※ 大変遅くなりましたが 10/27 加筆訂正しました。(特に下の方に戦績表を追加) もう一度お読みいただけますと幸いに存じます。
だいぶ遅くなってしまいましたが、
10月14日にフィギュアスケーター高橋大輔選手が、競技者としての選手生活にピリオドを打つ、 「現役引退」 を表明されました。
この日、彼を中学の時から支え続けた岡山市の 「両備(りょうび)てい園記念財団」 の第36回目となる助成金奨励賞の、 “第一回スポーツ進行奨励大賞” を高橋大輔が受賞することを受け、
その、贈呈式での受賞後の高橋のスピーチに、両備てい園記念財団理事長であり岡山県スケート連盟会長でもある 小嶋光信 さんが、「今後はどうされるんですか?」 と水を向ける形での引退表明発表となった。
そしてその授賞式終了後に、高橋単独の引退会見が行われたのだが、
実はこの授与式に、なんとなく予感めいたものを感じた小嶋さんが高橋本人への出席を求めたところ快諾を受け、表彰式数日前には 「地元岡山でマスコミへ引退を発表する囲み取材を受けたいので協力してほしい」 という要請があったので、極秘で準備してきたものであるらしい。
( 予想を上回る取材の多さに、急きょ直前に正式な引退会見へと変更したらしいが、“両備グループの社名ロゴ入りボード” の前での会見は高橋のたっての希望であったという。 )
スポーツ進行奨励大賞授与式には、高橋大輔を育てた “三人の母”、
生みの親である 高橋清登(きよと)さん、高橋を発掘し世に出した、岡山県スケート連盟理事でもある 佐々木美行(みゆき)監督、彼を中学のころから指導し続けた 長光歌子コーチ (最初長光コーチは出席を辞退したらしいのだが、小嶋氏のたっての希望での出席となったようだ) にも出席してもらい、ささやかなお礼であり花道を作ったと小嶋氏は自身のHPで語っている。
私が、なぜこのようなことを書くかというと、高橋大輔がいかに地元の人々に愛され、また現在は大阪に住み、そこを拠点にしている高橋自身も地元のことをいつも気にかけ大切にしているか、ということを伝えたいからなのだが、
少なくとも、彼が引退を表明した場というものが、普通とは違っていたため、
彼が受けたのは一体どのような表彰式であり、果たしてあの場に居合わせた人たちは、めでたい表彰の場で突然の引退表明をされて戸惑ってはいなかったのだろうか、との思いで、
世間では全くと言っていいほど注目されていなかった、その背景を調べてみたくなったことによる。
これらのことはすべて、前出の、両備てい園記念財団理事長であり岡山県スケート連盟会長でもある 小嶋光信 さんの、両備グループHPに記載されていた報告書に書かれていたものであるが、
それを読む限りでは、この引退表明は高橋からの要請を受けた主催者側が、了解のうえで、しかも両者で極秘に準備をされていたこと、
また、我々一般の人間にとっては突然とも思えた 「引退発表」 が、マスコミにはすでに知れ渡っており、授賞式、引退発表会見とほぼ同時進行で、地元テレビをはじめ各テレビ局でも早くも放送していた (その日の夜には早くも特番ニュース)、 というのが、のちのユーチューブなどで知れるのである。
それほど、フィギュアスケーター高橋大輔の存在は大きく、彼の突然とも思える現役引退のニュースは、日本中はもとより、おそらく全世界を駆け巡り、衝撃を与えたことと思われる。
もちろん、高橋がソチ五輪後の世界選手権を欠場し、1年間の休養宣言をした時から、2つに一つは 「引退」 の二文字をその先に受け入れる覚悟はそれとなくできていたのだろうが、
その心のどこか片隅に、「できるならば現役を続けてくれないかなぁ、彼の演技を、競技者としての彼のスケートを、もっともっと見ていたいものだ」、「彼のいない日本フィギュア界など想像できない」 などの気持ちが、ファンならずとも、誰の気持ちの中にもあったのではないかと思う。
