日顔を突き合わせ暮らすということ。惚れた晴れたで一緒になりいざ生活を始めてみれば、予想もしていなかった問題に次から次へと出会い。頭に描いていたラブラブ生活は日常の雑事に追いやられ、日々どう糧を得ていくのかは子どもが増えるにつれ切実な問題となり、またどう子どもを育てていくのかでも意見が食い違う。

食い違いが積み重なり、あちらこちらで飲み込んだ怒りが溜まり、とうとう互いに爆発。離婚寸前にまでなったことがある。まさしく別居のためのアパートを探し始めるところまで。大きな痛みとしこりを内に抱えながら、さてどう暮らしていくかと新しい生活への計画を立てる。父親を慕う子ども達の笑顔を振り払いながら。

現実的に離婚へと互いに動きながら、本当にこれでいいのか?本当にもうできることはないのか?そんな内の声が徐々に大きくなる。振り払い、これでいい!と叫んでみても内の声は次第に大きくなっていく。本当に?ある日その声のあまりの大きさにへなへなと座り込んだ。扉が開く、奥にしっかりと鍵をかけてあった扉。

当時全く見えなくなっていた夫の良き部分が次から次へと溢れ始める。自身の怒りの幕がさらさらと取り払われていくところに、どれほどの気持ちと行為を彼が注ぎ続けてきたのかを見つける。私は彼の何を知っているというのか。

共に暮らし始め8年目のこと。そこから夫婦関係を築くということに意識的に取り組み始めた。どう組み立てていけるのか、一旦壊れてしまった体験を生かしつつ。それでも日々問題は起こり続けるのだけれど、底に確かな土台が築かれつつある。そして一つ一つの問題を越える度に、また土台も強まっていく。パートナーになり続ける過程に終わりはない。こうして縁あり共にあれることに感謝しつつ。

パートナーとの関係、知恵いくつか

2012-03-18 01:16:08 | 夫婦ノート
カウンセリングや様々な本や、夫婦関係を築くための知恵は色々。今まで触れた中で内に残っているものを少し。

・表面的でないより深いコミュニケーションを磨くということ:

アンソニー・ロビンズ氏と心理学者Cloe Madenaes氏との「パートナーとの関係」についての共作DVDに、離婚寸前の夫と妻を20センチほど離して向かい合わせに立たせ、目を見つめ合い「そこにいない」と思ったら肩を叩くということをさせる場面がある。しばらく妻がいらだたしそうに何度か肩を叩くことを繰り返す内に、やがて肩を叩く回数が減っていき、最後に泣きながら抱き合う。あの瞬間の感覚。

言葉を超えたその奥にある気持ちを汲み取る。その奥にどんな気持ちが流れているのか、「生い立ちに刻まれた痛み」「受け入れて欲しい」「温もりが欲しい」。

夫婦関係の本ではないけれど、自身の深いところで支えとなっている本にルドルフ・シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』という本がある。その中で、「相手の奥の光を見る」というのがある。大嫌い、敵と思う人に光を見出だす訓練。パートナーをそう例えるのは極端すぎるけれど、大嫌いと思う敵にさえもそんな光を見出せるということ。その光との「繋がり」を掴んだ上で、現実的な対処。それは「理解されようとする前にまずは理解する」であり、「互いが納得する着地点の創造的な模索」であり。テクニック・技術と共に、底の繋がりを。

・もう一つに「サクリファイス」という考え方:

「生贄、犠牲」と訳すとニュアンスが少し違うのだけれど、サクリファイスの実りということ。その時点で大切と思っているものを手放すことでより大切なものを得る。パートナーとの関係はこのサクリファイスの仕組みが働く特別な関係。


引き返すのか進み続けるのか、暴力や他の異性が絡むケースなどは、また違ってくる。


クリスタル、違いを生かし合い

2012-02-20 02:15:03 | 夫婦ノート
次女のサイエンスフェア・プロジェクト。クリスタルの実験をしたいと。ネットで調べて塩と砂糖のクリスタルが形成される過程や出来上がりを比較しようということに。

翌日夫と一緒にネットを見ていた次女、ロックキャンディー(砂糖クリスタル)を作ってみようというユーチューブを見てすっかりその気に。カラフルなロックキャンディーを作りたい!

