「自宅片づけに、プチ燃え・笑」 記事から独立させました。
「自宅片づけに、プチ燃え・笑」 しているとき、色々片づけたり、制作したものの一つ、
東京にいるとき、尊敬していて大好きな、ダンスの真弓先生 (女性です) に差し上げた、手づくりの 「きつねのタオルかけ」 と 「ティッシュBOXカバー」・・・、
ちゃっかり自分用のも作って愛用していましたが、 ※ 写真は下に
タオルかけは実家で使い、もう 「けつねさん」 のお顔もボロボロだし、フックがはずれかけたり、中のゴムやひっかける紐のところが伸びきってしまったのでよほど捨てたいところだったけど・・・
物を大切にする親なので、 「修復」 を試みてみました・・・。
ボロですが、一応不便なところは治りました。
( 後ろに写っているのは、別のタオルかけですので、念のため )
真弓先生にも差し上げて、自分の分もちゃっかり作った 「けつねさんシリーズ」 の、
タオルかけと ティッシュBOXカバー
汚れたり色あせてますが、もっときれいなピンク色に、イエローのバイアステープで縁取りがしてありました。
ティッシュBOXカバーについているのは、ちっちゃな 「けつねさん」 のぬいぐるみマスコット (市販品) です。 かわいいでしょ?
( ティッシュBOXは、今でも書斎で愛用しています。 )
先生がちょっと 「けつねさん」(かつての愛読漫画家:陸奥A子命名? キツネさんのこと) に似ているので(笑)、
「けつねさん」 シリーズのKのお土産 (クリップやその他) なんかも色々プレゼントしました。
あと、
1985年、ユニーク・バレエシアターの発表会で、真弓先生が 「ロッカ バイ カルメン」(ビゼー曲、マックラーレン編曲、堀内完振付) の “カルメン” を踊られた時には、とても感動したので、終演後にフェルトでちっちゃな 「カルメン・マスコット人形」 を作り、
写真のように、先生が黄色の衣装を着ていらしたので、真弓先生には、マスコット人形も、黄色のドレスに赤いバラ (自分のには、赤いドレスに黄色のバラ) を頭につけたのを作って贈りました。
その翌年、86年に発表会でやった 「ジャズ・ミサ曲」(デューク・エリントン ジョン・コルトレーン編曲、堀内完振付) を、明くる87年の公演にて再演した時だと思うのですが、
一度でいいから、大好きな真弓先生に “カーテンコールの時に” 何か差し上げてみたい と思い立ち・・・
お花ではありきたりだから、ここは、意外性を狙って、妖艶な先生の雰囲気とちょっと違う、可愛い人形を贈ろうと思って、抱き人形を製作、
わざわざ前方の通路側の席を取って、そんなことを思いつく割には小心者なので、ドキンチョーで心臓バクバクもんでしたが、カーテンコールの時にお渡ししました。
先生は多分、喜んでくださったかとは思うのですが、ちょっと戸惑ったみたいで・・・
ほんとに何年もたってからようやく、やっぱり意外性を狙うよりもここは、華やかなお花をお渡ししたほうがよかったかもなぁー、と反省した次第です。
( 2000年のユニークバレエシアター公演で、主催者で尊敬していて大好きな堀内完先生が、 『パウル・クレーの一枚の絵』 (武満 徹 曲) を振りつけられて自ら主演された時、
