虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

親御さんへの「ダメ出し」 続きの続き 2

2017-02-20 08:41:14 | 日々思うこと 雑感

私は■くんに会ってからしばらくの間、軽く「直観が優れている子なのかな」と考えていました。

実をいうと、他にいろいろと気にかけていることがあって、

■くんの性格タイプが何かということはそれほど関心がなかったのです。

■くんのお母さんは「おそらく外向直観タイプの方かな?」と思われるいろんなことがアンテナに引っかかる感じの

好奇心旺盛な方だったので、それで同じく好奇心の旺盛さが似ているというだけで

■くんもよく似たタイプのように錯覚していたのです。

 

■くんはお母さんにいろいろ問いかけられても

自分の意志に関することをはっきり表現しないことが多く、

「うん」か「ううん」で即答できるようなことも、「んー」とはっきりしない態度をしめします。

■くんのお母さんはそれに対してイライラする様子もなく

「同じ質問を3回は問うのが当たり前」という習慣が付いているようでした。

 

私が気になっていたのは、

 

■くんが耳で聞き取る力が弱いようでもなく、

 

お母さんのことをうっとうしく感じて反抗しているわけでもなく、

 

性格が優柔不断でぐずぐずしがちな子なのでもなく、(むしろさっぱりしていて快活)

 

問いに対して本当に悩んでいる風でもなかった点です。

 

外から見ると、■くんは自分の意見を重要なこととして扱ってもらった体験がないために

自分の意見や気持ちを表現することに

意義を感じていないように見えました。

 

でもそれはおかしなことなのです。

■くんのお母さんは他のお母さんなら簡単に却下するような

「セミを逃がしたくない」とか「もっとセミ捕りしたい」といった意見ですらないがしろにすることが

ない方なのですから。いつも懸命に■くんの気持ちに耳を傾けようと努力している姿がありました。

 

■くんのお母さんはいつも意識して■くんの思いを尊重しようとしていたのです。

 

「でも、それなのにどうして

■くんは自分の意見を重要なこととして扱ってもらった体験がないように見えるのかな?

お母さんとの会話の中で自分の意志や気持ちが自由に出てこないのかな?

 

会話が苦手なわけではなさそうで、本を見ながらどうしてだと思う?ってたずねるような場面では

しっかりと自分の意見が言えているし笑顔もいっぱい見せているのに、どうしてなんだろう?

 

妹さんは自分の意見を自由に表現して

いるけど、■くんのお母さんは妹さんばかり構っているわけではなく

むしろ■くんのことをいつも気にかけて大事に扱っているのに なぜ?」

 

私は不思議な気持ちにとらわれたまま

■くんと遊んだり、いっしょに食事をしたり、工作したり、勉強したり、実験をしたりして過ごしました。

 

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前回の記事の続きを書く前に、親御さんへの「ダメ出し」3 の記事に関して、

 

○ちゃんが愚図った気持ちよくわかる。

公平じゃないから、この場合、○ちゃんの親御さんは◎ちゃんとじゃんけんさせればよかったのでは? 

という意見をいただいているので、

それに対して私の考えを書かせていただきますね。

 

場合によりけりだけど、私自身は○ちゃんのお母さんはこの対応でよかったし、

この時は、子どもたちの言い分を聞いて、大人が「正しさ」で解決してしまわなくてよかった

と感じているのです。

 

私が揉めている場に行ったとき、

負けた○ちゃんの気持ちなど考える余裕もない様子で

ベッドの上の子らがこれまでの経過をまくしたてていたのも、

この子たちが、「私という大人」がこれをどう判断するか、

どう裁決するかによって、

自分たちの行為が悪にも善にもなるし、これから先の損得が決まると捉えているからのようでした。

 

子どもたちが何か考えたり、決めたり、揉めたりするたびに、大人が神様のような視点から

有無を言わせぬ「正しい」介入をして、解決してしまうことが多いと、

子どもは自分の心や頭のスイッチを切ってしまったような状態で、

「こういうルールだからこうなんだ」とか「お母さんが言ってたからこうなんだ」とか「先生がこう言ってるんだ」と

自分の立場を主張するばかりで、

相手の気持ちを思いやったり、自分たちで創造的にいい提案をして問題を解決していこうとする姿勢が失われます。

 

ちょっとこすいくらい自分に都合のいい「言い方」さえできたら、

「大人が納得して自分の味方をするかどうか」を体験した事実よりも重要なことのように

扱いはじめるのです。

 

もちろん、しつけや善悪の基準や公平不公平ということについて、

大人がはっきり「正しさ」をしめさないといけない場面はたくさんあります。

 

集団生活を始める年齢になれば、その場の基本ルールの決定権を誰が持っているのか

理解することは大事です。

 

でも、日常のささいな揉め事は、子どもたちが自分で失敗し、自分でさまざまな感情を体験し、自分たちで意見し合って、

稚拙ながらも、「だったらこうしたら?」「こうしようよ」と解決していくのを見守る必要があると思っているのです。

 

大人はそこで行き過ぎないように気を配ったり、心が傷ついていたらサポートしたり、

考えが偏っていたら別の視点をしめしたり、自分がその子の立場になったらどう感じるか想像させたり

する程度で十分で、解決まではしないのが私のスタンスです。

 

大人がいつでもどこでも「正しさ」で介入することは

子どもから自分で考える力や理不尽な状況もそれなりに受け入れるという態度を失わさせると感じているのです。

日々の暮らしは大人がコントロールできる完璧なものではなく

理不尽な出来事の連続でもあります。

どんなに楽しみにしていたイベントも雨で中止になることもあります。お天気は人との約束を守ってくれないのです。

大人がルールを決めていても、ハンディーキャップや年齢が原因で守れない子もいます。

そうした現実とうまくやっていくには、

何かや誰かを既存のルールで裁くのではなくて、臨機応変に問題を解決したり、

この場はやむ得ないと納得したりできる子どもたち自身の知恵が必要と考えています。

 

今回のお泊りは「自分たちがここで眠りたい」と主張すれば、場所を選ぶことができました。

でも集団生活では、最初から本人の希望と関係なく

どこのベッドに寝るのか決まっていることもあります。

 

そこで「不公平だ」と大騒ぎして、被害意識のかたまりになってしまうと、何も楽しめませんよね。

私は子どもがそんな風に外のルール次第で、幸福になったり不幸になったりするのでなく、

どんな環境でも自分の頭と心でしっかり関わって、

自分の「幸福感や楽しさ」は自分で創造していけるようにサポートしていきたいと考えています。

 

「正しい」か「正しくないか」の物差しで何でも判断してしまうと、

個人の目から判断する「正しさ」と

集団をまとめる側からの「正しさ」がぶつかりあった場合には、

学校が「横暴」に見えたり、

親が「モンスターペアレンツ」に見えたりする事態にもなりかねない気がしています。

以前、こんな出来事があったのです。

小学校の運動会のリレー選手を選ぶために学校で短距離走のタイムを計ったそうです。

それで何人かの子が選手に選ばれて喜んでいました。

すると、負けた子のひとりが納得できなくて親に言うと、

その子の親はタイムを計っていたのが先生ではなく子どもだったので、

「間違いがあるかもしれないし、もう一度先生が計測しなおすべき」と抗議して

もう一度、計測しなおすことになったそうです。

この出来事、賛否両論あるのでしょうが、子どもの心と成長という

観点からすると、「どうなのかな~?」と首をかしげてしまいました。

でも「正しさ」という物差しで全てを決めるべきだとすると、当然の結末なのかもしれません。

 

 

先日、いただいたコメントに次のような一文がありました。


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……先生の「わが子とおしゃべり」の記事の先生と息子さんの対話で言われているように

自分が経験したことだけで、物事を判断せず、
「理解できない世界や、目には見えないものを尊重する態度、自分の理解を超えた複雑なものがあることを認めて、それを少しずつ知りながら、関わっていく」です。

すべての療育関係の方々に、心にとめておいて頂きたい大切なポイントだと思います。

この記事にある先生の息子さんの言葉が、私の置かれている状況をぴたりと言い当てていて、驚きました。

「自分が認識している以上に、複雑で深さがあるものかもしれないという捉え方をせずに、
今、自分が理解できなかったら、それは意味も価値もないもので、それ以上理解しようとしないだけではなく、理解している人を片っ端から攻撃するって人も多いんだ。自分のアイデンテイテイを持たずに自分から切り離された状態で意見だけできるからね。」

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私も息子の意見に共感していて、

世の中を自分の認識していることだけで白黒つけて、「正しさ」をふりかざして、

他の意見を引っ込めさせてしまえば、

最終的に、「自分のアイデンティティを持たずに自分から切り離された状態で意見だけする」子や人を

たくさん作りだすことになると思うのです。

この○ちゃんと他の子らの揉め事にしても、

最初に■ちゃんと◎ちゃんが「じゃんけんをして決めよう」と考えて、◎ちゃんが「勝ってうれしい」と思っている気持ちを、

無視して、「もう一度じゃんけんしなおしなさい」と大人が言うのは

子どもの世界に入りすぎている気がするのです。

ここで○ちゃんが「ずるいから◎ちゃんともじゃんけんしたい」と言いだして、◎ちゃんも納得してじゃんけんしなおしたなら、

それは大事だ進展だと思うのですが。

子どもに全ての事柄において、「大人が答えを持っている」と思わせて、「大人の判決」にしたがってさえいればいいと思わせてしまうと、

 