かくいう私もその一人で、シーズン前の引退表明だと思えば、またとない絶好の時期であると思えるのだが、
なんとなく、“1年間の休養” というからには、現役続行か否かの結論は、来年三月くらいまで猶予があるものと勝手に思い込んでいた。
記者会見でも 「(心の)準備がない中で急に発表してしまったことは申し訳ない」 と彼自身が語っていたように、
ずっと悩んできたことだが、9月半ばに自分でも突然の様に、誰にも相談せず、一人で引退を決めたという。
高橋大輔の引退表明は、水面下の葛藤など知らない第三者の私にとっては突然のように思えたので、
これでもう、辛そうな高橋大輔を見ることはないのだし、それを見て一緒に苦しむ必要もないのだな (最後のシーズン終盤で彼が怪我で思うように練習や演技ができなかったことから、つらい場面ばかりが先に来てしまうため) というほっとしたような気持ちも正直まったくないとは言えなかったが、
テレビでの、今までの道のりを振り返る、みたいな特番ニュースを見ていると、やはり寂しさもぬぐえない。
本人は、一、二年はスケートから離れて、これからやりたいこと、次の目標を探していきたい、本当にスケートが好きなのか、やりたいのかを考えたい、などと語り、
引退後すぐの指導者やプロスケーター転向は否定しているようだが、
引退後にアイスショーなどに出れば、それはもうプロスケーターとみなされる、と先日の 『SMAP×SMAP』(スマップ×スマップ) に出演した、先期限りでの引退を表明した鈴木明子と織田信成元スケート選手が言っていたし、
アイスショーに出ないのは、回りが放っておかないであろう。
そして何より、これは会見でも高橋のHPでも彼自身が言っていることなのだが、
フィギュアスケートには、 「引退してからでも一度だけは競技者に戻ることができる」 というルールがあるということ。
自分自身も、競技者として全く未練がないわけではない、と言っている点で、
これは、もしもの場合、競技者に戻ることもあるかもしれない、とあんに匂わせている点である。
「できることなら、ずっと競技者を続けていたいくらい。」 と語ったこともある高橋大輔。
試合に向けて体や調子の波を作っていくこと、何より試合前の緊張感がたまらない、
と、そこから逃れて楽しく滑っていくことを望む選手がおそらく多いであろう (もちろんそれはそれでいいとは思うが)、
また、つらいことすらしたくない我々一般人からは全く考えられないようなことを言ってのけるほどの高橋なので、
好むと好まざるとにかかわらず、彼を象徴するようにつけられた 『ジェットコースターのような競技人生』 に、
突然戻ってきて、 「あれはなんだったんでしょうかね?」 なんてヘラヘラ笑う高橋大輔に、もしかしたら出逢える時がくるかもしれない。
いや、来ないかもしれないが、
でも、そんなこともあるかもな、なんて期待も抱きつつ、今後の彼の動向をゆっくりと遠くから見つめていたいものである。
彼が日本男子フィギュアスケート界のみならずに、フィギュアスケート界全体にしてきた数々の功績は、
既にあちこちで言われてきているので、今さらここで言うことはあえてしない。 (※ 受賞歴については下記参照)
「お疲れ様でした」 とも、まだ言いたくはない。
でも、私のようなしがない一ファンにも、あえて何か言わせていただいてもいいのなら、
高橋大輔は、指導者やコーチや振付師には、本人も言っているように向いていないと思う。
向いていない、というのはいささか語弊があるかもしれないが、高橋には、もっと大きなことをやってほしいし、
どちらかというと陰に回るのではなく、自分が常に 「主役になる存在」 でいてほしいと思う。
プロスケーターには、いづれなっていくのだろうが (なぜならスケートをしない彼の人生などあり得ないから)、 タレント業など言語道断。
あらゆる 「男子フィギュアスケート界日本人初」 を総なめしてきた高橋には、人のやっていないことをしてほしいと思う。
