猫田ジャレの 『 天然!にゃー語 』

~ 見ネコ聞くネコ言うネコの とびきり天然な日常 ~

3度目の忘年会・・・(^^;

2018年01月09日 | 松商、中原監督 関連
 巻末に、上田佳範投手(当時)、中原英孝監督の略歴を追記しました。
また、拙著書の紹介もさせていただいております。

ほか、ちょこちょこ書き加えたり直しているのでもう一度お読みいただけますと幸いです。      




大変遅くなりましたが、昨年も12月29日に、毎年恒例、 「松商野球部3学年(H3~5)合同忘年会」 が松本市某所で泊りがけで開かれましたので、

中原監督やH3メンバーにお願いして、取材とご挨拶を兼ねて同席させていただきました。



この忘年会、今をさかのぼること13年前、最初の書籍が郷土出版さんより刊行される前年の2005年にお邪魔させていただいたのが最初で



写真を本の中でもご紹介させていただきました。(書籍掲載分ページを写真に撮ったので画像が悪くて申し訳ありません 


書籍発行から10年、書籍が完売絶版となっていたことから(のちに発行元も閉社)この本を「電子書籍化」しようと思い立ち、

それから私の、この本に対する再びの長い取り組みが始まりました。


手始めに、この本を電子化して売り出すこと、ついては

「発行から10年後のH3メンバー」 と、今回は

“3学年続けて甲子園に出場し、今でもその3学年で毎年欠かさず合同忘年会を行っている” という 

「下の2学年をも取材し書き加える」(物語『第三部』) ということを前提にお邪魔させていただいた、2015年の忘年会写真です。




( 第三部表紙使用予定 )



ところが、この時の忘年会で、H3メンバーも10年ぶりにお会いしたことから話が長くなり下の学年まで話が聞けなかったことや

やはりこれは時間がかかっても、お一人お一人に会って、じっくりお話を聞きたいものだ、ということから下の2学年も含めた方たちにアポを取り取材を始めたところ、

総勢40名にも及んだため、意外と時間がかかり年内に取材が終わらなかったので・・・        



仕方がないので、その年のH3幹事の青木崇君に、忘年会の差し入れと年内に本が出なかったお詫びのお手紙を送り代読してもらうことにしました。
(実際読んだのはH4の成澤洋君のようですが 



その時に撮ってもらった2016年の写真がこれです。

その後2015年の忘年会には欠席したけれど16年には参加したという方も取材対象に加えて、お話しを聞きました。



取材は、H3は連絡のつくチームメイト全員、下の2学年は忘年会に参加した方を中心にお話を聞きましたが

何しろ総勢で40人にも及ぶ取材は思いのほか時間がかかってしまいました。

加えて昨年は自分の身辺に親の病気やその後の補助などの事情もあって、思うように執筆が進まず・・・


よもや、3度目の忘年会に、「本の発行が伸びてしまったお詫びや来年3月には必ず出すという宣言」 などを兼ねてお邪魔することになろうとは、

取材当初全く思いもよらぬことが起こってしまいました。     


ここに10年の変遷を載せたのは自慢でもなんでもなく、むしろお恥ずかしいことなのですが、

勇気を出して載せてみます。



ただひとつ、

H3のメンバーの方々には1991年の甲子園での活躍の、翌1992年の高校卒業前後から取材を始めたので、25年前から何度もお会いしているのですが

下の学年の方々は、2015年の忘年会を除けばたった一度しかお会いしていない。

その後取材でじっくりお会いし、お話を伺った下の学年の方たちも、みなさんとても魅力的な方たちばかりで

大変さも苦労も吹き飛ぶほどのとてもいい取材ができたので・・・


この方たちに、たった一度しか会わないのは残念だ、なんとかして本が出た暁にでもいいからもう一度お会いしてみたいものだ、

でも、難しいことだなぁー   

と思っていたところ、


図らずも     

書籍が発行できなかったお陰で  


もう一度下の学年の方たちにお会することができたのは まさに 「怪我の功名  とでも言いましょうか・・・   


忘年会の受け付けはホテルロビーの一角で、夕方5時~宴会の始まる7時ちょっと前まででしたが、
今年の幹事さんである、荒井敏幸くん(H3)、小沢智治くん(H4)、岩間竜也くん(H5)たちの雑談を聞きながら後ろの方に控えていて、来た人全員に 「今日はよろしくお願いします」 とまずご挨拶しておいて・・・

