ここ数年来の夢であり目標としてきた、 「自分の書いたものの電子書籍化」 ですが・・・
第一号はやはり、デビュー作であり、今のところ唯一の出版物となっている
『松商ナイン1991年の快進撃~15年後の球児たち~』 (2006.3.10 郷土出版社刊) だなあ、と思っている。
この本は、1991年に長野県松本市にある松商学園高校硬式野球部が、春夏の甲子園を沸かせ、ついに秋の国体にて悲願の優勝を遂げるという、
あの年、長野県じゅうの人々を熱狂の渦に巻き込んだお話を、実にその後15年を経た2006年に書籍化したことから、
せっかくだからと、15年後の選手や監督に会って話を聞いた。
それが、第二部として掲載されている。 (第一部は 「1991年の快進撃」)
この本は、15年も前のことを書いた本であったのに、当時の感動をいまだ記憶にとどめていてくださっている県民が多かったということ、
また、15年たって、その後、あの時の選手たちは今何をしているのだろう、という興味も引いたのだろう、
おかげさまでとてもよく売れたらしく、出版社の在庫分を完売してしまった。
だが、出版不況の折もあり、残念ながら増刷されることはなかった。
その後、体調を崩したりなどいろいろあったが、なんとか元気になった私は、
所属する 信州児童文学会 発行の
親子で読み合う雑誌 『とうげの旗』(季刊) に、 「スポット」 という写真入りの取材記事を書かせていただいたり ( 2009年秋~2012年春までの約3年間。『とうげの旗』 は12012年、惜しくも40年の歴史に幕を閉じました )
( ※ 詳しくは猫田ジャレHP 『なんとなく、イナカタル』 - 仕事- をご覧ください。左ブックマークより行かれます。 )
2008年より始めた当ブログにて、細々と、コツコツと文章を書いてきた。
( ブログには、軽いエッセイ的なものやお遊び的なもの、かなりリキを入れて書いてるノンフィクション的なものまで、色々あります。 )
2005年より、本家HP (当時は、ブログに書いているようなものをHPに書き綴っていた) を1年間やってみて、何か形になるものがほしくて、 『松商ナインの本』 を出版しようと思い立ったのだが、
ブログも7、8年やってきて、なにかこう、ここまで心血を注ぎエネルギーを費やしているものに対して、なんらかのものがほしくなってきた私は、近年注目を浴びつつつある 『電子書籍』 というものに目を付けた。
そうか、 これだっ ピカーン
幸い? ブログに載せていないもので書き溜めた作品がいくつかあるので、それらを何とか皆さんに読んでいただきたいのと、
1991年(31歳のころ)より 約半生を共にしてきた 『松商ナインの本』 を、
このままにしておくのは実に惜しい (現在書籍として入手できないため) きらん
と思ったので、また、書籍になりそこそこ売れたという “実質的な証拠物件” であるので、
この本を 電子書籍化の“第一号作品” として選びました。
それで、 『松商ナイン1991年の快進撃~15年後の球児たち~』 発売からまた10年近くたってしまったために、
やはりここは、
その後10年を経て、現在何をしているのかなー、何か生活に変化はあったのかな? と、
あれからまた10年後の、現在の選手たちの様子 を、チラッと書き添えようかと思います。
15年たってようやく出版にこぎつけた本の、
また10年たって 「電子書籍化」 しようと思い立った、自分、
我ながら、 なんてしつこいんだぁ~~~
まあね、
しつこぃのがとりえ、 猫田ジャレ之介くん σ あはっ
このしちこさ、一度食いついたら放さない
スッポンのような女 と呼んでくれたまえ
* * * * * * * * * * * * * * *
そんなわけで、現在の動向をさぐる、取材の第一号は、やはりこのお方・・・
中原英孝監督です
昨日、12月11日金曜日、大安。 雨の中、松本の監督ご自宅にお伺いしました。
( 監督がご自宅で、と言ってくださったので )
25年ほど前にご自宅へは一度お訪ねしたことがあるのですが、10年ほど前に建て替えられたとかで、すごく素敵な、モダンなおうちになっていて、知らなかったのでびっくりしましたが・・・
入ってすぐの廊下は、まるでギャラリーのよう。
その廊下の向こうにある、とても素敵なリビングで、奥様の入れてくださったおいしいお茶やコーヒー、お菓子やお漬物をいただきながら、
途中、ホントに偶然なのですが、松商時代に投手として甲子園に出場され、現在は長野県高校野球中継の解説者としてもおなじみの北原洋策さん (昭和49年度卒業) が監督を訪問されて見えた、などということもあり、約3時間近くお話を伺わせていただきました。