私はずっと以前から、競技生活を引退したら高橋大輔にしてほしいことが一つだけある。
( もちろん、1度でいいから高見沢さんの生ギターで滑ってほしい、という願望もあるけど、そういうこととはまた別の次元のことで )
どのようなことか、今ここで言うのはあまりにも大それているので言えないが、もしも実現したら、きっとすごいことになるだろうだと思う。
おそらく、前代未踏の道であるからだ。 (もちろん、スケートに関することです)
(あーあ、私が大金持ちだったなら、その話を実現すべく協力ができるのに・笑)
高橋大輔は、もともと温暖な土地柄である岡山県で、冬季国体スケート部門で何とか入賞者を出したいと、第60回岡山国体に向けて発掘された強化選手であったという。
( 岡山国体は2005年。高橋は翌2006年にトリノオリンピックを控えた身でありながらも国体に出場、みごと優勝し、岡山県に悲願の「天皇杯」をもたらすのに一役をかった。 )
2002年、世界ジュニア選手権に出場するための壮行会で高橋の擦り切れたスケート靴を見て以来、カンパをしたり (高橋はその世界ジュニアで初出場初優勝する)、助成金を贈呈したりして、陰ひなたなく見守ってきた小嶋さん始め両備グループ、県スケート連盟の方々は、
バンクーバ五輪で高橋が銅メダルを取ると、地元岡山市と彼の生家のある倉敷市の両方で、「凱旋パレード」 と 「祝賀式」 を行い、(※ この時、岡山県、倉敷市より与えられた賞については文末を参照)
今でも
彼のホームリンクだった 「旧倉敷サンピア」 を存続、整えて、いつでも指導者として高橋が岡山倉敷に戻って来れるように、それを願い、準備を整えながら待っているのだという。
ここまで大切にされているのは凄いことだと思う。
スケーターとしての素晴らしい才能だけでなく、高橋大輔の最大の魅力は 「優しくて謙虚な人間性」 と、 そして 「常に地元岡山を大事にしてくれること」 であると小嶋さんは言うが、
自分は岡山に生まれていなければスケートをやっていないと思う、とまで言い切り、
高橋が引退を表明し、再出発をする場所として “地元岡山” を選んだ訳がよくわかるエピソードと言えよう。
「これから何をしたいのかゆっくり考えたい。何をしたいか、その目標になることをみつけたい。」
20年にわたる競技生活のいいこと、悪いこと、つらかったこともすべてが思い出と語る高橋大輔は、
引退か続行か、その、区切りの決断を発表して、実に爽やかな笑顔を見せていた。
「(スケートを)続けるにしてもやめるにしても、いちど(引退という)一区切りをつけないと前に進めない。」
というのは、いかにもまじめで真摯な高橋らしいではないか。
まだ、この言葉を言うのは早いかもしれないが、
これからの道のりは、長く苦しいこともあるかもしれない。
それでも高橋大輔には、やはり笑顔が一番似合うと思う。
人の後ろではなく、常に先頭をこれからも歩んでいってほしいものである。
なぜなら、それこそが高橋大輔に、最も似合う場所であるから。
君よ、光の中をゆけ・・・
冒頭写真 10/15 スポーツニッポン、スポーツ欄より。
10/15 朝日新聞 一面(左)、スポーツ欄より。
10/15 日本経済新聞 43面(左)など、より。
※ 内容は、一部両備グループ理事小嶋光信さんの書いた当HP文面を参照させていただきました。
そして、そうはいっても、やはりこれを抜きには語れないので、書いておきます。
高橋大輔がしてきた、 『日本男子フィギュアスケート初』 の偉業の数々
・2002年 世界ジュニア選手権 初出場で優勝
・2007年 世界選手権 銀メダル
・2010年 バンクーバーオリンピック 銅メダル
・2010年 世界選手権 優勝
・2013年 グランプリファイナル 優勝
☆冬季五輪3大会連続出場で、全てが入賞
