靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、このシンプルさ!タフさ!

2013-10-13 05:03:08 | 今週の整理
1.週の初めに嵐。朝起きると落葉樹という落葉樹、裸! 道という道、黄色! 大地に描かれた点描画のようです、真っ黄色の。冬木立に車走らせ。雪が積もるのももうすぐ!


2.週明けに長女がバレーボールでつき指、週の終わりに長男がフットボールでつき指。二人とも同じ週に初めてのつき指、なんて偶然! おかげさまで長女はほとんど回復し、もうそろそろピアノ再開できるかなといった様子。長男は一晩たっても腫れがひかず紫色、昨日病院へ。少し骨が欠けているとのこと。一ヶ月程隣の指とくっつけテープしとけば大丈夫、そう言いながら、二本の指の先っぽを一回りくるりと巻く。残りの小さなテープを爽やか笑顔で渡して下さる医師。えっ、これだけ? 日本だったら少なくとも私が子供時代は、包帯ぐるぐる巻きだったよなあ。このシンプルさ、嫌いじゃないです。


3.その足で長男三日間のNPO合宿へ。トライアスロンもあるそう。その前の医師との会話。
「二週間はその指への衝撃は避けてね」
「明日トライアスロンに参加する予定なんですけど」
隣で聞いている私、思わず吹き出す。そんなあ、行けるわけないじゃな~い。
「スイミングは、オープンスイム? それともラップスイム?」
「ラップです」
「だったらいいよ。オープンスイムで手をがむしゃらに動かしたりしたらよくないけどね。あとはマラソンと自転車だし、問題ないよ」
長男の方を向く医師の背中に向かって、口を開けたままの私・・・。
タフです、こちらの人。


4.長距離走部が終わり、長女のバレーボール部が始まる。長男のウェイトトレーニング部は今月末から。そこで長男少し早く帰宅するのですが、レゴにはまっている次男に付き合っている内に作る熱が燃え上がり。時間があれば何か作っている。二人額くっつき合わせあれやこれやと工夫し。14歳と4歳、一緒に熱中、こんな日が来るもんなんですね


5.友人達との非公開ブログ、とにかく今は多作多捨で思いを形にし続けている。10日間で30ほどの投稿。皆時間がままならない人ばかりで、道は険しいのですが、隙間隙間に少しずつでも積み重ねて


6.自分にとって書くということの原動力は、「切なさ」。心をきゅっとつままれるような感覚、そこから文字が立ち上がってくる


明日長男帰宅。今日は午後から友人とパンプキンパイを作りトレール散歩。明日も森の中へ。今週から新学期!

皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

次男、友人娘ちゃんとスクーターすいすいな午後。


ベンチで友人手作りスナック、チーズスコーンいただいて

おいし~い。

次女手作り誕生カード。

クラフト好き次女、本からアイデアもらって。

レゴに埋まる長男。

次男と長男いつも作りかけ中で、かたづきません・・・。

作品品評会。


下には次男の作ったバイクを収納できるスペース。

子育てノート、心の宝箱

2013-10-13 04:57:10 | 子育てノート
子供達と接していて、浮かぶイメージに、グラスに入った水や、箱に入った宝石、銀行口座のバランス、といったようなものがあります。

ここでは「心の宝箱」という言葉を使って表現してみます。(何だか命名メルヘンチック過ぎでしょうか)

その箱の中にきらきらと輝く宝がいっぱい入っていると、子供は生き生きとその子の持てる力を最大限発揮していける。

親と子の絆を築くというのは、この箱の中にせっせと宝物を入れていくイメージ。

宝物といっても、世間的に価値があるとか、高価なものとか、例えば、最新の電子機器とか世界一大きなアミューズメントパークへの旅などが、そうとういうわけでもなくて。何が宝物になるかと言うと、それは日常にある何気ない気の向け方のようなもの。

宝箱に蓄積されていく、と感じるのが:

・話を聞く。
・冗談言い合って、一緒に笑う。
・宿題やプロジェクトに埋もれてるときに、フルーツやスナックなどをさりげなく部屋に差し入れる。
・できないできない!と言っていることにじっくり取り組み一緒に乗り越える
・自分の頭にあるこうして欲しいああして欲しいという絶え間ない言葉をひとまず横に置き、その子を理解しようとしてみる。
・目を見て接する。
・一緒に散歩。
・一緒に遊ぶ。
・ハグ、スキンシップ
・寝る前の感謝の言葉の言い合い
・学校へ送り別れるときに目を合わせ、いい日をねといったメッセージを伝える(その前にどんなにカオティックでも)

などなど。


逆に一気に宝物が消えていく瞬間というのもあって、こちらが爆発したり、無理やり何かをさせたり、子供が本当に見てほしい時に無関心だったり。それでも、もし日常的に積み重ねた宝物がたくさんある場合は、箱が空っぽになることはない。またたとえ減ってしまっても、再びこつこつと貯めていけばいいこと。

