4月27日(水)
(14:32)
「ほあんいんぜんいんあほ」と子どもらも嘲る役所なにゆゑあるや
(16:43)
F姉へ。
衆院予算委員会中継は見ていませんでしたが、23日にネットに載った吉井議員のインタビューは見ました。
「福島第1原発事故は二重の人災だった
日本共産党・吉井英勝衆院議員に聞く(上)」
これによると、3月11日の20~21時には原子力<危険>委員会の<出鱈>目委員長が1号機の危機的状況を官邸に伝えていたので、22時には政府が東電にベント命令を出すべきだったと、吉井議員は言っています。
しかし、調べてみると、実際にベント命令が出されたのは翌12日6:50。
実行されたのは、1回目が9:04で、2回目の成功が14時すぎ。
この間に、菅は<出鱈>目と一緒に第1原発を視察(7:01~8:04)していました。
帰りのヘリの中で<出鱈>目が水素爆発は絶対に起きないと菅に保障したそうですが、その日のうちに1号機で水素爆発(15:36)。
東電(東京の本部と現地)と官邸、原子力<危険>委員会、<不安>院などの状況認識と判断、行動、それと菅の現地視察との関係など、未だに真実が明らかにされているとは言えないようです。
いずれにしても、事故直後の判断の決定的な誤りが危機をさらに決定的なものにしたことだけは、まちがいありません。
4月28日(木)
(1:43)
F姉へ。
『コモンセンス』で、イギリス出身のトーマス・ペインは「イギリスには憲法がない」と書きました。
僕たちは学校でイギリスには「不文憲法」があると習いましたが、いわゆる「名誉革命」以来、イギリスでは王権をなしくずし的に掘り崩してきたので、明文的な憲法を作れなかった訳でしょう。
それに較べ、イギリスから独立したアメリカでは、王権を明確に否定し、民主共和制の憲法を作りました。
その根本的な精神は、『独立宣言』を起草し、後に第3代の大統領になったトーマス・ジェファーソンの次の言葉に、表されています。
「信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」
戦後の日本国憲法は、象徴天皇制と民主共和制の折衷的要素を持つ点では、イギリス的要素が色濃くありますし、その分だけジェファーソンのような民主共和制憲法の精神を人々が理解しにくくなっています。
ですから、「国難」がやってくると政府への「信頼」と「挙国一致」「がんばれ、ニッポン」を説く言説が、容易に人々の心に入りやすいのだと思います。
今や本家本元のアメリカでもジェファーソンの精神は揺らいでいますが、僕はペインやジェファーソンの精神をどこまでも受け継ぎたいと思っています。
(11:48)
F姉へ。
「ほあんいんぜんいんあほ」自体は大人が作った回文ですが、Twitterを通じてそれが子どもたちの間にも急速に広がったということのようです。
(17:44)
名にし負ふ浜通りとはなりにけり吾がふるさとの核にまみれて
4月29日(金)
(11:17)
N田さん。
芭蕉本の完成、まずはおめでとうございます。
よかったですね。
拝見できるのを楽しみにしています。
イギリス行きは下旬のつもりだったのですが、震災以後の諸々で中止にしました。
連休中は、2日・3日に友人夫婦が住んでいる笠間を別の友人たちと訪ねます。
笠間も益子も登り窯は全壊し、作品もずいぶん壊れてしまったようですが、恒例の陶器市はやるというので、それを見るのが主な目的です。
ですから、秩父には残念ですが行けません。
Oさんと2人で、アルプスの風景を楽しんできてください。
5日は予定はありません。
「吹奏楽団定期演奏会」はもう知っている生徒もいないし、下手ではないけど特別うまいともいえない吹奏楽を聴かされるのは、ちょっとシンドイので、終ったあとにどこかで合流しましょうか。
Iさん、いつか信州のおいしい蕎麦を食べられるのを楽しみにしています。
(11:27)
F姉へ。
信頼すべき政府というものは存在しません。
民主主義、国民(people)主権の下では、国民(people)にとって信頼すべき政府というものは本来ありえないのです。
政府とは、信頼すべきものではなく、国民(people)の信託を裏切らないように常に猜疑の心を持って批判・監視すべきもの。
政府が国民(people)に信頼を求め、国民(people)も政府を信頼してしまうところには、必ず多かれ少なかれ専制的で腐敗した政府が生まれます。
したがって、信頼すべき政府というものは存在しないのです。
存在するのは、疑うにも値しない政府と、疑うに値する政府との2種類だけです。
戦後民主主義の下で日本人の<コモンセンス>に未だになりえないでいる、アメリカン・デモクラシーの最良の精神ですね。
(17:49)
―<「京都大学原子炉実験所・小出裕章助教に聞く(有太マン)」を読みて>
正造に勇気をもらひ原発の危険究めぬ小出助教の
4月30日(土)
(11:06)
F姉へ。
現下の「福島県富岡町夜の森」の瀕死の歴史と、僕たちの個人史を重ね合わせて見ると、意外に大きなものが見えてくるかもしれません。
曽祖父半谷清寿に関しても、これまでの高橋富雄さんなどによる<東北開発論の先駆者>という評価を超えた再評価が必要だと思います。
いずれにしても、祖父母や母などからの<オーラル・ヒストリー>をぜひ詳細に記録して置いてください。
5月1日(日)
(13:05)
―<森まゆみ「だれもが「フクシマ人」」(『東京新聞』5/1朝刊1面トップ)を読みて>
生まれでも生まれでなくもわれら皆フクシマ人となりしを思ふ
(15:36)
F姉へ。
曽祖父が夢見ていたのは、関東、西日本の植民地的な東北を脱するために、いわば<地場産業>としての自立的な工業を東北に興すことだったのだと思います。
原発をはじめとする現在の東北の工業の多くは、残念ながらそうした<地場産業>ではなく、安い土地と水、労働力、そして危険回避などを求めた、外来巨大資本と国策によるいわば<植民地的な工業>だったのではないでしょうか。
南相馬市長はよく頑張っていますが、その彼も「<脱>でも<アンチ>でもなく、原発<克服>の産業」をなどと、意味不明で危うい発言をしています。
東北にどのような未来がありえるのかは、それこそ原発危機が収束し、放射能汚染が安全水準にまで戻らない限り、つまり原発推進派に抗して(アンチ)、「脱」原発をしない限り、少なくとも福島県については考えられないでしょう。
もし、その日が来れば、工業だけでなく、農業、漁業、商業、観光業すべてを含めて、より自立的で自然との共存をめざす産業を興さなければいけないと思います。
今回の悲劇が、結局は僕たちの故郷の浜通りが首都圏の<エネルギー植民地>であったがゆえだったとすれば、僕たちが曽祖父から受け継ぐべきはなによりも東北の自立です。
その日が来ることを祈ります。
(22:09)
Iさん。
信州の満開の桜の写真、ありがとうございました。
今年は、故郷を襲った原発大震災で花見を楽しむ余裕がなかったことを改めて思わされました。
5日に池袋でディープな中華料理を共にできればいいですね。
と、明日の勤務のない立場の老人からの無責任な誘惑です。
ははは。
N田さん、Oさん。
待ち合わせ時間、場所は、笠間から帰ってから改めて。
よろしく。