夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

臓器移植法A案衆院通過は乱暴だ

2009年06月20日 | 社会問題
 ずいぶんと大胆な採決の仕方だなあと思った。四つの案があって、最初に採決した案が過半数ならばそれに決まる。悪名高い最高裁判所裁判官の国民投票で、一番×が多く付くのは一番始めに書かれている人に決まっているのだと言う。それが人間の心理である以上、こうした採決の場合にもそれは考慮すべき事柄ではないのか。国民と議員は程度が違う、などと言う事は絶対にあり得ない。
 最高裁の投票では、信任しない人に×を付ける所がミソである。こうした分からない判断では人は積極的にはならない。だから×はほとんど付かない。従って、これを信任する人には○を付ける、とは出来ない。ほとんどが信任されない事になってしまうからだ。

 臓器移植法に関してはこれとは事情が違うが、本当に内容が分かっているのか、との疑問はある。現行法と改正A案の大きな違いは、脳死の位置づけと提供可能年齢のはずだ。提供可能年齢が15歳以上となっているから、本人の意思表示が要るが、年齢がずっと引き下げられれば、本人の意思表示は不要になる場合もある。そうした事を考えれば、臓器提供の場合だけ、脳死は人の死である、と定義しても危険な事は無いだろうが、簡単に脳死イコール人の死、とされる事には大いに問題があり得ると思う。
 そうした事が一切問題にされない、と言うのはどんなものだろう。きのうの新聞を見たのだが、朝刊にも前日の夕刊にも他の三つの案の細かな説明が無い。私の見たのは東京新聞だが、関連する他の四つの紙面にも無い。首相はD案だったと聞いて、なおさらに他の三案を詳しく知りたくなった。
 多分、インターネットで検索すれば簡単に分かるはずだが、そう言う事ではない。新聞はきちんと四つの案について説明すべきである。もしかしたら、その前にそれはきちんとやっていたのかも知れないが、それは何の言い訳にもならない。単に賛成か反対か、を問われているように思えてしまう。
 ただ、紙面には賛成した議員と反対した議員の名前がきちんと出ているから、これをじっくりと見る事にしよう。これである程度の事は分かる。ええ、議員の質の善し悪しについてですがね。

今の政治は理念を持っているのか

2009年06月18日 | 政治問題
 鳩山対西川の闘いはどうも鳩山が利口ではなかった、と世間は見ているらしい。つまり、理想を掲げて正義だと言っても、現実を見ていないと言う。確かに現在の情況では現実を見ていないと言われても仕方が無い。実力者と見られている顔ぶれを見ても、四面楚歌だった。そしてそれが実際の政治であるのは私も知っている。でも、それでいいのか、との強い疑問がある。
 権力が何であるかを知り、その権力を行使出来る人間が日本のリーダーであるべきだ、との考え方は分かる。そうでなければ、日本は危なっかしくてたまらない。ここ二三年、ずっと危なっかしかった。安倍も福田も簡単にやめてしまった。そしてその前はと言うと、問題の郵政民営化の小泉だった。彼は権力の何たるかを知っており、行使も出来た。その強引な手法に庶民は「自民党をぶっつぶす」と豪語した彼を信じて付いて行った。その結果がどうであったかは、今、白日の下に晒されている。
 田中角栄だって、池田勇人だって、日本の経済を立て直し、現在の日本の基礎を作って来た実力者だった。だが、その政治を今、絶賛している人がいるだろうか。彼等こそ、権力を知り、その権力を十分に発揮した実力者だったはずだ。

 政治が理念を失ったら、それは政治ではない。国語辞典を私は全面的には信頼していないが、小型国語辞典の「政治」の説明を引く。
・国を治める活動。権力を使って集団を動かしたり、権力を得たり、保ったりすることに関係ある、現象。
・住みやすい社会を作るために、政治権を持つ者が立法・司法・行政の諸機関を通じて国民生活の向上を図る施策を行ったり、治安保持のための対策をとったりすること。

