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Kオジサンの新・山歩きの記

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kオジサンの中山道旅日記 その9  JR武並駅からJR中津川駅 まで

2018-05-21 23:32:30 | Kオジサンの中山道旅日記 

5月21日(月) 晴 JR武並駅からJR中津川駅まで

第9回です。JR武並駅から前回終了した深萱立場跡へ向いました。そしてウオーキングの再開です。このコースも、昔の様子を残す街道でした。起伏の有る長い道を過ぎ、石畳を下って来たところに十三峠の石碑がありました。その場所が十三峠の東の入口だったのです。
大井宿は盆地の中にある宿場町で典型的な枡形が残る宿場でした。大井宿を通過して、恵那市と中津川市の境界を通り抜け中津川市に入ると、何箇所も坂本文化遺産保存会の案内板を目にしました。郷土の文化財を大切にしていきたい。そんな意気込みを感じました。そして、最後には中津川宿のJR中津川駅までを歩きました。
東に向って歩き、恵那山が段々と近づいてきて山容がハッキリしてきました。
それだけの距離を歩いたのだと実感しました。

JR武並駅  ― 深萱立場跡  ― 藤村高札場  ― 三社灯籠 ― 紅坂の一里塚 ― 
妻の神
 ― 乱れ坂 ― 首なし地蔵 ― 槇ヶ根の追分  ― 西行の森 ― 
槇ヶ根の一里塚 ― 西行坂の馬頭観音 ― これより西 十三峠石碑 ― 西行硯水公園
― JR恵那駅前 ― Valor恵那店  ― 大井橋 ― 市神神社 ― 大井宿の本陣跡  ― 
大井宿高札場  ― 関戸一里塚  ― 甚平坂公園 ― 広久手坂の馬頭観音  ― 
恵那市中津川市境界 ― 茄子川
 ― 鯉ヶ平高札場跡 ― 茄子川小休所篠原家  ― 
尾州白木番所跡 ― 茄子川村高札場跡
 ― 三津屋の一里塚跡 ― 中平神明神社 ― 
中平弘法堂 ― 千旦林の高札場跡 ― 六地蔵
 ― 小石塚立場跡 ― 上宿休憩所 ―
 上宿の一里塚 ― こでの坂 ― 市川製茶 ― 
中津川橋 ― 本町公園 ― 
中津川遊歩道公園 ― JR中津川駅

 
JR武並駅

(08:27)
8時27分に武並駅に着きました。
前回、終了した深萱立場跡へ向かいます。


深萱立場跡

(09:02)
国道19号線の渡道橋を渡り、中央自動車道のガードをくぐって来ました。

ここから、前回終了した中山道の街道歩きを再開します。
この場所。トイレが整っており、投句箱もありました。
あずま屋に投句の作品が掲示して有りました。




歩道と藤川が並行しています。
この場所。左手に藤村の高札場がありました。




(09:10)
前方から男性が歩いてきます。
日本橋から15日続けて歩いて来たと言っていました。
前日の大井宿から細久手宿に向かうのだと話しました。




今日のKオジサンの後ろ姿です。
下は石畳。
本格的な街道歩きが始まります。


紅坂の一里塚

(09:24)
紅坂を登ってきたところです。
紅坂の一里塚がありました。




田園の風景が広がります。
この右側。
山間部で耕作放棄地が有りました。




田圃の中のオタマジャクシ。
こんな事にも季節の移ろいを感じました。




(09:42)
右側の標柱。
竹折高札場跡となっていました。
遠くに見える恵那山。
山頂に雲が掛かっています。
好い景色なのだが、電柱が無ければ尚良い。

乱れ坂

これから乱れ坂を上がります。
坂を登るのに、急坂で息が乱れたとか、女の人の裾が乱れたとかと説明が有ります。


首なし地蔵

(10:04)
首なし地蔵です。
宝暦6年に地元の人達が旅人の安全を願って建立したと有ります。
二人の中間が休んで眠っている時、片方の中間の首が無く、亡くなっていたとか・・・・・・。
そして・・・・・。


槇ヶ根の追分

(10:16)
槇ヶ根の追分まで来ました。
ここは下街道の分岐点です。ここから右に向かうとお伊勢さんへ行けます。
中山道を上街道と呼ぶのに対して、ここから右へ行く街道を下街道と言っています。
下街道は土岐の高山宿や多治見の池田宿を経て名古屋の大曽根へ向かえます。
お上は上街道を歩くのを奨励し、下街道は禁止しましたが、距離が短く難所も無いので時間が経つと下街道を歩くようになってしまいました。。



西行の森辺りへ来ました。
桜を植えて整備してあり、「桜百選の園」と言う石碑が設けて有りました。
遠くに見える恵那山。
山頂に雲が掛かっています。


槇ヶ根の一里塚

(10:43)
槇ヶ根の一里塚です。
街道を挟んで一対の塚が有り、往時の姿を残しています。



石畳の枝道。
この道を進むと西行塚展望台です。


これより西 十三峠石碑

(10:55)
石畳の街道を下ってきました。
ここが十三峠の東の入口でした。
脇には注意を促す看板が設置して有ります。




(11:03)
中央線の登り踏み切りを渡りました。
警報機が鳴り出し、そして名古屋行きの快速が音を立てて走り抜けました。
この辺りの線路。上り線と下り線が離れています。
複線電化の時、新しい線路として敷設したのが下り線なのでしょう。槇ヶ根トンネルとなっています。
こちらの線路は明治に開通した時の線路なのでしょう。




踏切から旧国道19号線に降りて来るところに石碑が設けて有ります。
歴史の道 中山道 と刻んで有ります。
この辺りの地理の状況が判ります。
中央線。最初に敷設した線路は経費節減で短いトンネルです。新しいトンネルは並行して完成させれなく、長いトンネルになっています。
美濃十六宿となっていますが、馬籠宿が漏れています。
平成の合併で長野県山口村が岐阜県中津川市となり、馬籠宿が加わって美濃十七宿となりました。




(11:29)
道を間違えて恵那駅の方に行ってしまいました。
修正して中山道へ戻って来ました。
恵那の街中。
道がカーブして街道らしさが有ります。




中山道広重美術館です。
今日は月曜日で休館日でした。
浮世絵諸国探訪と言う企画展を実施しています。




(11:38)
美術館の南がValor恵那店で、フードコートに来ました。
木の香と言う店です。






五平餅が名物の店。
木の香ランチを注文、それに稲荷寿司を頼みました。




五平餅をこのように焼いています。
出された五平餅が焼いてから時間が経っているからか、美味しいと感じなかったです。
先日、馬籠を歩いた時、白木屋で食べた方が美味しかったのです。
こちらのは100円で、白木屋のは150円でした。味の差は値段の差でしょうか。


大井橋

(12:11)
阿木川に架かる大井橋を渡ります。
欄干に浮世絵のプレートが着けて有ります。



欄干には69枚の浮世絵が飾って有りました。
左上は「大津」琵琶湖が見えます。右上は愛知川宿です。柱にはし銭いらず。むちんばしと書かれています。
左下が贄川宿。その右は浦和宿です。何れも馬の背に荷が乗っており、家畜が重要な運搬手段でした。それに江戸時代は浦和から浅間山が望めたのでしょうか。




大井宿の桝形です。
6箇所、道が折れています。





(12:30)
この建物の表には明治天皇行在所の石柱が立っています。
15年12月に訪れた時には「行在い所 お休み処」。そして「まちかど美術館・博物館」の看板が下がっていました。
この場所を拠点にボランティアガイドが活動していました。
今では、そんな様子が窺えません。活動を止めてしまったのでしょうか。



大井宿の本陣跡

本陣跡で門が残っています。
説明板には、本陣母屋を昭和22年に焼失したと書いて有ります。


大井宿高札場


(12:37)
坂の途中に高札場が設けて有ります。





上宿広場です。
トイレが完備しています。





中山道十七宿の石碑を見かけました。




(12:48)
振返り、歩いて来た大井宿方面を見渡しました。



関戸一里塚

関戸一里塚の石碑がポツンと立っていました。



甚平坂公園

(13:08)
甚平坂公園です。
この公園に大井宿の浮世絵を元にした石碑が設置して有ります。
後ろに見える山は御嶽山です。
噴煙が出ています。





岡瀬沢地区へ入って来ました。
恵那山が見えますが、電柱が邪魔です。




(13:19)
二人で歩いている女性とすれ違いました。




恵那市と中津川市の境界

(13:30)
恵那市と中津川市の境界です。




坂本の案内看板。
中津川市に入って坂本文化遺産保存会の手作り案内板を多く見かけました。





(13:40)
この男性。日本橋から続けて歩いて来たと言っていました。
続けて中山道を歩きたいのだが、どうしても用が有って下諏訪で一旦、中断した。
それに、細久手でも、また中断しなくてはならないと話しました。
細久手宿は公共交通機関から離れている場所です。
中断するにもタクシーを呼ぶなどしなくてはなりません。
そして、後日に、また街道歩きを再開するのでしょう。




(13:44)
恵那山が正面に見えます。



尾州白木改番所跡

(14:02)
尾張藩の白木改番所は大湫宿や大井宿に有りました。
この白木改番所は各所に有ります。
それだけ厳重に抜荷を取り締まったのでしょう。



三津屋の一里塚跡

(14:22)
三津屋の一里塚跡の石柱が立っています。




(14:44)
なだらかな坂道です。
恵那山が大きく見えるようになりました。





(15:18)
中津川インターの横を通り抜け駒場地区に入ってきました。





上宿休憩所

(15:30)
上宿休憩所です。
外国人が寝ていると思い、シャッターを切りました。







横になって休んでいても、寝ては居ませんでした。
トイレを済ませたら手招きされ、近寄りました。
男性だと思い込んだのですが、実は女性でした。
「ウフェアー  フロム」と声を掛けたら、「オーストラリア」と言う返事が返ってきました。
「ウフェアー  ゴー」と聞くとKYOTOでした。
「ハウ オールド アー ユー」。この質問にはシクスティファイブと答えました。
(後になって女性に年齢を聞いて失礼だったかと思いました。)
65歳のおバアちゃん。半袖で腕には刺青が有り、引きました。日本人の感覚とは少し異なります。
ザックにテントを入れて旅していると話しました。
それに、地図が無いかと言うので、岐阜県十七宿 散策ガイドをあげました。
カタコトの単語を並べて話します。そしてプレゼントと言いました。
「イゴメ」とか「ヤゴメ」と言っていた。それを聞いて?でした。
アッ。「マゴメ」だ。昨日、馬籠に泊まって、ここまで歩いて来たのでした。
写真を撮っても良いかと聞くと、OKでVサインしてくれました。
そして、最後。
握手をして分かれました。
このおバアちゃん。「YOUは何しに日本へ」で、成田でキャッチされたら、密着取材となるようなケースだと思います。
彼女の名を聞いていませんでした。
聞いておけば良かったと言う気持ち。でも、オーストラリアのおバアちゃん。それで好い。
一期一会の出合でした。


上宿の一里塚

(15:40)
一里塚で塚に石柱が立っています。


市川製茶

(15:48)
歩いていて、黒板に目が行きました。
それに窓を全開にして製茶をしていますので、お茶の香が外まで漂って着ていました。
市川製茶
〒508-0011 岐阜県中津川市駒場488−5
0573-65-2842



窓から覗き込み、ご主人に撮影しても良いかと聞くと、出来立ての茶を持ち、ポーズをとってくれました。
今は新茶で忙しいのでしょう。




(15:53)
これから向かう中津川の町。


中津川橋

中津川橋から見える恵那山。
恵那山が大きく見える所まで歩いてきました。


本町公園

(16:06)
中山道からはずれ、本町公園へ来ました。
中津川行きの電車が見えます。





D51を静態保存しています。
ナンバープレートが盗まれたりする。
でも、このD51。籠の鳥状態でした。



中津川遊歩道公園

(16:12)
本町公園から中津川遊歩道公園が続きます。
この遊歩道公園。以前に来た事が有ります。それで、寄って見たいと思っていました。





この公園。
中山道六十九宿にちなんで、宿場名を刻んだ六十九個の石碑が通りに沿って建てられています。
この遊歩道は昭和44年に廃線となった、旧本州製紙中津川工場への引込み線の跡を活用したものです。



愛知川宿や番場宿。
69個の石が並んでいます。


JR中津川駅

(16:41)
JR中津川駅まで歩いてきました。
列車は毎時20分と50分でした。
でも、16時台は16時55分となっていました。





歩く前と歩いた後です。
30キロ余りを歩きました。



アクシデント

(17:56)
これは瑞浪駅です。
列車が中津川駅を出て、順調に走っていたのですが、瑞浪駅へ来てストップしてしまいました。
車内アナウンスが何回か有ったのです。前を走る普通列車が瑞浪駅と土岐市駅の間で異音を感じたので点検のため停車した。そのため、前に進めないと言うものでした。
結局、異常が無かったようで、前の普通列車が動き出した。それでも、この列車は踏切りの点検があり、直ぐには走り出せないとの事でした。
再三にわたる車内アナウンスでどのような状態なのかは判りましたが、列車が瑞浪駅に停車したままの状態が1時間近くかかりました。
18時20分頃になって、漸く発車しました。


感想
この街道歩き。歩き始めは2月でした。そして、今は田植えが済んだ田圃。そしてオタマジャクシ。
季節の移ろいを感じます。
外国人との出合い。こう言う事が有るのが街道歩きの面白さかもしれません。京都に向かって歩いているだろう、あのオーストラリア人のおバアちゃん。
今はどの辺りを歩いているかと思ってしまいます。


今日の経費
JR那加駅からJR武並駅まで1,140円
JR中津川駅からJR那加駅まで1,490円
木の香ランチ他 700円
ビール他 602円
            合 計 3,932円


kオジサンの中山道旅日記  その10
6月9日(土) 晴 JR中津川駅から馬籠バス停まで  へ

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kオジサンの中山道旅日記 その8  名鉄御嵩駅からJR武並駅 まで

