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『虹色教室通信』奈緒美さんのコメント「敏感さを持つ子の癇癪」について。私:「通過儀礼」みたいですね

2017年02月10日 | ハイリーセンシティブチャイルド

こちらの記事

親子の絆強まり共にステップアップ!感情をぶつける「反応」→より適切な「対応」を助ける「3つの質問」

のコメント欄に、長年様々な子どもさんに接してこられた『虹色教室通信』の奈緒美さんが、思いを綴ってくださいました。

言葉でははっきりと表しにくい子ども達、そして接する大人の内面の動きを、あえて言葉で伝えようという試みです。


私自身、「本質」を言葉で表そうとするほど、するすると抜け落ちてしまうものがあると常々感じています。それはもちろん、私の言語を操る力の今の時点での「至らなさ」もあるわけですが、言葉というもの自体に、物事の一面しか捉えられないという性質があるのだろうとも思っています。

大人も子どももスケジュールが詰まった多忙な現代、「よりシンプルに容易に理解できる言葉」で伝えることがますます求められる傾向にあります。私自身も、「書くこと」を活動の一部としていきたいという気持ちから、シンプルに物事を切り取り伝えるスキルを磨くための取り組みも続けています。

と同時に、そうしたシンプルな形になった言葉の周りに、常にどれほど「掬われない物事」があるかを感じていくことって大切だなあと思うのです。


奈緒美さんの言葉は、巷に行きかう言説が往々にしてそぎ落としてしまう、子どもたちが見ている世界の本来の豊かさを、思い出させてくれます。

 

奈緒美さん、コメントありがとうございます!

以下に、コメントを載せますね (本文記事にするため改行させていただきました)。


 

 

奈緒美さん:

泣き叫んで癇癪を起す子は、教室にも時々います。そうした子たちに、より適切な「対応」を助ける思慮あるしつけは、とても重要だと実感しています。

わたしは、こうした子に対して、「3つの質問」のような対応をベースとしながら、これまでの自分の経験に基づいた勘を使って接しています。「これまでの経験に基づいた勘」のひとつは、こうした激しさを持つ子に対する『期待感』です。

虹色教室には武勇伝として語り継ぎたいほどの癇癪もちが何名かいました。(プラスチックの)椅子を投げた2人の男の子たちは、頭脳明晰で創造的で精神的に大人びた優しい子へと成長しました。小2、小3まで床を転がりまわるような癇癪を起していた子らも、自発的で利発で心が広い女の子たちに成長しました。2歳の時に、教室のカーペットを全部引っぺがしてあたり散らすほどの激しさを持っていた子も、4歳の時にあんまり癇癪がひどいので、教室内でレッスンできず、親御さんといっしょに2時間歩き回ることになった子も、今はこんなにすべての面で優れている子がいるのかと思われるような中学生になっています。

そんなわけで、大人を振り回すほどの激しい感情を、今はコントロール不可だけど、ねばり強さや不可能な状況の打破や高い精神性の獲得などに役立つエネルギーの源として尊重している面もあるのです。

 

もうひとつは、「どうしたらその子に伝わるか」は、激しさはその子自身の内面の葛藤からくるものがほとんどなので、本人の中で納得がいくまで戦わせた後で、その子に潜在するより高い精神的なものに道を譲るのがいいと感じています。つまり、葛藤そのものが、よりその子にとって優れているものが現れようとしていると予感している、くらいの対応です。言葉にするのは難しいですが、いつもうまくいきます。

 


 

 

私:

これまでたくさんの子どもさんに向かわれてきた奈緒美さんの「現実的ですよ」という言葉、頼もしいです。

>「3つの質問」のような対応をベースとしながら、これまでの自分の経験に基づいた勘を使って接して

こられたんですね。

>こうした激しさを持つ子に対する『期待感』
>ねばり強さや不可能な状況の打破や高い精神性の獲得などに役立つエネルギーの源

という言葉、なるほどなあと思います。

「激しさ」を目の当たりにする最中には、特に親子の場合、こちらの感情もかき乱され、ただ嵐が去ってくれと思うものですが、今では、この力の源を見上げるような気持ちが沸きあがることさえあるのです。


