発達が気がかりな子たちのユースホステルでのレッスンに
小学4年生の◆ちゃんという女の子が参加していました。
人と関わることが上手で、年下の子たちの面倒見がよく、
物作りが大好きで積極的な子です。
知的なゆっくりさんとは聞いていましたが、自分の頭で判断してさまざまなことに
取り組む様子や感情豊かで流暢におしゃべりする外見からは、
ハンディーキャップがあるようには少しも見えない子です。
ただ いったんペーパー上の学習に入ったとたん◆ちゃんの極端に苦手な部分が
浮かび上がってきました。
たとえば、円の半径なども、「これが円の半径」ときちんと理解していても、
円がふたつ重なっている図から、半径の部分を見つけだすことができません。
25-7のような計算も、「9?」「じゃぁ、16?」といったどういう筋道で
考えだしたのかわからない答えを連発します。
◆ちゃんのお母さんによると、幼稚園の年長のとき、5までの数の認識が怪しかった
そうなのです。でも、そのときは、「学校に入れば簡単な計算から習うのだから
ついていけるはず」と軽く捉えていて、気にもしていなかったそうなのです。
それで、いざ小学校に就学してみると、あれもこれもできなくて、
ほとほと困り果ててしまったそうなのです。
レッスン中、私は◆ちゃんに、
「250円持っていました。120円を使うと、残ったお金はおくらでしょう?」
という問題を出しました。
すると◆ちゃんは「えっ、90円? ちがう100円かな?」と適当な答えを
繰り返しました。
そこで、私がホワイトボードに10円玉の絵を25個描いて、120円分消すように
告げました。すると、きちんと作業して、「130円」と正しい答えが言えました。
その姿から、10円を1としてでなく、10の塊として捉えて考えられることや、
自分がするべきことを把握して、ちゃんとできることがわかりました。
一方、どんな小さな数も1から順番に数えるなど数の概念の基盤のもろさも
伺えました。
◆ちゃんはもともと数の概念の理解に何らかのハンディーキャップがあったのでしょう。
でも、それだけではなく幼児期にそうした数の概念の弱さに気付かれず、
数の概念のインプット量が極端に少なかったことも、現在の困難を大きくしているように
感じました。
幼児期にワークで数字だけを操作する計算はする必要はありませんが、
物を数えたり、分けたり、合わせてみたり、もともとあった量を推理してみたり、
七並べなどの簡単なトランプ遊びをすることは大切だと感じています。
そうした数の概念の基盤がないままに、いくらゆっくりと計算方法を習っても、
覚えては忘れ覚えては忘れして、定着しなくなるからです。
◆ちゃんに算数を教えるとき、
① できないところだけでなく、できることに注目すること
② 将来、生活上で困りそうなことを繰り返し教えること
③ 根本的なハンディーキャップをつきとめること
が大切だと思いました。
「できないところだけでなく、できることに注目する」というのは、◆ちゃんでしたら、
◆ちゃんは人と関わることが上手なので、相手から求められている大枠の部分の理解力は
優れていていたので、そこに着目して教え方を工夫するのです。
ある面、物分かりがいいのです。
それこそ、目に見える形で、扱う対象を書いてあげたり、表を用意すると、
それに助けてもらう形なら、けっこう難しい問題も解けていました。
これから つまずいたとき、本人がどのような行動を取ればよいのか、
どんなタイミングで誰に助けを求めたらいいのかを教えるヒントももらえます。
「将来、生活上で困りそうなことを繰り返し教える」というのは、◆ちゃんのように
外からハンディーのわからない子は、将来、「できて当然」ということを次々と
突き付けられて生活していくことになるはずなので、
そのための準備をしておくということです。
ごく少ない金額のおつりの計算や、わからない時の対応の仕方、
「あと30分後に会いましょう」といった約束を果たせる力、
切符の買い方など、できないと困りそうなことは、
助けの求め方も含めて何度も練習していく必要があると思います。
