靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

近況整理、喜びと寂しさが入り混ざったこの気持ち

2013-10-27 06:39:43 | 今週の整理
1.雪ちらほら。来週は子供達指折り数えるハロウィーン。ここ何年か、ハロウィーン前後に積雪だったのですが、さてさて今年はいかに。しかしもう今年も残すところ2ヶ月だなんて~!



2.夕方学校から電話。授業後、週に一度の一時間半のコーラスの練習を終えた次女、入口で迎えを待っていると。わ、忘れてた・・・。子供を忘れるというの、多くの方にとって考えられない!でしょうが、実は今まで何度かあるんです。学校や習い事の終了時間や場所などが変更となり、アップデートされていない私の脳みそ、そのまま忘れる・・・。スーパーに行き、トイレに行った一人を忘れ、車を発車させたことも(しかも気づいたのは子供、あっ、○○がいない!)学習した子供達、トイレに行く際は必ず「忘れないでよ」と私以外にも他の兄弟姉妹に声をかけます。(笑) 赤ちゃん時代は、カーシートにおさまったまま手提げ鞄のように持ち歩くので、ついつい友人宅に「置き忘れ」てしまったり。

「点呼」を習慣にしないといけませんねえ。



3.次男、シャツのボタンをはずそうとするも、硬い布地でなかなかうまくいかない。は~とため息をつき一言、「Holy Cow! (“なんてこった”といった意の俗語)」。ああ、ティーンネージャーと暮らす四歳児・・・。



4.長男の高校の進路について先生と話し合い。11年生まで続く今のHGプログラムに残る子はほんのわずか。高校のHGプログラムは大幅に縮小され、主に英語に力を入れたカリキュラム(数学はなし)。宿題課題の量も半端でなく、生徒によっては勉強以外の活動ができず、Aを取るのも至難(というよりコースを落とす場合も。そしてカレッジ審査にもカウントされる)。HGに行かずHonors Classを取るという選択があるが、結局Honors Class を終えても、HGプログラムを終えても、11年生では同じAPクラス(アドバンスクラス)かIBクラス(バカロレア)を取るというスタート地点に立つ。周りから聞いていたのと同じ内容。長男の友人達もほとんどがHonors Classへ行くと。

 特に若い時は「より難しい道」をとった方がいいとは常々思うのですが、それほど英語(LA)に時間とエネルギーをかけたいか(彼にとってはいい訓練になるとは思うのですが)、それとももし他に伸ばそうとエネルギーを注ぎ込みたいものがあるということならば、そうした方がいいと話し合ってます。「楽をするため」でなく、「より前へ進むため」と心を決めるならと。話し合い続けます。



5.今週二度ほど、以前暮らしていた家の近所を車で走る機会があった。思い出のつまった家を通り過ぎ、近所を回り。屋根の上におにいちゃんの投げた赤いボールのったままだったね、この坂道何度行き来しただろう、ああこの公園! この景色に日が沈む様子! ああ、うわあ、と叫ぶ子供達。

「何て言ったらいいんだろうこの気持ち。叫びたくなるような、苦しいような、嬉しさと寂しさと入り混じったような・・・。」長男と長女。

「日本語だと『懐かしさ』とか『郷愁』だよね、『切なさ』というのもぴったりくるかな。心をきゅっとつかまれるような感覚」

「そうそう!」

「でも確かに、英語だと一言では表せられないね」

そんな会話を交わした夕暮れ時。また来ようね。
たくさんの思い出に感謝。



今日は朝から長男と長女をNPO活動に送り(長女小型飛行機で飛ぶそう)、その後長女はハロウィーン祭り会場にてダンス・ショー。下三人を連れ鑑賞。その間長男は今日から毎週始まるアラスカ大学でのロボティックス・ミーティングへ。中学校の友人君行き帰りお預かり。明日は長男長女、課題宿題に一日取り組み、残り組みはサイクリングへ!


皆様の一週間が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful week!



日常風景:

前の家の近所にて。

ひゃ~。


ここに、勿忘草がいっぱいあったんだよね。


ああ、この景色の中で子供達も大きくなり。


夕暮れ。



Mちゃんの誕生日会に次男と三女。

ケーキ。


プレゼント開封。


大人井戸端会議の下で子供井戸端会議。


お父さん達、ありがとうございます!