クリスマスパーティーでのお楽しみとかではなく、ちゃんとした舞台でダンサーとしては既に引退されていた完先生が自分で踊られたのを見たのは、後にも先にもその時だけだったと思いますが、
やっぱり勇気を出して、カーテンコールの時に、今度はちゃんと花束をお渡しして、とても喜んでいただけたのがいい思い出です。
カーテンコールで舞台上の方に何かを差し上げたのは、たぶんこの2回だけだと思います。大好きで尊敬する先生方たちなので、勇気を出してぜひ一度は、と思ってやったのだと思います。
完先生の息子さんの堀内充さんも大ファンでしたが、出られた舞台は、新国立劇場などの大きい場所の他のバレエ団などの公演が多かったので、カーテンコールで差し上げられる雰囲気ではなく、楽屋にはいつも必ずお花やプレゼントなどを持っていきましたが、カーテンコールで差し上げたことは、記憶が確かなら多分一度もないかと思います。 )
こちらは、ちょーバズカシイですが・・・
後日、真弓先生のおうちに、イズミ同期で、ユニークにも通っていた仲良し4人組で遊びに行く機会に恵まれ、その時に差し上げた 「タオルかけ=先生のはフックが赤」 と 「ティッシュBOXカバー」 がお部屋にあるのを見つけて大喜び
みんなが、 「ネコタはこんなものを作って贈っちゃうんだからスゴイよ~」 とホメて? くれたので・・・
記念に一緒に写真を撮りました。
真ん中が今でも大好きで尊敬している、美しい 真弓先生、 先生と私が手に持っているのが、けつさねさんのティッシュBOX、
今でも親交の深い、ブログにも時々登場するナオミが頭の上に載せているのが、けつねさんタオルかけです。
憧れの先生の髪形をまねて、髪をソバージュにして、おでこ丸出しのポニーテールにしてました。
( 先生の様にカラーリングはせず、この時はおろしてますが。あと、この髪型、先生なら似合うけどね…
他にも、真弓先生の着ている洋服や靴なども、まねて似てるのを着たりもしてましたね。真弓教信者でしたから・笑。 )
真弓先生はじめ、みんなお顔が小っちゃくてカワイイ (私の上のトモコは専門部卒業公演の主役、右隣ナオミは重要キャスト、真弓先生の右隣、宝塚ファンのユカもサバサバした好きなタイプの子でした) ので、私だけ鉢がばかデカイのが、なおのこと恥ずかしい・・・
あと、大きなヘアリボン、上の写真でもしてますが・・・
80年代とか、当時流行ってたものって、今見ると、ちょーバズイですよね。
あ、でもこの時、先生の寝室のベッドボードに、カルメンの時に差し上げたマスコット人形が吊るしてくれてあったのを発見し、
ダブルで、ちょーちょー、ちょぉぉぉーーー 嬉しかったですったらぁ~
しかし、大好きな方に何かを “手づくり” して差し上げるの、昔から好きだったんですね。
( これは、母譲りで、自分が手作りが好きなためと、手づくりしたものは、きっと相手が喜んでくれるに違いない、と勝手に思っているからで・・・ )
でもね、同じ手作りでも、チョコとか石鹸なら消耗品だからなくなるけど、こういう 「モノ」 として残るものって、自分も子供の頃、今思うと贅沢だし、ヒジョーに申し訳ないのだけど母の手作りに対して若干思ってたことだけど、 「手作り=貧乏くさい」 と思う人もいるみたいだから、どうなんでしょうね?