☆全日本選手権 01-02シーズン~13-14シーズンの12年連続出場、
うち05-06~12-13は7回連続表彰台 (05-06~09-10まで4大会連続優勝)
( ※ 08-09シーズンは怪我のため欠場しているので厳密にいうと連続ではないが、出場する限りではという意味 )
こう書くと、いかに高橋大輔が、長く日本男子フィギュア界を常にエースでトップとして走り続け、けん引してきたかがわかる。
女子に比べて人気の低い男子フィギュアの魅力をもっと伝えたい、男子フィギュアファンを少しでも増やしたい、
そう思いながらひたすら頑張ってきた高橋の輝かしい活躍、功績は、男子フィギュア人気を、文字通りここまで高めた要因だといっても過言ではない。
上記ではつい、あのように述べてしまいましたが・・・、
改めまして
高橋大輔選手、 長い間、ほんとうにお疲れ様でした。
ゆっくり休んで、これからの長い人生のよき 「道」 を、じっくりと探してくださいね。
付記
« 高橋大輔に与えられた岡山県、倉敷市での賞 »
・2010年、岡山県に新設された「県民栄誉賞」の第1号を受賞。
(バンクーバー五輪日本人男子初の銅メダル獲得ならびに「右ひざの大けがを克服しての快挙で、県民に大きな感動と勇気を与えてくれた。県民の誇りとなる素晴らしい功績」により)
・2007年、創設されたばかりの「県スポーツ特別顕賞」で第1号受賞者。
(同年3月、世界選手権で日本人男子初の銀メダル獲得により。これまで県は女子マラソンの有森裕子、体操の水鳥寿思ら五輪メダリストに「県スポーツ栄誉賞」を授与してきたが、新たに「五輪等世界大会での顕著な活躍」を対象とした同賞を創設した。)
・2010年、上記理由により、二度目の同賞を獲得。
・2010年、倉敷市「市民栄誉賞」(同上理由)を元プロ野球選手、星野仙一氏に続き二人目の受賞。
※ なお、岡山県「県民栄誉賞」と「県スポーツ特別顕賞」は高橋大輔活躍の栄誉をたたえるために作られた賞である。
だいぶ遅くなってしまいましたが、
10月14日にフィギュアスケーター高橋大輔選手が、競技者としての選手生活にピリオドを打つ、 「現役引退」 を表明されました。
この日、彼を中学の時から支え続けた岡山市の 「両備(りょうび)てい園記念財団」 の第36回目となる助成金奨励賞の、 “第一回スポーツ進行奨励大賞” を高橋大輔が受賞することを受け、
その、贈呈式での受賞後の高橋のスピーチに、両備てい園記念財団理事長であり岡山県スケート連盟会長でもある 小嶋光信 さんが、「今後はどうされるんですか?」 と水を向ける形での引退表明発表となった。
そしてその授賞式終了後に、高橋単独の引退会見が行われたのだが、
実はこの授与式に、なんとなく予感めいたものを感じた小嶋さんが高橋本人への出席を求めたところ快諾を受け、表彰式数日前には 「地元岡山でマスコミへ引退を発表する囲み取材を受けたいので協力してほしい」 という要請があったので、極秘で準備してきたものであるらしい。
( 予想を上回る取材の多さに、急きょ直前に正式な引退会見へと変更したらしいが、“両備グループの社名ロゴ入りボード” の前での会見は高橋のたっての希望であったという。 )
スポーツ進行奨励大賞授与式には、高橋大輔を育てた “三人の母”、
生みの親である 高橋清登(きよと)さん、高橋を発掘し世に出した、岡山県スケート連盟理事でもある 佐々木美行(みゆき)監督、彼を中学のころから指導し続けた 長光歌子コーチ (最初長光コーチは出席を辞退したらしいのだが、小嶋氏のたっての希望での出席となったようだ) にも出席してもらい、ささやかなお礼であり花道を作ったと小嶋氏は自身のHPで語っている。
私が、なぜこのようなことを書くかというと、高橋大輔がいかに地元の人々に愛され、また現在は大阪に住み、そこを拠点にしている高橋自身も地元のことをいつも気にかけ大切にしているか、ということを伝えたいからなのだが、