「根本的なハンディーキャップをつきとめること」について、◆ちゃんに教えていて
感じたのは、「5つまでの数の操作も、頭の中でイメージすることができない」
ということです。
目に見える形に書きだしたものも、1から数えていました。
こうした問題は、他の面でも見られるのか、どのくらいの問題があるのか、
訓練でなおらないのか、ていねいに対応していく必要を感じました。
モンテッソーリの数関連の教具のようなものを手作りして使うのもいいかもしれません。
子どものハンディーキャップは、気にかけながらも、見て見ぬふりをしている間に
どんどん時間が過ぎて、学習面で、取り返しがつかないほど危うい土台を作ってしまう
ことになりかねません。
「あれっ?」と感じたら、ていねいに観察する必要があります。
幼児期に、極端に数の概念が怪しい子は要注意です。
耳からの記憶やイメージする力が弱すぎるように感じるときも注意がいります。
といっても、根本的なハンディーキャップは、早期発見と訓練でなおるのかというと、
そう簡単にはいかないはずです。
本人の困り感を減らす支援をしつつ、訓練してもなおらないからといって
深刻に思い悩む必要もないと感じています。
人間、他人よりできない部分があると、それによって発達する部分もあるということを
私自身、身を持って体験しているからです。
私は診断こそ受けていませんがADDなのか、LDなのか、
子どもの頃から、発達のでこぼこが大きく他の子のようにできないことがいろいろあって、
それなりに大変でした。
大人になって気付いたことですが、問題のほとんどは聴覚に関わることでした。
耳が聞こえにくいわけではないのですが、
聴覚に関することで、同時にふたつのことを処理することができず、
何かしているときには、耳が聞こえなくなるし、騒がしい場所で必要な音を拾うことが
できないのです。
また、耳で記憶したことは、どんなに確実に覚えていると思ったものも、
しょっちゅうど忘れして恥ずかしい思いもしました。
ただ、メロディーの耳コピーは得意だったり、とても繊細な音の違いを聞き分けること
はできていたので、
ピアノの先生からは情感を込めて表現力豊かに弾くことができると褒められてもいて、
周囲の人も私自身も聴覚のハンディーがあるとは思ってもいませんでした。
それで、子ども時代の学校生活は、かなり大変でした。
でも、そのおかげで良いこともありました。
というのも、聴覚に関わることに困難があるので、もともと得意な視覚の能力に
いっそう磨きをかけることとなったのです。
耳からの記憶に不安がある分、言葉を目からインプットすることがとにかく好きで
いつの間にか、本をいくら読んでも苦にならなくなっていました。
また、耳で聞いたことを記憶にとどめる困難が原因なのか、
ある時期まで思ったことを言葉で表現することもすごく苦手だったものの、
一方で文章の意味理解は、おませなほどに得意でした。
ですから、聞く話すに多少の困難はあったものの、小学生時代から大人向けの本であっても、
正確に意味を理解していたように思います。
私のもうひとつのハンディーは不器用で、
物を手にしていても、気が散るとたちまち落としてしまったり、
家庭科の授業でする手芸などの作業は目立って苦手でした。
よくぶつかり、よく転び、よくものをこぼしていました。
一方で、幼児期から絵を描いたり工作したり楽器を奏でたりするのは得意だったで、
周囲の人も私自身も不器用なのか器用なのかさっぱりわからずじまいでした。
それにしても、そうした不器用さはいくら注意をされても、
性格はまじめなのにも関わらずなおりませんでした。
家庭科や体育だけで私に関わっていた先生方は、私があまりにできないので、
ちょっと知恵が遅れているのかと思っていたようで、
他の子から「○さんは、~が得意よ」と聞いて、びっくりした様子で、
「えっ、○さんにも得意なことなんてあるの?」と言ったことがあるくらいです。
(それくらい、恐ろしくできなかったのか……と納得)
今から振り返ると、適切なアドバイスがあれば修正できたはずなのに、
