私は■くんに会ってからしばらくの間、軽く「直観が優れている子なのかな」と考えていました。
実をいうと、他にいろいろと気にかけていることがあって、
■くんの性格タイプが何かということはそれほど関心がなかったのです。
■くんのお母さんは「おそらく外向直観タイプの方かな?」と思われるいろんなことがアンテナに引っかかる感じの
好奇心旺盛な方だったので、それで同じく好奇心の旺盛さが似ているというだけで
■くんもよく似たタイプのように錯覚していたのです。
■くんはお母さんにいろいろ問いかけられても
自分の意志に関することをはっきり表現しないことが多く、
「うん」か「ううん」で即答できるようなことも、「んー」とはっきりしない態度をしめします。
■くんのお母さんはそれに対してイライラする様子もなく
「同じ質問を3回は問うのが当たり前」という習慣が付いているようでした。
私が気になっていたのは、
■くんが耳で聞き取る力が弱いようでもなく、
お母さんのことをうっとうしく感じて反抗しているわけでもなく、
性格が優柔不断でぐずぐずしがちな子なのでもなく、(むしろさっぱりしていて快活)
問いに対して本当に悩んでいる風でもなかった点です。
外から見ると、■くんは自分の意見を重要なこととして扱ってもらった体験がないために
自分の意見や気持ちを表現することに
意義を感じていないように見えました。
でもそれはおかしなことなのです。
■くんのお母さんは他のお母さんなら簡単に却下するような
「セミを逃がしたくない」とか「もっとセミ捕りしたい」といった意見ですらないがしろにすることが
ない方なのですから。いつも懸命に■くんの気持ちに耳を傾けようと努力している姿がありました。
■くんのお母さんはいつも意識して■くんの思いを尊重しようとしていたのです。
「でも、それなのにどうして
■くんは自分の意見を重要なこととして扱ってもらった体験がないように見えるのかな?
お母さんとの会話の中で自分の意志や気持ちが自由に出てこないのかな?
会話が苦手なわけではなさそうで、本を見ながらどうしてだと思う?ってたずねるような場面では
しっかりと自分の意見が言えているし笑顔もいっぱい見せているのに、どうしてなんだろう?
妹さんは自分の意見を自由に表現して
いるけど、■くんのお母さんは妹さんばかり構っているわけではなく
むしろ■くんのことをいつも気にかけて大事に扱っているのに なぜ?」
私は不思議な気持ちにとらわれたまま
■くんと遊んだり、いっしょに食事をしたり、工作したり、勉強したり、実験をしたりして過ごしました。
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前回の記事の続きを書く前に、親御さんへの「ダメ出し」3 の記事に関して、
○ちゃんが愚図った気持ちよくわかる。
公平じゃないから、この場合、○ちゃんの親御さんは◎ちゃんとじゃんけんさせればよかったのでは?
という意見をいただいているので、
それに対して私の考えを書かせていただきますね。
場合によりけりだけど、私自身は○ちゃんのお母さんはこの対応でよかったし、
この時は、子どもたちの言い分を聞いて、大人が「正しさ」で解決してしまわなくてよかった
と感じているのです。
私が揉めている場に行ったとき、
負けた○ちゃんの気持ちなど考える余裕もない様子で
ベッドの上の子らがこれまでの経過をまくしたてていたのも、
この子たちが、「私という大人」がこれをどう判断するか、
どう裁決するかによって、
自分たちの行為が悪にも善にもなるし、これから先の損得が決まると捉えているからのようでした。
子どもたちが何か考えたり、決めたり、揉めたりするたびに、大人が神様のような視点から
有無を言わせぬ「正しい」介入をして、解決してしまうことが多いと、
子どもは自分の心や頭のスイッチを切ってしまったような状態で、
「こういうルールだからこうなんだ」とか「お母さんが言ってたからこうなんだ」とか「先生がこう言ってるんだ」と
自分の立場を主張するばかりで、
相手の気持ちを思いやったり、自分たちで創造的にいい提案をして問題を解決していこうとする姿勢が失われます。
ちょっとこすいくらい自分に都合のいい「言い方」さえできたら、
「大人が納得して自分の味方をするかどうか」を体験した事実よりも重要なことのように
扱いはじめるのです。
もちろん、しつけや善悪の基準や公平不公平ということについて、
大人がはっきり「正しさ」をしめさないといけない場面はたくさんあります。
集団生活を始める年齢になれば、その場の基本ルールの決定権を誰が持っているのか
理解することは大事です。
でも、日常のささいな揉め事は、子どもたちが自分で失敗し、自分でさまざまな感情を体験し、自分たちで意見し合って、
稚拙ながらも、「だったらこうしたら?」「こうしようよ」と解決していくのを見守る必要があると思っているのです。
大人はそこで行き過ぎないように気を配ったり、心が傷ついていたらサポートしたり、