2018-05-04 23:23:06 | Kオジサンの中山道旅日記 

5月4日(金) 晴 名鉄御嵩駅からJR武並駅まで

第8回です。名鉄御嵩駅から歩き始め、御嵩町と瑞浪市の境界を通過し、細久手宿、大湫宿を経て恵那市のJR武並駅までを歩きました。当初の予定では大井宿まで行こうと思っていましたが、脚が痛くなりましたし、このまま歩き続けるのは無理だと判断し、深萱からJR武並駅に向かいました。
歩き始め。御嵩町を歩きましたが、かつては御嶽宿だった場所です。中山道みたけ館や御嶽宿の本陣跡がありました。この辺りには宿場町の雰囲気が残っていました。そして、国道21号線沿いを歩き、しばらく歩くと、中山道が国道から山の中に入って行く道になって行きました。山の中の道では街道らしさを感じましたが、往来する人が少なく寂しい道でした。
今回、通過した宿場は細久手宿と大湫宿です。字は違いますが、どちらもクテの字が入っています。クテの意味には、湿地とか沼地の事を指すと聞いた事が有ります。大きなクテや細長いクテがあったのでしょう。
ゴールデンウイークの最中の日であり、何人もの「街道歩きの人」とすれ違いました。単独の人。ご夫婦。色々の人々が街道歩きを楽しんでいました。

名鉄御嵩駅  ― 御嶽宿本陣跡  ― 御嶽宿わいわい館  ― 栢森の一里塚跡 ― 和泉式部廟所
 ― 耳神社
 ― 謡坂の石畳 ― 謡坂の一里塚跡 ― 一呑の清水  ― 御殿場 ― 津橋
― 山内嘉助屋敷跡
 ― 鴨之巣一里塚 ― 秋葉坂三尊石窟 ― くじ場跡 ― 
細久手宿本陣跡 ― 旅籠大黒屋 ― 
奥ノ田一里塚 ―  弁天池  ― 八瀬沢立場跡  ― 
琵琶峠東口  ― 烏帽子岩・母衣岩 ― 
大湫宿高札場  ― 神明神社の大杉 ― 茶 店 
― 大湫宿本陣跡 ― 旧森川訓行家住宅 ― 十三峠入口
 ― 尻冷し地蔵 ― 三十三観音
 ― 権現山の一里塚 ― 炭焼立場跡 ― 大久後立場跡 ― 
深萱立場跡 ― JR武並駅  


瑞浪市役所経済環境部商工課発行
中山道ウオーキングマップから引用しました。

名鉄御嵩駅

(07:54)
名鉄御嵩駅で下車しました。
ここから、中山道歩きをスタートします。




御嵩駅から東を眺めました。
誰も居ない街道。
それでも曲がりくねった道には街道らしさを感じさせます。




わいわい館の南側。
御嶽宿の標識が設置して有りました。


御嶽宿わいわい館

(07:59)
御嶽宿わいわい館の前を通過します。




商家竹屋です。
中山道を人や物資が往来し、大きく賑わいをみせていた頃の商家として、宿場内での役割を果たしてきたのでしょう。


栢森の一里塚跡

(08:10)
名鉄御嵩駅から中山道を歩いて来て、中山道が国道21号線に変わる交差点に石柱が立っていました。
この石柱。まだ、新しい時代の標識です。
それに、この場所が栢森の一里塚跡のようです。


和泉式部廟所

(08:26)
国道21号線を歩いて来て、ここから山の中に入っていく場所です。
ここには右 中街道と、刻まれた指示標識が有りました。
そして、この和泉式部廟所が有りました。
説明板には鬼岩温泉で湯治していたが、この地で亡くなったと書かれています。




(08:36)
中山道が、いよいよ本格的に山の中に入っていくところです。
注意を喚起するこんな看板が設置して有ります。
往来する外国人が多いのか、英語の表記が載っています。





あの、先の方に進んで行きます。
街道筋らしい田園風景です。



(08:53)
牛の鼻欠け坂です。
ここから登り坂になります。
路面に雑草が生えています。
今の時期だから丈が短いのですが、盛夏となると、生い茂る。そんな事にならないだろうか。
ここでウオーキングシューズから登山靴に履き替えました。

耳神社

耳神社に来ました。
珍しい神社です。
耳神社の由来が添えて有ります。


謡坂の石畳

(09:11)
復原された石畳。
街道らしさを感じます。




前方に街道歩きのお二人が見えます。
言葉を交わしましたら、浜松から来られたご夫婦です。
武並駅から歩き始め、昨夜は大黒屋に泊まったのだそうでした。
今日は太田宿まで歩き、明日は岐阜に向かうと話していました。




謡坂の一里塚跡

(09:25)
草が繁っていますが、コンモリとした塚の型をしています。
昭和48年に地元有志の手で復原したと刻まれています。


一呑の清水

説明板に旅人の喉を潤したと書かれています。




(09:34)
中山道の石柱が建ってます。
ここから登り坂になります。




ご夫婦とすれ違いました。
武並から来て大黒屋に泊まったのだそうでした。
御嵩駅まで行くと言っていました。




(09:40)
前方から男性、一人が歩いてきます。
この男性も大黒屋に泊まったのだそうでした。
群馬県から来たと言っていました。





前方からご夫婦が歩いてきます。
こちらのご夫婦も大黒屋に泊まった人たちでした。
こちらのご夫婦。神奈川県の相模原市、橋本から来たのだと言っていました。
昨日、中津川から大黒屋まで歩いて来て、今日は岐阜に向かうのだと話しました。




(09:50)
木々の中の階段。
階段を上がって行った先が「ラ・プロバンス」。
森の中のケーキ香房です。
人気が有り、遠方から訪れる人が有ります。


御殿場

(09:52)
御殿場と言う場所で、説明板が設置して有ります。
文久元年に和宮の行列が中山道を下向し、徳川家茂のところへ輿入れした。その際、一行が休憩する御殿が造られた事から、ここを御殿場と呼ぶようになったと書かれています。それに一行の行列が4,000人から5,000人に及ぶ大行列だったと有ります。
大行列。延々と続いた事なのでしょう。長い行列だと、先頭は大湫宿を歩いていても、後続は細久手宿を歩いている。そんな状態だったのかも知れません。
お着きの者の泊まる場所も足りなかったかも知れません。




街道らしさのある道です。
反面、往来する人も無く寂しい場所です。



鴨之巣一里塚

(10:44)
瑞浪市に入ってきて、鴨之巣一里塚が見えてきました。
この一里塚は街道の南側と北側に塚が有り、かつての姿をしています。





瑞浪市日吉町の平岩地区が見えてきました。





(11:14)
街道沿いの鯉のぼり。
初夏の風を受け、ゆっくりと泳いでいます。
男の子が誕生したのでしょう。




(11:34)
細久手宿に入ってきました。



細久手宿本陣跡

細久手宿本陣跡へ来ました。
細久手長寿クラブの手作り説明板。
このような説明板が何枚も設置して有りました。
加賀藩の前田公から寵愛を受けたと有ります。こんな美濃の田舎とどんな関係なのだろう。



旅籠大黒屋

旅籠大黒屋に来ました。
ここへ来る時、すれ違った人たちが泊まった宿です。





大黒屋の玄関。
玄関先の瓶に花が生けて有ります。
この玄関と右側にも玄関が有りまして、右側の玄関には左の玄関にお回りくださいと表示していました。ですから、この玄関が客人を向かえる正式な玄関でした。




(11:38)
細久手公民館の北側。
細久手宿の標識が設置して有りました。




(12:13)
前方からご夫婦が歩いて来られます。
言葉を交わしましたら中津川のご夫婦でした。
中山道を歩いておられるそうな。
これまでに、北の塩尻まで歩いたそうでして、今度は西に向かって歩き始めて、今日は武並駅から歩いて来て御嵩駅まで行くと言っていました。




(12:23)
今度は単独の男性とすれ違いました。
神奈川県の人でした。
武並駅から歩き始め、御嵩駅まで行くと言っていました。
若い男性が快調に歩いている。そんな感じを受けました。


奥ノ田一里塚

(12:26)
奥ノ田一里塚へ来ました。
この一里塚。
街道を挟んで南側と北側にこんもりした塚が有りました。





(12:38)
単独の若い男性とすれ違いました。
大井宿から御嶽宿までを歩くと言っていました。
言葉を交わしたのですが、笑顔がステキな人でした。





(12:49)
こちらは東京からのご夫婦です。
大井宿から御嶽宿まで行くまでを歩くと言っていました。
前日は中津川を歩いたと話していました。
ゴールデンウイーク中であり、効率よく中山道をたどれます。

道路での立ち話。
ステキなご夫婦でした。

弁天池

(12:51)
街道の横に有った弁天池です。
弁天様を祀って有るのでしょう。
祠が有ります。

草津宿から京都へ向かって歩いた時、南草津の狼川と言うところで弁天池を目にしました。
池に島があり、川鵜が巣を作っていました。
そんな島に弁天様のお社がありました。
規模は違うけど、弁天池と弁天様。
何故このような形になるのだろう。


今日のKオジサンの後ろ姿です。
大井から御嶽へ歩くと言う男性に撮影して貰いました。





(13:08)
後ろ姿を撮影してくれた男性です。
大井から御嶽へ歩くと言う男性。
「ちゃんと歩ける中山道六十九次 西 薮原~京三条大橋」を手にして歩いています。
京都まで歩くのだろうか。





よそ見をしていた時、通り過ぎた男性。
言葉を掛けるタイミングを逸しました。




木々の中を抜けてきて明るいところへ出ました。
前方に農村風景が広がっています。
電柱が無ければ良いと思いました。





(13:35)
私を抜いて行った男性です。
浜松から来たと話していました。
前日、赤坂宿から岐阜まで歩いたのだそうです。
そして列車で太田宿まで来て歩き始め、今日は大井宿まで行くと言っていました。
太田宿から大井宿。凄い距離を歩きます。


琵琶峠東口

(13:54)
琵琶峠の西口を見落とし、東口に着てしまいました。
入口から石段を上がってみました。
整備された街道となっています。





(14:06)
大湫宿が近付いてきました。
前方からご夫婦。それに娘さんが一緒でした。
今日は御嵩駅まで行くと言っていました。




(14:10)
大湫宿の入口に大湫宿の標識が設置して有りました。


大湫宿高札場

大湫宿の標識の近く。
高札場が復原して有ります。



神明神社の大杉

こちらは神明神社です。
戸を開けて、中を見せている様子です。






野次馬根性で近寄っていきました。
お神輿を見せていたので、後ろから近寄りました。
聞こえてきたのは、高山の方へ修理に出していたとか。
立派な神輿です。
成瀬家から預かっているとか、戴いたとか、聞こえました。
滅多に見られないものを目にしました。ラッキーでした。



直ぐに戸を閉めにかかっています。
この後ろ。
神明神社の大杉が有りました。
大杉は凄い太さが有ります。

茶 店

(14:24)
団子や五平餅を売る茶店が有りました。





ここで一休み。
五平餅を頂きます。


大湫宿本陣跡

旧大湫小学校が有った場所が大湫宿本陣跡です。
本陣跡に和宮の歌碑が有りました。
こちらから見えるのは裏側です。





こちらが表側です。



旧森川訓行家住宅

(14:36)
旧森川訓行家住宅に入ってみました。




休んで行ってと言うことで、昆布茶を出して貰えました。
女性から聞いたのはこの旧森川訓行家住宅。尾張藩から許され、塩を商っていたと言うことです。
丸森のサイトを開くと塩の販売と旅籠を商売にしていたようです。
そして、女性が教えてくれたのは木曽節の「中乗りさん」と言う言葉です。
木曽から切り出した材木を木曽川で流すのだが、川幅が狭く1本1本で流す。
材木が岸の岩に当たらないようにして、材木を下流へ流す。
丁度、木場で竿1本で操る。木場と激流では様子が違いますが、想像できました。
猿も木から落ちるではないですが、材木から川へドボンと言う事も有るのでしょう。
この大湫宿の北側に木曽川が流れています。そして、八百津で筏に組んで下流へ流すのだと説明してくれました。
長良川の鵜船。先頭に鵜匠が居て、最後尾は船頭。その間で舟を操る人が中乗りさんだと思いこんでいました。
知らない事が恥と言うか、目からウロコと言う感じがしました。



十三峠入口

(14:46)
大湫宿を出てきました。
宿場の東の外れ。
ここから十三峠が始まります。




坂道。
前方からスポーツバイクの二人が下って来ます。




(15:36)
街道の横から人々の声が聞こえてきました。
この辺り、ゴルフ場の中でした。
そして、前方をカートが横切りました。



カートが通過した後、横に行ってみました。
ゴルフ場の芝生が広がっています。


権現山の一里塚

(15:38)
権現山の一里塚まで歩いてきました。




下り坂ですが石畳の道になっています。
樫ノ木坂の石畳です。
長く続く石畳。
下るので好いのだけれど、逆に登るとなるとキツイだろうと思いました。




(16:30)
武並町の深萱に出てきました。
左手に「ここは中山道の深萱立場」の案内板が見えます。



深萱立場跡

(16:33)
深萱立場。
ここにはトイレが完備しています。
ここからJR武並駅へ向かいます。



JR武並駅に向かって歩きます。



JR武並駅

(16:54)
JR武並駅が見えてきました。




歩き始めは歩数が34歩となっていました。ガラケーのスイッチを入れ忘れていまして、入れたのが、つい先ほどです。
結果的には41,000歩余りで約30キロでした。坂を登ったり下ったりで、平地の30キロよりキツかったです。




(17:13)
武並駅で列車を待っていると、名古屋行きの快速が入線してきました。


感想
予定では大井宿のある恵那駅まで歩きたいと思っていましたが、脚が痛くなりました。それに時間的に遅くなりました。
調べておいた恵那駅の時間が17時07分でしたから、それより少し遅い時間を念頭に置いて武並駅に向かえば良いと思ったのです。予定していた時間の列車に武並駅から乗りました。
大湫宿の東が十三峠です。八丁坂とか山之神坂と名付けられた坂道が何個も有ります。また、一里塚が昔の姿をしていました。街道らしい雰囲気は有るのですが、旅人は難儀したのだろうと想像しながら歩きました。それに街道を歩いていて寂しいのです。江戸時代、女性が一人で歩いていたなら、心細く感じたに違い有りません。
細久手宿では何枚もの手作り説明板が掲げてありました。このように説明板を設置して貰えたのは有り難い事です。
ゴールデンウイーク中であり、多くの街道歩きの人たちとすれ違いました。みなさん。街道歩きを楽しんでおられるように見えました。
中山道歩きの回を重ねてきました。歩き始めた頃は足の裏にマメが出来ました。今ではマメが無くなり、足の裏の皮が厚くなったような気がします。でも、左足のスネが痛くなります。



今日の経費

名鉄新那加駅から名鉄御嵩駅まで 730円
JR武並駅からJR那加駅まで 1,140円
カップ麺 108円
五平餅 180円
旧森川訓行家住宅 志納   100円

          合 計 2,258円


kオジサンの中山道旅日記  その9
5月21日(月) 晴 JR武並駅からJR中津川駅まで  へ




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kオジサンの中山道旅日記 その7  JR那加駅前から名鉄御嵩駅 まで