 二番目の説明にその理念が説明されていると思う。「住みやすい社会を作る」である。それが具体的に「国民生活の向上を図る」であり、「治安保持」になる。

 かんぽの宿をべらぼうに安い価格で一つの企業に売り渡す事が「住みやすい社会を作る」事に貢献するのだろうか。ある人は鳩山前大臣を、現実に企業の倒産を経験した事が無いから、馬鹿な事を言うのだ、と一刀両断にしているが、そんな会計の処理と言う些末な事を言っていて良いのか。何でかんぽの宿が破綻したのかの原因追及の方がずっと重要だろう。そして国民のカネを一企業に下げ渡してしまうような結果になる事への不審の方がずっと大事だろう。
 だから国民は鳩山前大臣を応援していたに違いない。少なくとも私はそうだった。権力に媚びない、妥協しない姿勢を見たつもりだった。それが蟷螂の斧だと分かっていても、応援した。そうした清風が吹かない限り、汚れた権力から足を洗う事は出来ない。私には前大臣の「魂胆」は見えなかった。見る力が無かったのだが、でもそれで良いと思っている。
 首相は民間会社の人事に政府が首をつっこんではならぬ、と言うが、西川に鳩山に謝らせようとしたのは民事介入にはならないのか。そもそもは郵政民営化が怪しいのである。その怪しい事を既成事実として不問に付す、と言うのはどう考えても正義ではない。
 二人の闘いを「喧嘩両成敗」と言っている政治家の程度を疑ってしまう。よくもそんなに程度の低い事を公言出来るもんだと、感心してしまう。だが、それは当然なのだ。程度が低いから自らの程度の低さを感知出来ない。こうした連中に取り巻かれて、「住みやすい社会を作る」ための権力を発揮出来るのか。

部外者が謝って幕引き、は許さない

2009年06月17日 | 社会問題
 栃木県警の本部長が菅家さんに謝った。でもおかしいじゃないか。本部長は現在その職に就いているが、この事件の捜査当時には関係が無い。関係の無い人が出て来て謝ったって、それは謝った事にはならない。同じ職場の人間として責任の一端はあるとの認識だろうから、心から謝ってなどいない。もしも本当に心から謝っているのだとするなら、素晴らしい人である。他人の罪を自分の罪と感じる事が出来るのだ。
 でも、私はそんな人間が存在するとはとても思えない。自分の罪でさえ、他人事のように思うような人がたくさん存在している。
 事件に関わった人々は逃げてはいけない。きちんと責任を取るべきである。どんな責任かって? それはとても難しい。一番分かり易いのは、菅家さんに実質、17年の懲役刑を与えた人一人一人が同じ17年の懲役刑に服する事である。
 無茶と思われようと、そうでもしない限り、こうした無責任な「仕事」が繰り返される危険性は十分にある。

 捜査に当たった人達は間違っている。彼等の仕事は犯人を見付ける事ではあるが、本当の目的は真実を明らかにする事である。それが誰もが自分の「目先の仕事」に夢中になるあまり、本当の仕事を忘れてしまった。
 国の仕事に関わっている人達はみんな自分の仕事を忘れている。あんたがたの仕事は国民の利益を守る事にあるんですよ。一部の業者や政治家や省庁や、もちろん天下り役人の利益ではない。
 首相までもがそれを忘れている。
 麻生首相は自民党の若手議員が「大政奉還せよ」と言った事に対して、「何の大政だ?」と非常に馬鹿な発言をした。決まってるじゃないか。「大政」とは天下の政治の事だ。徳川慶喜は天下の政治を孝明天皇に奉還した。現代では自民党が天下の政治を国民に奉還する事になる。悔しいから知らない振りをしたんだろうが、恥の上塗りをする事ないじゃないか。

 私は政治の世界の細かな動きは知らないし、知りたくもない。知っていれば、色々な事が分かって来るのだろう。けれどもそうした動きに気を取られると肝心な事を見失ってしまいそうな気がする。だから、日本郵政に関しての鳩山さんと西川社長のやりとりや首相や政府筋、自民党の実力者などの発言の裏側を考えたりはしない。ただ、言葉に現れた事で分かる事がある。言葉はその人の本心を表してしまう事が多い。普段から人々の話し振りに気を付けていれば、単なる間違いか、本心がそこに顔を見せているのかは分かる。だからこうした言葉を採り上げている。もちろん、それは私の感性であって、他人も同じ理解をするとは言わない。
 言葉と言えば、以前、田中眞紀外相が小泉首相に更迭された時、彼女は涙を拭った。それを首相は「涙は女の武器だからね」と一笑に付した。今回、鳩山さんは悔し涙をにじませた、と新聞は伝えている。小泉元首相はこれをどのように評価するのだろうか。今度は「涙」は男の何になるんだろうね。「女の武器」云々は、当時の小泉首相がそんな事くらいしか考えていなかった事を如実に表しているのである。本当に言葉はその人の本心を天下に晒してしまうのである。

