週半ば、中学校の駐車場。迎えの車に乗り込んだ長男、シートベルトしめながら決まり悪そうに笑い、「ママ怒らないでよ、サイエンスの先生が後でメールするって」
「な、何したの・・・」
長男談:サイエンスの教室でランチを食べた友人が、ソーダをくれたので、冷やして後で飲もうと少し開いた窓のサッシに置いた。サイエンスの授業が始まり、先生が窓を閉めようとして、ひじが当たり缶が外へ落ちる。長男、窓からジャ~ンプして缶を取りに行き、窓から戻る。先生呆然、「あなた一体授業中に何してるの・・・。後で親にメールします」 他の子達笑う。
これまでの長男を見ていると、ここは越えない方がいいという「境界」を、結構守るタイプ。といって「いい子」でもなく、授業中ふざけていて注意されるということはちょこちょこ。またとても仲のいい友達というのは、ちょっと羽目をはずし過ぎるいわゆる「問題児」が多く、その中の一人は問題続き(といってもまだまだドラッグとかそういうことではなく、先生の言うことを聞かないとか課題を出さないなど)で結局今年から違う学校へ移ってしまった。
今までを振り返り親への連絡があったのは:
六年生の時に、ランチルームで車輪のついたゴミ箱に乗って友達とレースし、校長室に呼ばれる(小学校では停学の次に重い処分)。その友達(今でも親友)が校長室の常連でもあったことから、長男には、「お友達の誘いを自身の判断できちんと断る」という指導だったよう。この出来事は、一部始終を見ていた次女のクラスで、今も語り草になっているという。(笑)
中学一年のとき、クロスカントリーの部活時に、お友達と叩き合いをしていて、一日校内停学(こちら)。喧嘩ではなく仲良し同士のふざけあい。この出来事は本人にもかなりこたえたよう。
話し合い。
「当たり前のこと」に挑戦したくなる思春期の特性が絡んではいるとは思うのですが、「窓は出入りするものじゃない!」とまずは基本を確認。
そして「境界」「リスク」について話しました。
「じゃあ、NPO活動中にそういうことが起こっても同じことする?」
「絶対しない」
彼が熱心にはまっているNPO活動は、軍隊的な厳しい規律に則ったもので、また周りを教える立場にもあるため、彼が一番しゃきんとする場。
「だよね。じゃあ何で学校ではしたんだろう。その場その場にここは越えちゃいけないという『境界』があるの分かってるんだよね。今回は、その咄嗟の境界の見極め、甘かったんじゃない?」
そう言うと、
ソーダ缶が雪の上で凍ったら破裂してしまう可能性がある、それに落ちたのは外から回ったのでは取りにいけない場所、怒られるだろうけれど、まあそれほど悪いことにはならないのではないか、最悪の場合でもdetention(ランチタイム拘留)だろうと思ったと。
ここからは、「笑っては済まされない境界」というのは、見えていたよう。それでもソーダを選んだと・・・。
「境界を越えるときには、『得る』ものもあるかもしれないけれど、必ず何かを『失う』かもしれないという『リスク』がある。咄嗟に『得るもの』と『失うもの』を天秤にかけていたようだけれど、リスクはね、もっと価値あるもののために犯すものよ。
得るもの:ソーダ
失う可能性のあるもの: 他の子達の授業への集中、先生があなたのために割く時間と手間(注意、拘留)、先生との関係、楽しいランチの時間、落ち着いた気持ち(親へメールが行くとそわそわ)
あなたが失いそうになったものは、ソーダなんかよりも、ずっと大切なものじゃない?」
14歳くらいになると、少し論理的に話した方が、心に届くようです。
ミステイクからできるだけ多くを学んで、次へと生かしていこうねと納得し合い。
結局、その後も先生からのメールはなく、その場口頭での注意で終わったようでした。
先生も忙しいし、今回は、あなたが分かったと判断して連絡がなかったのだろうけれど、「二回目」はそうはいかないよねと話し。
これから「ソーダなんて可愛い」と思えるような、様々な誘惑もあるでしょう。こうした一つ一つの体験が、誘惑を前に、「何がより大切なのか」を見つめるための訓練になればと、思っています。