2018-04-16 23:13:14 | Kオジサンの中山道旅日記 

4月16日(月) 晴 JR那加駅前から名鉄御嵩駅まで

私が住む各務原市を中仙道が東西に貫いています。
或るキッカケで中山道を歩いてみようと言う気が起きました。そして、行動を起こしたのが、中山道を西へ歩くことです。第1回目として2月19日に各務原市から岐阜市までを歩きました。そして回を重ね、6回目で4月4日に京の三条大橋に着き、一応の区切りを迎えました。
次は、東に向って歩くことです。私の性格はやり出したら、キッチリと遣らないと気が済まない性格です。体力、金力が持続するか判りませんが、東に向って歩くのを始めました。 

第7回です。JR那加駅前から鵜沼宿まで行き、太田宿、伏見宿、を経て御嵩町の名鉄御嵩駅までを歩きました。歩き始め。各務原市内、中心部の中山道は国道21号線が大部分であり、車が多く往来しています。コース的に面白味に欠ける所です。
鵜沼羽場町から旧中山道となり、街道らしさの雰囲気を感じれました。時期的には、スミレの時期でいろいろのスミレを目にしました。岩屋観音を過ぎて木曽川沿いの街道を歩きました。日本ラインロマンテック街道と名付けられた街道です。景色は好いのですが、旧街道らしさが無いコースでした。太田宿の中心部に太田宿中山道会館が有りましたが、月曜で休館日でした。

歩いていて、反対方向から歩いて来る人、4人に会いました。いずれも街道歩きを楽しんでいる。そんな人たちでした。

JR那加駅前  ― 各務原市民公園  ― 六軒一里塚  ― 名鉄弧線橋 ― JR各務ヶ原駅
JR弧線橋 ― 山の前一里塚
 ― 衣装塚古墳 ― 鵜沼宿脇本陣・芭蕉句碑  ― 
大安寺大橋 ― 高札場 ― 赤坂の地蔵堂 ― 
合戸池 ― もりの本やさん ― 
うとう峠の一里塚  ― 岩屋観音 ― 行幸公園 ―  深田スポット公園
 ― 虚空蔵堂  ― 太田宿中山道会館  ― 旅籠小松屋 ― 神明水神公園 ― 古井の一里塚 ― 
太田橋 ― 今渡・渡し場跡公園 ― 今渡神社  ― 恵土の一里塚跡 ― 一本松公園 
― 伏見宿本陣跡 ― 比衣の一里塚 ― 鬼の首塚 ― 名鉄御嵩駅  



今回、歩いたコース地図です。
岐阜県十七宿 散策ガイド。「日本歴史街道」中山道連合から出典しました。

JR那加駅前

(08:45)
JR那加駅前の真っ直ぐ南。
那加本町の通りです。



本町通りと中山道が交差する場所。
初回はここらに西に歩きました。
今回はこの場所から東に向かって歩きます。


各務原市民公園

各務原市民公園です。
この公園は、かつて岐阜大学の工学部と農学部が有った場所です。
岐阜大学が岐阜市に移転し、その跡が市民公園となりました。




(09:00)
各務原市役所の前を歩きます。
信号機が邪魔だった。
信号機を避けて撮れば良かったのにと、後から思いました。





国道21号線が那加バイパスとして新しい道ができました。
この道は旧の21号線であり、車の通過が少なくなり落ち着いた道になりました。


六軒一里塚

(09:20)
旧21号線沿いに設けられた六軒一里塚の標柱です。
スローガンの看板が設置して有りますが、違和感が有ります。
折角なら、街道の案内地図でも設置すればと思います。



コンクリート塀の向こう側が航空自衛隊の岐阜基地です。
大きな格納庫が有ったりして飛行場を想像させます。
アレが中山道から見える管制塔です。
ジェット機の爆音が聞こえます。





国道21号線は弧線橋となっています。
中山道は左の道を真っ直ぐ進みます。



名鉄弧線橋

名鉄各務原線を越える歩道橋です。





歩道橋から川崎重工の敷地内に飛行機が見えます。
T-33Aジェット練習 機です。
ライセンス生産されたジェット機ですが、保存展示して有ります。

 





(09:38)
鵜沼川崎町を歩きます。
車がひっきり無しに走っていますが、タマタマ、こんな場面が撮影できました。




鵜沼各務原町です。
沢山の車が走っている。
こんなのが普通でした。


JR弧線橋

(10:15)
ここでも、国道21号線は弧線橋となっています。
この弧線橋。JR高山線を越える弧線橋です。
中山道は左の道を真っ直ぐ進みます。



山の前一里塚

この辺りに一里塚が有る事になっています。
土屋モータースで、車を洗車している男性に一里塚の場所を聞きました。
資料では播隆上人の名号碑(山の前の一里塚)となっていますので、播隆上人の碑の在り処を尋ねたら知らないと言いました。一里塚はと、聞くと向こう側と言う応えでした。

渡道橋を渡り、右の一里塚の指示標識に従い、進みました。
この場所に一里塚の標柱は立っていないのです。
あの岩石が播隆上人の名号碑のようです。
左の石には旅人道中安全と刻まれていました。
一里塚の場所を探すのにドッチへ行けば良いのか判りませんでした。手作りの指示標識は有り難かったです。

衣装塚古墳

(10:48)
空安寺の東側。
円墳の衣装塚古墳が有ります。




坂を下りてくると、信号機の隅。
ポケットパークが有り、鵜沼宿の石柱が設置して有りました。




鵜沼宿の中心部へ来ました。
電柱が撤去してあり、宿場町の雰囲気を出していますが、背の高い照明灯には違和感を感じます。



鵜沼宿脇本陣

(11:00)
復原された鵜沼宿脇本陣。
今日は月曜日。
休館日で入り口が閉じていました。





鵜沼宿脇本陣の一角に芭蕉の句碑が有ります。



大安寺川大橋

鵜沼宿脇本陣から東に歩いてきました。
大安寺川に架かる大安寺川大橋です。
街道を意識して木製の欄干になっています。




(11:05)
大安寺川大橋の東側。
英泉の浮世絵「鵜沼ノ驛従犬山遠望」の石碑が有ります。


高札場

坂祝バイパスの東側に高札場が設置して有ります。




旧21号線は右にカーブしていきました。
中山道はこのまま直進です。
この先の道。
街道らしさが有ります。




坂を上がって来て、合戸池に来ました。
この池、農業用の溜池みたいです。
池が出来た当時は農業用だったのですが、周りに農地が無くなり農業用ではなくなったみたいです。




(11:31)
緑苑の外周道路。
生活環境保全林である「日本ラインうぬまの森」に向かっています。




前方からザックを背負った男性が歩いて来ました。
挨拶をして言葉を交わしました。
埼玉県から歩き続けているのだそうでした。
今回は金曜日から歩き出し、今日月曜日まで歩いている。この後、岐阜まで行くと言っていました。
向かう方向は違いますが、同じ中山道を歩く人です。同志に遇ったような気がしました。



もりの本やさん

「日本ラインうぬまの森」に来ましたが、月曜でお休みです。
ゲートの横をすり抜けて進みます。
この建物。
「もりの本やさん」です。うぬまの森のセンターハウスです。
休館日で閉まっていました。
ここで昼食にしました。



(12:04)
石畳みの道で坂祝方面に繋がっています。
ここの左手に、うとう峠の一里塚が有ります。



うとう峠の一里塚

木が有り、判り難いのですが、土が盛られた塚の形となっています。
何回か来ていて、気がつかなかったのですが、丸い山の形です。
頂点部の木を残し、他の木は切り払ったほうが、より塚らしい形知になるでしょう。




うとう峠の一里塚から樹林の中を下って行きます。
木々が繁り、街道らしい雰囲気が有ります。
この辺り、マムシが出るのでしょう。「マムシ注意」の札が立っています。





何スミレか。
スミレが2輪咲いています。




(12:26)
坂を下ってきて、来た場所です。
ここでは、高山線の線路の下を通ります。




国道21号線沿いの歩道を歩きます。
踏み切りの警報機が鳴り出し、岐阜行きの普通列車がエンジン音を立てて走り去りました。




(12:42)
二人目の旅人の遭遇です。
この男性は北海道から来たのだそうです。
シリーズで毎回、繋ぎ繋ぎ歩くのでなく、今回はこの区間。今回はこの区間と言うふうに歩いていると話しました。
今回は伏見宿から岐阜の加納宿までで加納城址を見たりすると言っていました。
街道を歩くばかりでなく、他の目的も絡めて歩けば、良さが広がる事でしょう。



岩屋観音

岩屋観音に来ました。
ここの階段を登って来る時、ザックを背負った男性と出合いました。
男性に街道歩きですかと聞きましたら、山に登って来たのだそうでした。
ここの近く。猿啄城(サルバミジョウ)という小高い山が有ります。その山に行って来たのでしょう。




岩屋観音から歩く道。
フェンス越しに木曽川を見下ろせます。
前日の雨で川の水が濁っています。
路傍のフジが満開を迎えようとしていました。





(12:54)
国道21号線沿いに築かれた堤防で、一番下流の場所です。
浸水を喰い止めるゲートが設けて有ります。





堤防上に上がりました。
下流方面を望みます。
山と山の間。
凹んで谷になっている所がうとう峠から下りてきた街道です。
その右の岩の壁が岩屋観音です。




今日のKオジサンの後ろ姿です。
これから堤防上を歩きます。





日本ラインロマンチック街道と名付けられている堤防道路です。
この堤防の場所には、道路沿いで、かつて民家やガソリンスタンドが有りました。
昭和58年9月28日に台風と秋雨前線の影響を受けて水害が発生しました。
多くの家屋が浸水し、その後、年数を掛け、美濃加茂市から坂祝町に堤防の築造工事が行われて今日の姿となりました。
左の道路が国道21号線です。それに、旧中山道でも有ります。今では堤防が高くなり国道から木曽川が見えなくなってしまいました。住民の安全のため、眺望を捨てた。そんな感じのコースです。
重要な国道で引っ切り無しに車が通りますが、タマタマ、通行が無かったタイミングです。



日本ラインロマンチック街道。
行幸公園にこんな案内表示が設置して有りました。
もともとの中山道は今の国道21号線に沿った街道です。
その街道沿いに取組一里塚跡が有ります。
この案内表示に一里塚の場所が紹介してあると好いのではと思います。




堤防の道にスミレが群生しています。





(13:50)
坂祝町と美濃加茂市の境まで来ました。





(14:13)
太田宿に来ました。
街道らしい感じの道です。



太田宿中山道会館

太田宿中山道会館へ来ましたが、月曜日で休館日でした。



旅籠小松屋

(14:32)
かつて旅籠となっていた旧小松屋です。
今はお休み処となっています。





旧小松屋の内部です、
屋敷内には坪内逍遥や播隆上人を紹介していました。




(14:44)
神明水神公園の横を通り抜け、堤防に上がりました。
この堤防も水害後に整備されたのでしょう。



古井の一里塚

文化会館の敷地内に一里塚跡の標柱が立っています。



太田橋

(15:02)
前方の橋が太田橋です。
あの橋を渡ると、可児市になります。
橋を渡っていて、左下に島が見えます。中ノ島です。かつて日本ライン下りの出発場所ですが、今では運行されなくなりました。そして、公園として整備されていました。


今渡・渡し場跡公園

太田橋を渡り今渡・渡し場跡公園です。
黒い石碑に 木曽のかけはし  太田の渡し  碓氷峠がなくばよい  とうたわれと刻まれています。





(15:38)
可児市の今渡に来ました。
前方から女性が歩いて来ました。
この人も街道歩きの人でした。
東京から来た女性で、今日は御嵩宿から歩き始めて、この先。名鉄の日本ライン今渡で終えると言っていました。





前方は太多線の踏切です。
多治見行きの普通列車が通過して行きました。



恵土の一里塚跡

この石碑。
一里塚の跡。これより約30メートル東とあります。
土田の一里塚なのでしょう。
裏には中山道開宿400周年記念事業と刻まれています。




(16:07)
前方から男性が歩いて来ました。
この男性も東京の人でした。
何処から何処まで歩くとか、詳しく聞くのも失礼ですし、・・・・・・。
今日の行程は釜戸から可児までと言っていました。
可児で終えるとなると、もう少しで終りになります。






旧国道21号線です。
可児御嵩バイバスが出来て車の交通量が少なくなっています。


一本松公園

(16:25)
信号機の傍ら。
一本松公園が設置して有ります。松が1本有りますので、・・・・




一本松公園に設置して有った中山道の案内図です。
旧中仙道が国道21号線と着いたり離れたりしています。
この案内図、設置してから一度も手を加えていないのでしょう。見難くなっています。ソロソロ、取替え時では・・・・・。



伏見宿本陣跡

伏見宿本陣跡の石碑です。
伏見公民館に設置して有りました。





(16:38)
御嵩町の高倉地区まで来ました。


比衣の一里塚

旧21号線に着いたり離れたりする中山道。
街道が離れた所で、比衣一里塚の碑が有りました。




(16:58)
ここも着いたり離れたりするところです。
国道に、中山道が左へ向かうサインが出ています。


鬼の首塚

鬼の首塚。
道路の反対側から撮影しました。
電車の時間が気に掛かりました。
出来たら、説明を読みたかったです。



(17:17)
御嵩の街中を歩きます。





もう直ぐ御嵩駅です。
中山道の標示です。
左に折れて行く形になっています。


名鉄御嵩駅  

(17:23)
お疲れ様でした。
御嵩駅に到着です。




入線して来た新可児行きの電車です。
この電車。17時29分発です。



今日の歩行距離です。


感想
今日は東に向かって歩き出した、第1日目です。35キロ余りを歩きました。良く歩きました。
反対側から歩いて来る人、全ての人に話しかけました。何処から来たのとか、何処から何処まで歩くの?と、色々と言葉を交わせる事が面白いです。


今日の経費
名鉄御嵩駅から名鉄新那加駅まで 730円
お握り 230円
カップ麺 108円
ウィルキンソンドライ 103円
ガリガリ君   75円

          合 計 1,246円


kオジサンの中山道旅日記  その8 
5月4日(金) 晴 名鉄御嵩駅からJR武並駅まで  へ

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kオジサンの中山道・東海道旅日記 その6 遂に京都へ JR守山駅から京都三条大橋 まで

2018-04-04 23:58:10 | Kオジサンの中山道旅日記 

4月4日(水) 晴 JR守山駅から京都三条大橋まで

第6回で前回の続きです。JR守山駅から守山宿へ行き、守山宿、草津宿、大津宿、山科を経て京の三条大橋までを歩きました。守山宿から草津宿までは中山道でしたが草津宿からは東海道の歩きとなりました。草津宿から大津宿までの距離が長いと感じました。瀬田の唐橋を渡った後、中々大津宿に辿り着かなく、長い道のりに思えました。