またそんな一気に減った瞬間も、その後の対処の仕方で、一気に倍になるチャンスでもある。なぜあの時、こちらがそんな態度をとったのか、その子が少し時間をかけて、納得できたり、謝る必要がある場合はこちらが謝ったりすることで。

ティーンになると、それまでの「宝箱の蓄積」というのが本当に大きいと感じている。慣れ親しんだ価値観を離れ、色々試し、自分を作っていこうとするティーンの子達。親の価値観と頭ではぶつかり合う。親は時に彼らがどうでようが「それは違う!」と何が何でも入り込む必要もある。それでも「宝箱の蓄積」があるのならば、絆はしっかりと繋がっている。

こつこつと、子供達の宝箱を満たしていきたい、そう思いつつ。


*これは対人関係にも言える部分があるのかもしれませんね。相手の心の箱を満たすというイメージ。

子育てノート、報酬制について

2013-10-13 04:55:02 | 子育てノート
先日友人達と話していて、「報酬制」の話になった。「いいことをすれば報酬がもらえる」、こちらでは聞きなれた文句。

子供達の学校でも、静かに授業が聞けたり、いいことをすると「チケット」がもらえ、そのチケットをためると賞品がもらえるといったシステムを取り入れるクラスが多い。今年からは市のディストリクトをあげて、無断欠席がなければディズニーランドへの旅を賞品とする「くじ引き」へ参加できる!といったキャンペーンも始まった。

中学になると、「成績にポイントを加算」といった報酬が盛ん。ここまで報酬制!と驚いたものには、「恵まれない人々に缶詰を持ち寄りましょう週間」に、○缶以上持ってきたら○ポイントとされていたこと。生徒たち成績のためにとこぞって持ち寄ってました。

長年こちらで先生をしていた友人によると、報酬制がないとなかなかうまくクラスが回っていかないのだそう。報酬制によって嘘のようにクラスがまとまると。

街に出てショッピングしていると、「カートに立たないでね。思い出して!いい子にしていれば必ず報酬がもらえるでしょ」そんな放送に出会うこともある。

こちらの子供達を取り巻くこんな状況に、最初はぎょっとしたものだった。

報酬制に違和感を感じるのは、「報酬のためにするわけじゃない」といった思いのためだろう。

授業中静かにしているのは自分も周りも学ぶため、缶詰を持ってくるのは少しでも持たざる人々の役に立つため、カートに立たないのだって大切な身体を傷つけないため。

そんな目的が「目の前の飴玉をもらうため」に、すり替わってしまう。あげく、もし飴玉がないのならしないよとなってしまうのじゃないだろうか。長い目で見るのなら、何も身に着けたことにはならないのじゃないか。

そこで思い出すのが、飼い犬を調教クラスに連れて行ったときのこと。ピーナッツバターのついた木べらを常に持ち歩き、言われたことに従ったら舐めさせる。しばらくすると、ピーナッツバターがなくても言われたことをするようになる。ヒトの子供もひょっとして、飴玉を常に用意されれば、飴玉がなくても習慣として身体にしみつき、するようになっていくということもあるのだろうか?
 
そこのところはよく分からないのだけれど、報酬を用いず、「本当の目的」をその都度思い出させ、何度も何度も繰り返し習慣にしていくというのは、とにかく教える側にとって手間も時間もとてつもなくかかること。様々な家庭環境から送られる大勢の子供を一気にまとめるには、報酬制がどうしても必要になってくるのだろう。しかも皆で祭り気分にわいわいと楽しくまとまってしまう。



家から一歩出れば、どこもかしこも報酬制。外ではそんな祭りを楽しみつつも、家庭では、こつこつと「報酬のために」とはまた違う姿勢も教えていきたい。それはすぐに結果も出ず、時間もかかること。

勉強するのは「学ぶ楽しみ」と「勉強できるなんて恵まれた環境にいることを将来少しでも還元する」ため、Aをとって100ドルもらうためじゃない。トイレ掃除をするのは皆が気持ちよく使えると嬉しいから、ゴミ出しするのは皆が暮らす家をきれいに保てたら気持ちいいから、こずかいをもらうためじゃない。

こうして基本をこつこつと教えつつ、時にちょっとした祭(報酬制)も取り入れていったらいいのじゃないか。それでも報酬はなるべく「物」でなく、「一緒に過ごす楽しい時」といったもの。部屋片付けたら皆で美味しいもの食べようか、洗濯たたんだら公園行こうかなど。

大きくなるにつれ、芝刈りしたら○ドルなどといった契約を結ぶのも、社会勉強になるように思う。それも、まずは「本当の目的」をこつこつと身につけていった上に。


報酬制について、引き続き考え、工夫していきたいです。

家族の温もりと、どこまでも続く闇と

2013-10-13 04:54:15 | 子育て風景
こちらの小中学校は四学期あるのですが、木曜日、その一学期目が終わる。テストやらプロジェクトやら一段落し、ほっとした様子の上の子たち。