次男と博物館な午後。

いえ~い、嬉しパイロット。


こうしてこうしてね。


砂に埋まる家観察。




すっかり枯れはかさかさ。

長男が夕方下二人を連れ出してくれるので助かります。

山姥というビジュアル・イメージ

2013-10-27 06:39:04 | 思うに
ウォルドルフ(シュタイナー教育)のバイオグラフィー・ワーカーなる資格を三年かけて取得した友人。来週NYでワークショップをするそうで、その予行練習の実験台にならないかと声をかけて下さった。

もう一人の友人と三人テーブルを囲み。次男、仲良し息子君と傍らで遊びつつ。

青森県八戸市の山姥の民話のストリーテリングで始まる。


・「山姥ってね、私の子供時代、悪夢に出てくる常にコアのキャラクターでね」と言う私。

自らの想像が作り出したイメージというのはね、決してその人を苦しめないと言われるのよ」と友人。

この説明、とてもすとんと納得しました。子供時代、悪夢に出てきた山姥、アニメで見た『日本昔話』のフィギュアそのままの姿形でした。ものすごく大きな顔に大きな目に白い髪、いつも橋の上に立っていて。

テレビや絵本などの外からのビジュアル・イメージ、それは時に強すぎる子には強すぎるのかもしれないなと。私自身怖い映像というのは今も苦手なのですが、子供時代はかなり極端でした。地震のニュースを見た後、何ヶ月も苦しんだり。我が家の子供達を見ていても似たようなところがあります。小さな頃は他の子達が平気な映像でさえ、泣いたり隠れたり。「どうしたらこのイメージを頭から取り除くことができるの?」そう泣きながら聞かれたことも何度か。悪夢になって出てくるの~と。着ぐるみなどに出会ってもこの世の終わり状態に。

昨夜そんな話を子供達としていると、小さな頃確かに色々怖かったけれど、今は本を読んで映画を見ると、台無しにされたと感じることがよくあるなあと。

ウォルドルフが、小さな頃は絵本さえ用いずストリーテリングに徹するというの、「想像力を豊かにするため」などの説明がありますが、「自分を脅かすことのない想像の世界」といった面もあるのだと、私にとってかなりの「ああそうかあ!体験」でした。



・山姥の民話を聞きながら、どうしても意識が飛びます。これは人の話を聞いている時も感じること。耳から入ってくる情報のみだと、私は吸収が弱い。ここに目で追う活字が加わると、断然頭に刻まれやすい。

そんな話をシェアすると、マルチセンサリー学習の話などに。子供によっても、聴覚優位視覚優位触覚優位などがあるだろうねと。

昨夜子供達ともそんな話に。長男は聴覚視覚というのはどちらでもいいんだけど、「物語」になっていると瞬時に頭に焼きつけられると。記憶世界チャンピオンが数字の羅列をどう覚えるかの説明で、自分はそれぞれの数字を物語りに仕立てるんだ(たとえば六はろくろくび、八は蜂にして物語)と言うのを聞いたことがあるけれど、だったらファクトが並んでいるような情報も、物語仕立てにする手があるねと。長女は、耳からのインストラクションはどこかへ飛んでいってしまうと、だったら活字と合わせて頭に入れるようにするといいね。次女は目からだけでなく、声を出したり耳からも入れるとよさそうと。他にも動きながら、踊りながらとか、何でもよさそうな方法試してみよう、そう盛り上がり。



・民話を聞いた後、印象に残るシーンを絵で表し、三人の描いたものをストーリー順に並べ、それぞれの絵を擬態語で表してみる。ピンとくる擬態語を手に、最近感じたことに繋げて話す、そうワークショップは進みました。

私の描いた二枚のシーン、牛方が山姥に川岸に追い詰められ枯れた柳の木と生き生きとした柳の木を前にするシーンと、駆け込んだ民家の女性に栃の実を渡され天井裏に隠れるシーン。さっと深く考えることもなく選んだのですが、「柳」と「栃の実」は、牛方を救うことになるもの。私は「希望」のようなものを、見つめていたいんだな、そう感じたり。




「山姥、いなくなるといいね」と友人。

「うん、今は一緒に陽だまりでお茶を飲んだりできる仲かもしれないな」

顔を見合わせて笑い、集まりを後に。


様々な気づきがあり、感性が刺激され、とても面白い一時間でした。ありがとう。



友人は幼児教育に携わりつつ、「バイオグラフィー・ワーク」をライフワークにしたいのだそう。
興味のある方はこちらへ:primrose_garden@yahoo.com


プレスクールクラスルームにて。

秋。


いいね、このきのこ。


三人の描いた絵。

理想と自分のできる範囲と

2013-10-27 06:37:47 | 思うに
今週、あるネイティブアラスカンの知り合いから、携帯にテキスト&メール。14歳の息子君を週に3日1時間ほどずつ預かってくれないかと。