日水のズワイガニいんちき表示商法

2009年06月16日 | 社会問題
 日水が紅ズワイガニをズワイガニだと偽って表示していた問題は、承知の上での事だ。なぜって、食品会社がそんな初歩的な事を知らないはずが無い。いや、知ってましたよ、でもね、どちらもズワイガニの種類だからそれで良いと思ってたんですよ、と言っている。
 馬鹿を言うんじゃない。ズワイガニと紅ズワイガニが全く別の物である事は我々だって知っている。何しろ、見た目が大いに違う。紅ズワイはその名の通り、赤いのだ。それに味だって落ちる。だから私は紅ズワイなど買わない。もちろん、値段はずっと安い。
 まあ、あまりカニに興味の無い人は分からないかも知れない。でも街の魚屋だって、きちんと両者を分けて売っている。どこから同じ種類だから良いではないか、との発想が生まれるのか。
 もちろん、これは単なる言い訳である。当人達はきちんと知っていて、だから儲けが大きくなるから紅ズワイを使っている。コロッケに入っているカニがそんなに旨い訳も無い。かにしゅうまい、と言ったって、「おっ、カニだ」と感激したりなどしない。そう言えば、何となくカニの感じがするなあ、と言った程度である。だから「ずわいがにコロッケ」にめくじら立てる事も無いと言えば無いのだが、商売にしているからにはそうは言えない。
 客がカニの旨さを感じる事と、生産会社が旨いカニが入っていますよ、と宣伝するのとは大いに違う。

 これは明確に「詐欺」である。しかしそこは一流会社は言い訳がお上手である。「法令確認を怠ったミスだ」と言っている。確かに法令確認を怠っている。だが、それはミスではない。承知してやった事だ。
 そうでなければ、法令には紅ズワイガニをズワイガニと称してはいけない、との文言がある事になる。果たしてそんな初歩的な文言があるのか。そしてズワイガニと紅ズワイガニは分類学的にきちんと分けられているのか。
 もしも法令でズワイガニと紅ズワイガニの区別がきちんとされていなければ、法令を確認しての上でなら、紅ズワイガニをズワイガニと称しても良い事になる。そんな事が許されるだろうか。

 水産業者にはとっくに周知の事実である。だから値段だって紅ズワイガニはズワイガニの十分の一ほどの安値なのだ。これは法令とは全く関係が無い。関係があるのはただただ、「良心」である。もちろん、それ以前に「常識」である。
 こんな会社は本当は食品製造に関わってはいけないのだと思う。この会社は多分、タラバガニと偽ってアブラガニを売るのでしょうね。
 繰り返すが、食品の知識が無い者が食品を製造してはならないのである。そしてつまらない道理の通らない言い訳をした事で恥の上塗りをしてしまった。多分、消費者の信頼は大幅に下落したと思う。麻生内閣と自民党どころの騒ぎじゃない。

 結局、みなさん、引き際が汚いから、どうしたって根性を疑られてしまう。そしてその心根は本当に汚いのである。

変な雑学は退散すべきだ。「国境線の無い国」

2009年06月15日 | 文化
 ある雑学の本に「陸続きなのに、国境線の無い所がある」と書かれている。えっ? そんな所があるのか。
 雑学の示す所はアフリカのザンビア、ジンバブエ、ボツワナ、ナミビアの四カ国の境。つまり、この四カ国は線ではなく、点で接している。ぜひ世界地図を広げて確かめてください、と言うが、そんな事、地図で確かめるまでも無い。四つの国が接するなら、そうした情況しかあり得ない。三か国の境なら世界中のあらゆる所にある。アフリカのこの場合は四カ国だから珍しいのである。
 長野県の北西部に住んでいる人なら、岐阜県と富山県に接している所では県境は点になる事を知っている。それはどこでも同じ。三つの都府県に接していない都府県を探す方がずっと難しい。
 この雑学の問題は上に示したように「陸続きなのに、国境線の無い所がある」だ。これは明確に大間違いだ。「四カ国が接している所はどこか」との問題なのだ。でも出題者はどうしてそんな馬鹿馬鹿しい間違いに気が付かないのか、とても不思議だ。多分、四カ国が接している珍しい所を発見した事で舞い上がってしまったのではないか。だから冷静な判断力を奪われてしまった。
 でも私が読んでいるのはこれが講談社+α文庫に入ってから二年半も経った版だ。その間、誰も気が付かないのか。更にその前にはこの本は日本社と言う出版社から1981年に出されていて、それを編集、改題したのである。どの時点でこの問題が入って来たのかは知らないが、悪く考えれば1981年からあったとも思える。28年間も間違っていたなんて、まさか。