少なくとも、彼が引退を表明した場というものが、普通とは違っていたため、
彼が受けたのは一体どのような表彰式であり、果たしてあの場に居合わせた人たちは、めでたい表彰の場で突然の引退表明をされて戸惑ってはいなかったのだろうか、との思いで、
世間では全くと言っていいほど注目されていなかった、その背景を調べてみたくなったことによる。
これらのことはすべて、前出の、両備てい園記念財団理事長であり岡山県スケート連盟会長でもある 小嶋光信 さんの、両備グループHPに記載されていた報告書に書かれていたものであるが、
それを読む限りでは、この引退表明は高橋からの要請を受けた主催者側が、了解のうえで、しかも両者で極秘に準備をされていたこと、
また、我々一般の人間にとっては突然とも思えた 「引退発表」 が、マスコミにはすでに知れ渡っており、授賞式、引退発表会見とほぼ同時進行で、地元テレビをはじめ各テレビ局でも早くも放送していた (その日の夜には早くも特番ニュース)、 というのが、のちのユーチューブなどで知れるのである。
それほど、フィギュアスケーター高橋大輔の存在は大きく、彼の突然とも思える現役引退のニュースは、日本中はもとより、おそらく全世界を駆け巡り、衝撃を与えたことと思われる。
もちろん、高橋がソチ五輪後の世界選手権を欠場し、1年間の休養宣言をした時から、2つに一つは 「引退」 の二文字をその先に受け入れる覚悟はそれとなくできていたのだろうが、
その心のどこか片隅に、「できるならば現役を続けてくれないかなぁ、彼の演技を、競技者としての彼のスケートを、もっともっと見ていたいものだ」、「彼のいない日本フィギュア界など想像できない」 などの気持ちが、ファンならずとも、誰の気持ちの中にもあったのではないかと思う。
かくいう私もその一人で、シーズン前の引退表明だと思えば、またとない絶好の時期であると思えるのだが、
なんとなく、“1年間の休養” というからには、現役続行か否かの結論は、来年三月くらいまで猶予があるものと勝手に思い込んでいた。
記者会見でも 「(心の)準備がない中で急に発表してしまったことは申し訳ない」 と彼自身が語っていたように、
ずっと悩んできたことだが、9月半ばに自分でも突然の様に、誰にも相談せず、一人で引退を決めたという。
高橋大輔の引退表明は、水面下の葛藤など知らない第三者の私にとっては突然のように思えたので、
これでもう、辛そうな高橋大輔を見ることはないのだし、それを見て一緒に苦しむ必要もないのだな (最後のシーズン終盤で彼が怪我で思うように練習や演技ができなかったことから、つらい場面ばかりが先に来てしまうため) というほっとしたような気持ちも正直まったくないとは言えなかったが、
テレビでの、今までの道のりを振り返る、みたいな特番ニュースを見ていると、やはり寂しさもぬぐえない。
本人は、一、二年はスケートから離れて、これからやりたいこと、次の目標を探していきたい、本当にスケートが好きなのか、やりたいのかを考えたい、などと語り、
引退後すぐの指導者やプロスケーター転向は否定しているようだが、
引退後にアイスショーなどに出れば、それはもうプロスケーターとみなされる、と先日の 『SMAP×SMAP』(スマップ×スマップ) に出演した、先期限りでの引退を表明した鈴木明子と織田信成元スケート選手が言っていたし、
アイスショーに出ないのは、回りが放っておかないであろう。
そして何より、これは会見でも高橋のHPでも彼自身が言っていることなのだが、
フィギュアスケートには、 「引退してからでも一度だけは競技者に戻ることができる」 というルールがあるということ。
自分自身も、競技者として全く未練がないわけではない、と言っている点で、
これは、もしもの場合、競技者に戻ることもあるかもしれない、とあんに匂わせている点である。