「今はまだ自分では理解できないわからないことが多い

広くて深い世界」に向かって

どっぷり世界に巻き込まれて過ごしながら、

自分自身をより広げていく深めていく、自分を変容させていく体験」

 

が失われると思うのです。

 

『下流志向』のなかで内田樹氏は、

「学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは
学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命なのです。」

と書いているのですが、

子どもの日々の体験も、こうした学びの連続となるよう

本人が自分の裁量でやっていく部分がたくさんいるのではないでしょうか。

 

不必要に大人が介入したり、不必要に人工的にしたり、不必要に大人がコントロールしたり、不必要に系統立てたりして、

選択肢や解決法や解答や時には自分の感じ方までひとつに絞って、

子どもに与えてしまう危険を感じています。

 

関連する過去記事を貼らせていただきますね。↓

(この話はアスペルガー症候群の成人女性の方から

「とても好きな記事」とおっしゃっていただいたものです。

これまで一方的な誤解に基づく言葉をたくさん投げかけられたことがあるのかもしれません。時には、

何かあるたびに、即座に言葉で判断しないこと、善し悪しを決めてしまおうとしないこと、

静かにその出来事をありのままに咀嚼するだけで終わることも必要なのかもしれません。)

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『心のなかはだれにもわからない』

先日 久しぶりに 
夜間に子どもをお預かりする
ボランティアをしました。
小学生の子なので
私が学童保育まで迎えに行って
それからの時間を 夕食を食べたり ゲームしたりして
過ごします。

その 学童に子どもを迎えに行った時あった出来事です。
私が迎えに行った時
ちょうど学童の子のひとりが
外の薄闇の中で
壁に つっぷして泣いていました。
私が預かる子より 学年が下の女の子です。
実は この数週間前
私は 地域の伝統行事に使うための絵を
学童の子らに描いてもらいました。
その時 「わたし描けないから描かない」と
遠巻きに見ていた女の子です。
その日 私は だれでも簡単に描ける小道具を
いろいろ持って行ってました。
クレパスをすこし塗って
水のついた筆でなでると
きれいに広がる画材などです。

おかげで その日「描かない…」とがんばっていた女の子は
「ちょっとだけしてみる…」となり
終いには 2枚力作を仕上げてから
「もう1枚描きたい」と言いだしたほどでした。

女の子には絵を描くこともですが
他の遊びや友達づきあいも
ぎこちなさがみられました。

そして先日 薄闇で一人で泣いている様子は
だれかにいじめられたとかではなく
上手く自分の思いをコントロールできない辛さが
あらわれているように見えました。
少しすると 女の子のお母さんが迎えに見えました。
いつも柔らかい口調の
優しいお母さんで
「どうしたの?」と聞いたけれど
理由をつきとめるような様子はありませんでした。
と 学童の先生や子供達が中から出てきて
「数人の友達と遊んでいた時
すねてしまい
その後 学童の先生が言った軽い一言で
ひとり外に出て泣いていたんです」
と説明しました。
学童の先生も
すねているのなら
無理やりつれもどしても しかたがないから
気持ちが済むまでそっとしておく
という作戦に出たようなのです。

先生とその子のお母さんが
くわしい事情を話すために
部屋の中に引っ込んでしまうと
ことの進行に興味津々の学童の子らも
いっしょにぞろぞろついていきました。

それで 外にいるのは
その女の子と私の2人きりでした。
女の子は
周囲の大人が「しつこい」「いつまでもすねている」
と表現したくなるのももっともな様子で
泣き続けています。
私もお預かりする乳幼児さんには
「すねすねモード」なんて言葉も使うのですが…
ただ その子が そうした言葉に傷ついて 泣き止むタイミングを
失っているようにも見えました。

お預かり予定の子が 出てくるのを待つ間
ふと ひとことその子に声をかけてから帰りたくなって
しばらく女の子の髪をなでていました。
それから
「心の中は だれにもわからないんだから
すねているかなんて わからないよね。」とささやきました。

すると 部屋の中にいた子らが
ぞろぞろ出てきて 私と女の子の周りをかこみました。

私は小さい声でその子たちにも説明しました。
「ただ悲しい気持ちで泣いているだけかもしれないよ。
心の中は誰にも わからないでしょう?
だから 勝手に すねている…とか他人の心の中を
決め付ける言葉を言ってはいけないよ。」

みんな目をまんまるくして こっくりしています。
どの子も 優しいいい子達なんですよ。
みんなその女の子の悲しい気持ちに 
寄り添うように立っていました。
でも 「あの子はすねてるんだ」とか「おこっているんだ」とか
「仲直りしたいんなら 早く泣くのをやめたらいいのに」
とか(大人が言葉で気持ちを説明してしまうと)
相手を思いやる気持ちが
鈍くなってしまうようです。


私も気をつけなくては……
その日は お預かりした子と
いつも以上に いろんなおしゃべりをして過ごしました


親御さんへの「ダメ出し」 続きの続き

2017-02-18 12:26:05 | 日々思うこと 雑感

親御さんに「ダメ出し」をするときに、親御さんの子どもへの接し方なり教育なりが

間違っているのかというと

そんなことはないのです。

子育てはこうあるべきとか、こうすべきとか、

いろいろ言う人がいるけれど、どのような関わり方が良いのかというと

子どもの性質によりけり、親御さんの感性によりけりで、

関わり方だけを取り上げて善し悪しを比べられるものでも、「こうすればいい」と言い切れるものでもないですよね。

それなのにどうしてダメ出しをするのかというと、

子どもといっしょに工作や勉強や遊びをしていると、

「この子の知力や人と関わる力や語彙力を見ていると、

この場面で、もう少し親と交渉して意見をすり合わせていくような態度があってもいい感じなのに、

プイッと無言で移動することが多いのはなぜなんだろう?」

「親御さんはたくさん言葉をかけているし、語彙力も多いし、恥ずかしがり屋の子でもないのに、

他の人や他の子に接するときに、

妙に不器用になって、何を言ったらよいのか途方に暮れていることが多いけれど

なぜだろう?」といった疑問を抱くときがあるのです。

その後、親御さんと子どものやり取りを見ていると、

これは子どもの性格や能力の問題ではなくて、親御さんとの関わりのなかで

生じている問題ではないかと思われるような

親と子の言葉と言葉、表情と表情、気持ちと気持ちのキャッチボールにぎこちなさを感じる場合があるのです。

親御さん側は、ごく普通に子どもに話しかけているのだけど、

それを受け取る側の子どもの表情が固かったり、うわの空だったり、反抗的だったり、聞こえているように見えなかったりして、

返事に覇気がなかったり、自分の意志や意欲が感じられなかったりすることが多い場合、

「ちょっと接し方や言葉かけを変えた方がいいかな?」と感じることがあります。

そして具体的に対応法をアドバイスすると、

 急速に関係が改善し、気になる子どもの行動が減っていくことがよくあります。

 

そんなわけで、余計なお世話で、「ダメ出し」をするのですが、

あくまでも親御さんの対応が「正しい」か「正しくないか」、「良い」か「悪いか」という話でないことは

お断りしておきます。

 

たとえば、調理ひとつとっても、素材や分量、作る料理などで塩加減も火加減も変わってきますよね。

「○グラムだからいい」「○度だから正しい」というものではなく、

その都度、微妙な調整していくとおいしい料理ができがるはずです。

 

人の場合、生命があるもので、日々変化し成長していくものですから、

もっともっと場合によりけり相手によりけりの加減が必要で、

言動に善し悪しのレッテルを貼るのでなくて、

「前に行って、下がって、くるっとまわって、おじきして……」とダンスでも踊るように、

気楽に微調節しながら付き合っていく必要があると思うのです。

 

私がこれほど長々と前置きしてから、「ダメ出し」の話に入っていこうとしているのは、

親子の会話場面の一部や遊びの場面の一部に

「こうしたらいいのでは?」というところがある親御さんも、

別の場面での接し方や子どもへの愛情や

お家での環境の作り方などトータルすると、尊敬できる部分をたくさん持っている方である

場合がほとんどだからです。

子どもさんの気になる点についても、ある一部では気になっても

別の面では親御さんの接し方の良い面を反映して、平均的なその年齢の子より

ずっとしっかりしているところがあったり、親切だったり、大らかだったり、知的好奇心が豊かだったりして、

私が上から「こうしなさいね」と指導できるような立場ではないのです。

 

そう繰り返し前置きした上で、

スポーツのフォームを整えたり、お料理の味つけを習ったりするように、

親子関係のちょっとした「ずれ」を微調節することを学んでいただきたいなと思っています。

そうすることで、

子どもの態度や知的な力が目に見えてよくなることを実感しているからです。

ユースホステルで年長さんの■くんとお母さんのやり取りで

少し気になるところがありました。

■くんのお母さんは子どもがいきいきと遊べる環境を用意するよう心がけている明るく大らかな性質の方で、

■くんは体格が良くて活発で好奇心が強そうな男の子です。

 