日も沈み、居間の灯りがアスファルトの道を照らす頃。長女はソファーに次女はカーペットに横たわり本を読み続け、次男にせがまれレゴの飛行機を組み立て始めた長男も今は自分が夢中に、三女と次男はきゃっきゃっと声をあげながら縫いぐるみを並べ、夫は隣の長女に時折話しかけながらソファーでメールの整理。
ホットプレートでトルティーヤを焼きながら、温かい気持ちがこみ上げてくる。

夫は物心ついてから母親がおらず、家族の団欒というものを知らない。私自身は、皆が寝静まってから帰宅する団塊世代の父、また理想の社会を掲げ政治や市民運動に走り回りと家族以外へのプライオリティーの強い少し特殊な家庭に育ち、家族皆揃ってゆったり過ごす時間というのは年に何度かといった子供時代を過ごした。それでも、その年に何度かの温かい思い出が、心にいくつも残っているので恵まれていると思う。

成人してから父がこんなことを言っていたのを思い出す。
「今度生まれ変わったら、あの『大草原の家』みたいに、家族というもののために自らを捧げるような人生もいいかもしれないな」



テーブルを囲み、いっただきま~す! 具を包み、焼きたてのトルティーヤを頬張る笑顔。

子供達もいつか大きくなり、こうして過ごした時を懐かしく思い出す時が来るのかな。私自身の内で、子供の頃家族で過ごした一つ一つの時が、温もりと共に響き続けているように。



ふと窓の外に目をやる。凍りつく空気、どこまでも続く闇。その中に限りない人々の群れが連なっている。親の内に燃え続けていた炎が、自分の内に燻っているのを感じ、はっとする。

「不思議だけれど、あなたがあるべきあなたでないかぎり、私があるべき私になることはできない。私があるべき私でないかぎり、あなたはあるべきあなたになることはできない。これが相互に関係する現実の構造だ。
For some strange reason, I can never be what I ought to be until you are what you ought to be. You can never be what you ought to be until I am what I ought to be. This is the interrelated structure of reality.」     
                             Dr. Martin Luther King Jr.


目の前の家族を大切にしつつ、少しずつ、少しずつ、自分にできる限りのことを。

なぜ働く必要があるのか?

2013-10-13 04:53:46 | ファミリーディナートピック
ファミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)

「働く」ということの意味について(“Why Do We Have To Work?” By YY Jacobson Yeshiva netより):

 アブラハムは旅の途中、いくつもの町を通り過ぎた。人々はパーティーに明け暮れ、飲んで騒いでいる。そしてTyleにたどり着く。人々は畑に出て一日中働いている。アブラハムは言った「この地に暮らしたい。」そこで「神」は言う、「あなたの子孫のために、この地を与えよう。」(Bereishis Rabbah 39:8)

聖書ではなぜ「働く」ということに重きが置かれるのか? 「働く」とはどういうことか? 

ユダヤの世界観では、「人の最終的な目的」とは、「自身の内の神性を思い出し自分自身が『神』にできる限り近くなること」とされる。
「神は神に似せて人を創った(Let us make man in our image, after as our likeness…)」(Genesis1:26)


「神」は全てを創造(create)するとされる。ならば「神」という存在に限りなく近くなるとは、自ら「創造する存在」になるということ。与えられるものを受け取り続ける受身の存在から、自らが創造し与える側へ。それが「神」へ近づく超越(transcend)。 自らが現実を創造し、自らが運命(destiny)を形作る。

「働く」とは、自らの手で創り出すということ。「神」はあなたにこの世界を創造するパートナーであって欲しいのだと。


タルムードにこんな文句がある。

「トラ(聖典or人生の知恵)のクリーム(熟成した抽出物)を見つけるのは誰か? 母乳を吐き出す者こそが見つける。With whom do you find the cream of the Torah? With him who spits out the milk that he has sucked from the breasts of his mother…」(Talmud Berachos 63b)

赤子が飲めば飲むほど、母乳は作り出され、尽きることなく注がれ与えられ続ける。それでも、その母乳を吐き出し、自らの足で立ち上がり、自らが創造し与える側になる者こそが、人生の根幹に近づくと。



目の前に貧しく恵まれない人が横たわっている。ある男がラビに言う。

「神がこの世を創り、神が全てを支配し、神が何もかも決める。あの人は富み、この人は貧しく、その人は幸せで、この人は不幸で、全ては神の意志でそうなったこと。神は私達には到底分かるはずもない壮大な計画の下に、現実を作り出している。この目の前の男の境遇も神の意志で創りだされたもの。だから私達のすることは何もない。貧しく弱いままであらせればいい、神の意志に基づいて。」

「神はあなたに創造者になって欲しいのです。共にこの世界の現実を創り出して欲しいのです。さあ、私達にできる限りのことをしましょう。」 

ラビはそう答えると、目の前に横たわる男を連れ帰り、温かいスープを飲ませた。


「働く」とは、自ら創り出すということ。受け取る側から創り出す側へのTranscend、覚えておきたいです。