次女の頭の中ではロックキャンディーと塩クリスタルの形成過程や出来上がりを比べよう!とできあがる。

ロックキャンディーを作るには容器に垂らした糸のみにクリスタルが形成されるよう溶液の表面や底にクリスタルがたまらないようかき混ぜたり、3日ごとに容器を交換する必要がある。

「ロックキャンディーを作るという目的と砂糖と塩のクリスタルができる過程や出来上がりを比較観察していこうという目的は同時には成り立たないかもしれないね。比較というのはなるべく同じ環境を整えるものでね、どちらかだけ違う手順をとっていたら比較ということにはならないのよ」と私。

「2年生なんだからそんな厳格に比較環境を整えるなんてことしなくてもいいんじゃない」と夫。

ここで一旦停止、次女にちょっと別のことをしていてと伝え夫と話し合い。

「科学的な実験というのは・・・」と私。
「楽しむというモーティベーションを大切にしてこそ・・・」と夫。

小さな子に対しての普段の姿勢を象徴しているような互いの言い分。私「教えていかなくては」、夫「まずは楽しく」。大きな子に対しては私「楽しさ」、夫「厳しさ」と立場が逆転してくる傾向があるのだけれど。

普段のわだかまりなども噴出し結構こじれて感情的な言い合いになる。(笑) 互いにちょっと頭を冷やして。

結局どちらも大切なことじゃないか、と同意。サイエンス・フェアは科学的な手順を習う機会でもあり、それでも楽しむというモーティベーションは大切。科学的な手順を学びながら楽しむということは可能なはず。

両方しようということに。砂糖と塩クリスタルの形成を同じ環境で比較観察しつつ、別のいくつかの容器にロックキャンディーも作っていく。「砂糖クリスタルでこんなこともできる!例」として。

次女大喜びでとりかかる。


1人では見えなくなっていく部分がある。見え方の違いを互いに尊重しつつ、見えない部分を照らし合えるような関係を築いていけたら。違いにイライラする、から、違いを生かしていこう、という発想の転換。洒落にならないバトルから小さないざこざまで日々体験しつつ、ようやく気づきつつある感覚。

共に創りあげたものは、1人で取り組んだものより何倍も豊かになっているはず。しかも「互いに違う」からこそより豊かに。シナジーというのはこういうことなのかもしれない、そう少しずつ学んでいる。

緑のヨーグルト、同意に立つ

2012-02-15 07:11:52 | 夫婦ノート
夫が5人の子を連れ大手ホールセールの店で大量の買い物をして帰宅。雪のドライブウェイを行き来し家族総出で荷物を降ろし入れる。

緑色のパッケージのヨーグルトを嬉しそうに抱える次女。

やっと全部の荷物が冷蔵庫や冷凍庫やパントリーやガレージやにおさまったところ、夫に話す。

「あのヨーグルトは買わないでおこうと何度か話したことあったのに」
「?」
「ほら、“ハイフルクトーズコーンシロップ”が入ってるからって」
「上の子達と手分けして欲しいと思っているものをそれぞれカートに入れてたからいちいち成分を見られなかったよ。下の子達が騒ぎ出す前にと急いでいたしね」
「成分見なくたってあの緑色のパッケージのヨーグルト、って前に何回か話したじゃない?」
「だから一つ一つ成分を丁寧に調べてる余裕も無くてね」
「あれだけ話して緑のヨーグルトには入ってるから買わないでおこうと納得してたんだからいちいち成分なんて見る必要ないじゃない」

