靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

「難しい子」に育てられ

2013-10-17 02:52:34 | 子育てノート
夫が長期出張中の友人&二人の息子君交えて食事。子供がはしゃいで遊ぶ声を背後に聞きながら、友人と後片付け。手を動かし口を動かし。

二人の息子の内、一人の子とどうしてもぶつかってしまう。その子の行動のこういうところああいうところ気になってしょうがない。昨夜はお友達の家でのスリープオーバーでその子が家にいなかったのだけれど、もう一人とだけ一緒というのは、何てピースフルで私自身の精神も穏やかになるんだろうと驚いたのよと友人。

よく分かる! 自分の価値観のフレームにすっぽりとはまる手のかからない子だけだったら、子育ては何て楽しくハッピー!ですんでいただろうに。

四六時中何をしているかと覗き、「今何をするときだっけ?」と思い出させ、背中を押し尻を叩いてするべき事に向かわせる必要がある子。自分の思い通りにいかないと、感情をむき出しにして当り散らし、周りもどっと疲れる子。私自身の価値観からはずれることを、何度も何度も繰り返し、一緒にいると神経が擦り切れていくように感じる子。

そうかと思えば、ぱっぱと自分で物事を進め、感情的な切り替えもうまく、ルーティンも身の回りのことも私などよりきちんとしていて、こちらが自然と微笑んでしまうようなことを言ったりしたりを続ける子もいる。

それでも、この自分にとって難しいと感じる子達が、どれほど私自身を育ててくれただろうと思う。忍耐と寛容、自身の価値観の見直し、打ちひしがれても立ち上がり続けるガッツ、難しい子/手のかからない子という境界を超え一人一人を抱きしめることの大切さ、それらを何度も何度も教えてくれたのは、そして今も教え続けてくれるのは、この難しい子達。

この子達が、相性や価値観を超えたところにある、奥深くから湧き上がる愛情というものを示してくれた。


私達も育つために、この子達を与えられてる、親と子、一緒に育っていくためにこうして毎日向き合っているんだよね・・・、そう友人とつぶやき合い。

片づけが終わり、ハーブティーでほっと一息。きゃっきゃと遊び続ける子供達。二人の息子君を見つめる友人の目の優しさ。よしっ、明日からも頑張ろ、そう思った夜でした。

子供言葉、どっち?

2013-10-17 02:50:40 | 子供言葉
最近、子供達の間で「どっちがいい?ゲーム」が流行っている。



次女九歳: 紫の鼻と黄色の歯とどっちがいい

私: 緑のヒゲかな。

次女: ママ、二択ね!   私はね、黄色の歯だなあ。歯だったら口を閉じたら見えないけど、鼻は隠せないもの。






三女六歳: つるっぱげと、髪の毛が一生ぎっしり生えてるのとどっちがいい? ぎっしりっていうのはね、肌が見えないくらい隙間無くてね、前髪は目のすぐ上まで、横と後ろは腰まで、もう重くてぎっしり。

私: ぎ、ぎっしりは、ケア大変そうだから、つるっぱげかな。

三女: 私はぎっしり髪だなあ。だって人がよじのぼって遊べる!






次男四歳: 永遠にドラゴンの顔と、毎日ジャケット着るのとどっちがいい?

私: これは難しい選択ね。ドラゴン顔かな。

次男: 僕は毎日ジャケットかなあ。

私: そう。


近況整理、このシンプルさ!タフさ!

2013-10-13 05:03:08 | 今週の整理
1.週の初めに嵐。朝起きると落葉樹という落葉樹、裸! 道という道、黄色! 大地に描かれた点描画のようです、真っ黄色の。冬木立に車走らせ。雪が積もるのももうすぐ!


2.週明けに長女がバレーボールでつき指、週の終わりに長男がフットボールでつき指。二人とも同じ週に初めてのつき指、なんて偶然! おかげさまで長女はほとんど回復し、もうそろそろピアノ再開できるかなといった様子。長男は一晩たっても腫れがひかず紫色、昨日病院へ。少し骨が欠けているとのこと。一ヶ月程隣の指とくっつけテープしとけば大丈夫、そう言いながら、二本の指の先っぽを一回りくるりと巻く。残りの小さなテープを爽やか笑顔で渡して下さる医師。えっ、これだけ? 日本だったら少なくとも私が子供時代は、包帯ぐるぐる巻きだったよなあ。このシンプルさ、嫌いじゃないです。


3.その足で長男三日間のNPO合宿へ。トライアスロンもあるそう。その前の医師との会話。
「二週間はその指への衝撃は避けてね」
「明日トライアスロンに参加する予定なんですけど」
隣で聞いている私、思わず吹き出す。そんなあ、行けるわけないじゃな~い。
「スイミングは、オープンスイム? それともラップスイム?」
「ラップです」
「だったらいいよ。オープンスイムで手をがむしゃらに動かしたりしたらよくないけどね。あとはマラソンと自転車だし、問題ないよ」
長男の方を向く医師の背中に向かって、口を開けたままの私・・・。
タフです、こちらの人。


4.長距離走部が終わり、長女のバレーボール部が始まる。長男のウェイトトレーニング部は今月末から。そこで長男少し早く帰宅するのですが、レゴにはまっている次男に付き合っている内に作る熱が燃え上がり。時間があれば何か作っている。二人額くっつき合わせあれやこれやと工夫し。14歳と4歳、一緒に熱中、こんな日が来るもんなんですね


5.友人達との非公開ブログ、とにかく今は多作多捨で思いを形にし続けている。10日間で30ほどの投稿。皆時間がままならない人ばかりで、道は険しいのですが、隙間隙間に少しずつでも積み重ねて


6.自分にとって書くということの原動力は、「切なさ」。心をきゅっとつままれるような感覚、そこから文字が立ち上がってくる


明日長男帰宅。今日は午後から友人とパンプキンパイを作りトレール散歩。明日も森の中へ。今週から新学期!