いつだったか、フィギュアのアッコちゃんのブログに、ファンからプレゼントされたという、買ったみたいに上手な、手作りのアッコちゃん人形 (衣裳もアッコちゃんの着ていたものを忠実に再現) が載っていて、
自分がかつて大ちゃんに贈った、大ちゃん衣装を着た 「スケート・ベアー」 と比べて、あの時は、苦労して作った事も手伝ってか、まあまあうまくできたかと自己満してたのに、全然上をいってる人の作品を見て、ちょー恥ずかしかったですが・・・
自分では作ったこと、差し上げたことに満足してても、相手には大してうまくないのに、悪いから捨てるに捨てられないとか、困ることもあるかもですね~。
( 自分も、お礼とかで手作りの固形物=残るもの、をいただいたことが何度かあり、いただいたときはそのお気持ちが嬉しかったものの、実はちょっと趣味と違って、ゆくゆく困ったこともあったし・・・
真弓先生にさし上げたという、当時は最大級の出来事でも、何十年とたてば、タオルかけとティッシュBOXカバーはまだかろうじてとってあるけど、カルメン・マスコット人形は多分、もうないと思うし・・・ )
一応ね、昔の写真を探してみたらあったので、オマケで載せてみました。
上が、1986年、ユニークバレエシアター公演にて 「カルメン・再演」
下が、カーテンコールの時にお人形を差し上げたときの舞台 「ジャズ・ミサ曲 再演」 です。
真弓先生、
もう舞台では踊られてませんけど (舞台芸術学院他で教えてはいらっしゃる)、 踊りに美しさやドラマ性、風格、気品があって大好きでした。
そして、踊りも素敵でしたが、なんといっても美しくて細くてカッコよくて、
踊りやポーズ一つとっても、何気ない動作でも色っぽくて女らしくてたおやか、妖艶でカッコいいのに、性格やしゃべる口調などは反してサバサバと男?らしく(笑・サバサバした女性が大好き)、
物事の本質をよくとらえられている頭の良さ、判断力を供えもち、プロとしての厳しさがあるから、時としてきついようなバッサリとした物言いをするのだけど、深いところでは、本当の意味で優しくてあったかい、そんなお人柄が大好きなのです。
※ 故いずみたく先生の親友だった
堀内完先生 は、私の通っていた当時、いずみたくミュージカルアカデミーの演出家、振付家であり講師。ユニークバレエシアター主催。貝谷 八百子(かいたに やおこ)バレエ団出身の元バレエダンサー、日本を代表するミュージカル演出家、振付家。(日本におけるミュージカルの先駆け的存在)
確か私の父より一つ下だったと記憶しているので、おそらく1930年生まれで、山梨県出身だったと思う。一時期、山梨で教鞭をとっていたが、夢を捨てきれずに上京したとどこかで読んだ記憶がある。
完先生は上級クラスでしたが、一時期、初級バレエを教えてくださっていたことがあったので、そのときに教えていただいたのがいい思い出です。厳しい中にも明るくユーモアがあったので、とても楽しいレッスンでした。
( 現在は御病気のため 「バレエスタジオHORIUCHI」 として、ご子息の 元と充(双子)、林かおり さんの3姉兄弟が主催、指導に当たっている。
ついでながら、完先生の奥様で堀内3姉兄弟の母でもある秀子先生も、もと東勇作門下のバレエダンサーで、ユニークバレエシアター教師。秀子先生にも習ったことがありますが、私の母と同じ1926年生まれで、ご実家は銀座のおせんべい屋さんだったという。
ちなみに秀子先生ご自身も双子の妹さんがいて、幼少期、二人でバレエを習っていたらしい。双子は遺伝するってホントみたいです。
完先生も秀子先生も、よく考えたらうちの両親とほぼ同じ年なのに、そうとは思えないほど若々しくて、当時は珍しかったバレエをやっていらしたことにビックリします。 )
内御堂真弓先生 は、東京都出身のダンサー、振付家、ダンス教師。宝塚音楽学校卒、宝塚歌劇団を経て、ユニークバレエシアター団員で講師 (完先生の愛弟子)、 イズミでもダンスの講師で、私たちは2年間、イズミで真弓先生にダンスを教えていただいていました。年齢は、確か私より11歳上だったと記憶しています。
ユニークにも通っていたので、他の先生のジャズやバレエのほか、真弓先生のジャズクラスを取っていた時もあります。
※ 自分史と照らし合わせた ≪ 付記 ≫
・1984年4月、大卒二年目、23歳の時に、OLをしながら、夜間にいずみたくミュージカルアカデミーに入学。
その年の8月、ユニークバレエシアター、堀内元&充のニューヨーク留学凱旋公演を見る。
演目は 「卒業記念舞踏会」 と 「ペトルーシュカ」 で、
生まれて初めて、生でバレエの公演を見て、バレエってこんなに楽しいものだったのか、と心底感動して、バレエに開眼するきっかけとなった。
この時から充君のファンになったのだが、堀内兄弟、19歳の時で、よく 「充くんが19の時からファンなのぉー」(シャレ) と言っている。