互いにイライラし始める。夫は買い物の状況がどれほど大変だったかを説明し続ける。私は互いに明確に納得したと思っていたことを夫が覚えていないことに呆れながら、「忘れてたよ」と一言言えばいいのにと気に入らない。

一日も終わりに近づき互いにヘトヘト。フレッシュな朝なら笑って通り過ぎそうな穴に入り込み、取っ組み合いを始めている。平行線。

深呼吸。

「こんな夜に5人連れて買い物してくれてありがとう。大変だったよね。おかげで随分と助かっちゃった。しょっちゅう買い物にいくわけじゃないのにいくつかあるヨーグルトのどれに何が入っているかなんて覚えてられないよね。だからってレジは込んでるし疲れてきてるちびっ子たちが騒ぐ前にどうやって早く店から出ようかと必死でいちいち成分見る余裕なんてありゃしないだろうし」

一瞬ぽかんと口を開け肩をすくめる夫。互いに噴出す。

「で、何だっけあのハイフルコン何とかって?」
「ハイフルクトースコーンシロップ」
「それそれ、緑のヨーグルトって、今度買い物に行くとき紙に書いて持っていくから」

“まずは相手を理解しようとする、エンパシックに相手の言葉に耳を傾けつつ”、普段から心がけようと話し合っていること。互いの間にそんな同意ができていると、どこに戻ればいいのか穴の出口の灯りに気がつくことができる。プライドや意地やエゴやと難しい場面も多々あるけれど。

まずは相手を理解しようとする、エンパシックに相手の言葉に耳を傾けつつ。この同意に随分と救われてきた。

胸の奥に刻まれたシーン

2012-01-06 00:12:30 | 夫婦ノート
今まで様々な結婚式に出席したけれど、その中で強烈に記憶に刻まれたシーンがある。

ユダヤの結婚式でのこと。新婦と新郎とラビをちょうど覆うほどのキャノピー(chuppa)の下で、新郎が新婦の右人差し指に指輪をはめ、祈りの言葉。その後新郎が右足で白い布をかぶせたガラスのコップを踏み潰す。パリンという音が響き渡ると、集まっていた人々が口々に「Mazel Tov(Good luck)!」と叫び踊り始める。

2人が誓いを交わす結婚式の最高潮の場で新郎が足でガラスを踏み砕く、その光景が目に焼きついた。そしてこの行為の意味について調べていくことでますますこのシーンが心に刻まれていった。

このガラスを踏み砕く行為は、「世界は完璧でないと思い出すため」と言われている。二人が結ばれ全てが完璧に見える人生の最高の場でガラスを「壊す」ことにより「まだまだ完璧でない」と思い出す。

完璧でないからこそ二人で力を合わせ創っていく必要がある。結婚は「始まり」であり完璧さの頂点にあるわけではない。そして相対する二つの要素が組み合わさりあたかも世界の完璧さが象徴される瞬間に、世界にはまだ悲しみや苦しみが溢れ完璧になったわけではないと突きつける。

私にとってパートナーとの暮らしの中で、日々の自身の暮らしの中で、あの右足で踏み割るシーンがパリンと響き渡る音が、その後の歓喜に溢れる歌や踊りと共に、深いところで力となっている。

愛するということ

2012-01-06 00:11:29 | 夫婦ノート
「Love is a verb(ラブは動詞)」という言葉は、こちらでパートナーとの関係などについて語られる時によく聞かれる言葉。

「愛があるない」のではなく、「愛する愛さない」という自身の選択があるのみ。


Steven Coveyとある相談者との会話にこんなのがある:

相談者:私の妻と私はもうかつてのような感情を互いに対して持ち合っていない。私はもう彼女のことを愛していないのだと思う。彼女も同じだ。私はどうしたらいいのでしょう?

Covey:感情がもうないということ?