考えが偏っていたら別の視点をしめしたり、自分がその子の立場になったらどう感じるか想像させたり
する程度で十分で、解決まではしないのが私のスタンスです。
大人がいつでもどこでも「正しさ」で介入することは
子どもから自分で考える力や理不尽な状況もそれなりに受け入れるという態度を失わさせると感じているのです。
日々の暮らしは大人がコントロールできる完璧なものではなく
理不尽な出来事の連続でもあります。
どんなに楽しみにしていたイベントも雨で中止になることもあります。お天気は人との約束を守ってくれないのです。
大人がルールを決めていても、ハンディーキャップや年齢が原因で守れない子もいます。
そうした現実とうまくやっていくには、
何かや誰かを既存のルールで裁くのではなくて、臨機応変に問題を解決したり、
この場はやむ得ないと納得したりできる子どもたち自身の知恵が必要と考えています。
今回のお泊りは「自分たちがここで眠りたい」と主張すれば、場所を選ぶことができました。
でも集団生活では、最初から本人の希望と関係なく
どこのベッドに寝るのか決まっていることもあります。
そこで「不公平だ」と大騒ぎして、被害意識のかたまりになってしまうと、何も楽しめませんよね。
私は子どもがそんな風に外のルール次第で、幸福になったり不幸になったりするのでなく、
どんな環境でも自分の頭と心でしっかり関わって、
自分の「幸福感や楽しさ」は自分で創造していけるようにサポートしていきたいと考えています。
「正しい」か「正しくないか」の物差しで何でも判断してしまうと、
個人の目から判断する「正しさ」と
集団をまとめる側からの「正しさ」がぶつかりあった場合には、
学校が「横暴」に見えたり、
親が「モンスターペアレンツ」に見えたりする事態にもなりかねない気がしています。
以前、こんな出来事があったのです。
小学校の運動会のリレー選手を選ぶために学校で短距離走のタイムを計ったそうです。
それで何人かの子が選手に選ばれて喜んでいました。
すると、負けた子のひとりが納得できなくて親に言うと、
その子の親はタイムを計っていたのが先生ではなく子どもだったので、
「間違いがあるかもしれないし、もう一度先生が計測しなおすべき」と抗議して
もう一度、計測しなおすことになったそうです。
この出来事、賛否両論あるのでしょうが、子どもの心と成長という
観点からすると、「どうなのかな~?」と首をかしげてしまいました。
でも「正しさ」という物差しで全てを決めるべきだとすると、当然の結末なのかもしれません。
先日、いただいたコメントに次のような一文がありました。
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……先生の「わが子とおしゃべり」の記事の先生と息子さんの対話で言われているように
自分が経験したことだけで、物事を判断せず、
「理解できない世界や、目には見えないものを尊重する態度、自分の理解を超えた複雑なものがあることを認めて、それを少しずつ知りながら、関わっていく」です。
すべての療育関係の方々に、心にとめておいて頂きたい大切なポイントだと思います。
この記事にある先生の息子さんの言葉が、私の置かれている状況をぴたりと言い当てていて、驚きました。
「自分が認識している以上に、複雑で深さがあるものかもしれないという捉え方をせずに、
今、自分が理解できなかったら、それは意味も価値もないもので、それ以上理解しようとしないだけではなく、理解している人を片っ端から攻撃するって人も多いんだ。自分のアイデンテイテイを持たずに自分から切り離された状態で意見だけできるからね。」
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私も息子の意見に共感していて、
世の中を自分の認識していることだけで白黒つけて、「正しさ」をふりかざして、
他の意見を引っ込めさせてしまえば、
最終的に、「自分のアイデンティティを持たずに自分から切り離された状態で意見だけする」子や人を
たくさん作りだすことになると思うのです。
この○ちゃんと他の子らの揉め事にしても、
最初に■ちゃんと◎ちゃんが「じゃんけんをして決めよう」と考えて、◎ちゃんが「勝ってうれしい」と思っている気持ちを、
無視して、「もう一度じゃんけんしなおしなさい」と大人が言うのは
子どもの世界に入りすぎている気がするのです。
ここで○ちゃんが「ずるいから◎ちゃんともじゃんけんしたい」と言いだして、◎ちゃんも納得してじゃんけんしなおしたなら、
それは大事だ進展だと思うのですが。
子どもに全ての事柄において、「大人が答えを持っている」と思わせて、「大人の判決」にしたがってさえいればいいと思わせてしまうと、
「今はまだ自分では理解できないわからないことが多い
広くて深い世界」に向かって
どっぷり世界に巻き込まれて過ごしながら、
自分自身をより広げていく深めていく、自分を変容させていく体験」
が失われると思うのです。
『下流志向』のなかで内田樹氏は、