・イズミ、本科の卒業を経て2年目の専門部が始まるころ、ユニークバレエシアターにも通い始める。
( 50の手習い!? (^^;) ピアノのお稽古 ~ 補足編 ~ 2011年07月24日 | ピアノ・その他音楽 カテゴリー参照 )
その年の7月、ユニークの発表会で、本科のころから大好きな真弓先生の踊る姿を 「ロッカ バイ カルメン」 にて初めて見て、ものすごく感動する。 カルメンマスコット人形を作って贈る。
・1986年、3月にイズミ専門部を卒業。
卒公に向け準備をしていく中で薄々気づいていたのだが、4月から新たに開催される、いずみ先生が無償で指導するという 「いずみたくパフォーミングアーツ」 を受験するも落ちてしまったこともあり、ミュージカルの道を断念するが、
専門部卒公前に辞めていた仕事も、その後OLに復帰していて、ユニークでの真弓先生のクラスは昼間だったので受けられなくなり、
真弓先生に会いたい一心で、イズミの一期下の専門部のダンスレッスンは夜だから、それだけに通わせてもらったり、ユニークにも通い続け、未練がましくその周辺をうろついていたので・・・
その年の5月くらいのユニーク発表会にて、真弓先生が 「ジャズ・ミサ曲」 を踊られているのも見たし、その年の10月の同公演にて 「カルメン・再演」 も見ている。
・1987年5月、ユニークも3年目となり、初めて発表会に出させていただく。
昼間の仕事に復帰していたから、仕事後に夜のレッスンに週3位で通っていた (たぶん、バレエ2のジャズ1位だと思う) うちの、ジャズクラスを担当していた二人の先生のうち、Y先生の振り付け作品で出させていただきましたが、
ナオミ、トモコ、ユカは、真弓先生のクラスを取っていたため、真弓先生の振り付け作品に出させてもらえて、また、みんな一緒で心強そうで、すごく羨ましかったです。
また、この年のバレエ小品集に、大好きなショパン曲の 「レ・シルフィード」 があり、ジャズよりもバレエに気持ち的にのめり込み始めていたので、
大人から始めてまだ数年なので、とてもバレエで発表会に出る実力などないとわかりつつも、もし、バレエのクラスしかとっていなかったら、仕方ないから? バレエで出させてもらえたのかしら、と後悔した。
( 発表会に出る出ないは個人の意思で自由に決められたが、どんな演目に誰が出るか、というのは取っているクラスや実力などを加味して、先生方が決めてくださることだったので。 )
その年の8月には、ニューヨーク・シティ・バレエに入団した、堀内元君の 『帰郷公演』 があり、 「ジャズ ミサ曲」 も再演されたので、その時に、カーテンコールで真弓先生に手作りのお人形をお渡ししたのかと思われます。
・88年ころに、ニューヨーク留学を終えた充君が帰国、バレエ色が強くなり、ジャズの真弓先生はユニークでは出演されるより振付に回り、
同じころイズミの講師を辞められたこともあって、真弓先生ファン待望のご自分のスタジオを開設 (現在は閉鎖)、
91年に完先生の振付、演出のもと、初の単独リサイタルを開きます。
リサイタルは翌92年にも行い、もちろん、両方とも見に行き、大変すばらしくて感動しましたが、
真弓先生はその後、ダンサーとしては舞台に立っておられないと思います。
自分は、ユニークには、1991年の、まだ31歳になる前くらいまで通っており、
その後も、シアターの発表会や公演は毎年、92年暮れにKに戻ってからも、充君の踊り見たさに、しばらくは上京しては見に行っていたと思います。(充君の出演される他の団体の公演は、もちろん)
「自宅片づけに、プチ燃え・笑」 しているとき、色々片づけたり、制作したものの一つ、
東京にいるとき、尊敬していて大好きな、ダンスの真弓先生 (女性です) に差し上げた、手づくりの 「きつねのタオルかけ」 と 「ティッシュBOXカバー」・・・、
ちゃっかり自分用のも作って愛用していましたが、 ※ 写真は下に
タオルかけは実家で使い、もう 「けつねさん」 のお顔もボロボロだし、フックがはずれかけたり、中のゴムやひっかける紐のところが伸びきってしまったのでよほど捨てたいところだったけど・・・
物を大切にする親なので、 「修復」 を試みてみました・・・。
ボロですが、一応不便なところは治りました。
( 後ろに写っているのは、別のタオルかけですので、念のため )
真弓先生にも差し上げて、自分の分もちゃっかり作った 「けつねさんシリーズ」 の、
タオルかけと ティッシュBOXカバー
汚れたり色あせてますが、もっときれいなピンク色に、イエローのバイアステープで縁取りがしてありました。
ティッシュBOXカバーについているのは、ちっちゃな 「けつねさん」 のぬいぐるみマスコット (市販品) です。 かわいいでしょ?
