二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

蟹工船   小林多喜二

2010年02月17日 | 小説(国内)
結論をさきにのべれば、「蟹工船」は、秀作である。ただし、ある一点をのぞいて。
その理由についてはあとでふれよう。

こういう作品が、昭和4年、24歳の青年によって書かれていたとは。
まず、本書冒頭、十行ばかりを引用してみよう。

『「おい地獄さ行《え》ぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛《かたつむり》が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草《たばこ》を唾《つば》と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹《サイド》をすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。
 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫《ナンキンむし》のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接《じか》に響いてきた。』

さらに読みすすめて、わたしは驚いた。
これほど躍動感にあふれた、エネルギッシュな、行動者の文体を、小林多喜二はどこで手に入れたのだろう。「のような」という直喩を多用して、それが概ね成功している。魚が跳ねるような、生々しい、イメージ豊かな文章は、この作家の才能が第一級であることをかたっている。
葉山嘉樹の「海に生くる人々」からの影響が指摘されているが、わたしは読んでいないので、確かめるすべはない。作中の登場人物が、ドストエフスキーの「死の家の記録」についてふれている。おそらく、小林は、ドストエフスキーはある程度読んでいたと推測できるが、出来上がったものは、ずいぶんと違った文章である。当時はゴーリキーなどがよく読まれたようだから、そのあたりの影響をうけているのかもしれない。

それともうひとつ。いったいこの素材を、彼はどうやって手に入れたのか? 読んでいるかぎり、作者には、じっさいに蟹工船のクルーであった経験があるのではないかと、想像したくなる。リアルなディテールに充ち満ちているし、追いつめられた場所で働く、下層労働者の肉体感覚が、じつにリアルに再現されているからである。
表現ということでいえば、方言をたくみに織り込んであること、文脈の上の省略と飛躍が、読者の想像力を刺激し、効果的であることも瞠目すべきだろう。
一口でいえば、労働者たちの群像劇であり、ドキュメンタリーであり、時代の証言としての価値も高いと思われる。
日本の近代文学では、労働者を主人公にすえたものはほんとうに少ない。フランスにはバルザックやゾラがいて、パリという都市を背景に、あらゆる社会階層にわたって、壮大かつ華麗な風俗絵巻を描き出しているのに、わが国では、林芙美子や山本周五郎をのぞいて、ほかには、プロレタリア文学の幾人かがあるだけであろう。そういった「稀少性」にどうしても眼がむいてしまう。

しかし、本書には弱点もある。
それは近代小説としての条件といわれるキャラクターが描けていない、ということにつきる。船長は船長らしく、船をチャーターした会社側の親玉(監督)は監督らしく、青白きインテリ学生は学生らしく、無学で粗暴な人夫は人夫らしく型にはめられているからである。非人間的で過酷な労働条件に対抗し、労働者側は、団結し、ストライキに打って出るのだが、そこに時代を突き抜けるような思想はない。哨戒艇(駆逐艦)から乗移ってきた武装した官憲によって、首謀者はあっけなく逮捕され、暴動の一歩手前で鎮圧されてしまう。
こういう場面を読んでいると、「資本家―その手先vs 学生―労働者大衆」という図式しか見えてはこないのである。これでは、結局のところ、抵抗の涯に、この時代の共産主義というスターリニズムに吸収されるか、軍国主義化し、暴走をはじめるナショナリズムに吸収される運命にある、その数年前の人びとのレポートというはほかない。
そして、じっさい、そうなっていくのである。

プロレタリア文学のおもしろさと、つまらなさ。それは、文学史的な些末事とは、なんのかかわりももたない。イデオロギーは滅亡しても、表現の達成としてこの世にあらわれた小説は、それがすぐれたものであればあるだけ、もっと長い生命をたもっていく。「蟹工船」は、その代表作といっていいのではないか。
新潮文庫には、昭和28年に書かれた蔵原惟人の「解説」がついているが、教条主義的な読み方を示唆するようなものである。小林の詳細年譜を付したほうがはるかに読者の役に立つだろう。

さきほど検索したら、mixiには、何と1,000を超えるレビューがアップされている。その多くが、若者たち。映画の影響もあるのはわかるが、ワーキングプアが大量に出現している昨今の世情を反映したものと受け止めることもできる。



評価:★★★★

コメント   この記事についてブログを書く
« 真贋  吉本隆明 | トップ | 「個と公」論     小林... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

小説(国内)」カテゴリの最新記事