大宝神社の東で住蓮坊母公墓と言う石碑を目にしました。隣に、この石碑の由来が設けてありました。母親は処刑前に一目、住蓮坊に会いたいと急いで行きましたが叶わなかったのです。住蓮坊は法然の門下の僧ですが、後鳥羽上皇の怒りをかい、近江の馬渕で斬首の刑に処せられました。それに関連する場所が住蓮坊の首洗いの池です。首洗いの池は前回、歩いて来たところに有りました。前回に見た場所と今回の場所とが結びつくのが面白いです。

大津と京都の間では物流で牛車を使っていましたが、雨で道がぬかるみ難儀していました。牛車のために花崗岩の車石が敷設されていました。こんなことを知ることが出来たのも、街道を歩いたから発見できた事です。
この街道の車石とポンペイ遺跡で見かけた車の轍。そんなのも関連付けて考察できました。

京阪電鉄の京津線。かつては路面で道の真ん中を走っていました。それが地下に潜りました。京津線が地下に潜り廃線となった場所を歩き、そんな経緯を知るのも街道歩きの面白さです。

JR守山駅  ― 守山宿・町家“うの家”  ― 守山宿本陣跡  ― 東門院 ― 今宿一里塚
 ― 
住蓮坊母公墓 ― 大宝神社  ― 琵琶湖線線路下トンネル ― 伊砂砂神社 ―
旧草津川 ― 
草津追分道標 ― 草津宿本陣跡  ― くさつ夢本陣 ― 草津宿街道交流館
 ― 立木神社  ― 
野路一里塚跡  ― 野路萩の玉川  ― 弁天池 ― 東海道立場跡
 ― 月輪一里塚跡 ― 
大江東北自治会館 ― 大場の桜 ― 瀬田の唐橋  ― 石山駅
― 篠津神社 ― 義仲寺 ― 
露国皇太子遭難の碑 ― 札の辻 ― 逢坂山関跡 ―
 追分 ― 伏見街道追分  ― 閑栖寺 ―  諸羽神社 ― 山科駅前 ― 大乗寺

 ― 九条山 車石広場 ― 蹴上浄水場  ― 白川橋 ―  三条大橋


近江歴史回廊発行。
宿駅散策 近江東海道中絵巻三を撮影しました。


JR守山駅

(08:10)
前回、街道歩きを閉じたJR守山駅です。
今回はそれの再開です。
駅から北の守山宿に向かいます。



守山宿・町家“うの家”

(08:21)
中山道まで来ました。
左側が守山宿の「うの家」です。
ここから中山道を歩きます。


守山宿本陣跡

本陣跡と井戸の跡です。
説明板が整備してあります。




石造道標と説明板。
この場所が高札場跡だったとも説明しています。


東門院

(08:27)
東門院の仁王門。
立派な仁王が両側に控えています。
この東門院、近江西国三十三ケ所霊場となっています。




東門院の境内の石かえる。
背中に子かえるが乗っています。




守山市今宿地内の中山道です。
この辺りでは、真っ直ぐの街道になっています。


今宿一里塚

(08:37)
今宿一里塚に来ました。
エノキだろうか。
木の枝が新芽を付けています。




栗東市に入って来ました。
この辺り。綣(ヘソ)と言う地域です。
大宝神社の一角に、この綣元標の表示板が設置して有りました。




(09:00)
綣(ヘソ)と言う地域です。
信号機に地名表示が取り付けてあります。
糸偏の綣。つきまとう。ねんごろ。等の意味が有ります。



栗東市の笠川地区です。
前方に草津線の高架橋が見えます。
アソコはもう、草津市になります。


琵琶湖線線路下トンネル

(09:19)
草津市に入って、JR琵琶湖線のトンネルを通り、大きく回り込みます。



伊砂砂神社

街道沿いの伊砂砂神社です。
桧皮葺の立派な本殿が有りました。





草津駅前の道です。
この先、アーケード街になっています。
この交差点を右に折れるとJR草津駅に向かいます。





前方に見えるのが旧草津川のトンネルです。
旧草津川は天井川で川が高い位置となっています。
それで、高い土手に上がらなくてはなりません。かつて、旅人は難儀しました。



旧草津川

(09:44)
旧草津川に上がるため、階段を登ります。




かつての旧草津川です。
今では整備されて「de愛ひろば」となっています。
にぎわい活動棟やイベント広場が有ります。


草津追分道標

トンネルの西側に道標が有ります。
ここが東海道と中山道の分岐点です。
道標から東が中山道で、南が東海道となっています。


草津本陣跡

史蹟草津本陣跡です。
泊まった時期は違いますが、浅野内匠頭と吉良上野介。曰縁、深い二人がこの草津宿本陣に宿泊しています。
この本陣。今年の3月3日に訪れました。
https://blog.goo.ne.jp/gifu2212/e/47395583ba69c161400afe04b8cd0483


くさつ夢本陣

草津宿の休憩やトイレが仕える場所で「くさつ夢本陣」です。
丁度、FM放送をやっているタイミングでした。
ここで、休憩しましたが、自動の呈茶機が有り、お茶を頂きました。



私が出て来た時、逆に中へ入る女性が居ました。
ハイカー姿でしたので、街道歩きですかと聞きましたら、草津から石部まで歩くと言っていました。


草津宿街道交流館

ここが草津宿街道交流館です。
館内は街道の資料館になっています。




交流館の前に有った草津宿の図面です。
本陣が2箇所。脇本陣が3箇所となっています。
その事からも、草津宿が大きな宿場だったと言えます。




(10:30)
店先に、「右やばせ道 これより廿五丁大津渡船」の石の道標が立っています。
矢橋道をたどり矢橋湊から舟で大津へ渡るか、東海道を歩き瀬田橋で行くかです。「急がば廻れ」の語源になったところだそうです。
Googleの地図ではここから西に行ったところに矢橋港が有ります。
判り難いですが、浮世絵の店は姥が餅屋です。




ふるさと「矢倉」風景の記憶絵に見る今昔。
これと同じような記憶絵が草津宿本陣のハス向かいや渋川にもありました。
昭和30年代の草津を表わしたものです。




東海道が国道1号線と交差します。
この先の左側に小公園があり、そこに野路一里塚跡の石柱がありました。




板造りの復元常夜燈が建っていて、「東海道浪川(おおかみがわ)」と書いて有ります。
フェンスには手作りの板で草津宿本陣・瀬田唐橋の距離が表して有ります。






(11:12)
草津市と大津市の境界辺りまで来ました。
今日のKオジサンの後ろ姿です。


東海道立場跡

池の横に東海道立場跡の石碑が有ります。




大津市の一里山地区に入って来ました。
緩やかな登り坂です。




(11:35)
道標が設置して有ります。まだ、新しいです。
道の交差点に有りましたが、この反対側に月輪一里塚が有ったのです。
気がつかずに通ってしまいました。



大江東北自治会館

大江東北自治会館の前に来ました。




自治会館に地図が掲示して有りました。



大場の桜

1本だけの桜。
大場の桜と説明しています。


瀬田の唐橋

(12:12)
瀬田の唐橋へ来ました。
桜の花びらが飛び、花吹雪状態です。



瀬田の唐橋のたもとでトイレを利用しました。
ウオーキング姿のご夫婦と言葉を交わしました。
ご夫婦は北海道から来ていて、ウオーキングを重ねているのだそうでした。
私が岐阜県の各務原市から来たと言いましたら、中山道でそこは、歩いたそうでした。飛行場が有って飛行機が飛んでいたと言いましたので、それは航空自衛隊のジェット機ですと言いました。

笑顔で話してくれたご夫婦です。
今日は大津に泊まり、三条大橋を目指すと言っていました。
私は今日、三条大橋に着くように行くと言いましたら、私達に歩調を合わせず、先に行ってと言われました。

僅かな時間でしたが一期一会の出会いでした。
北海道のどちらかと聞きませんでしたが、北海道ならまだ雪が残っているかも知れません。ご夫婦で街道歩きが出来る。好い事だと思いました。



石山駅

(12:41)
京阪電車の石山行きが来ます。
歩いて来て、真っ直ぐに進むと琵琶湖線の下を通り抜けれそうですが、手元の資料には京阪電車の石山駅。JRの石山駅を通るように書かれています。
それで、両駅の自由通路を抜けました。




左側はロームと言う工場です。
道は曲がって行きますが、松があり、東海道らしさが有ります。




前方は京阪電鉄の石山坂本線の踏み切りです。
瀬田の唐橋を渡ってから、何回か京阪の踏切を横切りました。
頻繁に電車が走っています。

義仲寺

(13:58)
義仲寺の前に来ました。



露国皇太子遭難の碑

露国皇太子遭難の碑です。
いわゆる大津事件の場所。





東海道を歩いていて、提灯屋を目にしました。
この時、思い浮かんだのは愛知川宿の提灯屋です。



札の辻

(14:24)
札の辻に来ました。
国道161号線で道路の真ん中を京阪電鉄京津線が走っています。






歩いていてJRの列車がトンネルに入るのが見えました。
逢坂山トンネルです。




国道1号線と国道161号線が合流する交差点。
前方から京阪電鉄の列車が来ます。


逢坂山関跡

(14:50)
逢坂山関跡に来ました。
ここは、ポケットパークのような場所になっている場所で、トイレが有ります。
サイクリスト達が休憩していました。




逢坂山関の説明板が設置してありました。





東海道であり国道1号線。
下り坂になっています。
右に見えるのが京阪電鉄の大谷駅です。
列車が停まっています。



追分

(15:14)
坂道を下ってきて1号線と分かれます。
この場所、大津市追分町です。
1号線は右へ。
東海道は左へ。
左のビルが大津警察署藤尾交番です。
ここから、左に進みます。




振返ると滋賀県大津市の境界プレートが見えます。
反対側には京都府京都市のプレートは無かったのです。
地図で確認するとこの場所が京都と大津の境なのですが、道路を隔てての境界です。
右側はズーと京都で左側が大津。
まだ、この先までも大津なのです。




伏見街道追分

石の道標が有ります。
左に向かうと伏見方面です。




追分に有った案内板。
大津絵がこの地で生まれ、算盤もこの地で。
とても参考になります。


閑栖寺

東海道の坂を下ってきて寺の境内にゾウの置物が有りました。
4月8日の花祭りにあわせての物でした。
そのゾウ越しに見えたのが車石です。
門の脇には説明の札が立っていました。



こちらは民家の塀に取り付けられた説明板です。
江戸時代から明治に掛けて車石が役に立った事が想像できます。




上の説明板を補う説明です。




(15:41)
四ノ宮町辺りまで来ました。


山科駅前

山科駅の駅前に来ました。
アノ建物が山科駅です。




(16:02)
山科駅から歩いて来て琵琶湖線の高架を抜けました。
前方に見えるのが京阪の軌道敷跡です。
今は遊歩道のような道になっています。




遊歩道の道で、途中で左に曲がらなければならなかったのですが、直進してしまいました。
地元の人で犬の散歩に来ていた人に聞き、戻りました。
この道が旧東海道です。


九条山 車石広場

(16:25)
ポケットパークのようになっている場所です。
通過した時は気が着かなかったのですが、かつて牛車が往来していた時の状態を再現です。



蹴上浄水場

日ノ岡峠を降りてきて、蹴上浄水場の横へ来ました。



白川橋

(16:49)
白川に架かる白川橋の上から西を眺めています。
ゴールまで、もう少し。




三条大橋まで来ました。


三条大橋

(17:02)
ゴールです。
三条大橋の上で男性に頼み、シャッターを押して貰いました。
この後、地下鉄の駅で下に降りました。


この後、地下鉄東西線で山科駅に向かいました。京都駅から乗車するとなると、烏丸線に乗り換えなくてはなりません。それでは時間が掛かると思い、山科駅に向かおうと考えました。三条京阪駅を13分に出る列車に乗れました。そして36分発の長浜行きの新快速にに乗車できました。





今日のBefoe  After。
距離にして、35キロ近い距離を歩きました。
右側は撮影するのを忘れていて、地下鉄の車内で撮影しました。




いろいろのスミレ

歩いていて、何箇所もスミレを見かけました。
左上(08:54) 右上(09:09)
左下(10:51) 右下(11:27)
色々のスミレが見れました。
こう言うのも、街道歩きの面白さです。

感想
今回、歩いた区間の中で大津市がとても長く感じました。瀬田の唐橋より東も大津市であり、京都の山科と接する所までが大津市でした。イメージ的に逢坂山の関の跡まで位が大津市だと思っていたのです。北部は合併で広くなっています。大津市がとても大きいと感じました。
6回目の街道歩きで京都に到達できました。
良く頑張ったと思います。


今日の経費

JR那加駅からJR守山駅まで JR山科駅からJR那加駅まで 青春18キップ使用 2,370円
お赤飯 150円
お弁当 429円
アイスクリーム   152円

          合 計 3,101円

kオジサンの中山道旅日記  その7 
4月16日(月) 晴 JR那加駅前から名鉄御嵩駅まで  へ

 

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kオジサンの中山道旅日記 その5 近江鉄道豊郷駅からJR守山駅 まで

2018-03-28 23:52:14 | Kオジサンの中山道旅日記 

3月28日(水) 晴 近江鉄道豊郷駅からJR守山駅

第5回で前回の続きです。近江鉄道豊郷駅から愛知川宿、武佐宿、野洲を経てJR守山駅までを歩きました。
街道を歩いていて、春の訪れを感じました。
普通、桜前線は南から北に進むものですが、標高などに寄って、開花時期が異なるのでしょう。まだ、つぼみが膨らんだ状態の桜。つぼみの先がピンクになり、今にも開花しそうな桜。そして開花している桜。色々の桜を愛でることが出来ました。こう言うことは街道歩きの面白さです。
歩いていて、知った事が有ります。今回歩いた部分に愛知川、日野川、野洲川と比較的大きな川がありました。その中で愛知川が無賃橋となっていました。と言うことは日野川、野洲川では通行賃や渡し賃を払ったのででしよう。
また、路傍で石の塊を見かけました。恐らく行路病死した人の墓なのでしょう。名も何も刻まれていません。旅をするのは命懸けではなかったか。そんな事を想像しました。