宴会では幹事さんにお願いして、始まる前にひと言、お詫びや経過などのご挨拶(報告)をさせていただき、


今度は下の学年の方々から順番に回って行き、取材で一度お会いしているからか皆さん打ち解けて和やかに話が弾んだこと、

今年は残念ながら参加人数が少なかったことなどもあり、一次会だけで下の学年の参加された方、全員を回ることができました。


同じホテルに部屋を取っていたので、その後は学年別に分かれるというH3メンバーの2次会、3次会にお邪魔させていただき・・・

取材なので飲食はしないつもりだったのですが、気心の多少は知れたH3メンバーの、会も深まったこと、この楽しい席で取材は勘弁と思ったのもあったのか

はたまた、一次会で飲食しないのを気遣ってくれた選手に、私は取材が終わってから部屋で一人ゆっくり飲むからいいの、飲み物も持参したんだから、

と心配ご無用という感じで冗談ぽく伝えたのを逆に不憫に思ったのか   

「もう取材ってもんでもないで、飲みましょ。」(松本訛りで) と言ってくださり、

お言葉に甘えて私もちょっとだけ飲んで2次会の焼き肉と3次会のラーメンを一緒に食べてしまいました。(すみません 


邪魔にならないように、皆さんが和やかに談笑しているのをただ聞いているだけでしたが・・・

私の存在が眼中にない様な会話に(笑)逆にそれだけ気を許して信用してもらっているのかもしれない、気を使わない存在でいられてるのかも、

と、よい方に解釈させていただきました。    


久しぶりに楽しそうなメンバーを見ているのは、こちらも楽しかったです。    


というわけで、最初はこんなに発行が伸びてしまって、どのツラ下げてお邪魔できるかしら、

一年に一度のお楽しみの席に、こうもたびたび部外者が邪魔しに行くのは気が引ける・・・などと案じ、こわごわ? 参加したのですが   

皆さん温かく迎えてくださって心より感謝します。   
   

( 特に発行が伸びたことについてご理解いただき、快く迎え入れてくださった中原監督、忘年会参加への勇気を与えてくれたH5深澤友和君の暖かいお言葉には深く感謝します。
また、忘年会には参加できなかったけれど、元の勤務先だったよしみで直前だったにもかかわらず即座にお部屋を取る手配をしてくれたH4雨宮清隆君にも感謝です。    )



そして、自分の言葉で発行が伸びたお詫びを伝え、3月の発行を約束できたのは自分に喝を入れるという意味でもとてもよかったと思うし、

なにより 

とても素敵な魅力あふれる野球部員の皆さんたちにもう一度会うことができて、心から嬉しかったです。


本当にありがとうございました。



この忘年会を糧に、これから集中して全力で作品を書き上げる所存ですので、どうか待っていてくださいね。    


どうぞよろしくお願いいたします。





会場には開局26周年と高校野球夏の選手権大会100回記念を控えて長野朝日放送(ABN)の方々も取材に見えていました。

91年、ABN開局の年に松商の甲子園での快進撃がおこり、当初から若き日のABNの松坂さん(左端)、草田さん(左から二人目、辻利行主将で捕手の右隣)はチームの取材にしょっちゅういらしていたからか、選手たちも顔なじみ、また懐かしくもあり、この笑顔。

草田さんの右、上田佳範投手(※注1)、その右、高橋巧遊撃手。

(※ 各選手ポジションは当時。)





最後列真ん中の、長野県大会TV中継の野球解説でもおなじみの松商野球部OB 北原要作さん の会社が同じ日の違う部屋で忘年会だったそうで

終了後に駆け付けて下さり、選手たちは懐かしく頼もしい 「アニキ」 の思わぬ来訪に驚きつつも大はしゃぎ。
肩を寄せ合って写真に納まります。

シャッターは北原さんの会社の若い方が押して下さいました。(会の終了時なので皆さん一杯やった後で一段と和やかです)