中原監督は、松商野球部を退任後、長野日大に移られ、そこで約10年野球部監督を務められ (本を出した当時は日大野球部就任後まもなくであった) て、昨年7月に勇退、
この秋から、長野県筑北(ちくほく)村に、来年4月に新しく開校される
日本ウェルネス高等学校 信州筑北キャンパス という通信教育制の高校の野球部監督に就任している。
長野日大では、野球部を一から作っていく楽しさを生き生きと語られていたが、
今度は、学校そのものの創立から携わる、
村との共同作業で、学校を一から作り上げる (中でも野球部の果たす役割は大きい) という喜びに満ち溢れていて、
生き生きと語られる力強さは、25年前に出逢った当初のまま、
ああ、中原監督はやはり、本当に野球が好きで、監督をしているのが一番似合っているのだ、
そして、根っからの勝負師、兆戦者なのだ と思えた。
そして、とてもご立派な方なのに全然偉ぶらず、飾らず、実に気さくで優しいところも、出会ったころからずっと変わらぬまま・・・
雨の中、道に迷えば迎えに来てくれ、帰り道の国道への出方を、表の道路に出てまで説明してくださり、車が出るまで誘導しつつ見送ってくださる、
そんな親切なところまでちっとも変っていらっしゃらない監督の暖かさに、今更ながら胸が熱くなったことです。 うるっ
( おまけに、来た時には降っていたけれど帰り際にはやんだので、監督んちに、カサ忘れてきたって…
忘年会の時に持ってきてくださるそうですが…あー、どこまでバカ、ドジ、マヌケな私なの )
リビングの一角は、さながら博物館。 (掲載許可をいただいています)
それらを前にして微笑む中原監督。
中原監督が自分が松商時代や明大野球部だったころの記念の品、松商や長野日大で監督として過ごしていた時の記念の品などが、本当にびっくりするほどたくさん、きれいに陳列されていました。
中でもひときわ大きく輝いているのが、91年春の選抜準優勝のメダル (下段中央、赤いリボンの縁取り)
「猫田さんにもらったのもありますよ。」
私が卒業式の時に選手や関係者の方々に、まことに僭越ながら贈らせていただいたメダル (下段右端、寝かせてあるもの) まで飾っていただいてあって、びっくりしつつ、嬉しいようなあまりのおこがましさに恥ずかしいような・・・
( メダルの写真は 「本書中表紙」、 差し上げた経緯については 「本書あとがき」 に書かれています )
よーく見ると、監督さんがガラス戸に写っていますね。
上段の赤いリボンのメダルは、松商監督時代の、記念すべき 「長野県大会優勝メダル 」
その数の多さに、ビックリ
名将の証ですね。
( 一人で数多く持てるのは 「監督という立場」 ならでは。選手は多くて3個以上は持てませんからね・笑 )
数々の飾られた写真も、ああ、あの時の、と思い出深かったり興味深いものばかりでしたが、いろいろ書くとネタバレになるので・・・
庭を一望できる窓辺には、立派な革張りのソファーがあり、監督の指定席でしょうか?
その奥が畳を敷いた、くつろぎの和のスペースになっていて、とても居心地の良いリビングでした。
監督の向こうに見えるのは、可愛いお孫さんの写真です。
同居していた、この春沖縄に転勤になった息子さん一家が、また戻ってくるというので、とてもうれしそうでした。
日大時代は単身赴任でしたが、ようやく新しくなったおうちに戻ってこれて、よき父、じーじとしての幸せな一面も垣間見れて、微笑ましかったです。
写真はたくさんあってご紹介しきれませんが、こんな青春の一こまが目を引きました。
明大野球部時代の中原監督 (後列左から二人目) と、同期の仲間たちです。
前列右から二番目は “御大” と呼ばれた 島岡 吉郎(しまおか きちろう) 野球部監督、
前列左から二人目は、元巨人、日本ハム、ヤクルト監督などを経て現DeNA・GMの高田繁氏。 (一期下には星野仙一氏がいる)
一番上の写真をよく見ると、島岡監督の写真、 「人間力」 と刻まれた島岡氏の墓の写真なども飾ってあります。
野球部は現在第一期生となる部員を募集中で、正式に活動を開始するのは来年4月なので、
それ以降に今度は学校のほうに、ぜひ出かけていきたいと思います。
その前に・・・、
12月29日に市内の、とある場所で開かれる H3 (エイチスリー、平成3年度卒の意味) を含む 「3学年合同忘年会」 に、
10年後の野球部メンバーの皆さんに会いに、出かけていきますよ