近江歴史回廊 宿駅散策 近江中山道中絵巻①②より引用しました。

近江鉄道豊郷駅  ― 伊藤忠兵衛旧邸跡  ― 又十屋敷  ― 愛知川宿ポケットパーク
 ― 愛知川宿本陣跡 ― 八幡神社 ― 明治天皇御聖蹟  ― 御幸橋 ― 
てんびんの里石碑
 ― コメダ珈琲五個荘店  ―  五個荘ポケットパーク ― 
明治天皇北町屋小休所の碑 ― 石塚の一里塚跡  ― 中山道モニュメント  ― 
清水鼻の名水  ― 奥石神社  ― 泡子地蔵尊遺跡
 ― 西生来一里塚跡 ― 
武佐宿脇本陣跡 ― 武佐宿本陣跡  ― 近江鉄道武佐駅 ― 伊庭家跡
 ― 横関橋
 ― 道の駅 竜王かがみの里 ― 外和木の標 ― 野洲川橋 ― JR守山駅  




(08:18)
JR彦根駅で下車して近江鉄道の彦根駅へ来ました。
既に電車が入線して停まっています。
この電車24分発の八日市行きです。




もう直ぐ豊郷駅です。
高宮駅辺りまでは通勤客が居たのですが、みんな下車して車内はガラガラになりました。
昼間は1時間に1本しか有りません。
この車内の状態なら、1時間に1本は仕方が無いです。



(08:54)
豊郷駅で下車しました。
この駅で下車したのは私だけでした。
駅がコミニティハウスとなっていますが、閑散としています。



伊藤忠兵衛旧邸跡

伊藤忠の創業者。伊藤忠兵衛旧邸跡です。
立派な石碑が有ります。
この跡地。くれなゐ園と言う石柱が立っていました。





(09:01)
歩き始め。
豊郷地内を歩きます。



又十屋敷

(09:13)
この場所。表には一里塚の石柱が有ります。
豊会館・又十屋敷となっています。
残念ながら休館日でした。
説明板には北前船で財を成したと書いて有りました。



江州音頭発祥地です。
説明の石碑には盆踊りで扇を持って踊ると書いて有ります。
由来には天正と言う年号が入っていました。




(09:19)
宇曽川の東の桜です。
蕾の先がピンクになり、もう直ぐ開花です。






宇曽川を渡り、愛荘町に入りました。
愛荘町の沓掛と言うところを歩いています。

手元の資料の地図。
愛知川町となっています。調べたら秦荘町と愛知川町が一緒となり、愛荘町が出来ています。



(09:41)
この先が愛知川宿です。
東の入口で木戸が設けて有ります。
宿場内の道は舗装の色が異なります。




愛知川宿ポケットパーク

ポケットパークが整備して有ります。
瓦の乗った土塀が有り、立派な公園です。



愛知川宿本陣跡

(09:50)
この建物。
化粧直しをして綺麗な建物となっています。
この建物の右側に本陣跡の札が立っていましたので、この建物が本陣跡ではないのかもしれません。
右の建物は日本生命でした。





愛知川宿の中です。
向こうに見えるのが竹平楼と言う料理屋さん。
明治11年に、明治天皇が北陸巡行の際に立ち寄ったと書かれていました。


明治天皇御聖蹟

(09:54)
明治天皇が立ち寄った時の事を現す石柱です。
竹平楼の一角にあります。
竹平楼の玄関には対の提灯が下がっていましたが、中山道恵智川宿と言う字で書かれていました。




(09:56)
愛知川宿の西の入口まで来ました。
橋の名は不飲川橋と現しています。この川。彦根の方へ向かって流れて行きます。
橋のたもとの桜は、チラチラと咲き始めています。
ライトアップの照明の準備が済んでいます。






国道8号線に出ました。
中山道から国道8号線に出たのですが、道路の反対側に一里塚跡が有ったようですが、見落としてしまいました。




愛知川堤防の脇。
こんな説明板が設置して有りました。
恵智川の字を使っています。
かつては無賃の橋だったようです。




御幸橋

(10:04)
愛知川の御幸橋を渡ります。




御幸橋の上から上流を眺めました。
のぞみか、ひかりか。
下りの新幹線列車が西に向かって走って行きます。
手前の鉄橋は近江鉄道の鉄橋です。




てんびんの里石碑

右が国道8号線。左が中山道です。
ここで左右に別れ、分岐点に「てんびんの里」の石碑が立っています。
横断歩道橋の表示が東近江市五個荘町となっています。五個荘町は近江商人を多数送り出した町です。
てんびん竿を担ぎ、行商を行いました。


コメダ珈琲五個荘店

(10:17)
小腹が空いた。
今ならモーニングに間にあう。
それで、コメダ珈琲に入りました。



(10:37)
五個荘中央公園の横を流れる川。
川沿いに桜並木になっています。
桜の花がチラチラと咲き出しています。




今日のKオジサンの後ろ姿です。


五個荘ポケットパーク

(10:48)
大きな絵図です。
右下に中仙道分間延絵図となっていて、文化3年に江戸幕府が作成した街道絵図となっています。
小幡村とか北之庄村と詳細に書かれています。





五個荘町の北町屋地内を歩きます。





(11:01)
京町屋風の商家。
北町屋町が購入して保存していると書いて有ります。





茅葺きの家屋。
街道筋らしさが有ります。



石塚の一里塚跡

(11:11)
石塚の一里塚跡。
この一里塚の手前で民家の庭に桜に似た花が満開状態でした。
その家の人に聞きましたら、スモモの花だと教えてくれました。
私の姿を見て、中山道を歩いている人だと思い、一里塚がその先に有ると教えてくれました。




中山道モニュメント

てんびんの里のモニュメント。
五個荘の西の入口に設置して有ります。
近江使用人がてんびんを担いでいる姿です。



清水鼻の名水

(11:19)
名水の説明板。
「五個荘地区まちづくり協議会」の字が見えます。
このように説明板を設置し、取り組んでいるのでしょう。



国道8号線を横切って東老蘇地区に入ってきました。





民家のジンチョウゲ。
芳香を放っていました。




(11:52)
東老蘇地区、街道らしい道です。



泡子地蔵尊遺跡

水路の横に泡子地蔵尊遺跡の碑が有ります。






泡子地蔵尊のいわれがあります。


西生来一里塚跡

(12:24)
西生来一里塚跡の石柱が設置して有ります。


武佐宿脇本陣跡

武佐宿脇本陣跡です。
この脇本陣の手前に牟佐神社が有りましたので、武佐宿に入って来たと感じていました。
奥の建物は武佐町会館となっています。




(12:41)
いっぷく処 綿屋の壁。
武佐宿を紹介するプレートを掲げています。
額の中の絵にゾウが描かれています。
このゾウは享保13年に江戸へ向かった時のものです。



武佐宿本陣跡

武佐宿本陣跡。
しっかりした門構え。風格が有ります。



近江鉄道武佐駅

(12:49)
武佐駅へ来ると電車が停まっていました。
12時49分発の八日市行きが発車して行きました。


伊庭家跡

伊庭家跡です。配置図から広い邸宅だったと想像できます。
説明板には伊庭貞剛邸と有ります。
幕末期には京都御所警備隊士として活躍した後、裁判所に勤めた。
そして、別子銅山の精錬所の移転に尽力したと有ります。
80歳で生涯を終え、西宿の地に眠ると有ります。この場所が西宿町ですので、この一角にお墓かが有るのでしょう。
右が若宮神社です。横の桜は5分咲き程度でしょうか。




(13:22)
千僧供町に来ました。小公園の場所です。
住蓮坊首洗いの池です。
桜。5~6分程でしょうか。




(13:42)
近江八幡市の東横関町へ来ました。
反対方向から歩いて来た人が居ました。
どちらからと言葉を交わしましたら、西横関から歩き始めて近江八幡まで歩くと言っていました。




(13:46)
立て続けに反対方向から歩いて来た人に会いました。
この人は武佐宿までを歩くと言っていました。




(13:53)
前方は日野川の堤防です。
説明板が見えます。




武佐宿の説明板が設けて有りますが、ここは渡し場跡です。
石碑が有ったか、見かけませんでした。
当時はここで渡し舟で対岸に渡っていました。浮世絵から、この場所が渡し場だったと想像できますが、石碑などの表示が欲しいところです。
それにここから左に迂回して横関橋を渡る事となります。
そんな指示標識が有ればと思いました。





日野川の堤防です。
右は竹ヤブで左は桜の並木です。
ここの桜。
蕾が固く咲き出す気配が有りません。




(13:59)
日野川を渡ります。
横関橋の上から下流方面を望みました。






中山道が、国道8号線と重複区間となりました。
道路の端を歩きますが、車がビュンビュン走り、喧しかったです。



道の駅 竜王かがみの

(14:41)
「道の駅 竜王かがみの」に寄りました。
ここで一休みしました。
ここに来る途中、「鏡の里」で旅籠だった事を現す立て札が何軒か有りました。
「鏡の里」は間(アイ)の宿なのかも知れないです。



(15:00)
国道8号線の横に池が有ります。
地図には東池となっています。
池越しに三上山が見えます。三上山で別名近江富士と呼ばれている山です。




(16:01)
ここの桜。ほぼ満開です。
後ろの建物は野洲小学校の校舎です。
桜の下に説明板があり、「中山道・外和木の標」の分が書いて有りました。


野洲川橋

野洲川に架かる野洲川橋を渡ります。




(16:22)
野洲川橋の上から左後ろを振り返りました。
三上山が見えます。
円錐形をした山です。


JR守山駅

(16:46)
守山駅に来ました。
脚は大丈夫なのですが、脚の裏が痛くなりました。
それに、時間が17時近くとなったので、ここでリタイヤする事にしました。
本当は、草津宿まで行こうと思っていました。





いきいき情報と通常情報を比較できませんが、4万歩を超える歩数で、30キロを上回る距離を歩きました。





 感想
8時間近い時間で、30キロ余りを歩きました。時速にすると4キロほどなのでしよう。早く歩くと見落としてしまうモノが有ります。伊藤忠兵衛旧宅は閉じていましたし、又十屋敷は休館日でした。このような場所をゆっくりと訪ねたいと思います。


今日の経費
JR那加駅からJR彦根駅まで 1,140円
近江鉄道彦根駅から近江鉄道豊郷駅 450円
コメダ珈琲  400円
お握り 198円
アイスクリーム   198円
JR守山駅からJR那加駅まで 1,660円
          合 計 4,046円


kオジサンの中山道・東海道旅日記  その6  遂に京都へ
4月4日(水) 晴 JR守山駅から京都三条大橋まで  へ

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kオジサンの中山道旅日記 その4 JR柏原駅から近江鉄道豊郷駅 まで

2018-03-07 23:50:29 | Kオジサンの中山道旅日記 

3月7日(水) 晴 JR柏原駅から近江鉄道豊郷駅

第4回で、前回の続きです。今回から滋賀県を歩きす。柏原宿から醒井宿、番場宿、鳥居本宿、高宮宿を経て近江鉄道の豊郷駅までを歩きました。計画では愛知川宿まで歩く予定でしたが、途中、道を間違えてしまいロスが生じました。近江鉄道の電車は1時間に1本しかないので近江鉄道の豊郷駅で終りにしました。
今回歩いたのは米原市の柏原宿、醒ヶ井宿、番場宿と彦根市の鳥居本宿、高宮宿です。自治体に寄って、中山道に対する取り組みの温度差を感じました。


近江歴史回廊 宿駅散策 近江中山道中絵巻①②より引用しました。

JR柏原駅  ― 柏原宿本陣跡  ― 柏原宿歴史館  ― 柏原の一里塚跡 ― 
小川の関跡 ― 
一色の一里塚跡 ― 醒井宿東入口 ― 井醒の清水 ― 
醒井宿問屋跡 ― 一類孤魂等衆の碑 
― 久禮の一里塚跡  ― 番場宿本陣跡  ―
 蓮華寺  ― 中山道道標 ― 磨(摺)針の一里塚跡 ― 
磨(摺)針峠 ― 
中山道モニュメント  ― 赤玉神教丸 ― 鳥居本宿本陣跡 ― 鳥居本宿交流館さんあか
 ― 
中山道道標 ― 小野小町塚 ― 天寧寺石碑  ― 高宮神社  ― 高宮宿本陣跡
― 
むちん橋地蔵尊  ― 中山道モニュメント ― 豊郷小学校 ― 近江鉄道豊郷駅   





参考書籍と資料。
学研の近江路をゆく 柏原宿~三条大橋を参考にしました。
右は近江歴史回廊 宿駅散策 近江中山道中絵巻①②です。



(8:40)
前回、終りとしたJR柏原駅に降り立ちました。
駅前から見える伊吹山です。
雪の量が減っています。




JR柏原駅で下車したのは私と、このお二人です。
刈谷駅から乗ってきたと言っていました。ICカードで来たのですが、 JR柏原駅はICカードが利用できる範囲外であり、現金を払って料金精算をしていました。
登山姿です。
霊仙山に登るのですかと聞いたら、清滝山だと言っていました。



柏原宿

(8:41)
駅から柏原宿へ歩いてきました。
宿場町の雰囲気が有る街道です。





柏原宿の説明板。
長い宿場町です。





高札場の跡です。




伊吹もぐさ亀屋佐京商店。
かつては何軒かもぐさ屋が有ったようですが、今では、この店だけとなりました。



柏原宿歴史館。

(8:52)
柏原宿歴史館。
先を急ぐので入館しませんでした。




今日のKオジサンの後ろ姿です。





「やくし道」道標。
立派な道標です。霊験が有った薬師への道標と書いて有ります。





宿場の西の方です。
ポケットパークのような場所。





柏原地区街なみ環境整備事業の説明板です。
平成16年度から25粘土に掛けて実施したと有ります。
家屋のビフォーとアフターが載っています。
街道らしい雰囲気の有る宿場町だと思いましたが、一緒に電柱の地中化も実施すれば・・・と思いました。





宿場の表札。
造り酒屋とか年寄。色々有ります。艾屋と言うのが有りますが、「よもぎ屋かもぐさ屋」です。
柏原宿では、伊吹もぐさを名物として販売し、全盛期には10軒ほどのもぐさ屋が軒を並べていたようです。それが今では1軒だけになりました。



(9:04)
柏原宿の西の外れ。
柏原の一里塚跡です。





宿場の外れ。
松の大木が有り、街道らしさを出しています。




工場の日陰には雪が残っています。
柏原宿の道の真ん中に融雪装置が有りました。
もともと、雪深い地域なのでしょう。




(9:37)
街道らしさが有る松並木。
この左側はラブホテルです。





国道21号線に出ました。
大きな石碑に中山道と刻まれています。
左となっており、道なりに進みます。




(9:52)
米原市の一色と言う集落に入って来ました。





民家のウメ。
もう直ぐ満開と言う状態です。




ここは一色の一里塚跡です。


醒井宿

醒井宿の入口に来ました。
石碑が設置して有ります。
右側は「中山道分間延絵図」の醒井宿の部分です。




(10:02)
醒井宿に入ってきました。





居醒の清水です。
地蔵川の水源となっている場所で、清水がコンコンと湧き出ています。
この場所の南に霊仙山が有ります。その山は石灰岩が露出した山です。ですからこの水は石灰台地の下を通ってきた水が地表に現れたものです。
醒井の地蔵川の名は知っていましたが、このような状態になっているとは知りませんでした。