■くんのお母さんは気長で子どもの気持ちに添って接する方で

小言を言ったり、ガミガミ叱ったりすることはほとんどないようでした。

気になったところというのは、工作タイムで、■くんのお母さんが「こんなことしてみたら?あんなことしてみたら?」と熱心に話しかけているときに、

■くんは聞くのがわずらわしいという表情をして、

うわの空で返事をしているのです。お母さんがさらに関わろうとすると、黙ってそこを離れて、

私の隣を陣取って工作を始めました。

どうもモーターを接続する工作がしたかったようで、私の隣にいたら

教わりながら自分の思うものが作れると思っていたようです。

■くんが工作に意欲的なことはうれしかったのですが、

■くんが私に向かっても「自分がこんなことをしたい」「あんな風にしたい」という意志を表現することなく

その割にモーターや電池を貼りつけるのに夢中になって身体全体からやる気が伝わってくることが

気になりました。

■くんには3歳になったばかりの妹さんがいて、この子は知能も言葉の力も社会性も4歳半~5歳レベルという

しっかりさんでした。

自分が何をしたいのか、それには何を準備してどうすればいいのか、自分はどう感じているのかを

流暢に説明しては、テキパキ動いていました。

この妹さんは、テキパキしたところも、いろいろな情報をすぐにキャッチできるようなところも、

自分の思いつきや考えを流暢に言葉にするところも、

活動的で人と関わるのが楽しそうなところも

■くんのお母さんとよく似ていました。

 

■くんはというと、別にもじもじしているわけでもないし、おしゃべりが苦手というわけでもなさそうだし、

活動的でもあるし、人とリラックスして関われてもいるのだけど、

なぜか■くんの意志とか、気持ちとか、思いついたことなんかが

会話のなかで自然に出てくることがないのです。

お母さんからいろいろたずねられると困った表情をして、短く「うん」とか「ううん」とか答えるだけです。

■くんのお母さんも、■くんが自分からいろいろ意見を言わないのに慣れっこになっているのか、

■くんの「うーん」と渋るような様子は気にかけずに、

次々喜ばせるような声かけを続けています。

また、■くんが捕まえたセミを逃がすのを嫌がって、「うーん」とか「いやー」とか小さな声で言うと、

それだけで、■くんの気持ちに配慮して■くんの言う通りにしてあげたり、

■くんがお母さんの質問に答えずにスッーとどこかに行ってしまっても、ただ優しく見守るだけで

そっとしていました。

そうした■くんのお母さんの態度からは、■くんに対する深い理解や愛情が伝わってきました。

一方で、いつもはっきり言葉にせずに、「んー」と言いながら少し身体をくねらせるだけで、

お母さんから「どうしたのかな?」「どうしたいのかな?」と察してもらい、手をかけてもらっているため、

言葉が必要な場面でも、言葉を使わずに、相手に察してもらったり、「こうしたいの?」「ああしたいの?」と

たずねてもらうコミュニケーションを身につけていて、いざ「それ貸して」「これちょうだい」「ありがとうございました」といった

ちょっとした言葉を使うシーンでも、うまく表現できなくて困惑しているときがありました。

 

■くんと遊ぶなかで、いろいろ質問してみると

形のちがう容器に水を入れたときにどちらが多いか判断した理由を、きちんと表現できたり、

理科実験で仮説をたてたり、原因を説明したりすることもちゃんとできて、

語彙力や考える力に問題はないのです。

 

でもなぜか、その後も、自分のやりたいことや自分の思いや自分の考えのようなものが

自然と口にのぼることがほとんどありませんでした。

それなのに、人一倍、自分のやりたいことや自分の思いや自分の考えは

強いものがあって、一度やりはじめたらそれはねばり強く最後までやり続けていました。

 

私は■くんに会ってからしばらくの間、軽く「直観が優れている子なのかな」と考えていました。

実をいうと、他にいろいろと気にかけていることがあって、

■くんの性格タイプが何かということはそれほど関心がなかったのです。

■くんのお母さんは「おそらく外向直観タイプの方かな?」と思われるいろんなことがアンテナに引っかかる感じの

好奇心旺盛な方だったので、それで同じく好奇心の旺盛さが似ているというだけで

■くんもよく似たタイプのように錯覚していたのです。

 

■くんはお母さんにいろいろ問いかけられても

自分の意志に関することをはっきり表現しないことが多く、

「うん」か「ううん」で即答できるようなことも、「んー」とはっきりしない態度をしめします。

■くんのお母さんはそれに対してイライラする様子もなく

「同じ質問を3回は問うのが当たり前」という習慣が付いているようでした。

 

私が気になっていたのは、

 

■くんが耳で聞き取る力が弱いようでもなく、

 

お母さんのことをうっとうしく感じて反抗しているわけでもなく、

 

性格が優柔不断でぐずぐずしがちな子なのでもなく、(むしろさっぱりしていて快活)

 

問いに対して本当に悩んでいる風でもなかった点です。

 

外から見ると、■くんは自分の意見を重要なこととして扱ってもらった体験がないために

自分の意見や気持ちを表現することに

意義を感じていないように見えました。

 

でもそれはおかしなことなのです。

■くんのお母さんは他のお母さんなら簡単に却下するような

「セミを逃がしたくない」とか「もっとセミ捕りしたい」といった意見ですらないがしろにすることが

ない方なのですから。いつも懸命に■くんの気持ちに耳を傾けようと努力している姿がありました。

 

■くんのお母さんはいつも意識して■くんの思いを尊重しようとしていたのです。

 

「でも、それなのにどうして

■くんは自分の意見を重要なこととして扱ってもらった体験がないように見えるのかな?

お母さんとの会話の中で自分の意志や気持ちが自由に出てこないのかな?

 

会話が苦手なわけではなさそうで、本を見ながらどうしてだと思う?ってたずねるような場面では

しっかりと自分の意見が言えているし笑顔もいっぱい見せているのに、どうしてなんだろう?

 

妹さんは自分の意見を自由に表現して

いるけど、■くんのお母さんは妹さんばかり構っているわけではなく

むしろ■くんのことをいつも気にかけて大事に扱っているのに なぜ?」

 

私は不思議な気持ちにとらわれたまま

■くんと遊んだり、いっしょに食事をしたり、工作したり、勉強したり、実験をしたりして過ごしました。

 

 


親御さんへのダメ出し

2017-02-17 22:27:00 | 日々思うこと 雑感

過去記事です。

 

 

ユースホステルでのレッスンで

何度か親御さんに「ダメ出し」をすることがありました。

といっても、親御さんの言動が間違っているわけでも、教育方針がまずいわけでも

ないのです。

何かにつけてちょっとゆるめの私からすると、こちらが見習ったらいいような内容ばかりでした。

それならどうしていちいち「ダメ出し」などをしたのかというと、

親御さんのしていることも言っていることもそれ単体としたら少しも悪いところがないけれど、

今、その時の子どもと親御さんの関係のなかでは、

ちょっと引いた方がいい、ちょっと押した方がいい、ちょっとゆるい方がいい、ちょっと厳しい方がいい……なんて

場面があったからなのです。

子どもが自ら成長していくための道筋を作ることができるよう余白を作る意味で

親御さんに「ダメ出し」をして子どもへの対応を調整していただいたのです。

 

たとえば、次のようなことがありました。

少し前のユースホステルでのレッスンに、親御さんの話によると

「意欲がない」「やる気がない」

「じっくり考える力が弱い」「ぐずぐずしつこくごねる態度に手を焼いている」

と困った態度がオンパレードという小学2年生の◎ちゃんという女の子とお母さんが参加してくれていました。

工作やお勉強や友だちとの自由遊びやベッドメーキングや配膳のお手伝いなどをしながら一日いっしょに過ごしてみたところ、

確かにこの◎ちゃんは、親御さんが子育てに悩むのもごもっとも……と思われるほど

困ったちゃんぶりを発揮する場面が時々ありました。

そうした時に、親御さんは一方的に叱りつけるようなことはせず、イライラしつつも辛抱強く、諭していました。

◎ちゃんのお母さんは、子どものことを一生懸命考える愛情深くて賢い方なのです。

 

この日、私が、親御さんに「ダメ出し」したのは、こうした◎ちゃんが、

しつこく親御さんが嫌がることをしたり、注意を受けても何度も止められていることをしたりしていたシーンではありません。

一見、何気ないおだやかなひと時の

親御さんの応対やちょっとした表情やあえて褒め言葉を控える態度が

気になって、失礼ながら何度か「ダメ出し」させていただいたのです。

というのは、それが◎ちゃんを、イライラした投げやりな態度と

過剰にいい子になろうとする態度の間を揺れ動く不安定な心の状態に

させているように見えたからです。

 

といっても親御さんが無意識にしていた◎ちゃんへの働きかけは

一般常識に照らせば、ごく普通の問題のないものでした。

 

ただ、◎ちゃんという

「神経過敏でまじめでちょっと不器用なところがあって

すぐに自分への自信を失ってしまうように見える子」

とペアになったときに、

「少し関係を調節した方がいいかも?」と思うものだったのです。

 