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

次男、友人娘ちゃんとスクーターすいすいな午後。


ベンチで友人手作りスナック、チーズスコーンいただいて

おいし~い。

次女手作り誕生カード。

クラフト好き次女、本からアイデアもらって。

レゴに埋まる長男。

次男と長男いつも作りかけ中で、かたづきません・・・。

作品品評会。


下には次男の作ったバイクを収納できるスペース。

子育てノート、心の宝箱

2013-10-13 04:57:10 | 子育てノート
子供達と接していて、浮かぶイメージに、グラスに入った水や、箱に入った宝石、銀行口座のバランス、といったようなものがあります。

ここでは「心の宝箱」という言葉を使って表現してみます。(何だか命名メルヘンチック過ぎでしょうか)

その箱の中にきらきらと輝く宝がいっぱい入っていると、子供は生き生きとその子の持てる力を最大限発揮していける。

親と子の絆を築くというのは、この箱の中にせっせと宝物を入れていくイメージ。

宝物といっても、世間的に価値があるとか、高価なものとか、例えば、最新の電子機器とか世界一大きなアミューズメントパークへの旅などが、そうとういうわけでもなくて。何が宝物になるかと言うと、それは日常にある何気ない気の向け方のようなもの。

宝箱に蓄積されていく、と感じるのが:

・話を聞く。
・冗談言い合って、一緒に笑う。
・宿題やプロジェクトに埋もれてるときに、フルーツやスナックなどをさりげなく部屋に差し入れる。
・できないできない!と言っていることにじっくり取り組み一緒に乗り越える
・自分の頭にあるこうして欲しいああして欲しいという絶え間ない言葉をひとまず横に置き、その子を理解しようとしてみる。
・目を見て接する。
・一緒に散歩。
・一緒に遊ぶ。
・ハグ、スキンシップ
・寝る前の感謝の言葉の言い合い
・学校へ送り別れるときに目を合わせ、いい日をねといったメッセージを伝える(その前にどんなにカオティックでも)

などなど。


逆に一気に宝物が消えていく瞬間というのもあって、こちらが爆発したり、無理やり何かをさせたり、子供が本当に見てほしい時に無関心だったり。それでも、もし日常的に積み重ねた宝物がたくさんある場合は、箱が空っぽになることはない。またたとえ減ってしまっても、再びこつこつと貯めていけばいいこと。

またそんな一気に減った瞬間も、その後の対処の仕方で、一気に倍になるチャンスでもある。なぜあの時、こちらがそんな態度をとったのか、その子が少し時間をかけて、納得できたり、謝る必要がある場合はこちらが謝ったりすることで。

ティーンになると、それまでの「宝箱の蓄積」というのが本当に大きいと感じている。慣れ親しんだ価値観を離れ、色々試し、自分を作っていこうとするティーンの子達。親の価値観と頭ではぶつかり合う。親は時に彼らがどうでようが「それは違う!」と何が何でも入り込む必要もある。それでも「宝箱の蓄積」があるのならば、絆はしっかりと繋がっている。

こつこつと、子供達の宝箱を満たしていきたい、そう思いつつ。


*これは対人関係にも言える部分があるのかもしれませんね。相手の心の箱を満たすというイメージ。

子育てノート、報酬制について

2013-10-13 04:55:02 | 子育てノート
先日友人達と話していて、「報酬制」の話になった。「いいことをすれば報酬がもらえる」、こちらでは聞きなれた文句。

子供達の学校でも、静かに授業が聞けたり、いいことをすると「チケット」がもらえ、そのチケットをためると賞品がもらえるといったシステムを取り入れるクラスが多い。今年からは市のディストリクトをあげて、無断欠席がなければディズニーランドへの旅を賞品とする「くじ引き」へ参加できる!といったキャンペーンも始まった。

中学になると、「成績にポイントを加算」といった報酬が盛ん。ここまで報酬制!と驚いたものには、「恵まれない人々に缶詰を持ち寄りましょう週間」に、○缶以上持ってきたら○ポイントとされていたこと。生徒たち成績のためにとこぞって持ち寄ってました。

長年こちらで先生をしていた友人によると、報酬制がないとなかなかうまくクラスが回っていかないのだそう。報酬制によって嘘のようにクラスがまとまると。

街に出てショッピングしていると、「カートに立たないでね。思い出して!いい子にしていれば必ず報酬がもらえるでしょ」そんな放送に出会うこともある。

こちらの子供達を取り巻くこんな状況に、最初はぎょっとしたものだった。

報酬制に違和感を感じるのは、「報酬のためにするわけじゃない」といった思いのためだろう。

授業中静かにしているのは自分も周りも学ぶため、缶詰を持ってくるのは少しでも持たざる人々の役に立つため、カートに立たないのだって大切な身体を傷つけないため。

そんな目的が「目の前の飴玉をもらうため」に、すり替わってしまう。あげく、もし飴玉がないのならしないよとなってしまうのじゃないだろうか。長い目で見るのなら、何も身に着けたことにはならないのじゃないか。