JR醒ヶ井駅の斜め前に「醒井水の宿駅」が有ります。
このように水に恵まれた場所だから「水」付したのでしょう。
JRの駅は醒ヶ井駅で、ヶが入っていますが、醒井宿はヶが入っていません。





米原市醒井宿資料館。
醒井宿問屋場の標識が設置して有ります。




(10:30)
醒井宿を出て、国道21号線に来ました。
道路脇に「一類孤魂等衆」の碑がありました。





中山道を西に歩いていました。
踏み切りの警報機が鳴っていたので、少し、寄り道をしました。
米原行きの普通列車です。



樋口と言う集落です。
この先に信号機が有りました。
国道21号線を横断しました。





(11:03)
北陸自動車道の下を通過しました。
前方に見えるのが久禮の一里塚跡です。
中山道が右奥に向かっています。



番場宿

番場宿に入ってきました。ポケットパークのような場所です。
ここにも「中山道分間延絵図」が有ります。
この絵図は番場宿のものでしょう。

番場宿と言えば「番場の忠太郎」です。
この宿場に忠太郎地蔵が有ります。
歩いて行けば忠太郎地蔵は判るだろうと思っていました。
忠太郎地蔵があるのが蓮華寺でした。蓮華寺へ行ったのですが、地蔵を見つける事が出来ませんでした。
長谷川伸の「番場の忠太郎」に纏わるだろう、忠太郎地蔵。
見たかったです。




(11:15)
広い街道です。
番場宿の中でも中心部なのでしょう。





脇本陣跡や問屋場跡の石碑が設置して有ります。






(11:41)
個人のおウチなのですが、番場宿の幟旗が立てて有ります。






番場宿のハズレまで歩いてきました。
登りの道になります。
この先が小磨(摺)針峠になります。




(12:12)
中山道の石碑が2本あります。
ここで、道が右にカーブしていて、そちらに向かわなければならないのに、左の方に向かってしまいました。





(12:49)
石柱が2本ある場所に戻って来ました。

峠で、道がヘアピンカーブのように曲がるのですが、名神の下を通り、行けども行けどもカーブが現れませんでした。
おかしいと思いました。そして、間違って来てしまった事に気付きました。名神の下を通った時におかしいと気付かなければなりませんでした。
結局、中山の処分場よりも先まで行きました。
往復40分程の時間を無駄にしました。





(12:53)
石碑の有る分岐から坂を登ってきました。
磨(摺)針の一里塚です。





(摺)針峠への登り坂です。




(13:18)
磨(摺)針峠からの下り道です。
車道から離れて山道を下ります。
今の時期だから良いようなものの、夏の時期なら雑草が繁っている事と思います。
それにゴミが散乱していました。



(13:26)
峠から下りてきて国道8号線へ出ました。
そして、直ぐに橋を渡り国道から分かれ、街道である中山道となりました。
鳥居本宿の入口となり、歓迎のモニュメントが迎えてくれます。


鳥居本宿

鳥居本の宿場に入ってきました。





赤玉 神教丸。古くから有る薬商です。
江戸時代の旅人がこの店で薬を買ったのでしょう。
反対側の入口にもノレンが下がっていました。
そして、処方せん受付のプレートが下がってました。
今も薬商を営んでいました。




(13:37)
合羽所「木綿屋」。
旅人が道中の途中に合羽を買い求めたと有ります。
それに、この鳥居本宿に合羽所が15軒有ったと書いて有ります。
合羽所「松屋」の説明板には1970年代に終焉を迎えたと書いて有ります。



(13:41)
鳥居本宿交流館 さんあか。




「さんあか」の館内に入ってみました。
三つのレッドを見て、「さんあか」の意味が判りました。
赤玉レッドの横の写真は昨年の街道祭りの時のものでした。





鳥居本宿に有った説明板です。
設置してから時間が経っているのでしょう。字が欠落した説明板も有りました。




中山道道標です。
彦根に向かう道の分岐点です。





(13:55)
鳥居本宿のハズレに来ました。
前方を新幹線が走って行きます。




彦根市小野町にある小野小町塚です。





(14:40)
地蔵町と言うのか、彦根市旭森地区に入って来ました。




高宮宿

(15:09)
高宮宿の中に入ってきました。
曲がりくねった道。
街道らしさがあります。





ズラーと並んだ提灯。
提灯屋です。
古くから営んでいるのでしょう。提灯製造 馬場と書かれています。




(15:14)
ここから多賀大社に向かう分岐点となった場所。多賀大社一之鳥居です。
多賀大社の大きな鳥居の足の部分です。




高宮宿の説明板が設置してありました。




犬上川に架かる発見された地蔵を祀っているお堂です。
川を渡るのに渡し舟や橋が有り、通行料を徴収していました。
この橋は徴収しなかったので「むちんはし」と呼ばれます。





(15:39)
中山道の西の端。
また おいでやのモニュメントで、旅人のブロンズ像が乗っています。




豊郷町に入って来ました。
豊郷小学校の正門からです。




(16:07)
奥に見えるのが近江鉄道の豊郷駅です。
愛知川駅まで行く予定でしたが、電車が1時間に1本しかなく、本日はここで打ち切りにしました。




豊郷駅コミニティハウスと描かれています。
この駅。乗車券の販売が先月末で終り、無人駅状態となっていました。




(16:29)
16時28分発の米原行きの普通電車が入線してきました。




歩いた後の歩数から歩く前の歩数を引くと、40,878歩となります。
距離は33.1kmとなっていすが、歩き出す前と歩いた後の距離を差し引いても30kmは歩いています。




知る面白さ
柏原宿では艾屋と言う表札を目にしました。調べましたら「もぐさ屋」と読む様です。そんな店が隆盛期には10軒も有ったようです。それが今では1軒となりました。鳥居本宿では合羽所と言って、合羽所が15軒有ったと書いて有りました。それがナイロンの出現に寄り、廃業を余儀なくされたと有りました。旅人が買い求めたのが縞の合羽なのか。大八車を覆うシート状の物も作ったようです。もぐさや合羽の衰退。色々と勉強になりました。

道を間違えました
磨(摺)針峠の手前の道標の場所。右に向かわなければならない所を左に向かってしまいました。ヘヤピンカーブになるとは思っていたのですが、行けども行けどもヘヤピンカーブが現れず、道を間違えた事に気付きました。事前にシッカリと押さえて置かなければと反省です。

今日の経費
JR那加駅からJR柏原駅まで 760円
パン   100円
カップ麺 108円
豊郷駅から彦根駅 450円
JR彦根駅からJR那加駅   1,140円
          合 計    2,558円


kオジサンの中山道旅日記  その5  
3月28日(水) 晴 近江鉄道豊郷駅からJR守山駅  へ

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kオジサンの中山道旅日記 その3 養老鉄道東赤坂駅からJR柏原駅 まで

2018-02-26 23:42:34 | Kオジサンの中山道旅日記 

2月26日(月)  晴  養老鉄道東赤坂駅からJR柏原駅

前回の続きです。赤坂宿から垂井宿、関が原宿を経て柏原宿まで歩きました。
西へ向って歩いたのですが、段々と標高が上がっていきました。岐阜と滋賀県境近くの今須峠には残雪が有りました。こんな場所に峠があるのを知りませんでした。それに歩いていて、何箇所も一里塚を目にしました。石柱が有るだけのもの。また、こんもりとした塚が残っているものも有りました。色々な形の一里塚が有ることを知りました。

沿道で何箇所も蝋梅の花を見ました。私のところの蝋梅は、既に終わっていますが、今日見た蝋梅は見ごろを迎えていました。この辺り、開花が遅い地域なのだと思いました。自分のところの蝋梅は終わったがこの辺りは見ごろを迎えている。春の訪れが遅い地域。桜の開花も遅いのでしょう。季節の移ろいの違いを感じました。それに、今日。歩いていて伊吹山が段々と近づき、山容を変えて行きました。
こんな事も街道歩きの面白さだと思いました。


今回、歩いたコース地図です。
岐阜県十七宿 散策ガイド。「日本歴史街道」中山道連合から出典しました。

養老鉄道東赤坂駅  ― 青木の一里塚跡  ― 赤坂港跡  ― 赤坂宿脇本陣跡 ― 
小篠竹の塚 ― 青野の一里塚跡 ― 追分の道標 ― 垂井宿 ― 垂井の一里塚 ― 
野上の松並木  ― 関が原駅前
 ― 西首塚  ― 不破の関跡  ― 山中高札場跡 ―
 常盤御前の墓 ― 今須峠 ― 今須の一里塚
 ― 今須の本陣跡 ― 
近江美濃国境碑 ― 楓並木 ― 柏原宿 ― JR柏原駅 



養老鉄道揖斐線の車内から見えた伊吹山です。

養老鉄道東赤坂駅

(08:53)
大垣駅から養老鉄道に乗り、東赤坂駅に着きました。
この電車。3両編成でしたが、車内はガラガラでした。
後部にサイクリングトレインのマークが見えます。
車内に自転車の持ち込みOK。
乗客の利便を図っています。




(09:01)
東赤坂駅の南側に県道230号線が東西に伸びています。
駅から西へ歩きだし、今日のウオーキングの始まりです。
伊吹山が見えますが、電柱が邪魔です。



青木の一里塚跡

民家の横に一里塚の石柱が見えました。
青木の一里塚です。地図には池尻一里塚となっています。


赤坂港跡

(09:18)
赤坂宿に入ってきました。
かつては赤坂港として水運に活用された場所です。
白い建物は赤坂港会館で、岐阜県警察の屯所を復原したものです。


赤坂宿脇本陣跡

赤坂宿の脇本陣跡で公園になっているところです。
左奥に小さく見えるのは所郁太郎のブロンズ像です。
所郁太郎は幕末の志士です。この赤坂宿に生誕地と墓もありました。




公園の横に設置してあった赤坂宿の地図です。




(09:34)
中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた道標です。
左に進むと谷汲に向かいます。地図には谷汲巡礼街道と載っていました。
華厳寺への参拝者が通った街道です。






赤坂宿の街の中です。
緩い登り坂で西に向かって行きます。




大垣市青墓から見える伊吹山です。


小篠竹の塚

(10:08)
青墓地内の小篠竹の塚。
圓願寺・芦竹庵の関日が立っていました。
「青墓の芦竹庵」の説明板です。義経がこの地を訪れた際に杖にしてきた芦を地にさしておいたところ、後になって大地に根を張ったと書いて有りました。






(10:10)
青墓のハズレの場所に中山道の標柱が立っていました。
下に青墓宿と書かれています。
青墓は赤坂宿と垂井宿の間の場所です。
ここも、間(アイ)の宿なのでしょう。





(10:22)
前方から男性が歩いてきます。
私と同じ中山道を歩いている人でした。
言葉を交わしました。
東海道を歩き終えたと言っていました。
今日は垂井から歩き始めて、岐阜まで行くと話しました。一期一会の出合いでした。




青野の一里塚跡

(10:24)
青野ケ原一里塚跡。
男性とすれ違って、直ぐの場所に有りました。



追分の道標

(10:55)
垂井の追分。中山道と美濃路の分岐点です。
道標が設置して有ります。





垂井追分道標。
中山道を東に向かって歩いて来た旅人は、東海道を目指す時、ここから美濃路を辿りました。
にぎわったと書かれています。





(10:58)
垂井の相川に架かる相川橋の上からです。
遠くに伊吹山が見えます。
川の両岸。堤防に桜が植わっていて、桜並木となっています。
もう、1ヶ月もすると桜が咲き始めます。
それに、川にロープを張り何匹も鯉のぼりを泳がせます。
残雪の伊吹山をバックに鯉のぼりが泳ぐと言う好いロケーションが目に出来ます。


垂井宿

垂井宿の中に入ってきました。
この先に見える旅館が亀丸屋と言う旅籠です。
この場所。街道筋なのですが、枡形でクランク状になっています。






(11:05)
垂井宿の中心部。
街道を撮影しようとしたら、車が出て来てしまいました。
西に向かって緩い坂になっています。






中山道と東海道線が交差する場所です。
勾配になっていますが、電車はヘッチャラで走って行きます。



垂井の一里塚

(11:26)
コンモリとした塚で往時を想像させる塚です。
塚は道を挟んで、2つの塚でワンセットですが、反対側のモノは取り壊されています。
この左手に茶所が有りました。
説明板には「日守の茶所」。
弘法の札所で、俳句の句詠場所にもなっていたとあります。





こちらは塚の石柱と垂井一里塚の説明です。





民家の庭に咲いていたロウバイです。
歩いていて、このようなロウバイを何本も見かけました。
私の住むあたりではロウバイは終わっていますが、この辺りでは、今花の時期を迎えています。
春の訪れの遅い地域だと思いました。
それだけ標高が高いのでしょう。


野上の松並木

(11:53)
野上の松並木に差し掛かりました。
米原行きの普通列車が軽快に走って行きます。




今日のKオジサンの後ろ姿です。
この先。街道に松が植わっており、松並木になっています。






街道沿いでストラップの無人販売が有りました。
好みのストラップを選び、竹筒に100円を入れました。
感じとして、季節の野菜を無人販売する場所のようにも思えました。
壁に関ケ原のポスターが貼ってあります。
この家屋が古い「イエ」だと説明していました。それにこの家屋の反対側の家ですが、東海道線を走る蒸気機関車の煙突からの火の粉で火事になってしまったという説明も有りました。当時は茅葺きの家屋であり、東海道線は関ケ原の勾配を、黒煙を上げて登ってきます。そんな状況から火事になってしまったのでしょう。
こんな事は歩いてみて知る事が出来る事柄です。





(12:13)
右の土手は東海道線の下り線です。
松が並木になっています。それに、緩い勾配です。






中山道が国道21号線と一緒になります。
国道が関ケ原の町を貫いています。
タマタマ、車の往来が無かっただけで、多くの車が走っていました。
右側に4本のポールが建っている場所が見えます。若宮八幡社です。