たとえば、◎ちゃんはルームキーを預かる役を引きうけたとき、それに誇りを感じている様子で、

責任を持って何をするときも片手に握っていました。

ただ2段ベッドに登るときも、ルームキーをぶらぶらさせて登っていたので、

目に入りそうで危険だったので、私が「◎ちゃん、危ないからカギはテーブルにでも置いておいて」と告げました。

すると、◎ちゃんはこれは大事な預かり物だからテーブルの上なんかに放っておいて無くすわけにはいかない……というようなことを

言ってためらっていました。

「でも、それは危ない」と私がもう一度言うと、急にひらめいた様子で、自分のベッドの枕の下にしまいにいきました。

私はしっかりしているなと感心して見ていたのですが、◎ちゃんの親御さんは

私から注意を受けたのにしばらくためらって即座に動こうとしなかった態度について不満があるようで

「いつも、ああなんですよ」

とこぼしていました。

その後、◎ちゃんはルームキーを枕の下にしまったことを忘れて出かけてしまい

部屋にカギがかけられなくなる事件が起こりました。

途中で、◎ちゃんが枕の下にしまっていたことをそこにいたメンバーが思い出し、

無事部屋のカギを締めることができました。

◎ちゃんのお母さんは、「いつもいつもあの子はこうで……」と、◎ちゃんを見つけて叱りつけなくては……!と

怒り心頭でした。

この出来事で私が気になったのは、◎ちゃんがルームキーを預かることに

責任感を感じていて、これをきちんとやり遂げたいと素直に心から感じていたことが

わかっていたからです。他の2年生たちは、そんな面倒な役はしたがりません。

◎ちゃんは、他の人やお母さんの役に立ちたいという気持ちを持ったまじめが取り柄な子なのです。

でも同時におっちょこちょいでもあるのです。

◎ちゃんが前向きな気持ちで取り組んでいることに対して、ちょっと自分でどうするか迷ったり、

そそっかしさから失敗してしまったりする度に、

「あ~あなたはこんなにダメな子だ」「また~こんなだわ」とため息ばかりつかれたのでは、

他の子がやりたがらない仕事を自分から進んで引きうけようとは思わなくなりますよね。

こういう場面では、自己肯定感が向上するように

次から気をつける点のアドバイスはしても成功を感じて終わらせてあげたいものです。

 

こんなシーンもありました。

ユースホステルの夕食は子どもも大人と同じ量が出るため

「子どもにしては多すぎますかね?すいません。」とコックさんに恐縮されるほど

おかずの量が多いのです。よく食べる外国の方も満足するような分量ですから。

そのため、子どもたちはたいてい3分の1ほど残すのです。

その日も、子どもたちがちょこちょこ私の方にやってきては、

「先生、すいません。もうおなかいっぽいです。残してもいいですか?」とすまなそうにたずねてきていて、

「もともと量が多いからね。食べられる分食べたらいいのよ」と応えていました。

途中で子どもたちのテーブルに行ってみると、

2年生の女の子たちはどの子も、せいいっぱい食べたのでしょうけど、その日のメニューのフライものも野菜も

半分くらい残していました。

そのなかで◎ちゃんだけはかなりがんばっておかずは全て食べきり、野菜が少し残っているだけでした。

と、それを見た◎ちゃんのお母さんが、

きちんと食べていないことに不満そうにちょっとしたコメントをしました。

ものすごくちょっとしたひとことではあったのですが、

でも他の子たちと見比べてもよく食べている◎ちゃんに注意するのは、

まるで98点を取ってきた子に100点でないことを愚痴るような

気持ちの萎える言葉ではありました。

◎ちゃんのお母さんは冷たい方でも厳しすぎる方でもありません。

でもご自分がかなりいい子として生きてきて、完璧ないい人であるよう努めるところがあるので、

無意識のうちに子どもに期待する理想が常に高めに設定されているようでした。

◎ちゃんはそんな風に一日の大半は非常にまじめにいい子になろうと努力していて、

それでもいつもお母さんからはダメ出しをもらうことが多いし、自分自身も完璧主義で

自分の行動に満足できないので、

しまいに自信が揺らいでイライラが募って、

わがままな態度やしつこく止められることをするといった行動につながっているようでした。

いざ、◎ちゃんがそうした悪い態度を表現しているときには、

◎ちゃんのお母さんは辛抱強く優しい態度で接していました。

◎ちゃんのお母さんも◎ちゃんと似たところがあって

自分に無理をさせてもいい人であろういい親であろうとギリギリまでがんばるところがあって、

そのせいでかえって、どうでもいい場面や◎ちゃんががんばっている時に、

チクチクと嫌みを言ったり、ため息をついて

不満を表現したりすることになっていたのです。

 

ユースホステルに宿泊する日の夜は

親御さんたちと

真夜中過ぎまで親のための勉強会をしています。

毎回、和気あいあいとしてそれは楽しい時間になっています。

 

この日は、いろんな面できちんとした性格のために、

独身時代や職場ではそれで物事がうまく回っていたけれど、

子育てをする際には

決まりごとをゆるめたり曖昧さやルーズさを受け入れたりしていくことにとても苦労したという

Aさんも参加していました。

Aさんは◎ちゃんよりもう少し大きな子を育てています。

 

Aさんは、◎ちゃんのお母さんの気持ちがよくわかる~と共感した上で、

「まず、小さなひとつだけ、まあいいか……とゆるめる部分を作ってみると、

他の部分でも、これもまぁいいか……あれもまぁいいか……と少しずつ許容できる範囲が広がっていきますよ」と

具体的なアドバイスをしていました。

 

その晩は◎ちゃんのお母さんが子育ての悩みや不安や小さな喜びや面白さやイライラなどの本音を

自由に言葉にしていくのを、

他のお母さん方も私も、共感したり、なだめたり、応援したりしながら耳を傾けていました。

結局、「本音に耳を傾けた」というそれだけのことをしただけなのですが、

そうした時間を過ごすことで、◎ちゃんのお母さんはもちろんそこにいた誰もが、

親としてどのように子どもと接していこうかと

普段は見ようとしなかった自分の心の内面の風通しをよくして、

子育ての足元を固めるための時間を共有できたように思います。

 

私のようにもう大人に半分足をつっこんだような子どもたちを育てていても、

こうした子育て最前線に立っている親御さんたちの迷いや決意や本音や幸福感に触れていると

自分の築いてきた親子関係を新鮮な目で見直して、

ちょっと反省したり、自分に優しくなったりするのです。

親同士、学びあえるいい関係を作ることは大事だな~と実感しました。

 

「ダメ出し」と言えば、別の2年生の★ちゃんとの親御さんとの間でこんなこともありました。

私は言葉上では「ダメ出し」していないのですが、

親御さんが子どもを厳しく叱った後で、

私がそれと反対の言動をしたので、結果的に親御さんの言動にダメ出しをしたような雰囲気になったのです。

 

でも、実際、私は、反対の態度をとりつつも、

心の中では親御さんの対応はその時その場にちょうどいいものだと思っていました。

親御さんが間違っていたから私が子どもに親御さんと異なる対応をしたのではなくて、

親御さんが先にきちんと子どもに厳しい態度をしめしていたので、

私はその場に足りなかった部分だけを補う形でよかったのです。

 

ユースホステルでは、2段ベッドの上段で寝るのがとても人気です。

毎回、子どもたちの間で激しい争奪戦になっています。

2段ベッドがふたつと畳でふとんで寝るスペースがある部屋で

小学2年生の女の子4人で揉め事が持ち上がりました。

 

隣の部屋にいた私は、「あっちの部屋でベッドを取り合って○ちゃんが泣いているよ」という話を聞きつけた

私は様子を見にいくことにしました。

すると、○ちゃんはこれまで相当ごねていた様子で、私が着いたときには、

しまいにお母さんから「そんなことなら家に帰るわよ」と叱られた○ちゃんが

部屋の隅で三角座りをして膝に顔をうずめて

しくしく泣いていました。

 

私が部屋に入ってくると、左右の2段ベッドの上段から■ちゃんと◎ちゃんがひょっこり顔を出して、

「先生!聞いてください!私が説明します」「先生、説明させてください!」と

体育大会なんかで、「宣誓!わたくしは~」なんて言うときのような口調で

これまでの経緯をまくしたてました。

 

■ちゃんと◎ちゃんの説明はこうでした。

最初に○ちゃんと◎ちゃんがベッドの上段に上がって勝手に自分の場所と決めていたようなのです。

そこに■ちゃんが現れて、◎ちゃんのベッドに登って行ってベッドを取り合ってじゃんけんをしたそうです。

すると◎ちゃんが勝ちました。

負けた■ちゃんに、気のいい○ちゃんが、「私のところにおいでよ~いっしょに寝ようよ~」と誘いかけたそうです。

そこで■ちゃんと○ちゃんがいっしょに寝る算段で、二段ベッドの上でふざけていたところ、

親御さんたちから「危ないから、上でふたりで寝てはダメ!」と注意を受けたようです。

■ちゃんと○ちゃんがじゃんけんをしたところ、先にベッドを陣取っていた○ちゃんが負けて、

泣いて抗議するものの、「じゃんけんで負けたのだから仕方ないでしょ」「最初に勝手に場所を取ってたからって自分のものにはならないでしょ」と親御さんたちからも子どもたちからも理路整然と説明され、

本人としては納得できずにしつこく抗議して愚図っていたので、

しまいに○ちゃんのお母さんのカミナリが落ちたようなのです。

 