そこで思い出すのが、飼い犬を調教クラスに連れて行ったときのこと。ピーナッツバターのついた木べらを常に持ち歩き、言われたことに従ったら舐めさせる。しばらくすると、ピーナッツバターがなくても言われたことをするようになる。ヒトの子供もひょっとして、飴玉を常に用意されれば、飴玉がなくても習慣として身体にしみつき、するようになっていくということもあるのだろうか?
 
そこのところはよく分からないのだけれど、報酬を用いず、「本当の目的」をその都度思い出させ、何度も何度も繰り返し習慣にしていくというのは、とにかく教える側にとって手間も時間もとてつもなくかかること。様々な家庭環境から送られる大勢の子供を一気にまとめるには、報酬制がどうしても必要になってくるのだろう。しかも皆で祭り気分にわいわいと楽しくまとまってしまう。



家から一歩出れば、どこもかしこも報酬制。外ではそんな祭りを楽しみつつも、家庭では、こつこつと「報酬のために」とはまた違う姿勢も教えていきたい。それはすぐに結果も出ず、時間もかかること。

勉強するのは「学ぶ楽しみ」と「勉強できるなんて恵まれた環境にいることを将来少しでも還元する」ため、Aをとって100ドルもらうためじゃない。トイレ掃除をするのは皆が気持ちよく使えると嬉しいから、ゴミ出しするのは皆が暮らす家をきれいに保てたら気持ちいいから、こずかいをもらうためじゃない。

こうして基本をこつこつと教えつつ、時にちょっとした祭(報酬制)も取り入れていったらいいのじゃないか。それでも報酬はなるべく「物」でなく、「一緒に過ごす楽しい時」といったもの。部屋片付けたら皆で美味しいもの食べようか、洗濯たたんだら公園行こうかなど。

大きくなるにつれ、芝刈りしたら○ドルなどといった契約を結ぶのも、社会勉強になるように思う。それも、まずは「本当の目的」をこつこつと身につけていった上に。


報酬制について、引き続き考え、工夫していきたいです。

家族の温もりと、どこまでも続く闇と

2013-10-13 04:54:15 | 子育て風景
こちらの小中学校は四学期あるのですが、木曜日、その一学期目が終わる。テストやらプロジェクトやら一段落し、ほっとした様子の上の子たち。

日も沈み、居間の灯りがアスファルトの道を照らす頃。長女はソファーに次女はカーペットに横たわり本を読み続け、次男にせがまれレゴの飛行機を組み立て始めた長男も今は自分が夢中に、三女と次男はきゃっきゃっと声をあげながら縫いぐるみを並べ、夫は隣の長女に時折話しかけながらソファーでメールの整理。
ホットプレートでトルティーヤを焼きながら、温かい気持ちがこみ上げてくる。

夫は物心ついてから母親がおらず、家族の団欒というものを知らない。私自身は、皆が寝静まってから帰宅する団塊世代の父、また理想の社会を掲げ政治や市民運動に走り回りと家族以外へのプライオリティーの強い少し特殊な家庭に育ち、家族皆揃ってゆったり過ごす時間というのは年に何度かといった子供時代を過ごした。それでも、その年に何度かの温かい思い出が、心にいくつも残っているので恵まれていると思う。

成人してから父がこんなことを言っていたのを思い出す。
「今度生まれ変わったら、あの『大草原の家』みたいに、家族というもののために自らを捧げるような人生もいいかもしれないな」



テーブルを囲み、いっただきま~す! 具を包み、焼きたてのトルティーヤを頬張る笑顔。

子供達もいつか大きくなり、こうして過ごした時を懐かしく思い出す時が来るのかな。私自身の内で、子供の頃家族で過ごした一つ一つの時が、温もりと共に響き続けているように。



ふと窓の外に目をやる。凍りつく空気、どこまでも続く闇。その中に限りない人々の群れが連なっている。親の内に燃え続けていた炎が、自分の内に燻っているのを感じ、はっとする。

「不思議だけれど、あなたがあるべきあなたでないかぎり、私があるべき私になることはできない。私があるべき私でないかぎり、あなたはあるべきあなたになることはできない。これが相互に関係する現実の構造だ。
For some strange reason, I can never be what I ought to be until you are what you ought to be. You can never be what you ought to be until I am what I ought to be. This is the interrelated structure of reality.」     
                             Dr. Martin Luther King Jr.


目の前の家族を大切にしつつ、少しずつ、少しずつ、自分にできる限りのことを。

なぜ働く必要があるのか?

2013-10-13 04:53:46 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

「働く」ということの意味について(“Why Do We Have To Work?” By YY Jacobson Yeshiva netより):

 アブラハムは旅の途中、いくつもの町を通り過ぎた。人々はパーティーに明け暮れ、飲んで騒いでいる。そしてTyleにたどり着く。人々は畑に出て一日中働いている。アブラハムは言った「この地に暮らしたい。」そこで「神」は言う、「あなたの子孫のために、この地を与えよう。」(Bereishis Rabbah 39:8)

聖書ではなぜ「働く」ということに重きが置かれるのか? 「働く」とはどういうことか? 

ユダヤの世界観では、「人の最終的な目的」とは、「自身の内の神性を思い出し自分自身が『神』にできる限り近くなること」とされる。
「神は神に似せて人を創った(Let us make man in our image, after as our likeness…)」(Genesis1:26)


「神」は全てを創造(create)するとされる。ならば「神」という存在に限りなく近くなるとは、自ら「創造する存在」になるということ。与えられるものを受け取り続ける受身の存在から、自らが創造し与える側へ。それが「神」へ近づく超越(transcend)。 自らが現実を創造し、自らが運命(destiny)を形作る。

「働く」とは、自らの手で創り出すということ。「神」はあなたにこの世界を創造するパートナーであって欲しいのだと。


タルムードにこんな文句がある。

「トラ(聖典or人生の知恵)のクリーム(熟成した抽出物)を見つけるのは誰か? 母乳を吐き出す者こそが見つける。With whom do you find the cream of the Torah? With him who spits out the milk that he has sucked from the breasts of his mother…」(Talmud Berachos 63b)

赤子が飲めば飲むほど、母乳は作り出され、尽きることなく注がれ与えられ続ける。それでも、その母乳を吐き出し、自らの足で立ち上がり、自らが創造し与える側になる者こそが、人生の根幹に近づくと。



目の前に貧しく恵まれない人が横たわっている。ある男がラビに言う。

「神がこの世を創り、神が全てを支配し、神が何もかも決める。あの人は富み、この人は貧しく、その人は幸せで、この人は不幸で、全ては神の意志でそうなったこと。神は私達には到底分かるはずもない壮大な計画の下に、現実を作り出している。この目の前の男の境遇も神の意志で創りだされたもの。だから私達のすることは何もない。貧しく弱いままであらせればいい、神の意志に基づいて。」

「神はあなたに創造者になって欲しいのです。共にこの世界の現実を創り出して欲しいのです。さあ、私達にできる限りのことをしましょう。」 

ラビはそう答えると、目の前に横たわる男を連れ帰り、温かいスープを飲ませた。


「働く」とは、自ら創り出すということ。受け取る側から創り出す側へのTranscend、覚えておきたいです。

三角倒立と夢の不思議と

2013-10-10 04:14:06 | 
今まで週に一回の更新でしたが、量が増えてきたため、時間が見つけられる時は、少しずつ小分けに更新していこうかなと考えています!


昨夜実父から電話。こちらの政局が大きく動くと電話がかかってくる。最後に話したのは大統領選の時でした。(笑)
政局の話が終わり、体調はどう? と聞くと、ああ、このことも言っておかないとと思って電話したんだよと。

父は去年の終わりごろから三叉神経痛に悩まされるようになり、ピークの六月七月は一日に三度ほどの発作。二十分ほど続くこの発作というのはものすごい痛みらしく(火の棒でぐいぐいえぐられるようと)、頭を抱えて何とかやり過ごす。発作のない時も常に鈍痛が続き、刺激すると発作に繋がるので、食事も、歯磨きも、髭剃りもままならない状態だったそう。

ある夜、夢をみたと。お前は何で今までヨガや太極拳など続けてきてのに、三角倒立(逆立ち)をここしばらくずっとしていないのだ。そう自問している夢。

起きてすぐ三角倒立。すると、その八月三十一日の朝以来、三叉神経痛、ぴたりと治まった。

「マチカ、三角倒立だよ」と。昔から時々してきたのですが、頻度増やします。(笑)

父が言うには、神経痛は頭蓋骨の「ずれ」からきているのだろう、顎を怪我したこともあったし、「ずれ」はそうそう治らない。それでも倒立は頭蓋骨をひきしめ、「ずれ」を調整する働きがあるのじゃないか。もちろんこれは、科学的な根拠があるものではなく、本人が長年培った感覚的なものですが。



メモ:
・こちらのヨガの先生が、両手の平と頭頂部が床に三角形になるようにつける倒立、ひじから手のひらにかけてを床につけ頭を浮かしてする倒立と、この三角倒立(両手を組んで頭頂部を支えるもの)の三つを合わせてするほうが、首にいいとおっしゃっていた。私は今までこの三角倒立だけなのですが、試してみたいです。


・私自身、夢に随分と色々なことを教えてもらってきたのですが、これは遺伝的なものなのかもしれないなあとしみじみ思ったり。子供たちも夢をよく覚えていて、話してくれます。
 一昨日夜の夢:宝くじ100億当たった(名前を発表されたときの感覚。おごらず質素に暮らそう、子供たちに我慢させることを学ばせようと決意している感覚色々生々しく覚えています)、昨夜の夢:海の傍の古屋を購入しようか考えている(かなり詳しく港町の雰囲気や家の中の間取りなども覚えてます。あれはどこなんだろう)というものでした。こうして、夢の中で様々な体験をすることで、物事に対するシュミレーションの幅も広がるもの。
 夢について以前少し覚書を書いたのだけれど(心理学的・神経科学的リサーチ・実験に基づいたドキュメンタリーの覚書)、夢は、普段制約を受けている現実的な枠組みが取り除かれ、脳がマックスに活用されている状態、そのためインスピレーションや創造性の宝庫ともされる。
 まあ宝くじや、港町の家などは、脳をマックスに活用というのとはまた違うとは思いますが。(笑)


夢って不思議、そう改めて思った夜でした。

その子の内面から溢れるパッション

2013-10-10 04:10:19 | 子育てノート
いち、に、さん、いち、に、さん

ほらこっちは、

いち、に、さん、し、いち、に、さん、し

何で分かんないかなあ。三角と四角をイメージしてみて。(宙に腕をふりながら)いち、に、さんって三角のリズム、こっちは、いち、に、さん、しって四角のリズム。自分で三角と四角書いて言ってみて。(手を叩きながら)、「いち」に少し力を入れて、いち、に、さん、こっちは、いち、に、さん、し。ほら、声出しながら手叩いてみてよ。もっと大きな声で!

私がひいたリズムが、三拍子か四拍子かを当てる練習。六歳三女、どうしてもぴんとこない。次第にイライラしていく私。泣きべそ顔になり始めている三女。

こうなると、もう三女の中で「分かろう」という気持ちがシャットダウンしていくのが分かる。「できなくて悲しい」「ママが怒り始めて悲しい」そんな気持ちだけ大きくて。寝る前の時間、三女も随分と疲れている、私も一日走り回りへっとへと。

「じゃあ、明日もうちょっと練習してみようか。ピアノ頑張ってひけたね。先週はぜんぜん弾けなかった曲がすらすらできるようになって!」そう言うと、下を向いてこくんと頷き、涙を堪えた顔で二階に駆け上がっていく。

ピアノが楽しい様子で頑張っている三女。練習も自分から進んでし、練習の合間には自分で色々な音を組み合わせてうっとり聞き入っている。その日も、練習中一本の指をぎゅっと押さえているので、どうしたの?と聞いたら、「ちょっとひねって痛くしておくの、そうしたらね、一じゃなくて三のこの指でこの鍵盤を押すんだって覚えていられるのよ」と。「痛くしたら指が可愛そうよ」ちょっと驚いて言う私。「ふふふ、これくらい大丈夫」。

深呼吸。

すると、先日の三女と四歳次男の会話を思い出した。隣で聞いていて、つい笑ってしまったのだった。

どれだけの幅ジャンプできるかを競う二人。小さな幅から始めて、徐々に広い幅へ。

次男: う~ん、これよりおおきいのできな~い。でもね、もうすこししたらできるようになるんだよ。
三女: うん、もうすこししたらね。
次男: そうだよ、いっぱいれんしゅうしたらね、できるようになるの。
三女; ちがうよ。しばらくね、しないでおくと、できるようになるのよ。
次男: ちがうよ。なんかいもなんかいもしたらできるようになるんだよ~。
三女: そうじゃないよ。しばらくしないほうが、できるようになるんだってば。

子供は一日一日驚くスピードで成長している。心も身体も。

少し待ってみる、すると、コーディネーションや全体的なバランスなどが発達し、すっとできてしまうことがある。今これをしなさいと何度も何度も練習し、互いに何でできない!とイライラし、それでも、あの苦労は何だったんだろうと後で思うほど。

三拍子四拍子なんていうのも、ピアノを弾いている内に、耳も身体も発達し分かってくるもの。「分かる土台」ができてないのに、無理に押し込んでもしょうがない。


ついついこの日までに仕上げないと、といった期限があったりで、強く背中を押さざる得ないこともあるのだけれど、長い目で見ると、「練習を積み重ねて」と「その子自身のレディネスに達して自然に」と、「できるようになった」ということに何ら変わりがない。そして返って無理なくできる時を迎える方が、例え周りに比べ遅いとしても、その身に着けたものが「その子自身のもの」となるのかもしれない、最近上の子たちを見ていてもよく感じること。

確かに何事も練習を積み重ねてできるようになるというのは大切。練習を積み重ねたらできるようになる!といったマインドセットを教えていくことも。それでもその子の中にパッションがある場合はいいのだけれど、周りからの無理やりが続いて練習だけしているといったような場合は、結局それがどんなに高度な技術であろうとその身についたものは、「その子自身のもの」とはなりにくい。

その子自身のパッションを基にした練習を続けつつ、どうしてもできない場合は少し下がり、励ましながら待ってみる。できるできないより、その子自身の内面から湧き出る意欲、それこそを大切にしていきたい。

昨夜の反省を込めて。

近況整理、絶え間ない動きの世界

2013-10-06 06:12:43 | 子育て風景
1.辺り一面、黄金色がまぶしい! 真っ青な空とのコントラスト。運転していても道路わきの木々に、前方にそびえる山々にと、うっとりしてしまいます。


2.米国政府シャットダウン。週明けから70万人近い連邦職員が休暇を言い渡され(furloghed)待機。周りの知り合いも何人か。17年前には2週間続いたと言われるシャットダウン。今回は、米国経済崩壊の危機も目の前に迫っている。見守っていきたい。


3.夫がアレルギーテスト受ける。カビが~、カビが~と言っていたのですが、どうもダストorダストマイト&犬猫に反応と判明し。埃や埃ダニ、医者に市販の埃ダニ防止用のマットレス・シートや枕カバーを勧められ。できればカーペットも全部はがしフローリングにするのがいいですよと(無理です)。
 埃ダニ、今まで想像したこともなかったのですが、現代の家屋から完全に駆逐することは不可能、今この瞬間にも身体の表面を何匹も歩いているものなんですよと。ぎゃ~、知らなかった~! 
 マイクロスコピックなメガネがあったら、この世は全く違うように見えるのでしょうね。絶え間ない動きの世界、どこもかしこもダニやら微生物やらで大賑わいでひしめき合い
 多くの場合、人と何の問題もなく共存できるものですが、敏感に反応してしまうようならば、とにかく減らすことを目指しましょうと。掃除機がけやシーツ洗濯の頻度を増やす、あと熱に弱いようなので、布団ならば太陽の下に干す。ああマットレスを外に干せれたらなあ。
 幸い症状もそれほどひどくなく、夫以外は今のところ誰も反応していないようなので(彼の家系重度のアレルギー持ち何人か)、一応シーツやカバーを買いましたが、ぽつぽつと行きます。夫、アレルゲンを薄めたものを少しずつ服用するimmunotherapy(免疫療法、減感作療法?)も始めました。
 酸素排出に空気中の有害物質も吸ってくれるといった「空気清浄化プロジェクト」は、どちらにしてもよいようなので、続けます。(笑)


3.最近自分から野菜に手を伸ばしもりもり食べようとする長男。ランチにサラダを持って行こうかなと。何でも、長距離走部でいつもダントツトップの友人が(市のマラソン大会などでも大人に混ざって何度も入賞を果たしてきた子)、ランチになると、30cm×20cmくらいのバッグに入ったシザーサラダ・キットを取り出し、器に混ぜてむしゃむしゃと毎日のように食べているのだそう。ご、豪快! 
 他の競技などで、だってあの子は背が180近くあるから飛ぶのだって走るのだって負けちゃうよね、と言うこともあった中背の長男、この長距離のヒーローは、長男より頭一つ分以上も小さい小柄君。もう「足の長さ」なんて理由にはならず。
 どうしたらより早く走れるのか、そんな理由からでもこうして食事面に気を遣うようになるというのは、嬉しいことです


4.中学校は昨日、「それでも友達でいてくれるのね」デイ。こ、こんな格好してても、あなたは私の友達でいてくれるのね!といった格好をしましょうという日。
 長女、ピンクのパジャマ水玉ズボンに白いミニスカート、白いTシャツに、頭にはどでかいピンクのリボン・・・。長男、お友達がピンクのストッキングを学校へ持ってきてくれるんだと嬉しそうに、水色のウィグかぶって登校・・・。(朝の嵐、写真撮る余裕もなく)。
 今月は乳癌撲滅キャンペーン月間でもあり、ピンクというのはそのシンボル。学校、どんなことになってたんだろう・・・。
 こちらの公立中小学校、「クレージーヘアーデイ」(朝親子で何時に起きたの?といったカラフルで凝った髪をしてくる子もたくさん)、「特定の色デイ」(その色のものを着る)、「双子デイ」(誰かと全く同じ服を着る)「パジャマデイ」などがあり、先生方も参加して教壇に立っていることもある(パジャマで白板の前に・・・)。
 風紀が乱れる、とかもうそういう問題じゃないですね。楽しいです


5.長男部活帰り、学校の友達にカフェにてサプライズ・バースデーをしてもらう。欲しい欲しいと言っていたロングスケートボードを皆からプレゼントされ(100ドル以上もするもの!)大喜び。いつも誕生日会しないからねえ、とお友達。小学校入ってから中学二年までの間一回しただけの誕生日会、それほど同情を集めていたとは・・・。(笑)


6.友人達との活動。非公開ブログを立ち上げ、話し合い中。アイデア出し合い、まとまっていくには、なかなか時間がかかりそうです。少しずつ具体的な形を積み重ねて。それぞれの思いを合わせ、どんなものが浮かび上がっていくのか、楽しみです



今日は長女を来週から始まるバレーボール部のイントロダクションキャンプに降ろし、長男はNPO。残りは湖へ行き、夕方は揃ってトレールに散歩。明日はハイキングに誕生日会に。黄金色に包まれるアンカレッジより。

皆様の一週間が素晴らしいものとなりますように!

Have a wonderful week!



日常風景:
 
三女と二人でお出かけの先週末。カフェにて。ラズベリークリームソーダに抹茶ラテに。

話し続ける三女。

誕生日会友人への手作りカード by次女。



誕生日にはマウンテンバイクが欲しいと言っていた長男、なかなか欲しいもの値段ととうまく合わず、もうすぐ雪も降るし来年にまわそうということに。プレゼント第二希望へ。

それが、鉄板焼き!


なんて書いてあるか分かる?というシェフの言葉に、叫ぶちびっ子達。


友人から念願の!



デュプロ組み立て by次女。

周りのツリーハウスは三女、乗り物は次男作。


スナック大量作りしておくと助かります。小麦粉10カップクッキー!

混濁の中に何を掬い取り、子供達に伝えていくのか

2013-10-06 06:07:33 | 子育てノート
「ツンドラを歩いたことある? ふかふかして、ちょうどこんな感じ」

 上半身を起こして目をこする私のベッドを、ぽんぽんと叩く音。ネイティブ・アラスカンの村々を訪ねた夏、滞在していた家のお姉さんは、朝になると、こうしてツンドラへベリー摘みに、川へシルバーサーモン獲りにと誘ってくれました。

 週末には、少しお洒落をして、集まりへ。

「マイコには、これかな」

 手作りのビーズのネックレスを首にかけてくれ、少し離れて微笑み。賑やかな笑い声の聞こえるドアを開けると、手作り料理がテーブルを埋め、姪の誕生祝いに、従兄弟の引っ越し祝いにと持ち寄られたプレゼントが積まれています。歌や踊りにと、宴は夜更けまで。

「どの村から来た?」

村人達と同じ黒髪に茶色の瞳、どこへ行ってもそう聞かれたものです。お姉さんは、喉に何かつかえたような独特の音を持つネイティブの言葉をうまく話せない私にウインクしながら、「日本からよ。日本の妹よ」と答えます。

「ああ、日本の村かね。わしらの祖先は、元々は同じじゃったからのう」     

 真っ白な髪をしたお爺さんが、水平線を見つめながら、そう答えました。

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 ネイティブ・アラスカンの暮らしは、ここ百年ほどの間に大きく変化しています。今では狩猟採集のみに頼らずとも、スーパーへ行きお金を払えば、肉や魚、野菜や果物まで、一年中手に入れることができます。かつて移動の手段だった犬ぞりは、観光客向けのエンターテイメントとなり、村人達はゴアテックスのジャケットを着込み、雪原にはスノーマシンのエンジン音が響いています。人々の精神的な支柱は、シャーマニズムから、キリスト教へと移り変わりました。押し寄せるキャピタリズムの渦の中、各家庭のテレビからは、次から次へと新しい商品を掲げるコマーシャルが流れ、若者達は、イヤホンの英語のリズムに合わせ、バスケットケットボールに夢中です。

 毛皮をまとい狩猟採集に勤しむ、そんな物語に出てくるような「エスキモー」の暮らしは、もう村々では出会うことがありません。狩猟採集の腕を磨けば、皮のなめし方を覚えれば、パルカの作り方を上達させれば、コミュニティーの一員として幸せに暮らしていける、人々が長い間拠り所としていたそんな村社会の枠組みは、近代化の波に呑み込まれていきました。急激な変化の中、何を拠りどころに生きていけばいいのかと途方に暮れる人々。今日、ネイティブ・アラスカンの、アルコール中毒やうつ病、自殺率の増加が、大きな社会問題となっています。

 人々が長い間拠り所とした価値観や精神文化の移り変わり、最新式の機器に囲まれ流行の衣服をまとい、かといって、がむしゃらに走り続けることで手に入れる物質的な豊かさだけでは、心が満たされないと感じる人々。それは、日本から遠く離れた地球の北の果、ただここアラスカのみに見られる現象でしょうか? 

 欧米諸国に追いつけ追い越せで、著しい経済成長を遂げた日本。経済成長のもたらした受験戦争の激化は、少しでも偏差値の高い大学を出て、大企業に就職しよりステータスのある職種につけるようにと、子供達の背中を押し続けてきました。そうしてたどり着いた先には、競争に打ち勝ったのだからと恵まれた地位に胡坐をかく人々、勝とうが負けようが虚しさを満たすことができず心身症に悩む人々、競争には参加したくないと引きこもりやニートとなる人々、一律の秤で一緒くたに振り分けられ何の希望も見出いせない人々・・・。

 
 変化し続ける枠組みの中で、今、私達は何を大切なものとして選び取り、子供達に伝えていけばいいのでしょうか? 混濁の中に何を掬い取り、次世代へと繋げていけばいいのでしょうか?


 日々の子育てを通し、迷い、悩み、試行錯誤しながら、少しずつ少しずつ私なりの着地点を見つけていきたい、そう思っています。

子育てノート、シュミレーションと心構え

2013-10-06 06:05:54 | 子育てノート
子育てでも、以下の1と2を習慣にしておくと、どっと疲れるサイクルから抜け、スムーズに物事がすすむことがある。


1.いくつかの可能性をシュミレーションする。特に最悪ケースも想定。
2.心を構えておく。具体的に問題を防ぐ術があるなら実行しておく。場合によっては、事前に親子で話し合い、親も子も心を整えておくのもいい。


お皿洗い手伝いたい! 
1.割れる→この忙しい時に!と切れる。
2.割って欲しくないものはどけておく。泡で遊んだり、ゆすぎ切れてなかったりの効率の悪さも、手伝いをしたい!という心を育てるためなのだと心を決める。

自分でミルクつぐの~!
1.こぼれる→だからあなたにはまだできないって言ったでしょ!と切れる。
2.カーペットじゃないところに移動。自分でする!という自立心を育てるのだと覚えておく。失敗に出会ってもさっと解決に向け動く姿勢を教えるチャンスと心の準備。こぼれたなら「どうしたらいい?」と聞き、タオルを持ってこさせ、自分で処理させ(できる範囲で)、「今度はどうしたらこぼれないかな?」と考えさせる。

このゲーム(一人ボードゲームなど)したい! 
1.できない!と癇癪→私も切れる。 
2.「できなくてもいいのよ。できないことを少しずつ少しずつ続けるうちにできるようになるんだからね。怒らないって約束できるかな」と話し合い。癇癪をおこしても、静かに言い聞かせ、少し落ち着いたら抱っこしよう、子供自身にとっても「できない」というストレスに向き合い超えていく練習になる、と心の準備。

・オンライン成績アクセス
1.提出物の穴、クラスでのワークの凹み(テストやクイズと違い、しっかり聞いていれば必ずできるもの)→き~また~!と子供に向かう。
2.「穴あいてるけど、どうしたの?」と説明させるようにしよう(先生のミスや、理由があることもあるもの)。「何ができる?」と聞き、「先生にコンタクトする」「他の事で補えないか交渉する」など自分で考え動くようにさせよう、そう自分に言い聞かせる。

・明日朝6時に起こして!
1.起こす、ねむい、しばらくしてまた起こす、何とか上半身起こす、しばらくして、何で起こしてくれなかったの?!
2.「起きなかったらどうする?」「ねむいとか寝かせてとか僕の言うこと聞かないで、起こし続けて」「水かけようか?」「いや、それは・・・。起きるまで見届けてくれる?こうちゃんと座って何か始めるまで」、そんな話し合い。ベッドから引きずって床に座らせるようにしてます。(笑)

・教えて! 
1.分からない分からない!と癇癪→「何でこんなこと分かんないの!」と私も切れる。
2.「分からなくても怒らず、色々試して分かろうとしていこうね」とまずは同意。分からないなら違うメソッドで教えるなり、じっくり分かるまで付き合おうと自分の心の準備。

・小さな子のいる集まりにぞろぞろ参加
1.兄弟姉妹喧嘩。小さな子には強すぎる言葉、ラフすぎる行動。
2.小さな子は何でも大きい子の真似したがるものだからね、いいことを教えてあげるようにしようね、そう集まりに向かう車の中で話し合い。

・プレーデート
1.わがままを言って相手先に迷惑をかける
2.人の子を預かるっていうのは大変なことだからね。出来る限り家の人のこと手伝ってあげようね、そう事前に話し合い。



何度も失敗・想定外を繰り返し、シュミレーションの幅も広がるもの。爆発してどっと疲れるというのも、また新たなシュミレーションの幅が広がった!ということでもあり。そう思うとまた立ち上がれます。

カラスで突き進むも、築き上げるのは白い鳩

2013-10-06 06:05:43 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)


「痛み」をサインとして:
 炎の中に手を入れ、もし痛い!と感じないのならば、やがて炎は腕をつたい身体に燃え移り全身を焼いてしまう。「痛み」は、このままではいけないというサインでもある。手を引っ込める、冷たい水で冷やす、それで手の先のやけどで済む。
 
心に痛みを感じるとき、それはサインでもある。そのまま突き進み、全身を焼いてしまうのでなく、何かを変える必要があるよというサイン。物事の見方、考え方を変えてみる。それでやがては癒える小さな傷で済む。



ワタリガラスが先導し、それでも新しい世界を作るのは白い鳩 (“The Raven and the Dove -When Cynicism Replaces Innocence- ” By Rabbi YY Jacobsonより):

ノアの箱舟の話。四十日間続いた大雨、世界を覆う洪水。ノアの家族とあらゆる種類の動物のつがいが箱舟に揺られること一年近く。ノアはワタリガラスを空に放つ。ワタリガラスは陸の上を何度も旋回し、船に戻り、また飛び立ちと繰り返す。その後、白鳩が放たれる。一度目は何も持たず船に戻る、二度目はオリーブの葉を口にくわえ(生命が再び息づいている証)、三度目は戻らない(陸が住める状態になったという証)
                                                    (旧約聖書or『トラ』より)

なぜ、ワタリガラスと白い鳩なのか? カラスは船から追放されたのだという解釈もある中、ユダヤ神秘主義カバラの解釈より:

カラスは、ネガティブなイメージの象徴でもある。攻撃性、厳しさ、荒さ、思いやりに欠け不親切、無情といったコンセプトと結び付けられる。「カラスのような暗さ」「自分の子供を見捨てる」といった記述が聖書にも。

対して白鳩は、無垢、純粋、誠実、忠誠、愛、平和、といったイメージ。

洪水の後、まず放たれるのはカラス。とてつもない惨事や痛ましい出来事、人生の洪水に見舞われた後、人はまず、カラスになる。疑心暗鬼であたりを見回し、それでも進むために攻撃性と厳しさと荒さを備え、親切であり寛容であってはまた傷ついてしまう、シニカルでいこう、もうあのとてつもない痛みを通りはしないのだ、そう力強く突き進む。

それでも、新しい地に降り立ち、再び世界を築くのは、白鳩。純粋さであり、誠実さであり、愛であり。

カラスで突き進むも、何かを築きあげていくのは、白鳩。このイメージを覚えておきたい。


*世界中でネガティブなイメージにとられるカラス。北米のネイティブ・アメリカンにとっては、「世界の創生主」とされているのも、また面白いです。