それは、親子で「対応」の仕方を学ぶにつれ、今では癇癪というものが随分と落ち着いたということもあるのかもしれませんが、小さな頃から一貫して流れてきた「芯の強さ」のようなものを端々にみる機会も出てきて、ああ、あの癇癪も、この目の前で今いい意味ではっとさせられるようなことも、全ては同じ源から出てきていたんだと、最近しみじみと納得していたからです。

放課後スクールで接してきた子達も、手に負えない暴れ方をすることがあったのですが、どうか適切な対応に出合うことで、あのエネルギーが上手く生かされていって欲しい、そう願っています。



「どうしたらその子に伝わるか」について、

>本人の中で納得がいくまで戦わせた後で、その子に潜在するより高い精神的なものに道を譲るのがいい
>つまり、葛藤そのものが、よりその子にとって優れているものが現れようとしていると予感している、くらいの対応

という言葉、「葛藤」をとことんまで体験したからこそ、開く扉があるというような感覚でとらえました。何となく私なりに分かるように思います。

奈緒美さんの子どもへの対応を見させていただくたび、何をどうどれだけ押すのか引くのかの絶妙のタイミングを学びます。言葉は難しい面がありますね。その子その場の状況によって刻々と絶妙に変化し続ける通りを表すには、「書かれた言葉」というのはあまりにも静態的なのです。

 




奈緒美さん:

「本人の中で納得がいくまで戦わせる」というのは、マイコさんが受け止めてくださった通りでもあるし、言葉足らずできちんと伝わるように書けていなかった次の3つの内容も含んでいます。


1. 激しい感情の爆発を起こしている場合、おそらく、それまで内に溜め込んでいたアウトプットされてこなかったものがいろいろあるはずだと考えています。それは身体的なストレスが積み重なったものかもしれないし、不安や恥ずかしさや寂しさといった別の感情が怒りを隠れ蓑にしているのかもしれないし、成長したい気持ちや理想と自信のなさや恐怖心が互いに引っ張りあっているのかもしれません。

そのどれであったとしても、それまで自分の中にあることを確認しずらかったようなものが、感情の爆発という状況を利用して浮上しているとしたら、それを急いで抑え込むのではなくて、本人がそれが何だったのか静かに眺める余裕ができるまで、こちらの記事にあるような適切な対応をしつつ待ってあげたらいいかな、と思っているのです。

いったん、本気で壊すことは、創造的な行為と結びつきが強いです。心にしても、破壊の後には、変容が待っているのではないか、と子どもたちの姿との関わりの中で感じています。


「本人の中で納得がいくまで戦わせる」という言葉は、そうした変化の途上にある子に時間の猶予を与える意味で使っているところがあります。

目の前のことを何とかしたいというお母さんの思いと実際に子どもが必要としている時間の間にかなりの時間差があるはずなので、わたしが間に入って、そうした言葉やなんやで時間稼ぎをしているところがあるのです。

どんな感情も、まだ外に表して間がないうちは、社会化されていないし、周囲も自分も戸惑うような形で出てしまうものです。ですから、それがちょうどいい塩梅まで変化する間、善悪や価値観に余白を設けて、どちらにも振り切れてもいいようにしておくと、時間とともにバランスがとれてくると思っています。

 

 

2. 子どもの自己肯定感は、褒める行為よりも、その子のダメな部分や弱い部分もあるがままに受容する場合の方が高まると聞きます。癇癪を起す子は敏感な子が多いので、ダメな自分を少しでも出すと罪悪感や自責の念から、さらに感情が荒れていきがちです。

自分の最もダメな部分まで出し切ると、それを完全に受容するような甘いものではなくても、自分の困った一面を出しても、以前と変わらない関係があることに安心し、自然体で物事に取り組みやすくなります。

そのために、正誤や善悪の判断をすぐにくださなず、大人も一度、タブーに近づく必要があると感じています。

それは、その子の持っている個性的な才能や資質が、親や周囲の大人の価値観と相反する場合、さらに重要になると感じています。

 

 

3. わたしの個人的な感覚ももとになっています。

以前も書きましたが、子ども時代のわたしは、おとなしく恥ずかしがり屋で、身体も頭も心も弱弱しい感じの子でした。基本、ボーッとして暮らしているのですが、自分の中に普段の自分とは相容れない気性と考え方をする人格が潜んでいて、何か緊急の事態にぶつかると、その性格がひょっこり出てきて、自分自身がびっくりするということがありました。