○ちゃんのお母さんというのは私の数倍は寛容で気の長い方です。

その○ちゃんのお母さんがきつい言葉で叱ったとあれば、おそらく私がそこに来るまでに

○ちゃんは、カミナリでも落とされないと収拾がつかないほどのごね方をしていたのでしょう。

 

「家に帰るわよ」という脅し文句は、

こうした楽しいイベント事が何より好きな○ちゃんにかなりこたえたらしく、

私が着いた時には、しくしくと静かに泣き続けているだけでした。

 

出来事を説明する■ちゃんと◎ちゃんの興奮した口調のなかには、

自分だけが上の段を取っていることへの罪悪感や、

じゃんけんの結果を素直に受け入れることができない○ちゃんを罰する気持ちや、

自分たちは悪くないもんと主張したい気持ちや、上の段が取れて有頂天になって自慢したいような気持ちなどが

入り混じっているようでした。

そのテンション高くまくしたてる様子は、じゃんけんに負けて泣いている○ちゃんからすると、

「イケズ」として映っていたかもしれません。

 

そこで私は、「○ちゃん、こっちにおいで」と呼んで

「上の段で○ちゃんも寝たかったんだね。それに、■ちゃんに親切にしようと思って

自分のところに呼んであげたのに、こんなことになって悲しいのよね」とだけ言いました。

○ちゃんは素直にコックリすると、私にもたれかかって涙を拭いながら

黙っていました。

私はあれこれ言うのはやめて、ただ泣かせておいてあげました。

○ちゃんは怒っているわけではなく、自分が遭遇した現状を受け入れるために

もう少し泣く必要があるだけでしたから。

 

私はベッドの上から何か言いたげに顔を出しているふたりに向かって、

いたずらっぽく、

「じゃんけんで勝った人は、カーテンを閉めて静かにしていてちょうだい。

自慢たらしく騒がれたら、負けて悲しい気持ちの人が、悲しいけどしかたがないか、我慢しようか……って

気持ちになれないでしょ。さぁさぁ、上の段の人はベッドの横から足を出したり、

はしごのところから顔を出したりしないで、ひっこんでてちょうだい。

ベッドから足を出したりして寝ぞうが悪くてもいいのは、下の人たちだけよ。

上の段はそんなことしたら危ないんだから。きっちりカーテン閉めてお行儀よく寝てちょうだい。

下で寝る人は、落ちてもけがしないでしょうから、暑い時にはベッドから足を半分くらい出してたり、

ごろごろ寝返りうっても構わないわよ。」

上の段の■ちゃんと◎ちゃんが苦笑いをしながらも黙ってひっこむと、

○ちゃんは次第に機嫌をなおしていきました。

しまいに1段目のベッドに寝てみて、上の人たちに自慢するように

わざと足をベッドから落ちそうなほど外に出して、「こっちで寝る方がいいわ」と言って、

ごろごろ寝返りを打つと、にっこり笑顔を見せました。

その様子を、最初から下の段に寝ることにしていた☆ちゃんは

黙って見ていました。

☆ちゃんは聞き分けがいいおりこうさんタイプの子です。

子どもたちが2段ベッドの取り合いを始めた時点で、☆ちゃんのお母さんが、

「☆は弟がいるんだし、下で寝なさい」と言った一言で

すぐにそれに従っていたのです。

争いごとが嫌いな☆ちゃんは、揉め事が激しくなるのを見て、

1段目を取っていてよかったと思っていたようです。

でも夜の大人だけの勉強会では、☆ちゃんのお母さんは

☆ちゃんが何を選ぶのかをお母さんが決めてしまったことに対して

反省していました。

最終的には揉め事がきらいな☆ちゃんは自分で下を選んだ可能性が高いけれど

最初から☆ちゃんを揉め事の外に出してしまったことを反省していました。

いい子タイプの☆ちゃんは、聞き分けが良すぎる半面、

「自分からこんなことをしたい」「勝ちたい」「できるようになりたい」という意欲が弱いときが

あります。

見たところ意欲的でしっかりした子なのに、

自分が遭遇している現実に対して、どこか他人事のように振舞うときが

多々あるのです。

がまん強いけれど、どこかでしらけた態度をとることがあるのです。

ユースホステルでの☆ちゃんはおそらく本来の性質である

芯が強くて情緒が豊かで他の子らを惹きつける魅力的な一面をたくさん発揮していました。

大人の顔色をうかがって緊張しているときではなく、

子ども同士で自由に自発的に振舞っていた時です。

☆ちゃんは、さまざまな場面で本人の判断に任せても大丈夫な

利発で責任感のある子なのです。

こうして他の親御さんや子どもといっしょに過ごすなかで、わが子に対する認識を改めながら、

☆ちゃんとお母さんとの関係も、少しずつ微調節していくと、さらにいいものになっていくように思いました。

 


頭と目の前の現実、どちらにも接続可能の知恵を蓄える1(レンズーリの拡充学習について 16)

2017-02-16 08:13:16 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

前回の記事までの記事で、

『頭の中の世界』と『現実の世界』の間を取り持つ中間層にあたるもの

育むことや、

そのスペースに頭と目の前の現実、どちらにも接続可能の知恵を蓄えるといったことを

書きました。


 そこで、工作、実験、ゲーム、ごっこ遊び、算数学習のそれぞれの場で、

 どのようにそうした知恵を育んでいるのか、書いていこうと思います。


 工作の中で、『頭の中の世界』と『現実の世界』の間を取り持つ中間層にあたるもの

育む場合、上手に作れるようになるのを目指すのとは違う

子どもが自分の頭をより使いやすくなるような雰囲気作り

大人が随所で、応用のきく知恵を見せてあげることが必要になります。

 

たとえば、こんなちょっとしたことです。

先日、2歳の子といらないDVDの中央の穴にビー玉をつけただけという

簡単なコマ作りをしました。

↑ 別のレッスンのコマ作りの写真です。

 

その時、子どもがコマの表面に長く切ったセロテープをペタペタ貼っていました。

手当たり次第、セロテープを貼りたがる時期ですよね。

 

テープが、コマの外にビローンと伸びていた場合、

それは大人からすると、「はみだしている」というよくない状態です。

きれいなコマを完成させたいと思っている方には、「邪魔だから切ろうね」と指導する対象でしょうし、

「ああ、またやっているわ」とスルーするなら、普段の遊びの延長でしょう。

 

でも、もしそこで、「はみだしたテープをつけたまま回すとどうなるかな」と、

そのままコマを回してみると、円の中心からはみだしたテープの先までを半径

とするDVDより大きな円が見えるはずです。

もし、子どもが喜んでいたら、「もっと長いテープや紙をつけてみると、どうなるかな?」と、

テープや紙の長さを変えて、試してみると、それによって見える円の大きさが違うことに

気づくはずです。


教室では、工作でも実験でも遊びでも、ちょっと試してみたら面白そうという場面にぶつかったら、

長さを変えたり、傾きを変えたり、重さを変えたり、速度を変えたり、

面積を変えたり、を変えたり、強度を変えたり、

水に沈める深さを変えたりして、どうなるのか試しています。

創作する上でそうする必要があるから変えるのではなくて、

「変化に伴って、どうなるか見届けたい」という好奇心を満たすためにしています。

 

こうした活動は、他の人に見せる作品を作ることや

時間内に完成することを目的としている創作の場では、

脱線や無駄でしかありません。

 

でも、こうした脱線や無駄が、頭と目の前の現実、どちらにも接続可能の知恵

の源となります。

 

先ほどの2歳の子のように、コマからはみでたテープの描く円を作って遊んだ子は、

コンパスを使った工作をする時やコンパスで作図する時に、

かつてコマ遊びで得た知恵を使って、円についての気づきを発展させます。

 

 「棒にひもでつながれた犬は、どのような範囲の移動が可能か」

といった中学入試問題でも力を発揮します。

 また、理科で天体を学ぶ時期にも、そうした知恵が役立ちます。

 

過去記事から、先の2歳の子と同じDVDコマを作ったときの

さまざまな年齢層の子たちの中間層が育っていく様子を紹介します。 ↓

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メディアクリエイターの佐藤雅彦さんの『プチ哲学』という本があります。

かわいらしい漫画に解説がついている本で、

教室で、それぞれの漫画のテーマと同様の体験をした際に

子どもたちに漫画を見せ、解説を読んであげると、強く心の響くものがあるようです。

 

この日、小2の女の子グループと見た漫画は、『ビジネスマンダニエル氏』と『うっかり電池くんの証明法』。

 

『ビジネスマンダニエル氏』は、

拾ったセッケン箱を舟として使ってひと儲けしようとかんがえたカエルのダニエル氏。

ところが箱に穴があいていて、水が舟の中に入ってきて使いものになりませんでした。

そこで、ダニエル氏は、穴のあいたセッケン箱を水道につないで、シャワーきを開発して

成功をおさめました……という漫画。

 

テーマは「偶然性の発見」です。

画期的な商品は偶然にそのアイデアが発見されたものがたくさんあるという話。

新しいのりを開発している途中、「とてもはがれやすいのり」ができてしまった

ことよりポストイットができた例について話すと、子どもたちの間から笑いが漏れ、

ポストイットを見つけてきてみんなに見せていました。

 

人間の発想は見えない枠にとらわれています。しかし時として

失敗は、その枠の外にはみだしたところに発生します。その時、

私たちは新しい発見にめぐりあえたのです。このような偶然性の発見を、

難しい言葉ですが「セレンディピティー」と言います。 (『プチ哲学』P36)