 まあ、これはほんのご愛嬌だとしても、ほかにもあまり感心出来ない雑学がある。その一つに濃い口醤油と薄口醤油の違いがある。
 濃い口醤油は大豆と小豆の割合がほぼ半々で、充分に発酵熟成させて作られている。そのため色が濃く、香りとコクのある味が特徴。
 薄口醤油は料理の味を生かすため、色と香りを控えめにしたものだが、食塩で熟成をおさえているので、塩分は濃い口醤油より一割ほど多くなっている。

 さてこれでお分かりになっただろうか。私は全然分からない。まず、濃い口醤油が大豆と小豆が半々に疑問がある。醤油に小豆なんて使っていたっけ? 百科事典には「大豆と小麦と食塩」が主原料とある。我が家で使っているいくつかの醤油もみんな同じ。小豆は小麦の間違いなのか? でもご丁寧に「あずき」と仮名が振ってある。
 薄口醤油は熟成をおさえて色と香りを控えめにしたと言うのだが、味はどうなんだ? 料理の味を生かすためだから、醤油その物の味は薄くても良い。でも味については無言である。しかも熟成をおさえているから、あまり良い味になっているとは思えないのだが。ただ、塩分が一割多いと言うのだから、塩味は効いているらしい。「らしい」としか分からない。
 あなたは、こうした説明で満足出来ますか? 

 でも本当に不思議だ。本は必ず校閲者が見る。編集長だって一通りは読むはずだ。全員が仕事をさぼっているとしか考えられない。
 本のタイトルは「つい誰かに話したくなる雑学の本」だが、こんな事話したら笑われちゃうよ。
 でも、逆に、おかしいぞ、と思って調べるから勉強にはなる。これは本のタイトルを変える必要がある。私に良い案がある。
 「つい自分で勉強したくなる雑学の本」
 どうです、いいタイトルでしょう。

オペラのアリアがつまらない

2009年06月14日 | 文化
 私はクラシック音楽が大好き。題名のない音楽会でも時々趣向を凝らしてオペラのアリアを聴かせてくれるが、今一つ興が乗らない。なぜって、歌詞が分からないからだ。そんな事あったり前じゃないか、と言われるかも知れないが、歌の命はメロディー半分、歌詞半分である。
 「いい日旅立ち」だって、「あーあー、にほんのどこかにー、わたしをー待ってるー人がいるー」ダンダンダンダン、だから素敵なんじゃないか。この「ダンダンダンダン」はそこでドラムが鳴るのですよ。発売当時聴いていた演奏では、そこん所がとても私にはカッコ良く聞こえた。重低音がとても良く響く20センチのスピーカーに、これまた超高音の美しいツイーターを使った自作のスピーカーシステムだった事もあって、楽しく聴いていた。
 けれども、最近の演奏ではそのドラムがほとんど鳴っていない。だからちょっとつまらない。
 「ダンダンダンダン」で話がそれてしまったが、このように、メロディーと歌詞は密接不離な関係にある。その言葉がそのメロディーに乗っているからこそ心がときめくのである。
 作詞家が気持を込めて詞を作る。試行錯誤したりして、あくまでも言葉の響きを追求しているはずだ。だから時々、あれっ? 文法的にはおかしいぞ、と思うような詞がある。でも、作詞家がその言葉でやっと満足したんだから、それでいい。
 その作詞に今度は曲を付ける。当然に言葉を生かすべくメロディーを作る。これまた時々おかしなアクセントや切れ方をする曲を付ける事があるが、まあ、全体の流れを考えてそうなったんだろうから、これまたそれでいい。