ハンディーの内容をていねいに見極めないままあれこれ言われるので、
よけいにできなくなっていたな~と感じています。
それ以外にも時間の感覚に鈍さや、たくさんの刺激がある場所では、その全てに反応して
しまって、近くにあるものも見えなくなる、順序立てて物事を処理することが
苦手などにも困り感を抱えていました。
たとえささいなハンディーキャップであっても、
集団行動をするときには、できないで困ることや叱られることがたくさん生じてきます。
たとえば、聴覚に問題があると、悪気はなくても、
言われたことのふたつにひとつは必ずといっていいほど忘れてしまうのです。
そこで、叱られ続けると、自己肯定感が下がって、何事も投げやりになってきます。
ハンディーキャップとはずれたアドバイスをたくさんされると、
今度は他の人のアドバイスにきちんと従わないからという理由で人間関係が悪化します。
そのように誤解に基づく辛い経験はたくさんするものの、
ハンディーキャップそのものがそれほど悪いものかというと、
私はそうとも感じていないのです。
というのも、
聴覚の何らかの問題ゆえに聞く話すでいまだに少しは困ることもあるのですが、
そのおかげなのか、読むことと書くことは毎日していても苦にならないのです。
おそらくハンディーを補う形で、視覚に関わる力はハンディーがない人以上に
発達しているように思います。
おかげで、細部にいたるまで視覚的なイメージを頭に思い浮かべることが得意になって
数学を解くときや絵を描いたり物を作ったり、仕事であったことを振り返ったりするとき
映画を見るように記憶を再現できて便利です。
子どもに「ハンディーキャップがあるのかな?」と感じるとき、
ついそうでなければいいのに……という思いが勝って、そのまま見過ごしてしまいがちです。
でも、本当にハンディーキャップがある場合、どんなささいなものでも、
それが原因に次なる困難が生まれ、2次障害につながりやすいです。
四六時中、自分のハンディーキャップとつきあいながら
行動しなくてはならない子どもは、かなり困っているはずです。
問題をていねいに見つめて、先の困難を予見して
きちんと対応しておく必要があるように思います。
簡単になおせないことは、他の方法でそれができるように手立てを考えてあげ、
叱られ過ぎたり、自己肯定感が下がらないような配慮も必要です。
そうしてていねいに対応しておけば、あとはそれを悲観して悩まなくても、
子どもなりにそれを補う機能を発達させて、
自分らしくいきいきと生きていくのではないでしょうか。
今日は長々と遅くまでお話しさせていただき、ありがとうございました。
先生とお話しさせていただいたことで、
私の心にモヤモヤとあった
息子に対する心配や不安が軽くなり、
常に心にかかっていた霧のようなものが、晴れたように思います。
生活の中でもワーキングメモリーの弱さを感じたり、階段を降りるとき左右の足を交互に出して降りることがまだぎこちなかったり、
体の不器用さなど気になる点は多々あり、心配はつきませんが、少しずつでも成長していってくれていることに感謝しながら
毎日を丁寧に過ごしていきたいと思います。
私自身の息子とのかかわりのさじ加減は難しいですが、息子をみながら、より良い環境にできるように努力していきたいと思います。
息子のことを心配するのも、週1回にします!
これって、きっと本当に大切なことですよね。
大らかな心で、なんとかなる、と思って。
温かく、楽しい時間を一緒に過ごしていこうと思います。
奈緒美先生からはいつも、本当にたくさんの気づきをいただき感謝しています。
この記事もとても勇気付けられました。
足りないものを補っていく、人が持つ本来の能力を信じること。
そしてあるがままを受け入れ、子供がいきいき生きていけるようサポートしていくこと。
大切なことを見失わず、ユーモアを大切に子供との時間を大切にしていきたいです。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。