靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

子育てノート、報酬制について

2013-10-13 04:55:02 | 子育てノート
先日友人達と話していて、「報酬制」の話になった。「いいことをすれば報酬がもらえる」、こちらでは聞きなれた文句。

子供達の学校でも、静かに授業が聞けたり、いいことをすると「チケット」がもらえ、そのチケットをためると賞品がもらえるといったシステムを取り入れるクラスが多い。今年からは市のディストリクトをあげて、無断欠席がなければディズニーランドへの旅を賞品とする「くじ引き」へ参加できる!といったキャンペーンも始まった。

中学になると、「成績にポイントを加算」といった報酬が盛ん。ここまで報酬制!と驚いたものには、「恵まれない人々に缶詰を持ち寄りましょう週間」に、○缶以上持ってきたら○ポイントとされていたこと。生徒たち成績のためにとこぞって持ち寄ってました。

長年こちらで先生をしていた友人によると、報酬制がないとなかなかうまくクラスが回っていかないのだそう。報酬制によって嘘のようにクラスがまとまると。

街に出てショッピングしていると、「カートに立たないでね。思い出して!いい子にしていれば必ず報酬がもらえるでしょ」そんな放送に出会うこともある。

こちらの子供達を取り巻くこんな状況に、最初はぎょっとしたものだった。

報酬制に違和感を感じるのは、「報酬のためにするわけじゃない」といった思いのためだろう。

授業中静かにしているのは自分も周りも学ぶため、缶詰を持ってくるのは少しでも持たざる人々の役に立つため、カートに立たないのだって大切な身体を傷つけないため。

そんな目的が「目の前の飴玉をもらうため」に、すり替わってしまう。あげく、もし飴玉がないのならしないよとなってしまうのじゃないだろうか。長い目で見るのなら、何も身に着けたことにはならないのじゃないか。

そこで思い出すのが、飼い犬を調教クラスに連れて行ったときのこと。ピーナッツバターのついた木べらを常に持ち歩き、言われたことに従ったら舐めさせる。しばらくすると、ピーナッツバターがなくても言われたことをするようになる。ヒトの子供もひょっとして、飴玉を常に用意されれば、飴玉がなくても習慣として身体にしみつき、するようになっていくということもあるのだろうか?
 
そこのところはよく分からないのだけれど、報酬を用いず、「本当の目的」をその都度思い出させ、何度も何度も繰り返し習慣にしていくというのは、とにかく教える側にとって手間も時間もとてつもなくかかること。様々な家庭環境から送られる大勢の子供を一気にまとめるには、報酬制がどうしても必要になってくるのだろう。しかも皆で祭り気分にわいわいと楽しくまとまってしまう。



家から一歩出れば、どこもかしこも報酬制。外ではそんな祭りを楽しみつつも、家庭では、こつこつと「報酬のために」とはまた違う姿勢も教えていきたい。それはすぐに結果も出ず、時間もかかること。

勉強するのは「学ぶ楽しみ」と「勉強できるなんて恵まれた環境にいることを将来少しでも還元する」ため、Aをとって100ドルもらうためじゃない。トイレ掃除をするのは皆が気持ちよく使えると嬉しいから、ゴミ出しするのは皆が暮らす家をきれいに保てたら気持ちいいから、こずかいをもらうためじゃない。

こうして基本をこつこつと教えつつ、時にちょっとした祭(報酬制)も取り入れていったらいいのじゃないか。それでも報酬はなるべく「物」でなく、「一緒に過ごす楽しい時」といったもの。部屋片付けたら皆で美味しいもの食べようか、洗濯たたんだら公園行こうかなど。

大きくなるにつれ、芝刈りしたら○ドルなどといった契約を結ぶのも、社会勉強になるように思う。それも、まずは「本当の目的」をこつこつと身につけていった上に。


報酬制について、引き続き考え、工夫していきたいです。


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