我が家はその息子君の通う中学校から歩いてすぐのところにある。普段スクールバスで通っているのだけれど、授業後のチューター(宿題や遅れた部分を見てくれるサービス)に参加することになったので、従兄弟が迎えに行ける5時まで預かってほしいと。

その知り合いには車がなく、シングルマザー。上の子は家を出、息子君と二人で暮らしている。福祉で暮らせるので、普段教会の活動などをしているものの、給料をもらう仕事はしていない。

14歳だし、週に3時間くらいと最初は思ったものの、考える内に頭を抱え込んでしまった。


・長い付き合い、時間にアバウトなのをよく知っている。迎えに来るという従兄弟さん、週3回、時間通りに迎えということは多分ないだろう。今日は迎えに行けないから家まで送っといてということもちょこちょこ出てくるに違いない。

・平日夕方は、家にとって最もクレイジーな時。車で5分の小学校迎え、車で30分の中学校への迎え、軽食のあと水泳、コーラス、アートクラブ、ピアノなどへの送迎が順繰りに毎日。上の子達は宿題・プロジェクトの山と取っ組み合い。

・かなり荒れた家庭環境、上の子の修羅場(様々な犯罪に巻き込まれ、更生院と自宅を何度も行き来し)も見てきた。私の「小さな親切」など、そんな背景の闇に太刀打ちなどできないだろう。

・授業後、友達を連れて来るということもあるかもしれないな。

・14歳という不安定な時期、家に来るなら家族として扱い、ルールも守ってもらうようにするけれど、それにしても私たち自身出たり入ったりで目も届かない。スマートフォンやネットに夢中と言っていたなあ。

・家に大人だけ大きい子だけだったら、引き受けただろうに。週3回これから何ヶ月も、我が家のちびっ子達への影響を思う。


それくらいしてあげればいいじゃないという声と、起こりうるリスクを並べる声が頭を駆け巡る。

夫と話し合う。「自分だったら、まず働いて車を確保し、自分の子を迎えに来られるようにする」

確かに。それでも彼らは全く違う考え方をするのというのを知っている。持てる者が持たざる者に手を貸す。頑張って自分もできるようしよう、頑張ってあなた自身できるようにするべき、というより、ただできる人ができない人に手を差し伸べ合う。

学ぶべきことがある考え方だと日頃から思いつつも、こうして実際に身近に物事を頼まれると、できない自分がいる・・・。

散々悩んだ挙句、赤裸々に夕方のクレイジーさの具体的な様子を書き、すぐ隣のアラスカ大学の図書館で待つというのはどうかなどと提案し、どうしても方法が見つからなかったらまた声かけて、とメールを返した。

自分の基盤が崩れてしまっては、結局人助けにも何もならない。自分の体は一つしかなく、自分のできることというのは限られているのだから。でもなあと、複雑な気持ちを抱えたまま。

即効でメールが返ってくる。「アラスカ大学っていい考え!Thanks! そうするわ!」

どっと肩の力が抜ける。


理想と実際に自分のできる範囲、また一つ謙虚にさせられた出来事でした。

頑張れるということ

2013-10-27 06:37:31 | 思うに
昔、知り合いの集まりにて。

子供もおり、周りも何とか止めさせようとサポートし、それでも、どうしてもまたドラッグに戻ってしまうという男性についての話に。

まだ若かった私(二十代初め)。なんて情けない!大変な境遇から立ち上がり頑張り続けている人なんていくらだっているのに!

そこへ、私より二周り年上の女性が、静かに言った。

「頑張れない人っていうのもいるのよ。頑張れる、努力できるというのも、恵まれているということなのよ」

当時、鳩が豆鉄砲をくらったようにぽかんと口を開けていたた私。年を経るにつれて、その言葉が心に染み入るようになっていった。


最近、より豊かな層の暮らす市の南部に、ホームレスや精神病患者の施設を建設するという政府の計画が、お流れになった。小学校や大きな自然リクリエーション場の近く、反対意見も凄まじかった。

「どうして不釣合いな場にそんなもの建てる必要があるんだ! しかも働かない人のために、身を粉にして働く人々のお金を使って!」

友人とそのトピックについて話していると、「努力できるというのも、恵まれているということなのよ」そう口にしている自分が。



何らかのシステムがあれば、必ずはみ出る人というのは出てくる。そのシステムでは頑張れない人々。そのシステムの中で努力することができ、富を享受できる人がはみ出る人を支えるのは、そのシステムに生きることとセットのようなものなのかもしれない。

与えられ、それでどんどん甘やかされ、ますます自立できないということもあるかもしれない。確かに一人一人が希望をもち、自分の足で立ち上がれる方向へと支援は進むべき。それでも、その人の奥から湧き上がる意欲というのは、生い立ちや出会いなども複雑に絡み、そう簡単に解決するものでもない。