 メロディーは誰にでも分かる。だが、言葉はそうは行かない。沖縄の歌を県外の多くの人が完全には分からない。でも、同じ日本語なのでなんとか分かっている。しかしイタリア語やドイツ語になったら、どうしようも無い。だから映像を伴う場合には下に字幕が出る。
 だが、この字幕が意味を分からせる事に夢中になっていて、言葉の順序も響きもなんのその。我々はアリアを理論的に理解しようなどと思っているのではない。感覚的に楽しみたいのである。
 外国語の歌はその国の言葉が分かる人を対象にして作られている。当たり前だ。だから発音もメロディーもきちんとその言葉を生かす工夫がされている。その言葉を知らない人間にもそのメロディーと言葉の響きは伝わる。
 だから英語で考えれば、「go」と歌えば「行け」になる。これは多くの人が英語を少しは知っているから成り立つ。同じことをイタリア語でもドイツ語でも考えれば良い。
 イタリア語は知らないがフランス語なら、「アレ」と歌ったら字幕が「行け」になれば分かる。しかしちょっと複雑な言い方になれば、欧米語と日本語の構文の違いがすぐに現れてしまう。アリアでは流れている言葉が字幕では何と最後になったりする。今、声を張り上げて歌っている言葉と字幕の言葉は徹底的にずれている。強く訴えたいと思うから高い音程になったり、声を張り上げたりするのだ。それは一体、何と言う言葉なんだ。歌手は何て歌ってるんだ。私はもどかしくてたまらなくなる。分からなくて不機嫌になる。
 全体の言葉の意味が分かったって感動なんかしない。言葉その物が直接的に訴え掛けて来るから感動するのである。

 分かり易い話をする。「サウンド・オブ・ミュージック」は、
 「ザ・ヒルズ・アー・アライブ・ウイズ・ザ・サウンド・オブ・ミュージック」
で始まる。その字幕は、
 「丘は音楽の響きで生きている」
などとなる。
 少なくとも、「ザ・ヒルズ・アー・アライブ」と歌った時に、「丘は生きている」の字幕が出て、「ウイズ・ザ・サウンド・オブ・ミュージック」で「音楽の響きで」と字幕を出す事は出来る。
 それで意味は分かる。我々はそんなに馬鹿じゃない。これだって、英語と日本語が同調しているとはとても言えないが、「丘は音楽の響きで」となるよりずっと良いはずである。しかし、誰もそんな事は考えない。

 歌詞を完全に分からせようなどと考える必要は無い。元々、歌詞なんてそんなに完全に分かるようには出来ていない。出来ていれば、多分、歌詞としては優秀ではないだろう。すべてを言い尽くさない所に詩の良さがある。あるいはくどいくらいに繰り返す事に良さがある。新沼けんじ(漢字が分からない)さんの「雪雪雪雪」なんて歌詞もそこが魅力の一つになっている。
 そうした詩の素晴らしさ、言葉の響きの素晴らしさを伝えずに、歌が心に届くはずが無い。私が言っているような事を実行しようとすれば、とても骨が折れる。多分、作詞家並みの技量が要るはずだ。だから簡単には出来ないし、やろうとも思わないのだろう。私なら是非ともやってみたいと思う。だが、趣味でやるにはちょっと骨が折れ過ぎる。


 

どっちが阿呆か、とはこれまた失礼な

2009年06月13日 | 政治問題
 メールマガジン「頂聞の一針」で渡部亮次郎氏が麻生対鳩山問題で、どっちが阿呆か、と書いている。1575号。結論を言えば、倒産した資産の整理を知らない鳩山が官僚に乗せられて、首になり、うまい汁をその官僚が吸おうとしているのだ、と言う。そうした事をお坊ちゃん育ちの鳩山も単細胞の庶民も分からないのだと言う。言ってくれるじゃないですか。
 倒産した資産の処理が簡単ではないのは分かる。だが、では何で倒産などしたのか。「かんぽの宿」はずっと以前から不良資産だったと言うのなら、なんでそんな不良資産を作ったんだ? どっちにしろ郵政側に責任があるはずではないか。そうした責任を問題にせずに単に資産処分の問題として処理しようとして、しかもそれがべらぼうに安い金額だったから、裏取引があるんじゃないか、国民資産の叩き売りだ、言われるのは当然である。