その人格は、何ひとつ恐れないほど心が強くて、ずっと昔からある知恵で静かに状況を見極めていこうとする老人のイメージに彩られていました。

大人になってすっかり忘れてはいるけれど、強い気性の子が大人に挑んでくるような場面にぶつかると、自分の内面にかつて感じた老人のイメージを感じることがあるんです。

そうした場面と関わりながら、まるで、トラブルを起こす子どもの力で自分の中に眠っていたものに出番を与えてもらったような、統合する機会を与えてもらったような気持ちになることがあります。

 

奈緒美さんによる補足:

3の話が理由になっていないので、少し補足させてください。わたしの中の強い気質(というか別人格くらいに異なる性質なのです)が、激しい癇癪のような強い出方をする子を相手するのが慣れている面があるのです。


どちらもハイリーセンシティブさと関連があるからなのか、極端に繊細でおとなしい子とも、活発で激しい気性の子とも
気持ちが通じ合いやすいのです。

 

 


私:

「1.」について。激しい感情の爆発とは、それまで溜め込んだものが、一気に流れ出している状態。外に出すことで、子ども自身も、それが何であったのかを眺めることができるようになり、変容する機会にもなり得る。そのため急いで抑え込んでしまっては、せっかくの変化の流れをせき止めてしまうことにもなりかねない。

奈緒美さんは、目の前のうねりをおさめようと躍起になる親御さんと、変容を遂げようとする子どもさんの間に立ち、「好機」がより生かされるよう調整役を担っているんですね。

>善悪や価値観に余白を設けて、どちらにも振り切れてもいいようにしておくと、時間とともにバランスがとれてくる

「この時間と共にバランスがとれてくる」のを待つのが、親として難しいんですよね。私自身今は上の子達も大きくなり、「バランスがとれてくる状態」というのが体験として分かるからこそ、以前よりはできるようになったわけですが。

ネットでも実際の教室でも、奈緒美さんのような姿勢に触れられる人々は幸せだと思います。

 


「2.」について。褒められ、「自分はできる!」という気持ちを抱くことも大切ですが、失敗しようがうまくいかなかろうがどんな自分であっても受け入れてもらえるという気持ちは、その子を根本的に支える力となりますね。

癇癪を起こす子には「敏感な子」が多いというの、我が家もですが、これまで出会ってきた子達を思っても、まさしくです。「強烈に感じる」からこそなんですよね。放課後スクールでは「落ちこぼれ」とされる子も多くいたのですが、その「敏感さ」をひしひしと感じていました。

>ダメな自分を少しでも出すと罪悪感や自責の念から、さらに感情が荒れていきがちです。

ああ、よく分かります。そこへ、

>自分の困った一面を出しても、以前と変わらない関係があることに安心し、自然体で物事に取り組みやすくなります。

といった関係があることに、どれほど救われるか。

ですから、ここでも、急いで目の前の爆発を押さえ込んでしまっては、こうした過程を経る機会が生かせなくなってしまうんですよね。

>正誤や善悪の判断をすぐにくださなず、大人も一度、タブーに近づく必要がある

親との関係であっても、教室という場であっても、大人との関係の中で、こうした過程を経ることができた体験は、その子にとって大きな宝となると思います。 

 

ふと、これって「通過儀礼」のようだなあと思いました。タブーもお構いなしの「無礼講」を通ることで、一回り成長した姿で日常の秩序へと着地していく。(*)

>子の持っている個性的な才能や資質が、親や周囲の大人の価値観と相反する場合、さらに重要になる

私自身、我が家の子どもとの関係の中で、この言葉の意味がよくわかります。振り返っても、記念すべき「通過儀礼」を何度か通ってきましたよ。(笑)

 

(*)世界中の様々な地域で、「通過儀礼」には、乱痴気騒ぎお祭り騒ぎで明け方までお酒を飲んだり騒いだり、社会的な縦の関係や男女関係などの普段の秩序をひっくり返した「無秩序状態」を通る事例が記録されています。「通過儀礼」のこうした特徴は、文化人類学者によって、「分離」→「移行」(無秩序)→「統合」と理論化されています。

 



「3.」について。 そして、こうした子どもの感情の爆発に関わる一連のことも、子どもに接する大人にとって大きな意味を持っているということ、私なりによく分かります。

恥ずかしがりやで弱弱しくも見えた子ども時代の奈緒美さんが、同時に自らの気性として感じることのあった「何ひとつ恐れないほど心が強くて、ずっと昔からある知恵で静かに状況を見極めていこうとする老人のイメージ」。