「できることなら、ずっと競技者を続けていたいくらい。」 と語ったこともある高橋大輔。
試合に向けて体や調子の波を作っていくこと、何より試合前の緊張感がたまらない、
と、そこから逃れて楽しく滑っていくことを望む選手がおそらく多いであろう (もちろんそれはそれでいいとは思うが)、
また、つらいことすらしたくない我々一般人からは全く考えられないようなことを言ってのけるほどの高橋なので、
好むと好まざるとにかかわらず、彼を象徴するようにつけられた 『ジェットコースターのような競技人生』 に、
突然戻ってきて、 「あれはなんだったんでしょうかね?」 なんてヘラヘラ笑う高橋大輔に、もしかしたら出逢える時がくるかもしれない。
いや、来ないかもしれないが、
でも、そんなこともあるかもな、なんて期待も抱きつつ、今後の彼の動向をゆっくりと遠くから見つめていたいものである。
彼が日本男子フィギュアスケート界のみならずに、フィギュアスケート界全体にしてきた数々の功績は、
既にあちこちで言われてきているので、今さらここで言うことはあえてしない。 (※ 受賞歴については下記参照)
「お疲れ様でした」 とも、まだ言いたくはない。
でも、私のようなしがない一ファンにも、あえて何か言わせていただいてもいいのなら、
高橋大輔は、指導者やコーチや振付師には、本人も言っているように向いていないと思う。
向いていない、というのはいささか語弊があるかもしれないが、高橋には、もっと大きなことをやってほしいし、
どちらかというと陰に回るのではなく、自分が常に 「主役になる存在」 でいてほしいと思う。
プロスケーターには、いづれなっていくのだろうが (なぜならスケートをしない彼の人生などあり得ないから)、 タレント業など言語道断。
あらゆる 「男子フィギュアスケート界日本人初」 を総なめしてきた高橋には、人のやっていないことをしてほしいと思う。
私はずっと以前から、競技生活を引退したら高橋大輔にしてほしいことが一つだけある。
( もちろん、1度でいいから高見沢さんの生ギターで滑ってほしい、という願望もあるけど、そういうこととはまた別の次元のことで )
どのようなことか、今ここで言うのはあまりにも大それているので言えないが、もしも実現したら、きっとすごいことになるだろうだと思う。
おそらく、前代未踏の道であるからだ。 (もちろん、スケートに関することです)
(あーあ、私が大金持ちだったなら、その話を実現すべく協力ができるのに・笑)
高橋大輔は、もともと温暖な土地柄である岡山県で、冬季国体スケート部門で何とか入賞者を出したいと、第60回岡山国体に向けて発掘された強化選手であったという。
( 岡山国体は2005年。高橋は翌2006年にトリノオリンピックを控えた身でありながらも国体に出場、みごと優勝し、岡山県に悲願の「天皇杯」をもたらすのに一役をかった。 )
2002年、世界ジュニア選手権に出場するための壮行会で高橋の擦り切れたスケート靴を見て以来、カンパをしたり (高橋はその世界ジュニアで初出場初優勝する)、助成金を贈呈したりして、陰ひなたなく見守ってきた小嶋さん始め両備グループ、県スケート連盟の方々は、
バンクーバ五輪で高橋が銅メダルを取ると、地元岡山市と彼の生家のある倉敷市の両方で、「凱旋パレード」 と 「祝賀式」 を行い、(※ この時、岡山県、倉敷市より与えられた賞については文末を参照)
今でも
彼のホームリンクだった 「旧倉敷サンピア」 を存続、整えて、いつでも指導者として高橋が岡山倉敷に戻って来れるように、それを願い、準備を整えながら待っているのだという。
ここまで大切にされているのは凄いことだと思う。
スケーターとしての素晴らしい才能だけでなく、高橋大輔の最大の魅力は 「優しくて謙虚な人間性」 と、 そして 「常に地元岡山を大事にしてくれること」 であると小嶋さんは言うが、
自分は岡山に生まれていなければスケートをやっていないと思う、とまで言い切り、