(12:20)
若宮八幡社で一休み。
ここで昼食をとりました。




関が原駅前

(12:44)
国道から見える関ヶ原駅です。
弧線橋が見えます。






高木精肉店の看板が目に留まりました。
コロッケが50円。
飛騨牛コロッケは100円でして、こちらの方を選びました。
店内でキョロキョロしなかったので判らなかったのですが、「サソリ」を売っているのを後から気付きました。




西首塚

西首塚に来ました。
説明板には戦で勝利した家康が夥しい数の遺体の処理を命じたと有ります。
それに「馬頭観音」は旅人の安全を願って設置されたものであり、「千手観音」は皆の願いに手を差し伸べると書いて有りました。美江寺宿で千手観音を目にしましたが、1つ賢くなりました。





(13:05)
街道が国道21号線から分かれました。
車の走行が少なく、街道らしさが有ります。



山中高札場跡

関ケ原宿と今須宿の間に山中と言う集落が有ります。
そこで見かけたのが高札場跡の表示です。
間(アイ)の宿(シュ)ク山中と言う文字が見えます。この山中も「あいのしゅく」だったのでしょう。



常盤御前のお墓に寄りました。





頭の隅に有った「常盤御前」と言う言葉。
義経の母だったのですね。



今須峠

(13:55)
今須峠に差し掛かりました。
日陰に雪が残っています。
雪が有ると言う事は、雪が降り易い場所であり、寒くて解けないのでしょう。





国道21号線と東海道線の下り列車。
道路の左に木が繁っています。
その左りの家々、今須地区です。



今須の一里塚

(14:01)
今須の一里塚は国道21号沿いで、今須地区の東端にあります。




(14:06)
今須宿に入ってきました。
この辺りには本陣と脇本陣跡がありました。



近江美濃国境碑

(14:29)
美濃国と近江国の境の石柱です。
歩いて来て、いよいよ滋賀県に入りました。
米原市に入りましたが、この地区は長久寺と言う地区で、寝物語の里と言われています。



楓並木

葉が落ちてしまったモミジ。
街道沿いにモミジが植えられ、並木になっています。





(14:43)
踏み切りを渡って西に進むと柏原宿に入って行きます。



柏原宿

柏原宿に入ってきました。
宿場らしい雰囲気が有ります。




JR柏原駅 

(14:56)
柏原駅に到着です。
列車は30分に1本の割合で有ります。
次の列車は15時14分です。





プラットホームから見える伊吹山です。
はじめはこの山を東から見ていましたが、南から眺める場所まで歩いてきました。





(15:13)
大垣行きの普通列車が入線してきました。





左は東赤坂駅で、右は柏原駅に着いた時のものです。
いきいき情報と通常情報はどう違うのだろう。いきいきの方が感度が鈍いです。
今日の歩数が36,824歩で28.4キロです。妥当な数字でしよう。




関ケ原は歴史の宝庫
関ケ原が合戦場となったことは有名ですが、壬申の乱の舞台となったことは余り知られていません。不破の関跡の近くに大海人皇子の兜石や沓脱石が有りました。この場所が壬申の乱の舞台でも有ったと言う事を知りました。
また、歩く途中に常盤御前の墓があるのも知りました。
発見が面白いです。

間(アイ)の宿(シュ)ク
赤坂宿を出てから伊吹山の見える場所で中山道の標柱を目にしました。根元に青墓宿と書かれていました。また、関が原を出てから途中で間(アイ)の宿(シュ)ク山中と言う標柱を目にしました。六十九宿は正式な宿場なのでしょうが、これらの処も宿場の役目を果たしていたのでしょう。各務原の新加納が間(アイ)の宿だと言う事は知っていましたが、間(アイ)の宿が各所にも有ったようです。こんな事も発見です。発見する事が面白いと思いました。

今回は柏原で終わりにしました。体調的には、まだ歩ける感じがしましたが、次の宿場となると醒ヶ井です。そこまでは遠いので、柏原で終わりとしました。

今日の経費
JR那加駅からJR大垣駅まで  410円
JR大垣駅から東赤坂駅まで 260円
パン   95円
カップ麺 108円
コロッケ  108円
JR柏原駅からJR那加駅まで 760円
          合 計    1,741円


kオジサンの中山道旅日記  その4  
3月7日(水) 晴 JR柏原駅から近江鉄道豊郷駅   へ 

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kオジサンの中山道旅日記 その2 JR岐阜駅から養老鉄道 東赤坂駅 まで

2018-02-21 23:34:48 | Kオジサンの中山道旅日記 

2月21日(水)   曇りのち晴れ   JR岐阜駅から養老鉄道 東赤坂駅まで

今日は中山道を歩き始めて2回目です。
第2回目はJR岐阜駅を出発して鏡島の乙津寺を目指しました。今日は21日で弘法さんの日です。どうせ中山道を歩くのなら弘法さんの日が好いと決めていたのです。それに小紅の渡しで渡ってみたいと思っていました。
計画では樽見鉄道の美江寺駅まで歩くか、養老鉄道の東赤坂駅まで歩くかと考えました。今日の街道歩きを赤坂宿で終えたいと思いましたので、本当は美濃赤坂線のJR美濃赤坂駅から帰れたらと考えたのです。でも、列車の時刻が遅すぎましたので、養老鉄道の東赤坂駅で終了にしました。
美濃赤坂駅を発車する列車の時刻は13時12分の次は16時07分でして、丁度良い時間の列車が無かったのです。


今回、歩いたコース地図です。
岐阜県十七宿 散策ガイド。「日本歴史街道」中山道連合から出典しました。

JR岐阜駅前 ― 鏡島 多羅里八幡神社 ― 鏡島 乙津寺 ― 小紅の渡し ― 
河渡宿 馬頭観音 ― 
本田地蔵堂 ― 美江寺宿 ― 千手観音堂 ― 小簾紅園 ― 
美濃路への道標 ― 養老鉄道東赤坂駅


JR岐阜駅前

(08:41)
JR岐阜駅前を真っ直ぐ南へ来た場所で、月曜日に離脱した場所です。
ここから、街道歩きの再開します。




駅前の道から西に歩いてきました。
街道らしい感じのする道路です。
県道を横切って、更に西へ進みます。
ここまで中山道を歩いて来たと言う感じはしたのですが、交差点から先が中山道なのか判り難かったのです。
この交差点辺りに街道の表示が有ればと思いました。




東海道線、高架橋の南側に有った指示標識。
フェンスが除けてあって、フェンスの後ろ側となっていました。




こちらは高架の北側。
どちらに向かっていけば好いのか、判り難い箇所です。
このような場所に指示標識が設置してあって頼りになります。


鏡島(カガシマ)多羅里八幡神社

(09:23)
鏡島多羅里八幡神社に来ました。
梅の幼木。
正面に向かって左右にあったのですが、左のは開花が遅く、右のは咲いていました。




鏡島多羅里八幡神社に有った中山道案内です。
餅屋が有ったと書いて有ります。
どんな餅だったのでしょう。




鏡島地区に入ってきました。
この辺りも旧街道らしく、曲がりくねった道です。




ここにも中山道の指示標識が設置して有ります。
今までと同じ「本荘まちづくり協議会」のものと思ったのですが、ここのは「鏡島まちづくり協議会」のモノでした。論田川改修記念碑の足元に有りました。この記念碑を白い部分がガードレールで保護していました。ガードレールには川の美しさを守ろうとかのプレートが着けて有りました。この「中山道」もガードレールに付ければ通行人から、良く見えると思ったのです。ガードレールを管理するところから許可を取るのが面倒で、取り付けなかったのでしょうか。


鏡島 乙津寺(オッシンジ)

(09:38)
乙津寺の門前まで来ました。
中山道から外れるのですが、ここで乙津寺に寄ってみます。
それに、乙津寺の裏側に小紅の渡しがあります。
渡し舟に乗ろうと思っていましたし、鏡島弘法を訪ねてみたいと思っていたのです。



門前の道路に露店が並んでいます。
その中の1ツ。
たい焼きの店が目に留まりました。
女性たちの列に並びました。




店主の許しを得て撮影しました。
鉄製の金型に小麦粉を流しこみ、アンコを入れ。そして焼きます。
私の後ろには中国人の若い男性、二人が並びました。




乙津寺への沿道です。
先に見える屋根が乙津寺の門です。




乙津寺の境内に来ました。
境内に、ポツリポツリと露店が並んでいますが、歯抜け状態のように見えました。
想像ですが、最盛期には、もっと沢山の店が並んでいたのではと思えます。
寺に来る人が減ったのか、店を続けていく人が人が減ったのだろうか。
最盛期、寺へお参りに来た善男善女で賑わったのではないかと想像しました。



中国人グループの参拝です。
若い男女です。
観光客なのか、研修生なのか、中国人がグループで参拝に来ていました。
日本人女性が付き添っていて、線香の煙を患部に当てると・・・・・。と教えていました。
それに、このお線香の場所に来る前に、手洗い場所で、お参り前に手を洗って清めるのだと教えていました。





(09:57)
鏡島弘法の本殿の前です。
ここでお参りしました。
お参りの前に大念珠を引っ張りましたら、ガラガラと音がしました。
本殿に進み出る前。前の方でガラガラと音が聞こえました。
この音だったのだと判りました。

小紅の渡し

小紅の渡しは鏡島弘法の北側に有り、長良川を渡ります。
鏡島弘法の社務所で、小紅の渡しの方向に行き方を聞きました。そして、向かうコースを教えてくれたのですが、後から女性が私を追いかけて来てくれ、更に行き方を補足説明してくれました。
ザックを背負った姿の私。
迷ってはいけないと、念を押してくれたのでした。
細やかな心遣いをして貰えたことに感謝します。



乙津寺から小紅の渡しに向かうには、長良川の堤防に上がらなくてはなりません。
階段を上がるのですが、階段の縦の部分に「小紅の渡し↑」のプレートが何枚も貼り付けてあり、この階段を上がれば好いのだと、良く判りました。


対岸から渡し舟が来ます。
今日は鏡島弘法の縁日の日です。
今日でなかったら、こんなに簡単に撮影は出来なかったかも知れません。




(10:10)
舟がこちらに来て、着岸します。
皆さん、救命胴衣を着けています。





渡し舟に乗船しました。
言われなかったのですが、備え付けの救命胴衣を装着しました。
舟に船外機が着いていましたが、静かなエンジン音でした。
川面を渡る風は冷たいですが、アッと言う間の乗船時間でした。

清流長良川。
そして、遠くに金華山が見えます。



(10:14)
一日市場側に着きました。
エンジンを操作していたのは女性だったのです。
夫婦船頭さんかと聞きましたら、違うと言っていました。彼女は、こんなこと聞かれたのは初めてだと言っていました。
夫婦で渡し舟を維持しているとすると、サマになると思ったのです。

この小紅の渡しは県道なのです。
事前にホームページで調べたら、月曜がお休みの日となっていました。




小紅の渡しを後にします。
二人の船頭さんが階段を下りて行きます。
私が乗ってきて、すぐのタイミングでした。
堤防上に小屋があり、対岸に人が来ないか気をつけて見ていたのでしょう。
そして、人が来たのを見るや否や、階段を降りて対岸に向かいました。


河渡宿 馬頭観音

(10:56)
小紅の渡から堤防を歩き、河渡橋を過ぎて、ここに来ました。
ここは河渡宿 馬頭観音です。

この先の中山道。
どちらの方向に向かえば良いのか、判り難かったです。


馬場の道標

交差点の金網の向こう。神仏敬信の石碑が有ります。
この場所。中山道の標識が立っていまして、瑞穂市馬場前畑町と表示しています。
石碑の足元の左面には、左 本田・美江寺ヲ経テ京都二至ル。右 河渡・加納ヲ経テ名古屋二至ルと有ります。
正面側には右高屋・北方ヲ経テ谷汲に至ルと有ります。
石碑が神仏敬信となっていても、道標の役目を務めています。かつては重要な交差点だったのでしょう。
注意深く見ないと、見落としてしまいます。「馬場の道標」とでも名付けて文化財の標柱が有れば見落とさないのではと思いました。
この場所。「馬場のお地蔵さん」と言われる所のようです。でも、表示が無かったように思えます。


本田 地蔵堂

(11:38)
本田の地蔵堂に来ました。
延命地蔵尊が祀ってあります。
お堂の中には石のお地蔵サンが赤い帽子を被った姿で座っていました。





本田松原の交差点で反対方向から来る男性が居ました。
私は右側を歩き、彼は反対側を歩いていました。
信号が変わって、東側に歩いて来た時、「中山道を歩いているのですか」と声を掛けるとニコッと笑顔で、そうだと応えてくれました。
ただ、すれ違っただけなのですが、同志と出会った。
そんな気がしました。



街道を歩いていて、五六川に来ました。
美江寺宿が日本橋から数えて56番目の宿場であり、五六川と名付けられたのだそうです。
曇っていますが、遠くに伊吹山が見えます。



美江寺宿

美江寺宿の入口にまで来ました。
路傍に石の道標が有ります。
左 北方谷汲に至ルと刻まれています。




(12:09)
美江寺宿です。
宿場の東の方には、一里塚の石碑が有りました。





昼食をとるため、美江寺観音に寄りました。
境内に高札場が、高札の一部を取り出してみました。
駄賃、人足賃の定めです。
この他に切支丹を禁止するものなどがありました。





(12:43)
昼食を終え、美江寺観音の境内から出発します。
この場所。
美江神社と美江寺観音が同じ境内となっていました。
ここから南へ歩きます。


千手観音堂

美江寺宿を出てから千手観音のところに来ました。
この観音堂に石の千手観音が安置されていました。





千手観音の辺りから一緒に歩いた男性です。
男性は家の近くの散歩のようでした。
男性は中山道や東海道を歩いたと話していました。
それに奈良の柳生街道や山の辺の道も歩いたと言っていました。




男性と別れて街道を西南に歩きました。
犀川です。
カモが沢山居ました。
人の気配で動き出しました。




(13:03)
大月多目的広場です。
岐阜県下の中山道の17宿石柱が並んでいます。


小簾紅園

(13:39)
小簾紅園(オズコウエン)の一角に皇女和宮の降嫁について、説明板が設置してありました。




(13:43)
小簾紅園を出て、数百メーター来たところで大型観光バスとすれ違いました。
フロントガラスのステッカーに「中山道を歩く 第30回 美江寺宿から今須宿」となっていました。クラブツーリズムのツアーです。