今年は小口康生君が幹事だそうで、色々窓口になってもらっています。
小口君たっての希望で、H4、5の皆さんのお話も聞かせていただきたいと思っています。
これを読んでいる、特にH3の皆様、ネコタ参りますので、
ぜひ、ご協力のほどを宜しくお願いいたします。
監督さんも次回会うのを楽しみにしてますと言ってくださって、とてもうれしかったです。
それまでにもっと、勉強や準備をしっかりしておかないと・・・
武者震い エィエィ、オーーーー
※ この本の電子書籍化に当たっては、既に板元の郷土出版社さんからは許可をいただいております。
また、当初は今年初めころの発売予定で考えておりましたが、私の母が年頭に右大たい骨を骨折、手術、4カ月近く入院しまして、その看病等で作業が半年以上中断してしまいました。
お陰様で人口大たい骨を入れましたので何とか身の回りのことはできるまでに回復、私も時間や精神の安定を取り戻し、また、少しは出かけられるようになりましたので、やっと電子書籍化作業や取材等に力を入れられることとなりました。
昨年暮れくらいから、監督さんや一部の選手の方々には、電話やこのブログを通じて「電子書籍化」に当たってのご協力を呼びかけており、大変ご迷惑をおかけしてしまいましたが、そのような事情でしたのでご理解いただき、お許し下さいませ。
そして再びのご協力のほどを、どうぞよろしくお願いいたします。
( 正式な依頼、ご案内は別途いたしまいすが、3学年合同忘年会にお邪魔するまでのつなぎで、このような場でのお願いを失礼いたします。 )
第一号はやはり、デビュー作であり、今のところ唯一の出版物となっている
『松商ナイン1991年の快進撃~15年後の球児たち~』 (2006.3.10 郷土出版社刊) だなあ、と思っている。
この本は、1991年に長野県松本市にある松商学園高校硬式野球部が、春夏の甲子園を沸かせ、ついに秋の国体にて悲願の優勝を遂げるという、
あの年、長野県じゅうの人々を熱狂の渦に巻き込んだお話を、実にその後15年を経た2006年に書籍化したことから、
せっかくだからと、15年後の選手や監督に会って話を聞いた。
それが、第二部として掲載されている。 (第一部は 「1991年の快進撃」)
この本は、15年も前のことを書いた本であったのに、当時の感動をいまだ記憶にとどめていてくださっている県民が多かったということ、
また、15年たって、その後、あの時の選手たちは今何をしているのだろう、という興味も引いたのだろう、
おかげさまでとてもよく売れたらしく、出版社の在庫分を完売してしまった。
だが、出版不況の折もあり、残念ながら増刷されることはなかった。
その後、体調を崩したりなどいろいろあったが、なんとか元気になった私は、
所属する 信州児童文学会 発行の
親子で読み合う雑誌 『とうげの旗』(季刊) に、 「スポット」 という写真入りの取材記事を書かせていただいたり ( 2009年秋~2012年春までの約3年間。『とうげの旗』 は12012年、惜しくも40年の歴史に幕を閉じました )
( ※ 詳しくは猫田ジャレHP 『なんとなく、イナカタル』 - 仕事- をご覧ください。左ブックマークより行かれます。 )
2008年より始めた当ブログにて、細々と、コツコツと文章を書いてきた。
( ブログには、軽いエッセイ的なものやお遊び的なもの、かなりリキを入れて書いてるノンフィクション的なものまで、色々あります。 )
2005年より、本家HP (当時は、ブログに書いているようなものをHPに書き綴っていた) を1年間やってみて、何か形になるものがほしくて、 『松商ナインの本』 を出版しようと思い立ったのだが、
ブログも7、8年やってきて、なにかこう、ここまで心血を注ぎエネルギーを費やしているものに対して、なんらかのものがほしくなってきた私は、近年注目を浴びつつつある 『電子書籍』 というものに目を付けた。
そうか、 これだっ ピカーン
幸い? ブログに載せていないもので書き溜めた作品がいくつかあるので、それらを何とか皆さんに読んでいただきたいのと、
1991年(31歳のころ)より 約半生を共にしてきた 『松商ナインの本』 を、
このままにしておくのは実に惜しい (現在書籍として入手できないため) きらん
と思ったので、また、書籍になりそこそこ売れたという “実質的な証拠物件” であるので、
この本を 電子書籍化の“第一号作品” として選びました。
それで、 『松商ナイン1991年の快進撃~15年後の球児たち~』 発売からまた10年近くたってしまったために、