子どもの激しさに触れるたび、そうした「芯の強さを象徴するようなイメージが顔を出し」、それはまるで「自分の中に眠っていたものに出番を与えてもらったような、統合する機会を与えてもらったような気持ち」になられると。

子育てから少し離れますが、一昔前は、文化人類学の「フィールドワーク」でも、対象を上から目線で一方的に観察し「民族誌」としてまとめることが主流だったんです。「あなた達はこんな文化ですよ」と。

近年は、「それは違うだろう」という流れが出てきたんです。「対象と交わることで、互いに変容するんですよ」と。そこで、文化人類学者自身が現地の人々と暮らすことでどんな影響を受け、対象もどんな変化を遂げたのか、それらをひっくるめて「民族誌」とまとめるような試みも出てきたんです。

子どもに関わる大人との関係も、上から目線の一方通行ではなく、互いに変容していく。子育てとは、「親も子も変容する過程」、そんな視野をもって子どもに向き合っていくことで、大人側も柔軟さを思い出せたり、楽になることもあるのかもしれないな、そんなことを感じています。

 



 

さて、怒涛の週末が始まります。

しかも夫、他州出張。肩の力抜いて、楽しみますね。

みなさん、喜び溢れる週末を!

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4 コメント

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通過儀礼 (奈緒美)
2017-02-11 22:01:10
>「通過儀礼」のこうした特徴は、文化人類学者によって、「分離」→「移行」(無秩序)→「統合」と理論化されています。
というお話、興味深かったです。
「フィールドワーク」のお話も。
先日、息子が、「このごろ、お母さんがよく口にしているから、人類学って言葉がよく目に飛び込んでくるようになったよ」とつぶやいていました。
Tomoe (興味深いやりとりのシェアありがとうございます。)
2017-02-12 11:11:51
私も息子も激情型の人間なので、なんだか反応してしまい正直この文章を読むのに3回ほどトライしてやっと最後まで辿りつけました。
通過儀礼という言葉、とてもしっくりきます。そして、混沌の後に統合が起きるということは数々の神話で語られていることですが、子育てにおいても本当にそうですね。
真実を伝えるためにフィクションを生み出した人間の力を感じます。
そして調整役のような奈緒美先生に出会えた方の幸運を思うとともに、私自身はお母さんが自分のトラウマを克服したり自分を完全に受け入れる(ダメな自分も全部受け止める)ことができれば、たとえ子供と別のタイプであったとしてもこれまでと違う対応が取りやすくなると考えています。
奈緒美さん、コメントありがとうございます! (マイコー)
2017-02-14 06:39:14
「通過儀礼と子育て」について頭をかけめぐり、週末も『儀礼の過程』関連の本を片手に走り回ってましたよ。(笑)

いつもインスピレーションをありがとうございます。

そしてまた常々思うのですが、息子さんは、奈緒美さんと、感性面でも強いつながりをもたれているんですね。息子さんの歩み、本当に楽しみです。
Tomoeさんへ、コメントありがとうございます! (マイコー)
2017-02-14 07:59:40
この記事をまとめながら、私自身、またひとつ扉を開けたような気持ちがしていました。

>「混沌の後に統合が起きるということは数々の神話で語られている」
「真実を伝えるためにフィクションを生み出した人間の力」

本当ですね。この「混沌」をどう子育てに生かしていくのかというのが、子育てでもとても大切になってくると思うのです。混沌は確かに「危険」なのですが、活力や成長の源でもあるわけですから。

「通過儀礼」というコンセプトは、子ども達に接しつつ感じてきながらも、上手く表せなかったことに、言葉を与えてくれます。


「秩序」と「混沌」のせめぎ合いの間で調整役になるには、自身がその境界を行き来してきていることが助けになると思います。

>「お母さんが自分のトラウマを克服したり自分を完全に受け入れる(ダメな自分も全部受け止める)ことができれば、」

トラウマを克服したり、自分のだめさや足りなさをも包み込めるようになるには、一旦自分自身も何もかも崩れ落ちる「混沌」を通る必要があるのかもしれません。それでも微笑む力を得る時、一回り大きくなった自分として「統合」されていく。

イメージ的な話になりますが、そんなことを感じています。より具体的に表していきたいですね。Tomoeさん、ありがとうございます!

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