相談者:そうなんです。私達には3人の子どもがあり、私達は本当に心配してるんです。どうしたらいいんでしょう。

Covey:愛しなさい。

相談者:だから言ったように感情がもうそこにはないんですよ。

Covey:愛しなさい。

相談者:分かってくれませんね。愛という感情がもうないんですよ。

Covey:じゃあ愛しなさい。もし感情がないというのなら、それこそ愛する理由になる。

相談者:だけどどう愛することができるんですか愛せないという時に?

Covey:友人よ、愛は動詞なんです。愛という感情は愛するという動詞の実りのようなもの。だから愛しなさい。犠牲を払い(sacrifice)、彼女のことを聞き、共感し(Empathize)、感謝し、彼女を肯定し。あなたはそれらを喜んでできますか?



何の努力もせず燃え溢れるような愛情が湧き出る、確かにそんな始まりがあるかもしれない。それでも互いに愛すると選択し行動に移していくのなら、そんな二人の始めの高まりを互いに維持することは可能なのだろう。

子どもに対しての愛情にも似たようなところがあると思っている。子どもに対する母性や愛情が発露している場合とそうでない場合がある。「この子に対する愛情が湧いてこない」ならば、より思いやり、その子のことを聞き、共感し、肯定し。するとそれらの行為の実りとして愛情がふつふつと湧いてくる。愛があるから思いやるのではなく、思いやるから愛情が湧いてくる。

愛は奥底に常に滞ることなく流れ続けているものなのかもしれない。愛するという選択・行為によってその常にある流れに蓋をしていた詰まりがとれ、尽きることのない無限の愛の泉に繋がる、そんなイメージを持っている。

夫婦ノート(流れは止まることなく)

2011-09-14 00:38:46 | 夫婦ノート
内の温もりからは 愛が流れ続けている

愛がなくなるということは ない

遮るものに 目を向けていただけ

遮るものを 積み重ねていただけ


内の温もりに戻る

すると 流れに気がつく

止まることのない流れ

遮るものは押し流され


日々内の温もりに戻る

あの共に生きていくと誓いを立てた日と

同じ情熱で相手に向き合う自分に 気がつくだろう

夫婦ノート(一つに)

2011-09-12 00:11:01 | 夫婦ノート
ギリシャ神話に元々は両性具有だった存在(androgyunous)がある日ゼウスによって二つに分けられたという話があり、それで男と女が惹かれ合うのはかつて一体だった片割れと再び一緒になりたいからだ、という物語がある。(プラトン『饗宴』) 人は元の完全な状態に戻りたくてしょうがないのだ、と。

またユダヤでは、世界は4つのもの(element)、火・風・水・地、 人間・動物・植物・命のないもの全て、 春・夏・秋・冬、 北・南・東・西で作られていて、これら4つのものを超越する5つ目の存在が、男と女の魂が結びついた存在即ち「神」の魂に到達した存在、と言われていたりする。


肉体だけでなく心も魂までも一緒になる、というのは一瞬のことならば結構簡単なことなのかもしれない。ところが長い年月を共に経つつとなると、とてつもないチャレンジとなってくる。

それでも、「神」に近いより完全な存在になるため、とまではいかないとしても、一人では到達できないところへ行くためにこうして共にいるのだ、という前提みたいなものが互いの間にあると、チャレンジ溢れるパートナーとの暮らしも、より生き生きと意味を持ち始めるということはあるのかもしれない。

2人でしか到達できないところがある。目の前の相手は、到達する地点へいくための「障害」なのではなく、到達するために「必要不可欠な存在」なのだという認識。

「問題」をより一体となるための「チャレンジ」と、目の前に現れる「問題」は二人がより完全になるための「好機」だととらえながら。


様々に与えられるチャレンジに向き合い共に越えていく二人。

ふと、一人では絶対に来ることのなかった地点に佇んでいる自分に気がつく日が来るだろう。

もう二人と分かつことのできないほど一体となったパートナーと共に。