 

 

工作をしていると、この「セレンディピティー」という言葉に

ぴったりの能力を使う場面がよくあります。

こうしたかったんだけど……→うまくいかない。失敗する。→失敗と思ったものから

新しい発見をする。新しいものが生まれる。

そんな自分の何気ない体験を、こうして別の視点から言葉で捉えなおす作業が

子どもたちの心を深いところから揺さぶる時があります。

 

 

コマの上に物を乗せて回そうとすると、転がり落ちてしまいます。

それにランダムに落ちるので、どこに飛んでいくかわかりません。

でも、Aちゃんは、そうした「うまくいかない」を利用して、ゲームを作ることができました。

2年生のお姉ちゃんたちのグループに参加していた

年中の妹Bちゃん。

コマにビーズや毛糸玉などをセロテープで貼ってデコレーションしていました。

ボンド等で貼るのと違い、セロテープで貼ると、どうしても不格好にテープが上にはみだした

ような貼り方になってしまいます。

ところが、これを回してみると、透明のはみ出したテープ部分が、

空間上に浮かんだ不思議な物体のように見え、なんともいえない美しさを生み出していました。

写真がうまく撮れていなかったので見せることができないのですが、

いくつもの色でコマを色分けてきれいに仕上げる子が多い中、二色だけの色でシンプルな

コマを作ったCちゃん。

作品を半分だけ鏡に映るように作った箱に入れたところ、

摩訶不思議な色の変化を楽める作品となりました。

 

 

 

紙から立体を作るのが得意なDちゃん。

全て紙でできた作品は、壊れやすいのが難点。

でも、この作品では、コマに接着した建物が、全て紙で組み立てた内部が空洞という作りだったため、

これだけ大きなサイズのものをコマに貼っても、

コマの回転に支障がなく、見る人がみんなうっとりするほど魅力的な作品となりました。

このコマを横から眺めてチェックしていたDちゃんは、横の一点から観察すると、

まるで景色が動いているようでとても面白いことを発見しました。

そこで、お家に帰ってから、

「窓つきの覆いを作って、車窓から景色の変化を眺める作品にしてはどうか……」という話しあいをしました。

 

この日のレッスンには、算数を教えておられる方が見学にみえていました。

制作中も、『プチ哲学』を見て雑談する時も、算数の学習(今回は旅人算でした)でも

子どもたちがとても集中していることに感心しておられました。

 

 

 

 

 

 

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年中の自閉っ子のAくん。1年前から考えると見違えるほどしっかりしました。

極端に狭かった興味の幅が大きく広がり、園でも楽しく過ごしているそうです。

以前は数分置きに、同じ質問を繰り返していたAくん。

 

「どうして?」「なぜ?」と理由を知りたがる質問が増えてきました。

この「どうして?」「なぜ?」も、少し前までは「こだわり」に端を発した

同じ質問を何度もして、同じ答えを聞きたがる……というものだったのが、

日常の不思議に対する好奇心から生じる

質問へ変化してきました。

お家で、「コマを回すとどうして模様が消えちゃうの?」とたずねたAくん。

お父さんが、「人間の目の解像度は……」と説明したそうですが……。

 

いっしょにいらなくなったCDでコマを作ることにしました。

このコマ、あるもので適当に作ってみたものですが、とても安定した美しい回り方をします。

↑の写真の左にある金属製の平たいコマの回り方にとてもよく似ています。

 

<作り方>

CDの裏面の穴の空いた部分をふさぐように

セロテープ(取れそうな場合ボンドを少しつけておきます)

を貼り、そこにビー玉を押しつける。

表面に絵柄を描いたらできあがり。

 

『こま まわるかな』(成井俊美作 福音館書店)の中に、

「回転すると色がみえるこま」や「逆回転するこま」「うずまきがみえるこま」

「帯がみえるこま」「色のかわるこま」などの

絵柄のパターンがたくさん載っています。

Aくんは、キラキラしたモールやテープを貼った自分オリジナルのコマを作った後で、

本のパターンを真似たコマを作りたがりました。

(この本で紹介されている紙とつまようじで作るこまは、

子どもには作りにくいようでした。)

 

 

ピンクと黄色と水色のコマを作って回した時、

Aくんが、「オレンジの色がある。回ると

真ん中のところらへんにオレンジの色がある」と声をあげて

喜んでいました。

白と黒に塗り分けたコマは、回転する速度が変わるにつれて

色が変わっていくところが、不思議で面白いです。

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録画用のDVD-Rに傷の防止のためについている透明の丸いプレート。

年長の子たちと、これを使って

「地球とその周りを公転している月」のコマを作りました。

 

アルミ箔を丸めて地球と月を作ります。丸めたアルミ箔は

厚紙やいらない下敷きなどでこすると金属のような塊になります。

地球は中心の穴にはめ、月ははさみで切って

両面テープで貼ると、できあがり。

 

時間のある時に太陽の周りを回る惑星のコマも作ってみたいです。

 


寺田寅彦のエッセイ と理科遊び

2017-02-14 14:58:18 | 理科 科学クラブ

うれしいコメントをいただいたので紹介します。

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昨年、算数教室で1日お世話になったものです。
寺田寅彦の岩波文庫の同じ本を、たまたまTwitterでフォローしている研究者の方が寺田寅彦の事を書かれており興味を持って購入していました。
まだ全部目を通していないのですが、紹介されていた茶碗の湯と夏目漱石先生の追憶だけ読んでいました。
茶碗の湯を読んでいて、虹色教室を思い浮かべていました。日常生活の中に科学があるという事、日常生活の中で細やかに子供を見つめる事、気づく事。
うまく言葉にできないのですが、思わずコメントしたくなってしまいました。
子供はあれから噴火の実験が気に入って、家では白の絵の具で火山を作って楽しんでいました。クエン酸の代わりにCCレモンも入れてみたいといって試してみたり、従兄弟やおばあちゃんに感動を伝えたり、実験を身近に感じるようになりました。
数字については、お風呂で10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、0でロケット発射!という遊びと、子供の最近好きな迷路と組み合わさった絵本をきっかけに、お店屋さんごっこで、透明なきれいなプラスチックのすくいだねを数えてやり取りしたり、苦手意識が変わってきています。

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小学生の頃、学校の図書室で、

岩波少年文庫の『科学と科学者のはなし』寺田寅彦エッセイ(池内了編)を読んで
えらく感激した記憶があります。
古本屋でその本を見つけたので、買ってきてさっそく目を通しました。
今、読んでも、とても面白かったです。

読みながら、紙芝居か、実演で、
子どもたちにこの本の面白さを伝えたいな~という思いが
湧き上がってきました。

まぁ、そんな大がかりなことをする前に、

教室の科学クラブで子どもたちに
この本をもとに小さな実験をいくつか見せてあげて……

それからブログでこの本を紹介して、
夏休みにこの本に目を通した親御さん伝いに、

寺田寅彦の思いが少しでも子どもたちに浸透していくといいな~と感じて……

さっそくブログの記事にすることにしました。

まず、大好きな『茶碗の湯』というエッセイ。

物理学者の寺田氏が、湯の入った茶碗ひとつを前にして、
繰り広げる話です。
茶碗の湯って、何のおもしろみもないようですが、よく気をつけてみていると、
だんだんにいろいろの微細なことが目につき、
さまざまな疑問が起こってきます。

湯の面から立っている白い湯気は、熱い水蒸気が冷えて、小さなしずくになったもの。
雲や霧の仲間です。
黒い布をむこうにおいてすかすと、
粒の大きなしずくはチラチラ見え、

日光にすかせば、場合によっては、虹のような赤や青い色がついているそうです。
これは白い薄雲が月にかかったとき見えるのと似ているそう。

茶碗から上る湯気をよく見ると、暑いかぬるいかおおよそわかるのだとか。
暑い湯は温度が高くて、周囲の空気より軽いため、どんどんさかんにたちのぼり、湯がぬるいと弱いのです。

湯気が上るときはいろいろの渦ができます。茶碗の上で起こる渦の大じかけのものは、
雷雨のときに空中に起こっている大きな渦です。

白い茶碗に入っている湯は、ひなたで直接日光に当てて底を見ると、
ゆらゆらした光った線や薄暗い線が不規則な模様になって動いているのが見えます。
夜、電灯の光を当ててみると、もっと鮮やかに見えます。

茶碗の湯が冷えるのは、湯の表面の茶碗の周囲から熱が逃げる為。表面にふたをしておくと、茶碗に接したところでは湯は冷えて重くなって下方へ流れ、
真ん中は上へ。
ビーカーの底をアルコールランプで熱したときの水の流れが、
湯の中の糸くずの動きで見ることができるのだとか。

いっぱいの茶碗の湯は、他にも「かげろう」のでき方、湖水や海の水の流れ方、

山谷風、モンスーンなどがどうやってできるのかなどを、
わかりやすく教えてくれるそうです。

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寺田氏の言葉に次のようなものがあります。
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俗に明きめくらというものがあります。
両の眼は一人前にあいていながら、肝心の視神経が役に立たないために
何も見ることができません。

