夫とぶつかるパターンの一つ。
一時同意したにも関わらず、うまくいかなくなると、相手を責める。
こちらの道へ行こう、いや、あっちの道の方がいいと思うよ、いやいやこっちだろう。そんな話し合いを経、共に一つの道を歩き始めるのですが、途中迷ったり、渋滞に出会ったり、道路工事などでうまく進めなくなってくると、「ほらあっちの道の方がいいって何度も言ったじゃない!」と相手を責め始める。
一緒にこちらの道を歩いていこうってあの時納得したじゃない! 今更ぐだぐだいうなんて情けない! そんな非難の言葉を投げ、話し合いも泥沼化。
何度もあるパターンなので、最近は、ああ自分たちまた「このパターン」にはまっている、そう喧嘩の最中などにも特定できるように。(笑)
「何かを決定する時の話しあいを、もう少し丁寧にする」、最近心がけていること。
相手の心に吐き出せないものが残ったまま、無理やりねじ伏せられ、しぶしぶ相手にくっついて道を歩き始めた場合は、やはり「このパターン」にはまり込む確率が多い。自分で「決めた」より、決め「させられた」感がある場合。
その道を選択する場合の、いい面悪い面、起こりうるリスク、最悪のケース、それらを出し合い吟味し、どんなことがあっても二人で乗り越えていこうと納得し合う。二人で歩き始める前に、そうしておくと、例え道中困難にぶちあたっても、「このパターン」に陥ることは少ない。
一旦歩き始めたのならば、潔く、「あなたの選択」でなく、「自分達の選択」として主体的に引き受けること、心に留めておきたい。
子供が大きくなってから、だからあの時ああしたらよかったって何度も言ったじゃない!とならないように。
ラーメンか焼肉か、焼肉にしたもののの柔らかさがいまいち、だからラーメンにしよっていったじゃない! とならないように。
追記:
一昔前のような、「妻は夫についていくべし」といった価値構造が行き渡っていた頃ならば、例え夫とは異なる意見を持っていたとしても、「ついていくものだ」と自分を納得させもできただろう。もちろん今だって、「夫に従う」ことを「美徳」として自ら選択することも可能。男女がより「対等」に見えもする「西洋社会」であっても、その背景にあるキリスト教やユダヤ教には、「夫が大きなことを決め、妻は小さなことを賄う」が骨子としてある。「違い・役割分担」と「対等・平等」はまた別のことだと覚えておきつつ。
一時同意したにも関わらず、うまくいかなくなると、相手を責める。
こちらの道へ行こう、いや、あっちの道の方がいいと思うよ、いやいやこっちだろう。そんな話し合いを経、共に一つの道を歩き始めるのですが、途中迷ったり、渋滞に出会ったり、道路工事などでうまく進めなくなってくると、「ほらあっちの道の方がいいって何度も言ったじゃない!」と相手を責め始める。
一緒にこちらの道を歩いていこうってあの時納得したじゃない! 今更ぐだぐだいうなんて情けない! そんな非難の言葉を投げ、話し合いも泥沼化。
何度もあるパターンなので、最近は、ああ自分たちまた「このパターン」にはまっている、そう喧嘩の最中などにも特定できるように。(笑)
「何かを決定する時の話しあいを、もう少し丁寧にする」、最近心がけていること。
相手の心に吐き出せないものが残ったまま、無理やりねじ伏せられ、しぶしぶ相手にくっついて道を歩き始めた場合は、やはり「このパターン」にはまり込む確率が多い。自分で「決めた」より、決め「させられた」感がある場合。
その道を選択する場合の、いい面悪い面、起こりうるリスク、最悪のケース、それらを出し合い吟味し、どんなことがあっても二人で乗り越えていこうと納得し合う。二人で歩き始める前に、そうしておくと、例え道中困難にぶちあたっても、「このパターン」に陥ることは少ない。
一旦歩き始めたのならば、潔く、「あなたの選択」でなく、「自分達の選択」として主体的に引き受けること、心に留めておきたい。
子供が大きくなってから、だからあの時ああしたらよかったって何度も言ったじゃない!とならないように。
ラーメンか焼肉か、焼肉にしたもののの柔らかさがいまいち、だからラーメンにしよっていったじゃない! とならないように。
追記:
一昔前のような、「妻は夫についていくべし」といった価値構造が行き渡っていた頃ならば、例え夫とは異なる意見を持っていたとしても、「ついていくものだ」と自分を納得させもできただろう。もちろん今だって、「夫に従う」ことを「美徳」として自ら選択することも可能。男女がより「対等」に見えもする「西洋社会」であっても、その背景にあるキリスト教やユダヤ教には、「夫が大きなことを決め、妻は小さなことを賄う」が骨子としてある。「違い・役割分担」と「対等・平等」はまた別のことだと覚えておきつつ。