検索しましたら、こんなのが出ました。
https://www.club-t.com/theme/sports/aruku/theme/rekishi/kaido/nakasendo.htm
日本橋を出て、何回も旅を重ねます。はじめのうちは日帰りで4,000円ですが、距離が遠くなると6,000円になります。そして12,000円に。やがて1泊の行程となり34,000円と、高くなっていきます。
今回の美江寺宿から今須宿へは2泊3日で79,800円でした。第31回以降は84,800円となっています。
全体で33回となっていて、回を重ねて歩きます。それで期間が3年近くの歳月になります。総金額も100万円に近いのではないでしょうか。
ヒマと金と体力が無いと参加できないツアーです。催行人員が18名以上となっています。近々催行するコースではキャンセル待ちとなっている状況です。
人気が有るのですネ。




歩いていると後ろから中山道ツアーの人たちがやってきました。
この橋。
平野井川に架かる橋で、神戸町と大垣市の境界の橋となっています。



美濃路への道標

(13:56)
堤防に石の道標が立てられています。
左 木曽路。右 すのまた宿江 と刻まれています。
墨俣宿は美濃路の宿場ですので、ここから美濃路を経て東海道に向かえます。

このツアーの一部の人と言葉を交わしました。
東京の日本橋をスタートして回を重ねて来ていると話していました。
その人は埼玉からの参加だと言っていました。
東京駅か、何処かが集合場所だったのでしよう。
関東一円から集まっているのでしよう。
今回は新幹線で来て美江寺宿から今須宿までを歩き、新幹線で戻ります。
別の回の時には、岐阜城や大垣城に寄っています。
中山道をフルに歩いているのではないと思います。



思い思いに歩く人たち。
私は赤坂宿に向かいますので、分かれました。




中山道に設置してある指示標識です。
坂下町。赤花町。三津屋町と大垣市の北部を歩きます。
赤坂宿を目指して歩きますが、赤坂宿までの距離が段々近付いて行きます。





(14:13)
今日のKオジサンの後ろ姿です。





(14:21)
三津屋町の辺り。
真っ直ぐでなく、街道らしさの有る道です。




(14:46)
養老鉄道の東赤坂駅に到着しました。
列車は52分発となっていますので、間に合いました。




歩いた後の歩数から歩く前の歩数を引くと、26,455歩となりますが、感度が鈍い歩数です。
歩数計の歩数では34,849歩で28.1kmとなっていました。
1割引いて31,364歩25kmは歩いているでしよう。




(14:53)
大垣行きの列車が入ってきました。





初めての鏡島弘法
鏡島弘法へ初めて行きました。お年寄りが参拝に来ていました。境内に露店が店を広げていましたが、かつてはもっと盛況ではなかったのではなかろうかと想像しました。
巣鴨の刺抜き地蔵には及ばないにせよ、凋落だけは食い止めて貰いたいものだと思いました。

道標が面白い
19日に歩いた時、岐阜の安良町の道標に「岐阜、谷汲」と刻まれていました。そして、今日の馬場の道標。美江寺宿の道標にも谷汲の文字が刻まれていました。
今のような交通の便に恵まれていない時代。西国三十三箇寺の巡礼で、満願で華厳寺に向かった人々。そのような人たちが頼りにしたのが道標なのでしよう。
華厳寺の山門の辺りに、今は食事が出来る店が並んでいますが、かつては巡礼者を泊めたのでしよう。想像が膨らみます。

クラブツーリズムのバスツアー。
途中、バスツアーの一行と出合いました。そして東京から京都を目指す、ツアーがあることを知りました。出会わなかったら、こんなツアーが有るのを知らなかったでしょう。



今日の経費
JR那加駅からJR岐阜駅まで 210円
パン   200円
カップ麺 108円
鯛焼   120円
ドラ焼と最中   550円
東赤坂駅からJR大垣駅   260円
JR大垣駅からJR那加駅   410円
          合 計    1,858円


kオジサンの中山道旅日記  その3  
2月26日(月)  晴  養老鉄道東赤坂駅からJR柏原駅  へ

 

 

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kオジサンの中山道旅日記 その1 JR那加駅からJR岐阜駅 まで

2018-02-19 23:10:50 | Kオジサンの中山道旅日記 

2月19日(月)   晴   JR那加駅からJR岐阜駅まで

はじめに
私が住む各務原市を旧中山道が東西に貫いています。この旧街道を歩いてみようと言う気が起きました。キッカケは、ある女性が本を片手に中山道を歩いていた場面に遭遇したからです。中山道は東京の日本橋を起点に京都まで500キロ余りの道のりです。完全踏破できるか否か判りませんが、手始めに西へ向かってみようと、歩くのを開始しました。

美江寺宿千躰寺にて
 
2017年11月29日に一宮友歩会の下下見で美江寺宿を訪ね、千躰寺に寄った時の事です。

寺で休んでいると、ご婦人が寺の前を通られました。そして、「中山道は、こちらに行けば良いですか」と女性が道を尋ねたのです。この女性。中山道を歩いている人でした。
中山道を日本橋から繋ぎ繋ぎで歩いて来たのだそうでした。
いわゆる街道歩きのオバチャンでした。中山道で碓氷峠、和田峠、鳥居峠と歩いて来たそうな。私も木曽路を歩いた事が有りますので、話が盛り上がりました。妻籠宿から馬籠宿に掛けては日本的な雰囲気が味わえる街道です。外国人が多かったでしょうと話し掛けると、外国人ばかりで日本人には、ほとんど合わなかったと話しました。日本人より、外国人の方がそこの良さを知っています。
今日は岐阜から歩いて来て、赤坂宿に向かう。出来れば垂井宿まで行きたいと言っていました。繋ぎ繋ぎとは言え、良く歩くなと感心します。彼女。静岡県の人でして、東海道は踏破したのだそうです。それで次に中山道を歩き始めたと話していました。
僅か、数分の会話。一期一会の出合でした。




参考書

参考にした書籍です。
学研の美濃路をゆく 落合宿~今須宿を参考にしました。




今回、歩いたコース地図です。
岐阜県十七宿 散策ガイド。「日本歴史街道」中山道連合から出典しました。

JR那加駅前 ― 新加納間(アイ)の宿 ― 新加納の一里塚 ― 坂井農園 ― 手力雄神社
 ― 切通陣屋跡 ― 細畑の一里塚
 ― 領下の地蔵堂の道標 ― 関取鏡岩の碑 ― 
南廣江の道標  ― 加納宿脇本陣跡 ― JR岐阜駅前

スタート  JR那加駅前

(9:52)
我家に一番近い駅がJR高山本線の那加駅です。
那加駅の駅前の道が南に伸びています。その道と中山道の接点となる場所です。
ここをスタート地点にして、中山道の旅をはじめました。


新加納間(アイ)の宿

新加納間(アイ)の宿の石碑。
新加納の入口の場所に、石碑が建てられていました。





街道らしさを感じる道。
曲がりくねっています。


新加納間(アイ)の宿

鵜沼宿と加納宿の間が長く、その間に新加納が有り、旅籠も有ったりして旅人が泊まる事が出来ました。中山道69次の宿場の扱いでは有りませんが、新加納は間(アイ)の宿と呼ばれています。
前方の家屋。指物屋なのです。
かつては、この場所に火の見ヤグラが有りましたが、撤去されてしまいました。 右の額縁の絵は、その当時を表した絵です。確か、ここには防火用水も有りました。 火の見ヤグラが撤去され、新加納の解説板が設置されました。




火の見櫓の撤去された場所。
ポケットパーク的な処となっています。
そして解説板が設けられました。絵図で判るようにこの場所は桝形でしたが、交通の利便を良くするためショートカットの道が設けられました。


新加納の一里塚

この場所には対の一里塚の石碑が建てられました。





中山道が桝形となっていて、かつては高札場となっていた場所です。
ここ。今尾医院は旗本の坪内家の御殿医を努めていました。




今尾医院の塀に掲げてある立場の説明板です。




今日のKオジサンの後ろ姿です。


坂井農園

新加納の一番西に来ました。
ここにワインを販売するところが有りました。
前々からこの店でワインを売っているのは知っていましたが、丁度、店が開いていたのです。




ホワイトボードにワインありますと書かれています。
スイッチ!は東海テレビの朝の番組です。取材でここに訪れたのでしょう。
右は買って来たボトルです。SAKAIですが、kが反射して写っていません。
1本。1,000円でした。




店内に入らせて貰い、ワインの樽を写させてもらいました。
ボトルのワインを買ったのですが、名を聞かれました。
税務署に報告しなければならないのだと話していました。
酒税の関係だそうです。




坂井農園の裏手。
南側にブドウ畑が広がっています。

各務原の地ワインです。
もともと、ここでワインを作っていることは知っていましたが、たまたま前を通りかかって買う事が出来ました。




(10:32)
高山本線の普通列車。岐阜行きで西に向かって走ります。
左の高架橋は東海北陸自動車道です。
中山道は、この高架を過ぎると岐阜市に入ります。





長森の高田に入ってきました。
旧街道らしい曲がりくねった道です。





中山道を歩いていて、男性に声を掛けられました。
私の姿を見てでした。
チョッと待って。
岐阜の方に行くのなら、資料をあげると言われたのです。
数分待って、男性がウチから、資料を携えて出てきました。
右の加納宿の名所案内は男性が執筆したものだそうでした。
ザックを背負った私の姿。西に向かっていました。
それで、声を掛けてもらえた事は嬉しい事でした。
加納宿内は桝形の道となっており、地図が役に立ちました。


手力雄神社

(11:01)
中山道からは外れるのですが、蔵前の手力雄神社に寄りました。
この神社。毎年4月の第二土曜日に火祭りが行われます。
材木の高い先から流れ落ちる滝花火。そこにかざり神輿が入って「火」の禊ぎを受けます。
勇壮な男の祭りです。
この火祭。
岐阜県の無形民俗文化財に指定されています。
https://www.youtube.com/watch?v=cUV7JFDcCk0




街道沿いの店。
かつては米だけを商っていたような店なのでしょう。
今は米だけでなく、野菜や花。果物も店先に並べていました。
並んでいたミカン。
8個で300円でしたので、買ってきました。
右の電柱。カラスが巣を掛けていまして、下に木片が落ちてきていました。
おカミさんが木片を拾っていたのですが、動物相手で困っていました。
目の前でおカミサンが木片を拾うのを見かけましたが、アップする段になって電柱にカラス・・・・とあるのに気がつきました。





手力雄神社の石の鳥居です。
明治四十二年八月建立と刻まれています。
この場所。
中山道は右から来て西へ向かっていくという桝形になっています。
この鳥居の左側に兵藤歯科と言う歯医者が有ります。
間違ってい無かったら、この歯医者。水泳の前畑さんのお宅です。
あのオリンピックで「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、・・・・」で話題になったお方。
前畑さんが嫁いで来た所です。
それから、鳥居右側の足元に道標が有るのを見かけました。




鳥居の足元の道標です。
車が当たったのでしょう。
傾いています。
桝形ですので、このコーナーを左に向かいます。



切通陣屋跡

(11:23)
中山道から少し入ったところに切通陣屋跡がありました。
観音堂が有り、石碑が設置して有ります。





切通陣屋跡の説明板です。



細畑の一里塚

南側へ入り、街道側を写しました。
街道を挟み、南側と北側に塚が築かれています。
今でも残っており、珍しい一里塚です。
枝が切り払われており、見落としてしまいました。




細畑の一里塚の説明板です。
設置した年号が29年12月で設置されたばかりです。


領下の地蔵堂の道標

領下の地蔵堂です。
右に進むと岐阜方面。
斜め左に進むと笠松、そして名古屋方面です。
幟旗に南無延命地蔵菩薩と描かれています。
そして、脇に道標が設置して有ります。
左側は一番上が指の矢印で木曽路 上有知 郡上と刻まれています。上有知は美濃市の方です。
右は指の矢印。そして伊勢 名古屋ちかみちと刻まれています。




領下地内にきました。
東海道線が高架となっていて、上を列車が通過して行きます。



関取鏡岩の碑

(12:04)
この辺りから加納宿となりす。
鏡岩と言う相撲取りの話です。
それに道標が有りました。






荒田川の橋の横。
ポケットパークのような場所に成っていて、この石碑が有りました。
加納宿の地図が描かれています。




安良町の道標です。
右に向かうと岐阜の街の中心部に向かいます。
それに、谷汲にも。
反対側は左 西京。そして明治十八年の年号が刻まれていました。
まだ、鉄道が開通していない時代です。
歩く事が交通手段でした。





(12:19)
加納の街の中心部に入って来ました。
岐阜駅北側の建物が見えます。





街道沿いの道標に加納宿の道順が描かれています。
枡形で曲がった道になっています。(今は、真っ直ぐに行ける道が付いています。)



南広江の道標

桝形の場所で道標が設けて有ります。





加納宿高札場跡の表示がありました。




加納城大手門跡の石碑。
加納城はこの先に有ります。
先に進むと城跡で、街道は右に折れる桝形になっています。





加納桜通で見た加納宿の浮世絵。
足元の、石に貼り付けて設置してありました。




(12:34)
西川精肉店です。
店からラードで揚げ物をしている匂いが漂ってきました。
あのラード、独特の匂いです。




匂いに釣られて店の中へ。
コロッケやとんかつを客の要望に応じて揚げてくれるのでした。
注文したのは串カツとハムカツ。2本と2枚づつです。
持ち帰り、今夜のテーブルの上にあがりました。
揚げてくれるのを待ちましたが、客が来たのです。予め電話で頼んでおいた物を取りに来たのでした。




歩き始める前が935歩で終了した時が12,146で、歩いた歩数が11,211となります。
3時間近い歩行でした。
時間には間違いが無いですが、歩数が少ないように感じます。
体の動きに反応してカウントする訳ですが、感度が鈍過ぎるのかも知れません。
歩数は18,920歩で15.1kmとなっています。
この数字は朝から晩までの数字です。
1割カットしても17,000歩。14km程は歩いているでしょう。



JR岐阜駅前

(12:51)
岐阜駅の南側です。
この後、岐阜駅の中で昼食を取り、列車に乗ります。


感想
今日は中山道を歩きだした第一歩の日でした。
市内にワインを製造するところがあるのを知っていましたが、寄ってワインを買ってくる事が出来ました。
たまたま、通りがかって、男性から資料を頂きました。ご親切が有り難いと思いました。
ミカンを買ったり串カツを買ったりしました。こう言う事が出来るのも、街道歩きの面白さです。
今日は歩き出したばかりの日でしたが、色々と体験できました。
それに、地蔵堂などを見ながら歩くのも面白いです。


今日の経費
JR岐阜駅からJR那加駅まで 210円
ワイン  1,000円
ミカン  300円
串カツ ハムカツ   302円
吉野家豚丼   500円
          合 計    2,312円


kオジサンの中山道旅日記  その2 
2月21日(水)   曇りのち晴れ   JR岐阜駅から養老鉄道 東赤坂駅まで  へ


 

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