( ティッシュBOXは、今でも書斎で愛用しています。 )
先生がちょっと 「けつねさん」(かつての愛読漫画家:陸奥A子命名? キツネさんのこと) に似ているので(笑)、
「けつねさん」 シリーズのKのお土産 (クリップやその他) なんかも色々プレゼントしました。
あと、
1985年、ユニーク・バレエシアターの発表会で、真弓先生が 「ロッカ バイ カルメン」(ビゼー曲、マックラーレン編曲、堀内完振付) の “カルメン” を踊られた時には、とても感動したので、終演後にフェルトでちっちゃな 「カルメン・マスコット人形」 を作り、
写真のように、先生が黄色の衣装を着ていらしたので、真弓先生には、マスコット人形も、黄色のドレスに赤いバラ (自分のには、赤いドレスに黄色のバラ) を頭につけたのを作って贈りました。
その翌年、86年に発表会でやった 「ジャズ・ミサ曲」(デューク・エリントン ジョン・コルトレーン編曲、堀内完振付) を、明くる87年の公演にて再演した時だと思うのですが、
一度でいいから、大好きな真弓先生に “カーテンコールの時に” 何か差し上げてみたい と思い立ち・・・
お花ではありきたりだから、ここは、意外性を狙って、妖艶な先生の雰囲気とちょっと違う、可愛い人形を贈ろうと思って、抱き人形を製作、
わざわざ前方の通路側の席を取って、そんなことを思いつく割には小心者なので、ドキンチョーで心臓バクバクもんでしたが、カーテンコールの時にお渡ししました。
先生は多分、喜んでくださったかとは思うのですが、ちょっと戸惑ったみたいで・・・
ほんとに何年もたってからようやく、やっぱり意外性を狙うよりもここは、華やかなお花をお渡ししたほうがよかったかもなぁー、と反省した次第です。
( 2000年のユニークバレエシアター公演で、主催者で尊敬していて大好きな堀内完先生が、 『パウル・クレーの一枚の絵』 (武満 徹 曲) を振りつけられて自ら主演された時、
クリスマスパーティーでのお楽しみとかではなく、ちゃんとした舞台でダンサーとしては既に引退されていた完先生が自分で踊られたのを見たのは、後にも先にもその時だけだったと思いますが、
やっぱり勇気を出して、カーテンコールの時に、今度はちゃんと花束をお渡しして、とても喜んでいただけたのがいい思い出です。
カーテンコールで舞台上の方に何かを差し上げたのは、たぶんこの2回だけだと思います。大好きで尊敬する先生方たちなので、勇気を出してぜひ一度は、と思ってやったのだと思います。
完先生の息子さんの堀内充さんも大ファンでしたが、出られた舞台は、新国立劇場などの大きい場所の他のバレエ団などの公演が多かったので、カーテンコールで差し上げられる雰囲気ではなく、楽屋にはいつも必ずお花やプレゼントなどを持っていきましたが、カーテンコールで差し上げたことは、記憶が確かなら多分一度もないかと思います。 )
こちらは、ちょーバズカシイですが・・・
後日、真弓先生のおうちに、イズミ同期で、ユニークにも通っていた仲良し4人組で遊びに行く機会に恵まれ、その時に差し上げた 「タオルかけ=先生のはフックが赤」 と 「ティッシュBOXカバー」 がお部屋にあるのを見つけて大喜び
みんなが、 「ネコタはこんなものを作って贈っちゃうんだからスゴイよ~」 とホメて? くれたので・・・
記念に一緒に写真を撮りました。
真ん中が今でも大好きで尊敬している、美しい 真弓先生、 先生と私が手に持っているのが、けつさねさんのティッシュBOX、