高橋が引退を表明し、再出発をする場所として “地元岡山” を選んだ訳がよくわかるエピソードと言えよう。
「これから何をしたいのかゆっくり考えたい。何をしたいか、その目標になることをみつけたい。」
20年にわたる競技生活のいいこと、悪いこと、つらかったこともすべてが思い出と語る高橋大輔は、
引退か続行か、その、区切りの決断を発表して、実に爽やかな笑顔を見せていた。
「(スケートを)続けるにしてもやめるにしても、いちど(引退という)一区切りをつけないと前に進めない。」
というのは、いかにもまじめで真摯な高橋らしいではないか。
まだ、この言葉を言うのは早いかもしれないが、
これからの道のりは、長く苦しいこともあるかもしれない。
それでも高橋大輔には、やはり笑顔が一番似合うと思う。
人の後ろではなく、常に先頭をこれからも歩んでいってほしいものである。
なぜなら、それこそが高橋大輔に、最も似合う場所であるから。
君よ、光の中をゆけ・・・
冒頭写真 10/15 スポーツニッポン、スポーツ欄より。
10/15 朝日新聞 一面(左)、スポーツ欄より。
10/15 日本経済新聞 43面(左)など、より。
※ 内容は、一部両備グループ理事小嶋光信さんの書いた当HP文面を参照させていただきました。
そして、そうはいっても、やはりこれを抜きには語れないので、書いておきます。
高橋大輔がしてきた、 『日本男子フィギュアスケート初』 の偉業の数々
・2002年 世界ジュニア選手権 初出場で優勝
・2007年 世界選手権 銀メダル
・2010年 バンクーバーオリンピック 銅メダル
・2010年 世界選手権 優勝
・2013年 グランプリファイナル 優勝
☆冬季五輪3大会連続出場で、全てが入賞
☆全日本選手権 01-02シーズン~13-14シーズンの12年連続出場、
うち05-06~12-13は7回連続表彰台 (05-06~09-10まで4大会連続優勝)
( ※ 08-09シーズンは怪我のため欠場しているので厳密にいうと連続ではないが、出場する限りではという意味 )
こう書くと、いかに高橋大輔が、長く日本男子フィギュア界を常にエースでトップとして走り続け、けん引してきたかがわかる。
女子に比べて人気の低い男子フィギュアの魅力をもっと伝えたい、男子フィギュアファンを少しでも増やしたい、
そう思いながらひたすら頑張ってきた高橋の輝かしい活躍、功績は、男子フィギュア人気を、文字通りここまで高めた要因だといっても過言ではない。
上記ではつい、あのように述べてしまいましたが・・・、
改めまして
高橋大輔選手、 長い間、ほんとうにお疲れ様でした。
ゆっくり休んで、これからの長い人生のよき 「道」 を、じっくりと探してくださいね。
付記
« 高橋大輔に与えられた岡山県、倉敷市での賞 »
・2010年、岡山県に新設された「県民栄誉賞」の第1号を受賞。
(バンクーバー五輪日本人男子初の銅メダル獲得ならびに「右ひざの大けがを克服しての快挙で、県民に大きな感動と勇気を与えてくれた。県民の誇りとなる素晴らしい功績」により)
・2007年、創設されたばかりの「県スポーツ特別顕賞」で第1号受賞者。
(同年3月、世界選手権で日本人男子初の銀メダル獲得により。これまで県は女子マラソンの有森裕子、体操の水鳥寿思ら五輪メダリストに「県スポーツ栄誉賞」を授与してきたが、新たに「五輪等世界大会での顕著な活躍」を対象とした同賞を創設した。)
・2010年、上記理由により、二度目の同賞を獲得。
・2010年、倉敷市「市民栄誉賞」(同上理由)を元プロ野球選手、星野仙一氏に続き二人目の受賞。
※ なお、岡山県「県民栄誉賞」と「県スポーツ特別顕賞」は高橋大輔活躍の栄誉をたたえるために作られた賞である。
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