またたとい眼あきでも、観察力の乏しい人は
何を見ても、ただほんのうわつらを見るというまでで、
何一つ確かな知識を得るでもなく、ものごとを味わって見るでもない。
これはまず心の明きめくらとでも言わなければならない。
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子どもたちを『心の明きめくら』にしてしまってはいけませんね。

子どもたちとともに、いろんなものをゆっくりじっくり味わいたいな~
と思いました。


言語化しにくい長所について 2 (レンズーリの拡充学習について 15)

2017-02-13 11:34:04 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

前回の記事で、

「そうした子たちは、体験して触れたものや大人や友達から見聞きしたことを、イメージしたり、創作したり、考えたりする時にすぐに取り出せる形に加工して保存しておく習慣を持っています」

と書いたことについて、少し補足しておこうと思います。

「子どもの興味の幅を広げ、さまざまな知識に触れさせるために、博物館や科学館に連れて行ったり、創作や実験を体験させるワークショップに参加させたりしているものの、

毎回、ああ楽しかった面白かった、で終わってしまいます。

そこで見聞きしたことが子どもの中に根を下ろしているように見えないし、別の場面でそれが生かされることもありません。」

 という親御さんの話をうかがうことがあります。

また「図鑑が好きで、細かい説明を暗記するほど読み込んでいるものの、実際にそれを活用するとなると、知識の丸暗記が邪魔して考えられなくなっているようです」といった相談を受けることもあります。

 

どちらの理由も、子どもの『頭の中の世界』と『現実の世界』の間を取り持つ中間層にあたるものが育っていないからかな、と感じています。

 

虹色教室での活動は、工作をするにしろ、実験をするにしろ、ごっこ遊びをしたり、プリントを使った算数学習をしたりするにしても、

『頭の中の世界』と『現実の世界』の間を取り持つ中間層にあたるものを育てることを意識しています。

「体験して触れたものや大人や友達から見聞きしたことを、イメージしたり、創作したり、考えたりする時にすぐに取り出せる形に加工して保存しておく」

という方法を教えたり、実際にやってみる機会を与えたりすることを、活動のメインに据えているのです。具体的な例については、

次の機会に書いていきます。

ですから、ベビーレッスンから通ってる子たちのほとんどが、

「考えたり想像したりする活動にも使えるし、実際、手や指を使って何かやってみる活動にも使える」というどちらにも接続可能の知恵をたっぷり蓄えていることを、いつもうれしく思っています。

 

 この頭の世界と現実の世界の中間層にあるどちらにも接続可能の知恵について、これまではっきりと意識したことがある方はあまりいないかもしれません。

 

でも、実際の教育の現場でも、おはじきやタイルといった教具を使って、算数の問題を解くように指導しても、そうした『頭の中の世界』と『現実の世界』の間を取り持つ

中間層にあたるものが、欠如しているために、

「問題文を読んで、具体的な道具を操作する」ことができない子がいることに困惑しているのではないでしょうか。

 

「わからなかったら、丸や線を描いて考えなさい」と指導しても、丸で表しているのが、問題文にある言葉のイメージとつながっていることがピンとこない、

線で表しているのが、ある一定の数量であるイメージができないという子が、

子どもたちの遊びや生活の質の変化にともない、目立つようになったのです。

小学校で算数セットがあまり使われなくなったのは、そうした理由もあるのではないかと思っています。

そうした道具が理解の補助として使えない子が増えているのではないかと感じているのです。

 

前回の記事で取り上げてた頭の中の世界と現実の世界の中間層の豊かさを感じる子たちというのは、そうした虹色教室で大事にしている活動からもう一歩進んでいて、

そうした中間層に移行する対象の多種多様さや加工の仕方のユニークさ、行き来の仕方が一方通行ではなく双方向であるところなどをこの子たち特有の強みとしているのではないかと感じています。

 


言語化しにくい長所について (レンズーリの拡充学習について 14)

2017-02-11 18:51:43 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

子どもの個性や才能には、外から見えにくいし気づかれにくいものがあります。

「外から見えにくいし気づかれにくいもの」といってもいろいろあって、言葉にすると、すんなり伝わるものもあれば、言葉にするのが難しいものもあります。

今回は、中でも、特に言語化しづらいと感じている長所について書いていこうと思います。

 

教室で、毎回のように、「この子たちはすごいな。伸びしろが大きそう」と感じさせる子たちがいます。

それが困ったことに、その良さというのが、先に書いた、見えにくく気づかれにくい上、言語化しづらい性質のものなのです。

ですから、あらゆる場面で、持っているものの豊かさに気づいているのに、いざ親御さんから、

「うちの子の個性的な資質って何でしょう?」とか、

「この子の強みは何でしょう?」といった質問を投げかけられると、

「とにかく後伸びしそうです」とか、

「いつも、すごいなと思っています」

なんて、ピントのずれた返事に終始してしまうのです。

 

上の写真は、数日前に『野生の思考』を読みました 1という文章の中で紹介した年中のAちゃんのポップアップ作品です。

記事上で、折りたたまれた馬が立ち上がる仕組みを作るのは不可能なんじゃないかと思ったのですが、なぜか大成功。」

とサラッと出来事を書いたものの、成功したのは偶然とはいえ

「なぜか」というだけでは言葉をはしょりすぎで、

背景には成功の確率を上げているそれなりの理由があると思われるし、

何となくですが思い当ることもあるのです。

 

まず、Aちゃんという子は、たまたまこの日、できそうもないことを成功させたのではなくて、教室に来るたびに、毎回のように、「こういう風にしたい!」と口にしたことを成功に導いていることを書いておかなくてはなりません。

たいてい、最初、構想を耳にしたときは、

「それは、無理じゃない?」

「いくらなんでも」

と思うのですが、力技やら、偶然の力やら、お姉ちゃんやわたしのアイデアを借りるやら、想像力でカバーするやら、強くてくじけない意志の力やら、それこそ使えるものをすべて総動員させて、

大人がしたって不可能だろうと思っていたことをやり遂げてしまうのがAちゃんなのです。

それは、Aちゃんの小学1年生のお姉ちゃんにも共通する性質で、わたしが毎回のように、この姉妹に「すごい」と感嘆するのは、完成にこぎつくまでわたし自身、想像の世界でもそれができるとは思っていなかったり、

思考過程がこちらの想定外で、虚を突かれる驚きを伴っていたりするからなのです。

それは創作活動以外のさまざまな場面でも、この姉妹に見られる姿です。

Aちゃんがポップアップで馬小屋を作った日、Aちゃんのお姉ちゃんもレッスンにいっしょに参加していました(きょうだいの子が教室に付いてきた場合、教室のお手伝い役として参加してもらっています)。

下の写真は、Aちゃんのお姉ちゃんのDちゃんの作品です。

 

Dちゃんは、お手本通りのポップアップの家が、上の階を作るにつれてぐらぐらすることが気になるようでした。

そこで、厚紙を使って補強しはじめました。

ただ薄い紙に厚紙を添えるだけではなく、上の写真のように四角い枠の形を上下に半分に分ける位置に厚紙を渡して、形がくずれないように工夫していました。

Dちゃんの奮闘を目にしながら、「うまく補強したね。その補強の仕方だと畳めないだろうから、ポップアップにしたかったら、一部だけ補強の仕方変えてみる?」

と声をかけたところ、「大丈夫、畳めるよー」という涼しい声。

見せてもらうと、縦方向に折り畳んだ後で、横方向に折り畳むという複雑な折り方の工夫で、自動的に立ちあがるわけではないものの、薄い本内に収まるようになっていました。

 

 

Dちゃんも妹のAちゃん同様、自分の「こうしたい」を、どうにかこうにか実現に結びつけることができる子です。

 

AちゃんもDちゃんも、どうしてそんなことが可能なのかといえば、

『自分の頭の中にある思い』と、『身の回りの環境』とを仲介する豊かで広大なスペースが存在するから

と思われます。

教室には、DちゃんAちゃん姉妹のように

頭の中と現実の世界とをつなぐためのスペースの豊かさを感じさせる子が何人かいます。

 

考える方法 と 行き詰った時の解決法  

で六角形のポップアップを作っていたBちゃんもそうですし、

 

レンズーリの拡充学習について 11

で展示品の舟を熱心に覗いていた子も、

 

忠臣蔵のポップアップ と 合掌づくり

で、紹介した忠臣蔵が大好きな子も共通する資質を感じます。

 

そうした子たちは、体験して触れたものや大人や友達から見聞きしたことを、イメージしたり、創作したり、考えたりする時にすぐに取り出せる形に加工して保存しておく習慣を持っています。

ストックしているスペースにあるものは、応用がきくので、工作で学んだことを、そのまま算数の文章問題を考える時に使用したり、ゲームで使った知恵を、計算方法を工夫する際に利用したりするのを目にします。


途中ですが、次回に続きます。


激しい癇癪についてのコメント欄でのやりとり

2017-02-11 09:06:56 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

 

マイコー雑記のマイコーさんが、子どもの癇癪への対応についての

やりとりを取り上げて、こんな記事を書いてくださいました。

 

『虹色教室通信』奈緒美さんのコメント「敏感さを持つ子の癇癪」について。私:「通過儀礼」みたいですね

 

このコメントで書いた「大人も一度、タブーに近づく必要があると感じています。」という

言葉については近いうちにもう少し具体的に文にすることにします。

 