今でも親交の深い、ブログにも時々登場するナオミが頭の上に載せているのが、けつねさんタオルかけです。
憧れの先生の髪形をまねて、髪をソバージュにして、おでこ丸出しのポニーテールにしてました。
( 先生の様にカラーリングはせず、この時はおろしてますが。あと、この髪型、先生なら似合うけどね…
他にも、真弓先生の着ている洋服や靴なども、まねて似てるのを着たりもしてましたね。真弓教信者でしたから・笑。 )
真弓先生はじめ、みんなお顔が小っちゃくてカワイイ (私の上のトモコは専門部卒業公演の主役、右隣ナオミは重要キャスト、真弓先生の右隣、宝塚ファンのユカもサバサバした好きなタイプの子でした) ので、私だけ鉢がばかデカイのが、なおのこと恥ずかしい・・・
あと、大きなヘアリボン、上の写真でもしてますが・・・
80年代とか、当時流行ってたものって、今見ると、ちょーバズイですよね。
あ、でもこの時、先生の寝室のベッドボードに、カルメンの時に差し上げたマスコット人形が吊るしてくれてあったのを発見し、
ダブルで、ちょーちょー、ちょぉぉぉーーー 嬉しかったですったらぁ~
しかし、大好きな方に何かを “手づくり” して差し上げるの、昔から好きだったんですね。
( これは、母譲りで、自分が手作りが好きなためと、手づくりしたものは、きっと相手が喜んでくれるに違いない、と勝手に思っているからで・・・ )
でもね、同じ手作りでも、チョコとか石鹸なら消耗品だからなくなるけど、こういう 「モノ」 として残るものって、自分も子供の頃、今思うと贅沢だし、ヒジョーに申し訳ないのだけど母の手作りに対して若干思ってたことだけど、 「手作り=貧乏くさい」 と思う人もいるみたいだから、どうなんでしょうね?
いつだったか、フィギュアのアッコちゃんのブログに、ファンからプレゼントされたという、買ったみたいに上手な、手作りのアッコちゃん人形 (衣裳もアッコちゃんの着ていたものを忠実に再現) が載っていて、
自分がかつて大ちゃんに贈った、大ちゃん衣装を着た 「スケート・ベアー」 と比べて、あの時は、苦労して作った事も手伝ってか、まあまあうまくできたかと自己満してたのに、全然上をいってる人の作品を見て、ちょー恥ずかしかったですが・・・
自分では作ったこと、差し上げたことに満足してても、相手には大してうまくないのに、悪いから捨てるに捨てられないとか、困ることもあるかもですね~。
( 自分も、お礼とかで手作りの固形物=残るもの、をいただいたことが何度かあり、いただいたときはそのお気持ちが嬉しかったものの、実はちょっと趣味と違って、ゆくゆく困ったこともあったし・・・
真弓先生にさし上げたという、当時は最大級の出来事でも、何十年とたてば、タオルかけとティッシュBOXカバーはまだかろうじてとってあるけど、カルメン・マスコット人形は多分、もうないと思うし・・・ )
一応ね、昔の写真を探してみたらあったので、オマケで載せてみました。
上が、1986年、ユニークバレエシアター公演にて 「カルメン・再演」
下が、カーテンコールの時にお人形を差し上げたときの舞台 「ジャズ・ミサ曲 再演」 です。
真弓先生、
もう舞台では踊られてませんけど (舞台芸術学院他で教えてはいらっしゃる)、 踊りに美しさやドラマ性、風格、気品があって大好きでした。
そして、踊りも素敵でしたが、なんといっても美しくて細くてカッコよくて、
踊りやポーズ一つとっても、何気ない動作でも色っぽくて女らしくてたおやか、妖艶でカッコいいのに、性格やしゃべる口調などは反してサバサバと男?らしく(笑・サバサバした女性が大好き)、