失敗は次への架け橋、そう信じつつ。
「な、何したの・・・」
長男談:サイエンスの教室でランチを食べた友人が、ソーダをくれたので、冷やして後で飲もうと少し開いた窓のサッシに置いた。サイエンスの授業が始まり、先生が窓を閉めようとして、ひじが当たり缶が外へ落ちる。長男、窓からジャ~ンプして缶を取りに行き、窓から戻る。先生呆然、「あなた一体授業中に何してるの・・・。後で親にメールします」 他の子達笑う。
これまでの長男を見ていると、ここは越えない方がいいという「境界」を、結構守るタイプ。といって「いい子」でもなく、授業中ふざけていて注意されるということはちょこちょこ。またとても仲のいい友達というのは、ちょっと羽目をはずし過ぎるいわゆる「問題児」が多く、その中の一人は問題続き(といってもまだまだドラッグとかそういうことではなく、先生の言うことを聞かないとか課題を出さないなど)で結局今年から違う学校へ移ってしまった。
今までを振り返り親への連絡があったのは:
六年生の時に、ランチルームで車輪のついたゴミ箱に乗って友達とレースし、校長室に呼ばれる(小学校では停学の次に重い処分)。その友達(今でも親友)が校長室の常連でもあったことから、長男には、「お友達の誘いを自身の判断できちんと断る」という指導だったよう。この出来事は、一部始終を見ていた次女のクラスで、今も語り草になっているという。(笑)
中学一年のとき、クロスカントリーの部活時に、お友達と叩き合いをしていて、一日校内停学(こちら)。喧嘩ではなく仲良し同士のふざけあい。この出来事は本人にもかなりこたえたよう。
話し合い。
「当たり前のこと」に挑戦したくなる思春期の特性が絡んではいるとは思うのですが、「窓は出入りするものじゃない!」とまずは基本を確認。
そして「境界」「リスク」について話しました。
「じゃあ、NPO活動中にそういうことが起こっても同じことする?」
「絶対しない」
彼が熱心にはまっているNPO活動は、軍隊的な厳しい規律に則ったもので、また周りを教える立場にもあるため、彼が一番しゃきんとする場。
「だよね。じゃあ何で学校ではしたんだろう。その場その場にここは越えちゃいけないという『境界』があるの分かってるんだよね。今回は、その咄嗟の境界の見極め、甘かったんじゃない?」
そう言うと、
ソーダ缶が雪の上で凍ったら破裂してしまう可能性がある、それに落ちたのは外から回ったのでは取りにいけない場所、怒られるだろうけれど、まあそれほど悪いことにはならないのではないか、最悪の場合でもdetention(ランチタイム拘留)だろうと思ったと。
ここからは、「笑っては済まされない境界」というのは、見えていたよう。それでもソーダを選んだと・・・。
「境界を越えるときには、『得る』ものもあるかもしれないけれど、必ず何かを『失う』かもしれないという『リスク』がある。咄嗟に『得るもの』と『失うもの』を天秤にかけていたようだけれど、リスクはね、もっと価値あるもののために犯すものよ。
得るもの:ソーダ
失う可能性のあるもの: 他の子達の授業への集中、先生があなたのために割く時間と手間(注意、拘留)、先生との関係、楽しいランチの時間、落ち着いた気持ち(親へメールが行くとそわそわ)
あなたが失いそうになったものは、ソーダなんかよりも、ずっと大切なものじゃない?」
14歳くらいになると、少し論理的に話した方が、心に届くようです。
ミステイクからできるだけ多くを学んで、次へと生かしていこうねと納得し合い。
結局、その後も先生からのメールはなく、その場口頭での注意で終わったようでした。
先生も忙しいし、今回は、あなたが分かったと判断して連絡がなかったのだろうけれど、「二回目」はそうはいかないよねと話し。
これから「ソーダなんて可愛い」と思えるような、様々な誘惑もあるでしょう。こうした一つ一つの体験が、誘惑を前に、「何がより大切なのか」を見つめるための訓練になればと、思っています。
失敗は次への架け橋、そう信じつつ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます