靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

三角倒立と夢の不思議と

2013-10-10 04:14:06 | 
今まで週に一回の更新でしたが、量が増えてきたため、時間が見つけられる時は、少しずつ小分けに更新していこうかなと考えています!


昨夜実父から電話。こちらの政局が大きく動くと電話がかかってくる。最後に話したのは大統領選の時でした。(笑)
政局の話が終わり、体調はどう? と聞くと、ああ、このことも言っておかないとと思って電話したんだよと。

父は去年の終わりごろから三叉神経痛に悩まされるようになり、ピークの六月七月は一日に三度ほどの発作。二十分ほど続くこの発作というのはものすごい痛みらしく(火の棒でぐいぐいえぐられるようと)、頭を抱えて何とかやり過ごす。発作のない時も常に鈍痛が続き、刺激すると発作に繋がるので、食事も、歯磨きも、髭剃りもままならない状態だったそう。

ある夜、夢をみたと。お前は何で今までヨガや太極拳など続けてきてのに、三角倒立(逆立ち)をここしばらくずっとしていないのだ。そう自問している夢。

起きてすぐ三角倒立。すると、その八月三十一日の朝以来、三叉神経痛、ぴたりと治まった。

「マチカ、三角倒立だよ」と。昔から時々してきたのですが、頻度増やします。(笑)

父が言うには、神経痛は頭蓋骨の「ずれ」からきているのだろう、顎を怪我したこともあったし、「ずれ」はそうそう治らない。それでも倒立は頭蓋骨をひきしめ、「ずれ」を調整する働きがあるのじゃないか。もちろんこれは、科学的な根拠があるものではなく、本人が長年培った感覚的なものですが。



メモ:
・こちらのヨガの先生が、両手の平と頭頂部が床に三角形になるようにつける倒立、ひじから手のひらにかけてを床につけ頭を浮かしてする倒立と、この三角倒立(両手を組んで頭頂部を支えるもの)の三つを合わせてするほうが、首にいいとおっしゃっていた。私は今までこの三角倒立だけなのですが、試してみたいです。


・私自身、夢に随分と色々なことを教えてもらってきたのですが、これは遺伝的なものなのかもしれないなあとしみじみ思ったり。子供たちも夢をよく覚えていて、話してくれます。
 一昨日夜の夢:宝くじ100億当たった(名前を発表されたときの感覚。おごらず質素に暮らそう、子供たちに我慢させることを学ばせようと決意している感覚色々生々しく覚えています)、昨夜の夢:海の傍の古屋を購入しようか考えている(かなり詳しく港町の雰囲気や家の中の間取りなども覚えてます。あれはどこなんだろう)というものでした。こうして、夢の中で様々な体験をすることで、物事に対するシュミレーションの幅も広がるもの。
 夢について以前少し覚書を書いたのだけれど(心理学的・神経科学的リサーチ・実験に基づいたドキュメンタリーの覚書)、夢は、普段制約を受けている現実的な枠組みが取り除かれ、脳がマックスに活用されている状態、そのためインスピレーションや創造性の宝庫ともされる。
 まあ宝くじや、港町の家などは、脳をマックスに活用というのとはまた違うとは思いますが。(笑)


夢って不思議、そう改めて思った夜でした。

その子の内面から溢れるパッション

2013-10-10 04:10:19 | 子育てノート
いち、に、さん、いち、に、さん

ほらこっちは、

いち、に、さん、し、いち、に、さん、し

何で分かんないかなあ。三角と四角をイメージしてみて。(宙に腕をふりながら)いち、に、さんって三角のリズム、こっちは、いち、に、さん、しって四角のリズム。自分で三角と四角書いて言ってみて。(手を叩きながら)、「いち」に少し力を入れて、いち、に、さん、こっちは、いち、に、さん、し。ほら、声出しながら手叩いてみてよ。もっと大きな声で!

私がひいたリズムが、三拍子か四拍子かを当てる練習。六歳三女、どうしてもぴんとこない。次第にイライラしていく私。泣きべそ顔になり始めている三女。

こうなると、もう三女の中で「分かろう」という気持ちがシャットダウンしていくのが分かる。「できなくて悲しい」「ママが怒り始めて悲しい」そんな気持ちだけ大きくて。寝る前の時間、三女も随分と疲れている、私も一日走り回りへっとへと。

「じゃあ、明日もうちょっと練習してみようか。ピアノ頑張ってひけたね。先週はぜんぜん弾けなかった曲がすらすらできるようになって!」そう言うと、下を向いてこくんと頷き、涙を堪えた顔で二階に駆け上がっていく。

ピアノが楽しい様子で頑張っている三女。練習も自分から進んでし、練習の合間には自分で色々な音を組み合わせてうっとり聞き入っている。その日も、練習中一本の指をぎゅっと押さえているので、どうしたの?と聞いたら、「ちょっとひねって痛くしておくの、そうしたらね、一じゃなくて三のこの指でこの鍵盤を押すんだって覚えていられるのよ」と。「痛くしたら指が可愛そうよ」ちょっと驚いて言う私。「ふふふ、これくらい大丈夫」。

深呼吸。

すると、先日の三女と四歳次男の会話を思い出した。隣で聞いていて、つい笑ってしまったのだった。

どれだけの幅ジャンプできるかを競う二人。小さな幅から始めて、徐々に広い幅へ。

次男: う~ん、これよりおおきいのできな~い。でもね、もうすこししたらできるようになるんだよ。
三女: うん、もうすこししたらね。
次男: そうだよ、いっぱいれんしゅうしたらね、できるようになるの。
三女; ちがうよ。しばらくね、しないでおくと、できるようになるのよ。
次男: ちがうよ。なんかいもなんかいもしたらできるようになるんだよ~。
三女: そうじゃないよ。しばらくしないほうが、できるようになるんだってば。

子供は一日一日驚くスピードで成長している。心も身体も。

少し待ってみる、すると、コーディネーションや全体的なバランスなどが発達し、すっとできてしまうことがある。今これをしなさいと何度も何度も練習し、互いに何でできない!とイライラし、それでも、あの苦労は何だったんだろうと後で思うほど。

三拍子四拍子なんていうのも、ピアノを弾いている内に、耳も身体も発達し分かってくるもの。「分かる土台」ができてないのに、無理に押し込んでもしょうがない。


ついついこの日までに仕上げないと、といった期限があったりで、強く背中を押さざる得ないこともあるのだけれど、長い目で見ると、「練習を積み重ねて」と「その子自身のレディネスに達して自然に」と、「できるようになった」ということに何ら変わりがない。そして返って無理なくできる時を迎える方が、例え周りに比べ遅いとしても、その身に着けたものが「その子自身のもの」となるのかもしれない、最近上の子たちを見ていてもよく感じること。

確かに何事も練習を積み重ねてできるようになるというのは大切。練習を積み重ねたらできるようになる!といったマインドセットを教えていくことも。それでもその子の中にパッションがある場合はいいのだけれど、周りからの無理やりが続いて練習だけしているといったような場合は、結局それがどんなに高度な技術であろうとその身についたものは、「その子自身のもの」とはなりにくい。

その子自身のパッションを基にした練習を続けつつ、どうしてもできない場合は少し下がり、励ましながら待ってみる。できるできないより、その子自身の内面から湧き出る意欲、それこそを大切にしていきたい。

昨夜の反省を込めて。