二草庵摘録

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ゴプセック・毬打つ猫の店   オノレ・ド・バルザック

2010年01月07日 | 小説(海外)
「ゴリオ」につづいて「毬打つ猫の店」を読みおえたので、感想をまとめておこう。

本書は「ゴプセック」「毬打つ猫の店」の二編が収められ、「ゴプセック」のほうは、数週間まえに、読んであった。

「ゴプセック」
高利貸しゴプセックは、バルザックが生み出した、もっとも酷烈かつダークなキャラクターのひとりだろう。読みおえてから、この男が頭の隅に乗り移ってきたかのような不気味さを感じた。金銭に対する非情な思想。すべては、金に換算することができるのである。健康も、愛情も、神も、いのちも。人間どもよ、金に跪くのだ! これが、おまえたちの支配者なのだから。

バルザックは持ち前の浪費癖がたたって、生涯債権者に追いまくられ、逃げ通した男であった。
本書は登場人物の一人であるレストー伯爵夫人があの「ゴリオ爺さん」の娘であることからわかるように、人物再登場法という方法により再構成された結果、人間喜劇の中心である「ゴリオ爺さん」とかなり密接な関係を持つにいたった作品である。
巻末に置かれた訳者芳川泰久さんの解説がたいへん充実していて、本書を読み解くヒントをあたえてくれる。バルザックは登場人物だけでなく、作品間に金銭を流し込むことで、九十数編におよぶ各作品に有機的関連を発生させ、ブルジョア資本主義的世界観に裏打ちされた冷徹なバルザック的世界を現出させている、と。

これこそ、われわれを取り巻いている世界そのものだ、という印象は、そこからくる。彼は草創期にあった初期資本主義社会と、そこに浮き沈みする幾多の人間像を、容赦なくえぐりとってみせた小説家である。
慄然たる読後感を残す、傑作中編。フランス作家ばかりでなく、後続のロシア作家たちも、バルザックからじつに大きな影響をこうむっているのは否定しようがないだろう。しかも、いま読んでおもしろいこと請け合いである。

「毬打つ猫の店」
こちらは、うっかり読んでいると、フランス流の恋愛心理小説にしか見えない。しかし、本書こそ、「人間喜劇」の第一巻の巻頭に位置づけられた作品で、作品の最初の方では人間喜劇を貫く方法が示されている。
すぐれて19世紀的というか、キュヴィエの化石、古生物学、シャンポリオンのヒエログリフ解読のメタファーを借りて「化石=断片からその全体像を過去に向けて復元する古生物学的な知」を武器として、個々の作品=断片から人間喜劇と言う全体を構築するという彼の小説技法が、作品の出だし部分に掲げれていることで有名。
性格も容姿も、年齢も違う老ラシャ商の娘、ヴィルジー、オーギュスチーヌ姉妹の、結婚後の運命の変転をトレースしながら、実業家(商売人)vs芸術家(画家)を対比して描いている。いったい、人間にとって、幸せとはなんであるのか?
一方の極に娘たちの父親ギョームがいるとすれば、もう一方の極には、カリリャーノ公爵夫人によって代表されるような、気まぐれな才能と虚飾の世界が対比されている。
このコントラストによって二色に染め分けられた世界が生み出す相克を生きるのが、次女のオーギュスチーヌ。ストーリーが展開するに従って、彼女に焦点は絞られていく。
職業や年齢や性別、能力、履歴等によって、人間はそれぞれの価値観のなかに生きている。そういった価値観がぶつかりあったり、ねじれたり、勝利や敗北をおさめたりすることによって生じるドラマ。
本作は、名短編というには欠点もあるが、バルザックの力量のすごみを感じさせるという意味では、成功作といってよい。
恋愛を遊技(ゲーム)として描かず、人生そのものとして描いているところに、好感が持てるし、バルザックの警句の辛辣さを存分に楽しむこともできるのだから。
たとえば、こんなふうに・・・。
「自然は<必然性>のように容赦しない。たしかに必然性は、一種の社会的自然なのだ」


評価:★★★★★

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