「学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは
学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命なのです。」
と書いているのですが、
子どもの日々の体験も、こうした学びの連続となるよう
本人が自分の裁量でやっていく部分がたくさんいるのではないでしょうか。
不必要に大人が介入したり、不必要に人工的にしたり、不必要に大人がコントロールしたり、不必要に系統立てたりして、
選択肢や解決法や解答や時には自分の感じ方までひとつに絞って、
子どもに与えてしまう危険を感じています。
関連する過去記事を貼らせていただきますね。↓
(この話はアスペルガー症候群の成人女性の方から
「とても好きな記事」とおっしゃっていただいたものです。
これまで一方的な誤解に基づく言葉をたくさん投げかけられたことがあるのかもしれません。時には、
何かあるたびに、即座に言葉で判断しないこと、善し悪しを決めてしまおうとしないこと、
静かにその出来事をありのままに咀嚼するだけで終わることも必要なのかもしれません。)
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『心のなかはだれにもわからない』
先日 久しぶりに
夜間に子どもをお預かりする
ボランティアをしました。
小学生の子なので
私が学童保育まで迎えに行って
それからの時間を 夕食を食べたり ゲームしたりして
過ごします。
その 学童に子どもを迎えに行った時あった出来事です。
私が迎えに行った時
ちょうど学童の子のひとりが
外の薄闇の中で
壁に つっぷして泣いていました。
私が預かる子より 学年が下の女の子です。
実は この数週間前
私は 地域の伝統行事に使うための絵を
学童の子らに描いてもらいました。
その時 「わたし描けないから描かない」と
遠巻きに見ていた女の子です。
その日 私は だれでも簡単に描ける小道具を
いろいろ持って行ってました。
クレパスをすこし塗って
水のついた筆でなでると
きれいに広がる画材などです。
おかげで その日「描かない…」とがんばっていた女の子は
「ちょっとだけしてみる…」となり
終いには 2枚力作を仕上げてから
「もう1枚描きたい」と言いだしたほどでした。
女の子には絵を描くこともですが
他の遊びや友達づきあいも
ぎこちなさがみられました。
そして先日 薄闇で一人で泣いている様子は
だれかにいじめられたとかではなく
上手く自分の思いをコントロールできない辛さが
あらわれているように見えました。
少しすると 女の子のお母さんが迎えに見えました。
いつも柔らかい口調の
優しいお母さんで
「どうしたの?」と聞いたけれど
理由をつきとめるような様子はありませんでした。
と 学童の先生や子供達が中から出てきて
「数人の友達と遊んでいた時
すねてしまい
その後 学童の先生が言った軽い一言で
ひとり外に出て泣いていたんです」
と説明しました。
学童の先生も
すねているのなら
無理やりつれもどしても しかたがないから
気持ちが済むまでそっとしておく
という作戦に出たようなのです。
先生とその子のお母さんが
くわしい事情を話すために
部屋の中に引っ込んでしまうと
ことの進行に興味津々の学童の子らも
いっしょにぞろぞろついていきました。
それで 外にいるのは
その女の子と私の2人きりでした。
女の子は
周囲の大人が「しつこい」「いつまでもすねている」
と表現したくなるのももっともな様子で
泣き続けています。
私もお預かりする乳幼児さんには
「すねすねモード」なんて言葉も使うのですが…
ただ その子が そうした言葉に傷ついて 泣き止むタイミングを
失っているようにも見えました。
お預かり予定の子が 出てくるのを待つ間
ふと ひとことその子に声をかけてから帰りたくなって
しばらく女の子の髪をなでていました。
それから
「心の中は だれにもわからないんだから
すねているかなんて わからないよね。」とささやきました。
すると 部屋の中にいた子らが
ぞろぞろ出てきて 私と女の子の周りをかこみました。
私は小さい声でその子たちにも説明しました。
「ただ悲しい気持ちで泣いているだけかもしれないよ。
心の中は誰にも わからないでしょう?
だから 勝手に すねている…とか他人の心の中を
決め付ける言葉を言ってはいけないよ。」
みんな目をまんまるくして こっくりしています。
どの子も 優しいいい子達なんですよ。
みんなその女の子の悲しい気持ちに
寄り添うように立っていました。
でも 「あの子はすねてるんだ」とか「おこっているんだ」とか
「仲直りしたいんなら 早く泣くのをやめたらいいのに」
とか(大人が言葉で気持ちを説明してしまうと)
相手を思いやる気持ちが
鈍くなってしまうようです。
私も気をつけなくては……
その日は お預かりした子と
いつも以上に いろんなおしゃべりをして過ごしました