今日は、晩までに新しい記事をアップする予定です。

 

アクセス解析を見ると、この記事をアップした後で、

下の記事を読んでいる人が何人かいました。

4歳児さん的な『悪の限りをつくすこと』


レンズーリの拡充学習について 13

2017-02-09 10:01:19 | それぞれの子の個性と才能に寄りそう

子どもたちと国立民族学博物館に行くと、何といっても一番人気は、

海外のめずらしい住まいです。

移動できる家の『ゲル』や『パオ』は大人気で、このテントが目に入るやいなや、

どの子も口をそろえて、「先生、あの中に入れるの?」「あの家に入れるの?」と

必死の形相でたずねます。

残念ながら、入り口の外か、入り口から数歩入ったところで

立ち入り禁止の柵が設けてあるのです。

奥まで入れないと知って、子どもたちが あまりにもがっかりするので、

「今度、教室に来た時に、ドーム型の蚊帳を出して、

ゲルごっこやパオごっこやエキスモーの氷の家ごっこをして

遊ぼう」と約束すると、大喜びでした。

下の写真は、以前、そのドーム型の蚊帳の中でお引越しする子の

お別れ会をしたときの写真です。

子どもたちの住居への関心を受けて、『ハウス』という本を購入しました。

ついでに、『マップス』も購入しました。

どちらも『アンダーアース・アンダーウォーター』の作者による図鑑絵本です。

教室でのごっこ遊びや段ボールハウス作りに活用する予定です。

 

 

国立民族館で、家の中に入って体験できる展示物に、中国のチワン族の高床式住居があります。

この住まいは、1階部分で家畜を飼育し、2階部分に人が暮らすようになっている住まいです。

家畜のふんから出るメタンガスで電気も調理器具の火も

まかなっているエコな住居です。

 

下の写真は、毎回、毎回、どれだけ盛り上がるのか……と唖然とするほど、子どもたちを熱狂させる

韓国のチュマク。小さな扉や大きな扉を開けたり閉めたりして

あちこち行き来するのが、迷路のようでもあるし、親戚の家にでも遊びに来たようでもあるし、

異文化の空気を吸っている感じもあるからか、とにかく人気です。

床暖房があったかいのも、心地よさの理由かも?

 

(もしお子さん連れでチュマクを見る場合、住居の裏側に回って、扉の外に子どもが立っていないか

気をつけてください。内側から乱暴に扉を開けると、扉の外側に子どもが立っていた場合、

コンクリートの床に投げ出される恐れがあります。

これまで教室で出かけた際に事故はないのですが、扉での指詰めと

扉付近での事故がないよう注意しています。)


民博では、言語ゾーンとこのチュマクのところと触れる楽器があるところ、子ども向けの獅子舞や竜などの

お祭りの道具を貸してくれる場所で、一服するようにしています。

 

今回の民博への遠足では、3年生たち(もうじき、4年生)の子どもたちの

姿が印象的でした。

3年生のBちゃんは、点字を打つ道具を使って、

長い文章を打ち込んでいました。

テキストをじっくり読んで、根気よく取り組まないとできない作業でした。

お土産コーナーで、Bちゃんに教室用のお土産を選んでもらったところ、アイヌの彫り物のハンコを

選んでいました。そういえば、Bちゃんが熱心に眺めていた展示品は、

どれも金属や木に細かい細工が施されたもので、

本格的な民芸品としての美しさを感じさせてくれるものでした。

Bちゃんにはこの子特有の本物を見極める審美眼のようなものがあるのを感じます。

 

帰りにお土産屋を眺めていた時、BちゃんがBちゃんのお母さんと少しだけ揉めている姿を見かけました。

事情を聞くと、Bちゃんが民族博物館のパンフレットの冊子を欲しがったことが原因でした。

値段が高いものではないのですが、内容が大人向けなので、

お母さんにすると、Bちゃんには難しいと思ったようです。

確かに解説のページは細かい文字で埋め尽くされています。

とはいえ、ひとつひとつの展示品を真剣なまなざしで眺めていたBちゃんの姿を思うと、

それはBちゃんにとてもふさわしいものにも見えました。

「Bちゃん、家に帰ってから、今日見た展示品をもう一度見たいの?」と

たずねると、真顔でこっくりします。

「Bちゃんにはこの本は合っていると思うけど、ここのお土産コーナーは、

ほとんど本を置いていないから、奥にあるブックコーナーに行くと、

Bちゃんが興味を持ったものの写真がもっとたくさん載っている本があるかもしれないよ。

先生といっしょに見に行く?」ときくと、うれしそうにうなずいていました。

Bちゃんはお母さんに許可をもらい、おこづかいを手に

ブックコーナーで本を選んでいました。

上の写真は、Bちゃんが選んだ『世界のモザイク』という本。

1ページ1ページが美しすぎて、うっとりするような本でした。

 

下は、そのブックコーナーで、わたしが教室の子たち用に購入した本。

 

帰りに前回の記事のAちゃんの家族と電車でごいっしょしました。

その時、Aちゃんの3年生のお姉ちゃんのCちゃんに

この本を預けていたところ、

最初は興味本位に何ページか読んでいたのですが、

しだいに本の内容に没頭しだして、

最寄りの駅に着いたので返してもらうという段になって、

「次に、教室に行ったとき、その本の続きを読んでもいい?」と真剣な表情で

頼まれました。

どのページもプリミティブアートの解説が載っていて、

「子どもが読んで面白いのかな……?」と思うような内容だったのですが、

さっそくひとりはこの本のファンができてうれしい限り。

 

上の写真に添えられた言葉を書いておきますね。

 

大きな目 

 

見た目を 信じちゃいけないよ。

実はぼくの身長は 10センチと少し。

でもうれしいな。いつも 小さな ぼくなのに

今だけでも こんなに 大きくしてもらえるなんて。

ぼくの目 大きくて 青いでしょ。 これはパウア貝。

オセアニアの海岸で とれる めずらしい 貝なんだよ。

指が 3本ずつしかないとか。

よく見ると 足には 水かきが ついているとか いわれる。

それから 舌から 足首まで 細かい もようが 彫ってあるでしょ。

ぼくたち マオリ族は こうやって 体に 入れ墨するんだよ。

ニュージーランドの 人たちは ぼくを ヘイティキと 呼んでいて

おまもりとして 首に かけるんだ。

ぼくについては いろんな 説がある。

どこかの星から やってきた 最初の 人間の姿だとか

まだ お母さんの おなかのなかにいる 赤ちゃんだとか

生まれたばかりの 赤ちゃんだとか

妊婦さんの まもり神だと 思っている 人もいる。

水かきのある 足を 見て

海の 生き物と 関係があるって 思っている 人もいる……。

そんなわけ みんなぼくを 大事にしてくれる。

そりゃそうだ。幸運の おまもりなんだからね。

 (プリミティブ・アートってなぁに? 文マリー・セリエ 監訳 結城昌子  西村書店 より 引用)


 

 


自閉症の子 と 感覚にある論理性 と 感覚に内在する知性 2

2017-02-07 09:04:08 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

自閉症のAくんは、3歳の頃から教室に通ってくれている もうすぐ1年生になる男の子です。

まだ言葉はほとんどなく、最近になって、1語文か2語文の言葉らしきものが

聞き取れるようになったばかりです。

Aくんは療育にも通っているので、虹色教室では、遊びの世界を広げることと、

個性的な才能や資質に気づいて伸ばすことを中心に関わってきました。

 

多動が激しかったこともあって、長い間、Aくんが人との間にコミュニュケーションを

成り立たせるのは困難極まりないものでした。

 

このコミュニュケーションという言葉について、先の記事で紹介した

レゥ¨ィ=ストロースやロシア人言語学者の

ヤコブソンや数学者のノーバート・ウィーナーやクロード・シャノンらは、

一般的な言語学者とはちがったユニークな捉え方をしています。

 

植物や動物をふくめ、宇宙の進化、変容そのものもコミュニュケーションと

考えられるのではないか。

物理学でいう「量子」の過程まで一種のコミュニュケーションとして理解することが

可能なはずで、人間の言語はそうしたコミュニュケーション全体系の中に出現した

一つの位相にほかならない、

という理解です。

 

発信者と受信者がいて、共通の「コード」(符号)を使って、

「メッセージ」を伝達することをコミュニュケーションの基本

とする考えが土台となっています。

 

自閉症の子たちと接していると、人とのコミュニュケーションはかなり困難なようでも、

物からいくつかの要素を取り出して、識別し、それらを変換させていくことのは上手で、

まるで、物を相手に自在にコミュニュケーションを取っているように見える子がいます。

Aくんも、そんな子のひとりです。

 

下のいくつかの写真は、Aくんが『ピッケのつくる絵本』という

おはなしづくりのiPadのアプリを使って、ひとりで作った作品です。

身体の各パーツを動かしたり、背景画面を変えたり、ストーリーの順序に沿って、

新しい画面を作っていくというAくんが使いこなしている操作は、Aくんのお母さんも

まだよくわかっていない複雑なものです。

それを、まだ1語文や2語文のやり取りがままならないAくんが

自由自在に扱えるほどマスターし、自分の中にある世界を

誰にも伝わるような形にして表現する姿には、驚きが隠せません。