夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

日本語をそんなに簡単に説明されては困ります

2009年06月24日 | 言葉
 前にもご紹介したが、東京新聞の「コトバ 言葉 知っている? 知りたい」に6月20日「容体・容態」が採り上げられた。
 二つの語は同じ意味だが、表記の揺れがあるので、新聞では「容体」に統一していると説明する。それはいい。だが「体」や「態」は一語では「たい」と読み、「だい」とは読まないのに、なぜ「ようたい」ではなく「ようだい」になるのかの説明をしており、それが非常に簡単である。以下にその説明を引く。

 理由は、二語が複合して一つの語を作る時に、下の清音が濁音に変わる連濁が生ずるからです。容体と同じように「勘所」「円建て」「三日月」「地引き」も「かんどころ」「えんだて」「みかづき」「じびき」と、下の清音が濁ります。こうした連濁は、日本固有の言葉の和語に多く見られます。

 「三日月=みかづき」ではあるが、「半月=はんつき」では連濁にはならない。「はんつき」は日本固有の言葉の和語ではない、と言われればそれまで。だが、この「日本固有の言葉の和語」がまた難しい。どれが該当するか、すぐに言える人が居るだろうか。「みかづき」は確かに和語だが、「はんつき」は漢語ではなさそうだし。「半漢半和語」とでも言うか。
 完全に漢語と分かる「両国」は、「日米両国」では「りょうこく」となり、東京の地名の「両国」では「りょうごく」となる。
 漢語では、カ行、サ行、タ行、ハ行の音に「ん」「む」「う」などが先行するとカ行、サ行、タ行、ハ行の音が濁音になるとの原則があるが、それは崩れて来ている。
 和語の場合はどうなのか。
 「山川」は「山」と「川」なら「やまかわ」だが、「山の川」なら「やまがわ」になる。「やまがわに風のかけたるしがらみは」と言う百人一首の歌もある。言葉として熟しているかどうかが一つの目安にはなるが、習慣もあるだろう。「容体・容態=ようだい」は「様態=ようたい」と区別する意味もあるのではないのか。
 京都の「上京」は「かみぎょう」だが、「左京」は「さきょう」だ。東京は「とうきょう」である。東京の「秋葉原」は「あきばはら」とはならない。熟している言葉が連濁になると言うなら、「あきば」の方が「あきは」よりずっと熟している。何しろ「秋葉=あきば」は古くからの「秋葉神社」の事なのだ。従って、熟している言葉が連濁になる訳でもない。
 連濁になる言葉のみを挙げて、連濁です、とは本当に簡単な説明だと思う。本当は「簡単」ではなく「いい加減」と言いたい。このコラムは本当に何を言いたいのか。何を説明したいのか。これで日本語に対する理解が深まるなどと思われては本当に困るのである。
 「容体・容態」が「ようたい」ではなく「ようだい」と読むのだ、との説明なら、余計な事は言わない事だ。余計な事を言うから、話が分からなくなっている。いいえ、これで私はよく分かります、と思われては困るのである。言うまでもなく、私は「連濁」がどうのこうの、と言っているのではない。ある事柄の説明をいい加減で済ます事に疑問を投げ掛けている。これで万事解決です、との安易な態度が問題だろうと言っている。

 「容体・容態」を「ようだい」と読むのは連濁現象である、とこのコラムは言うのだが、たとえそうだとしても、それならなぜこの言葉だけが連濁になるのかの説明が必要になる。ちょっと考えても、「…体・…態」で「…だい」と読む言葉を思い付かないのだ。つまり、ほかにも同じような現象があって初めて、これは連濁ですよ、との説明が出来る。もしもこれしか連濁現象が無いのなら、話は全く変わって来る。「三日月」などを出したって駄目だ。
 連濁で同じようになる「…体」を「だい」と読む言葉と「…態」を「だい」と読む言葉を大型国語辞典で検索した。CD-ROMだから完璧を期せる。結果、この条件に当てはまる言葉は「容体・容態」しか無い事が分かった。この辞典では「様態」も「ようだい」と読むとあるが、現代語の用例は無い。あるのは古典での用例だけである。だから簡単には信用出来ない。別の大型国語辞典では「様態」は「ようたい」しか無い。
 つまり「容体・容態=ようだい」は単なる連濁ではなく、特殊な読み方になる。「…体」「…態」になる言葉は数多くあるのだから、それらの一部が連濁になっても一向におかしくはないし、連濁になるのが自然である。それが全く無いのだから、「容体・容態=ようだい」は例外としか思えない。そうした事に対する思慮はこのコラムには皆無なのである。だから、これで万事解決とは行かないのである。でもホントいい加減だよねえ。