やはりここは、
その後10年を経て、現在何をしているのかなー、何か生活に変化はあったのかな? と、
あれからまた10年後の、現在の選手たちの様子 を、チラッと書き添えようかと思います。
15年たってようやく出版にこぎつけた本の、
また10年たって 「電子書籍化」 しようと思い立った、自分、
我ながら、 なんてしつこいんだぁ~~~
まあね、
しつこぃのがとりえ、 猫田ジャレ之介くん σ あはっ
このしちこさ、一度食いついたら放さない
スッポンのような女 と呼んでくれたまえ
* * * * * * * * * * * * * * *
そんなわけで、現在の動向をさぐる、取材の第一号は、やはりこのお方・・・
中原英孝監督です
昨日、12月11日金曜日、大安。 雨の中、松本の監督ご自宅にお伺いしました。
( 監督がご自宅で、と言ってくださったので )
25年ほど前にご自宅へは一度お訪ねしたことがあるのですが、10年ほど前に建て替えられたとかで、すごく素敵な、モダンなおうちになっていて、知らなかったのでびっくりしましたが・・・
入ってすぐの廊下は、まるでギャラリーのよう。
その廊下の向こうにある、とても素敵なリビングで、奥様の入れてくださったおいしいお茶やコーヒー、お菓子やお漬物をいただきながら、
途中、ホントに偶然なのですが、松商時代に投手として甲子園に出場され、現在は長野県高校野球中継の解説者としてもおなじみの北原洋策さん (昭和49年度卒業) が監督を訪問されて見えた、などということもあり、約3時間近くお話を伺わせていただきました。
中原監督は、松商野球部を退任後、長野日大に移られ、そこで約10年野球部監督を務められ (本を出した当時は日大野球部就任後まもなくであった) て、昨年7月に勇退、
この秋から、長野県筑北(ちくほく)村に、来年4月に新しく開校される
日本ウェルネス高等学校 信州筑北キャンパス という通信教育制の高校の野球部監督に就任している。
長野日大では、野球部を一から作っていく楽しさを生き生きと語られていたが、
今度は、学校そのものの創立から携わる、
村との共同作業で、学校を一から作り上げる (中でも野球部の果たす役割は大きい) という喜びに満ち溢れていて、
生き生きと語られる力強さは、25年前に出逢った当初のまま、
ああ、中原監督はやはり、本当に野球が好きで、監督をしているのが一番似合っているのだ、
そして、根っからの勝負師、兆戦者なのだ と思えた。
そして、とてもご立派な方なのに全然偉ぶらず、飾らず、実に気さくで優しいところも、出会ったころからずっと変わらぬまま・・・
雨の中、道に迷えば迎えに来てくれ、帰り道の国道への出方を、表の道路に出てまで説明してくださり、車が出るまで誘導しつつ見送ってくださる、
そんな親切なところまでちっとも変っていらっしゃらない監督の暖かさに、今更ながら胸が熱くなったことです。 うるっ
( おまけに、来た時には降っていたけれど帰り際にはやんだので、監督んちに、カサ忘れてきたって…
忘年会の時に持ってきてくださるそうですが…あー、どこまでバカ、ドジ、マヌケな私なの )
リビングの一角は、さながら博物館。 (掲載許可をいただいています)
それらを前にして微笑む中原監督。
中原監督が自分が松商時代や明大野球部だったころの記念の品、松商や長野日大で監督として過ごしていた時の記念の品などが、本当にびっくりするほどたくさん、きれいに陳列されていました。
中でもひときわ大きく輝いているのが、91年春の選抜準優勝のメダル (下段中央、赤いリボンの縁取り)
「猫田さんにもらったのもありますよ。」
私が卒業式の時に選手や関係者の方々に、まことに僭越ながら贈らせていただいたメダル (下段右端、寝かせてあるもの) まで飾っていただいてあって、びっくりしつつ、嬉しいようなあまりのおこがましさに恥ずかしいような・・・
( メダルの写真は 「本書中表紙」、 差し上げた経緯については 「本書あとがき」 に書かれています )
よーく見ると、監督さんがガラス戸に写っていますね。
上段の赤いリボンのメダルは、松商監督時代の、記念すべき 「長野県大会優勝メダル 」
その数の多さに、ビックリ
名将の証ですね。
( 一人で数多く持てるのは 「監督という立場」 ならでは。選手は多くて3個以上は持てませんからね・笑 )
数々の飾られた写真も、ああ、あの時の、と思い出深かったり興味深いものばかりでしたが、いろいろ書くとネタバレになるので・・・
庭を一望できる窓辺には、立派な革張りのソファーがあり、監督の指定席でしょうか?