支援に携わる人々に、敬意を込めて。

望みが叶うとき、邪悪さの自覚

2013-10-27 06:37:01 | ファミリーディナートピック
ァミリーディナートピック。
(毎週金曜日の夜は、家族で知恵やバリューについての話をしています。我が家は今のところ特定の宗教に属すということはないのですが、宗教的テキストからも大いに学ぶことがあると思っています。)



願いが叶うとき、まずは相矛盾するネガティビティーを自覚すること(“Discovering Your Hidden Agendas  And Not Despairing “ By Y.Y. Jacobson を参考に):

先週の「アンビバレンスの旋律」が見られる四つの箇所の一つ、エリエゼル(Eliezer)がアブラハムに息子アイザックの配偶者を見つけるよう命ぜられる部分は、『トラ』の中で最も長い章とされる。67の節(verse)が冗長に物語を繰り返す。

エリエゼルの「アンビバレンスの旋律」とは、配偶者探しの使命を成し遂げたいという望みと、アイザックに自分の娘と結婚して欲しいという望みを行き来する揺れ。配偶者が見つからないまま40になったアイザック、エリエゼルは、アブラハムが最後には妥協し、ふさわしくないとされた自分の娘との結婚を許してくれるのではないかと望んでいる。

「冗長な繰り返し」は、アンビバレンスに揺れるエリエゼルの心理的な変化を表しているとされる。


初めの部分でエリエゼルは言う、「『もしかすると』その女性はついてこないかもしれません。」アブラハムは「もしその女性がここへ来たくないというのならば、お前の使命はもう満たされた」と伝える。その後エリエゼルが使命を果たそうと祈る場面で「アンビバレンスの旋律」が表れる。

そして目当ての女性が見つかり、その家族にエリエゼルはアブラハムとの会話を再現する。「私は『もしかすると』その女性はついてこないかもしれないと、私の主人に伝えたのです」

この二回目の「もしかすると」は初めの「もしかすると」と表記が異なり、「私のために」といった意味にも取れる単語が用いられている。

そして結局その女性はエリエゼルとともにアブラハムのもとへ来、アイザックと結婚する。



何が起こったのか? この二回目の「もしかすると」を口にした時、エリエゼルははっきりと自分の内にあるもう一つの望み(アイザックに自分の娘と結婚して欲しい)を自覚したとされる。

相矛盾する望みは、時に片方が片方を隠し、無意識の領域に抑え込む。潜在意識に潜り込んだ「望み」は、見えないところで肥大化し、その者の根底を揺るがし始めることがある。闇の中で怪物が力を持ち、闇の中で悪が蔓延るように。

自らが矛盾した望みを持っていると自覚すること、無意識から意識にあげること。いかに邪悪な望みであろうとも、まずは正直に向き合う。すると、邪悪さは力を弱める、まぶしい光の中では闇の怪物が生きていけないように。

そして、エリエゼルがアイザックの配偶者を連れ帰ったように、望みは、現実となる(物質化materializeする)と。

ユダヤには「思いは両手で押す必要がある」という言葉があるという。多くの場合、人は、片方の手で思いを押し、もう片方の手で相矛盾する思いを抱き寄せようとしている。



人は何層もの複雑な意識を持っているもの。

大切なのは、いい人正しい人であろうと自らのネガティビティーに蓋をし続けるのではなく、自らに渦巻く邪悪さ・ネガティビティーを正直に自覚し続けること。

そうして初めて、光の力に頼ることができる。

更新について

2013-10-27 06:36:06 | お知らせ
日々新たに立ち上がり続ける感覚を形にしたいという思いと、今まで書き留めたものを編集してより届けやすい形にしたいという思いと。

何とか両方同時進行でと思うものの、日々形にしていきたいことはますます溢れ、早朝の限られた時間だけでは、過去書き留めたものの編集に手がつけられない状態。

しばらく編集に集中し、より完成に近い形にしあげていきます。ブログの記事の量は減るかもしれませんが、週一の更新を続けます。


子供達の手がもう少し離れたら、両方をより深めつつ進んでいくことができるだろうなと思いつつ。

今は、日々の気づきを、時間を見つけて形にできるよう、まずはせめてメモという形に記号化だけし続けて。

優先順位を絞り込み、目の前の子供達との時間を大切にしつつ、限られた時間を最大限生かせるよう工夫していきたいです。



今後の活動のためにも、こつこつと歩き続けます!

読んでくださる皆様に、心よりの感謝を込めて。