 我々庶民が実情を知らないのは、知らされないからである。それをマスコミも馬鹿だ、と斬って捨てても何にもならない。メールマガジンを主催しているくらいの人なんだから、マスコミを先導する力だってあるんじゃないか。それとも高見の見物なのか。
 この話には郵政民営化も絡んでいる。大体、民営化の目的がアメリカの資本の郵政資本への乗り込みを許す事にあったと言う。それこそ国民を愚弄している。
 様々な経緯を追っている訳ではないから、私には詳しい事は分からない。でも、この渡部氏の言い方はあんまりじゃございませんか、と私は言いたくなった。
 「もっと早く真相を明らかにして鳩山を切れば問題はなかった。それをしなかったのは党内基盤の弱さから来る「迷い」がこうさせた」と同氏は言うのだが、その真相とは何なのか。不良資産の処理の仕方だと言うなら、納得出来ない。なぜ不良資産になったのかの真相なら、多分、首相は鳩山大臣を切れないのではないか。

 こうした大きな問題は私ふぜいには分からないが、でもやはり、私は自分が感じた事、思った事を素朴に信じてこの問題を見て行きたい。

首相が国民を見ていない事がはっきりした

2009年06月13日 | 政治問題
 きのうの午後から面白い事が起きている。鳩山総務大臣の辞任は自民党にとっては激震かも知れない。何しろページ数の少ない東京新聞が六つの紙面を使って報道している。
 多くの人が鳩山さん頑張れと応援していただろうに、正論が通る見込みが無いと、辞任した。変な妥協をしては男鳩山の「男」がすたる。外野は鳩山さんが仲間を引き連れて民主党に鞍替えするのではないか、とか、自分の党を作るのではないか、などなど、賑やかな事。いずれにしても、麻生内閣の末期的症状が更に速度を速めた事は間違いない。麻生さんの選対本部長だったんだから、こんな面白い事はないではないか。

 今回の事で私が一番気に入ったのは、首相が国民など眼中に無い考えなのが明確になった事だ。鳩山さんは首相周辺からも首相個人からも「西川氏が鳩山氏に直接謝罪する事などを条件に、続投容認を求められた」のである。
 それじゃあまるで子供の喧嘩じゃないか。「御免なさい、僕が悪かったから許してね、そしてお仕事続けさせてね」で事が済むと思っている。国民も本当に馬鹿にされたものだ。
 首相は「政府と郵政会社の間に混乱が生じたような印象を与えた事は甚だ遺憾」と述べている。
 えっ? 混乱が生じてなんかいない、と言ってるのか? と言う事は、政府は西川郵政社長のやった事が正しいと信じている事になる。麻生さん、それでいいんですか? 国民を裏切って、それでいいんですか?

 鳩山さんは言っている。「西川氏が謝るべきは国民だ。これだけ国民共有の財産を棄損してきたのだから」
 全くその通りである。首相とその周辺は「国民VS西川日本郵政社長」の闘いを単なる内輪もめに見せ掛けて国民を騙そうとしている。それはとっくの昔にばれているのだが、それを更にあからさまに国民の目に晒してしまった。
 内閣及び自民党の支持率は更に更に低下する事でしょう。めでたし、めでたし。あーあ、次の世論調査が楽しみだあ、と。

 街には「すぐに辞任するのはうんざりだ」との声も聞かれるが、すぐに辞任ではないだろう。首相側の鉄壁とも言える馬鹿馬鹿しさ、くだらなさに正論が通る見通しが立たないから辞任したのである。
 東京新聞の社説は「閣僚の反乱を抑えられず混乱を長期化させたトップの責任は重大だ。統率力なき政権の惨状が続く」と言うが、それはおかしい。
 これが閣僚の反乱か? 反乱と言うからには、同紙も首相と同じ考えになる。つまり国民無視である。しかも、反乱を抑えられず、と言う。それじゃあなんですか、首相の鶴の一声だけに耳を傾ける大臣が良いと言うのですか? 大臣がどんなに良い事を提言しても、首相は聞く耳を持たなくて当然だ、とでも言うのですか?
 統率力が無いのではない。正論が、定見が無いのである。国民の幸せを考えず、何か架空の政権運営にばかり夢中になっているから、こうした「惨状」になっているのである。

 