中原英孝監督(※注2)は私の右隣の方で、冒頭の写真の方がいい笑顔です。

この日も、新天地での活躍もあってか上機嫌で絶好調      

変わらぬ豪快な “中原節” がさく裂、冗談も飛び交い、とても楽しかったし、よいお話しもたくさん聞け嬉しかったです。    


25年の年月を経て、
中原監督に出逢った頃の、監督の年を優に超えてしまった私ですが、選手たちが今、その頃の監督のちょうどいい頃あいの年齢となりました。





 


 おまけ・・・



高校野球夏の選手権大会100回記念を控えて、朝日新聞にて昨年11月7日よりスタートした “あの夏・シリーズ ”「1991年 松商学園 × 四日市工」。

夏の甲子園での延長16回の死闘の意外な幕切れと試合の全記録を追った、第1回目の記事。



翌日からは小さな記事になりましたが全20回にわたり連載。

 

最終回では、松商野球部を1991年の選抜準優勝、夏の選手権大会ベスト8へと導いた名将 監督中原英孝さんの、72歳からの新たなる挑戦を紹介しています。


選手や監督の証言をもとに丹念に取材し、試合描写も含めてよく描かれていました。



ですが・・・

25年間彼らを追い続け見つめてきた、自分にしか書けない物語がある。

それを信じて、私もこの記事に負けないように、頑張ります。    




※ 写真は特にブログへの掲載許可を取っておりませんが、お一人一人電子書籍に登場することの許可は得ておりますのでそれに変えさせていただきます。
ご了承ください。   





【注1】
※ 上田佳範(うえだ よしのり)

1973年松本市生まれ。
投手として1991年選抜大会において2回戦〜準決勝まで3連続完封勝利を挙げ、35イニング連続無失点記録を達成。
松商学園を決勝へと導きながらも自らのミスにより負け試合の幕を引いてしまったことから「悲劇のヒーロー」と呼ばれ、その甘いマスクともあいまって甲子園のアイドルとして野球などの雑誌の表紙まで飾り人気も全国区となる。
また、夏の選手権大会対四日市工業戦では延長16回もの死闘を投げ抜き、自らの右肩に受けた死球によりサヨナラ勝利を掴むというドラマチックな幕切れまで体験する。
91年ドラフト1位指名により日本ハムファイターズ入団、中日ドラゴンズを経て現横浜DeNAコーチ。


 1991年甲子園を沸かせた上記2試合を始め、中原英孝監督率いる上田佳範を投手に擁した松商ナイン、その強さの秘密とチームの魅力に迫った “快進撃・全記録” は、こちらで読めます。



Amazon Kindie版 『松商ナイン1991年の快進撃~球児たちの15年~』



【注2】
※ 中原英孝(なかはらひでたか)監督

1945年長野県池田町生まれ。
63年、松商学園高校野球部3年生の時に甲子園出場、その後進んだ明治大学にて故島岡吉郎(きちろう)監督の元『野球道』を徹底的に叩き込まれる。
(同野球部にて元巨人、元日本ハム、現横浜DeNAゼネラルマネージャー高田繁とは同期、故星野仙一元中日、元中日、阪神、東北楽天監督は一期下)
68年卒業と同時に帰郷、母校松商学園野球部監督に就任、翌年就任2年目にしてチームを甲子園へと導き最年少監督として話題となる。

以後、松商学園で2期通算22年間、長野日大高で10年間監督を務め、春3度(うち松商学園で2度)、夏8度(同7度)の甲子園出場を果たす。
県内の高校野球指導者では“歴代最多”の甲子園出場回数と、甲子園通算14勝。
過去最高成績は、選抜大会準優勝、夏の選手権大会ベスト8、国体優勝(いづれも1991年松商学園、上記H3チームの時)

2016年より日本ウェルネス高校筑北キャンパス野球部に就任。
開部(開校)からわずか一年6カ月となる2017年10月秋の北信越大会長野県大会にて1,2年生だけで作られたチームを優勝へと導くという驚異を達成。
今後の活躍が期待されている。72歳。(敬称略)



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