物事の本質をよくとらえられている頭の良さ、判断力を供えもち、プロとしての厳しさがあるから、時としてきついようなバッサリとした物言いをするのだけど、深いところでは、本当の意味で優しくてあったかい、そんなお人柄が大好きなのです。
※ 故いずみたく先生の親友だった
堀内完先生 は、私の通っていた当時、いずみたくミュージカルアカデミーの演出家、振付家であり講師。ユニークバレエシアター主催。貝谷 八百子(かいたに やおこ)バレエ団出身の元バレエダンサー、日本を代表するミュージカル演出家、振付家。(日本におけるミュージカルの先駆け的存在)
確か私の父より一つ下だったと記憶しているので、おそらく1930年生まれで、山梨県出身だったと思う。一時期、山梨で教鞭をとっていたが、夢を捨てきれずに上京したとどこかで読んだ記憶がある。
完先生は上級クラスでしたが、一時期、初級バレエを教えてくださっていたことがあったので、そのときに教えていただいたのがいい思い出です。厳しい中にも明るくユーモアがあったので、とても楽しいレッスンでした。
( 現在は御病気のため 「バレエスタジオHORIUCHI」 として、ご子息の 元と充(双子)、林かおり さんの3姉兄弟が主催、指導に当たっている。
ついでながら、完先生の奥様で堀内3姉兄弟の母でもある秀子先生も、もと東勇作門下のバレエダンサーで、ユニークバレエシアター教師。秀子先生にも習ったことがありますが、私の母と同じ1926年生まれで、ご実家は銀座のおせんべい屋さんだったという。
ちなみに秀子先生ご自身も双子の妹さんがいて、幼少期、二人でバレエを習っていたらしい。双子は遺伝するってホントみたいです。
完先生も秀子先生も、よく考えたらうちの両親とほぼ同じ年なのに、そうとは思えないほど若々しくて、当時は珍しかったバレエをやっていらしたことにビックリします。 )
内御堂真弓先生 は、東京都出身のダンサー、振付家、ダンス教師。宝塚音楽学校卒、宝塚歌劇団を経て、ユニークバレエシアター団員で講師 (完先生の愛弟子)、 イズミでもダンスの講師で、私たちは2年間、イズミで真弓先生にダンスを教えていただいていました。年齢は、確か私より11歳上だったと記憶しています。
ユニークにも通っていたので、他の先生のジャズやバレエのほか、真弓先生のジャズクラスを取っていた時もあります。
※ 自分史と照らし合わせた ≪ 付記 ≫
・1984年4月、大卒二年目、23歳の時に、OLをしながら、夜間にいずみたくミュージカルアカデミーに入学。
その年の8月、ユニークバレエシアター、堀内元&充のニューヨーク留学凱旋公演を見る。
演目は 「卒業記念舞踏会」 と 「ペトルーシュカ」 で、
生まれて初めて、生でバレエの公演を見て、バレエってこんなに楽しいものだったのか、と心底感動して、バレエに開眼するきっかけとなった。
この時から充君のファンになったのだが、堀内兄弟、19歳の時で、よく 「充くんが19の時からファンなのぉー」(シャレ) と言っている。
・イズミ、本科の卒業を経て2年目の専門部が始まるころ、ユニークバレエシアターにも通い始める。
( 50の手習い!? (^^;) ピアノのお稽古 ~ 補足編 ~ 2011年07月24日 | ピアノ・その他音楽 カテゴリー参照 )
その年の7月、ユニークの発表会で、本科のころから大好きな真弓先生の踊る姿を 「ロッカ バイ カルメン」 にて初めて見て、ものすごく感動する。 カルメンマスコット人形を作って贈る。