その奥が畳を敷いた、くつろぎの和のスペースになっていて、とても居心地の良いリビングでした。
監督の向こうに見えるのは、可愛いお孫さんの写真です。
同居していた、この春沖縄に転勤になった息子さん一家が、また戻ってくるというので、とてもうれしそうでした。
日大時代は単身赴任でしたが、ようやく新しくなったおうちに戻ってこれて、よき父、じーじとしての幸せな一面も垣間見れて、微笑ましかったです。
写真はたくさんあってご紹介しきれませんが、こんな青春の一こまが目を引きました。
明大野球部時代の中原監督 (後列左から二人目) と、同期の仲間たちです。
前列右から二番目は “御大” と呼ばれた 島岡 吉郎(しまおか きちろう) 野球部監督、
前列左から二人目は、元巨人、日本ハム、ヤクルト監督などを経て現DeNA・GMの高田繁氏。 (一期下には星野仙一氏がいる)
一番上の写真をよく見ると、島岡監督の写真、 「人間力」 と刻まれた島岡氏の墓の写真なども飾ってあります。
野球部は現在第一期生となる部員を募集中で、正式に活動を開始するのは来年4月なので、
それ以降に今度は学校のほうに、ぜひ出かけていきたいと思います。
その前に・・・、
12月29日に市内の、とある場所で開かれる H3 (エイチスリー、平成3年度卒の意味) を含む 「3学年合同忘年会」 に、
10年後の野球部メンバーの皆さんに会いに、出かけていきますよ
今年は小口康生君が幹事だそうで、色々窓口になってもらっています。
小口君たっての希望で、H4、5の皆さんのお話も聞かせていただきたいと思っています。
これを読んでいる、特にH3の皆様、ネコタ参りますので、
ぜひ、ご協力のほどを宜しくお願いいたします。
監督さんも次回会うのを楽しみにしてますと言ってくださって、とてもうれしかったです。
それまでにもっと、勉強や準備をしっかりしておかないと・・・
武者震い エィエィ、オーーーー
※ この本の電子書籍化に当たっては、既に板元の郷土出版社さんからは許可をいただいております。
また、当初は今年初めころの発売予定で考えておりましたが、私の母が年頭に右大たい骨を骨折、手術、4カ月近く入院しまして、その看病等で作業が半年以上中断してしまいました。
お陰様で人口大たい骨を入れましたので何とか身の回りのことはできるまでに回復、私も時間や精神の安定を取り戻し、また、少しは出かけられるようになりましたので、やっと電子書籍化作業や取材等に力を入れられることとなりました。
昨年暮れくらいから、監督さんや一部の選手の方々には、電話やこのブログを通じて「電子書籍化」に当たってのご協力を呼びかけており、大変ご迷惑をおかけしてしまいましたが、そのような事情でしたのでご理解いただき、お許し下さいませ。
そして再びのご協力のほどを、どうぞよろしくお願いいたします。
( 正式な依頼、ご案内は別途いたしまいすが、3学年合同忘年会にお邪魔するまでのつなぎで、このような場でのお願いを失礼いたします。 )
やはり、小口先輩の言葉をみても分かる通り、決して自分達だけのことだけを考えるのではなく、常に周り(今回は後輩)の人にも気を配ることができるからこそ、あの快進撃があったのだと思います。 高校の3年間で野球の技術はもちろん、人として沢山のことを中原監督や仲間、そして野球部を応援してくれる皆さんから教わりました。
同期の2人にも早目に郵送します。
電子書籍化本当に楽しみにしています♪
そしてすぐにコメントを書き込んでくださって嬉しかったです。
一年前のコメントの謎も解け、ああなるほどなぁーって今思ってます。(*^^*)
昨日は報告ブログをUPするのに忙しくて返信できずすみませんでした。m(_ _)m
そして、H4生さん(笑)はこのように書いてくださってますが、そのようなことを書けるH4さんはなかなかと思います。
受付で小口君たちと話していて学年代表の方をお願いするといった時にすぐにお名前が出てきて、来てなかったお二人へのアンケートの際にも快く引き受けてくださって、本当に感謝しています。
あの日のやり取りだけでH4さんのお人柄を感じることができました。(*^^*)
そしてアンケートも本日届きましたよ。こんなにすぐに返してくださったのに、あんなに沢山書いていただいて・・・感激です。(T_T)
年が明けたら、ゆっくりじっくり読ませていただきますね。
ところで、H4さんのやっていらっしゃるブログ?フェイスブック?のご紹介をよろしければさせていただきたいのですが・・・アドレスを教えていただけませんか?
先日のことも載っているのでしょうか・・・