・1986年、3月にイズミ専門部を卒業。
卒公に向け準備をしていく中で薄々気づいていたのだが、4月から新たに開催される、いずみ先生が無償で指導するという 「いずみたくパフォーミングアーツ」 を受験するも落ちてしまったこともあり、ミュージカルの道を断念するが、
専門部卒公前に辞めていた仕事も、その後OLに復帰していて、ユニークでの真弓先生のクラスは昼間だったので受けられなくなり、
真弓先生に会いたい一心で、イズミの一期下の専門部のダンスレッスンは夜だから、それだけに通わせてもらったり、ユニークにも通い続け、未練がましくその周辺をうろついていたので・・・
その年の5月くらいのユニーク発表会にて、真弓先生が 「ジャズ・ミサ曲」 を踊られているのも見たし、その年の10月の同公演にて 「カルメン・再演」 も見ている。
・1987年5月、ユニークも3年目となり、初めて発表会に出させていただく。
昼間の仕事に復帰していたから、仕事後に夜のレッスンに週3位で通っていた (たぶん、バレエ2のジャズ1位だと思う) うちの、ジャズクラスを担当していた二人の先生のうち、Y先生の振り付け作品で出させていただきましたが、
ナオミ、トモコ、ユカは、真弓先生のクラスを取っていたため、真弓先生の振り付け作品に出させてもらえて、また、みんな一緒で心強そうで、すごく羨ましかったです。
また、この年のバレエ小品集に、大好きなショパン曲の 「レ・シルフィード」 があり、ジャズよりもバレエに気持ち的にのめり込み始めていたので、
大人から始めてまだ数年なので、とてもバレエで発表会に出る実力などないとわかりつつも、もし、バレエのクラスしかとっていなかったら、仕方ないから? バレエで出させてもらえたのかしら、と後悔した。
( 発表会に出る出ないは個人の意思で自由に決められたが、どんな演目に誰が出るか、というのは取っているクラスや実力などを加味して、先生方が決めてくださることだったので。 )
その年の8月には、ニューヨーク・シティ・バレエに入団した、堀内元君の 『帰郷公演』 があり、 「ジャズ ミサ曲」 も再演されたので、その時に、カーテンコールで真弓先生に手作りのお人形をお渡ししたのかと思われます。
・88年ころに、ニューヨーク留学を終えた充君が帰国、バレエ色が強くなり、ジャズの真弓先生はユニークでは出演されるより振付に回り、
同じころイズミの講師を辞められたこともあって、真弓先生ファン待望のご自分のスタジオを開設 (現在は閉鎖)、
91年に完先生の振付、演出のもと、初の単独リサイタルを開きます。
リサイタルは翌92年にも行い、もちろん、両方とも見に行き、大変すばらしくて感動しましたが、
真弓先生はその後、ダンサーとしては舞台に立っておられないと思います。
自分は、ユニークには、1991年の、まだ31歳になる前くらいまで通っており、
その後も、シアターの発表会や公演は毎年、92年暮れにKに戻ってからも、充君の踊り見たさに、しばらくは上京しては見に行っていたと思います。(充君の出演される他の団体の公演は、もちろん)
完先生の訃報についてまだ書いてなかったのでレスできませんでした。
残念でなりません。
真弓先生は、ご覧のとおり、とてもお元気です。
完先生のご連絡を受けたときに電話で少し話しました。
昔のお仲間の方とブログを通じて交流できるのは嬉しいですね。ご訪問ありがとうございました。