蛍の自生地保存か市道の建設か

2009年06月12日 | 社会問題
 愛知県名古屋市で住民がもめていると、テレビが報道した。市道の建設予定地にヒメボタルの自生地がある。名古屋の市内にそんな貴重な自然が残っている。市道は建設が進んでいて、あとはその自生地を残すだけらしい。もちろん、市道が通れば蛍は居なくなる。どこかに移る訳ではない。生きられなくなってしまうのである。
 この市道は付近の道路の渋滞を解消するためにだいぶ前から建設が進んでいるらしい。テレビではリポーターがその渋滞情況を報告していた。だが、それは視聴者にとっては何の役にも立たない報告である。渋滞の凄さは何も現場を見せてくれなくても分かる。そして決して分かり易い映像ではなかった。それに、そうした情況を見せる事で、視聴者に「ああ大変なんだな」と思わせてしまう恐れがある。場合によっては、巧みな誘導だとも言える。
 そんな事よりももっとずっと重要な事があるだろう。なぜ渋滞が起きているのか、である。根本的な原因を探ってそれを解決しなければ、市道なんか幾ら作ってもまた同じような事になる。渋滞が無くなれば、今は抑えている車による交通が、更に増える可能性はある。もし、そんな事になったら、貴重な蛍の自生地をつぶしてまで作った市道は何にもならなくなる。
 絶対に渋滞は以後発生しないと約束出来るのだろうか。私は何も無理な事を考えろ、と言っているのではない。蛍の自生と言う貴重な自然と交通渋滞の解消とのどちらを採るべきか考えようよ、と言っているだけだ。
 一度失った自然は二度と元には戻らない。そして一度発生した交通渋滞は、一度は解消しても再び元に戻る。渋滞の無い道だと知れば、ほかから回って来る。
 何で、目先の事しか考えないのか。テレビは蛍派と市道派の両者の意見を紹介して、一見公平に見える。しかしその実、決して公平などではない。きちんと交通渋滞の原因を探って、それを視聴者に見せてこそ、公平な報道と言えると思う。そんな大変な事、出来ないよ、と言うのなら、中途半端な報道はしない事である。単に野次馬になるだけだ。

 この報道で、他の地域の人々は渋滞の解消よりも自然保護に肩を入れるに違いない。自分が困らないんだから、自然保護の方がずっと素晴らしいではないか。もしかしたら、そうした事が狙いなのか。
 車が便利な事ぐらい、知っている。だが、その便利さに悪乗りしている可能性は無いのか。ちょっと時間を掛ければ電車でもバスでも済む場合だってあるはずだ。乗用車では多くの車が運転者一人しか乗っていない。たった一人を運ぶのに車は不経済ではないのか。その肝心の人が降りれば、車は単なる邪魔者になる。駐車する場所が必要になる。
 交通が不便だから車しか方法が無い、と言う事もあるだろう。だが本当はそうであってはいけない。一人一人の人を運ぶために公共の交通機関があるのではないだろうか。マイカーをバスなどに替えるだけで、渋滞はかなり減るはずだ。
 これには堂々巡りもある。乗る人が少ないからバスが成り立たない。バスの便数が少なくて不便だから乗らない。こうした事は辛抱強く取り組まないと何も実現出来ない。赤字だと簡単にあきらめずに執拗にバスの運行を続けていれば、乗客は徐々に増えて行くのではないのか。

 我々は便利な生活に慣れ過ぎている。昔はこんなに便利ではなかった。その時、果たして我々は幸せではなかったか。十分幸せだった。今の幸せを知らないからだよ、などと言う人も居るだろうが、幸せなんて、そんなもの。慣れてしまえば、幾ら幸せでもまだ不足に思い始める。
 蛍の自生地保存か市道の建設かを巡って、別の事を考えてみた。言ってみれば、このテレビ番組は良い材料を提供してくれた訳だが、どうもその提供の仕方が中途半端である。

全盲のピアニストの顔の素晴らしさ

2009年06月11日 | 文化
 バン・クライバーン国際ビアのコンクールで一位になった辻井伸行さんをテレビで見た。演奏その物はテレビの音声だし、ほんの一部だからよくは分からないが、その演奏している顔がとても素晴らしかった。頭の中にも心の中にも美しい音楽だけしか流れていない事が目に見えるような表情だった。ご両親が美男美女なのだが、あの表情は絶対にそれだけではない。
 ご両親もご苦労があった事は想像に難くないが、ご本人の苦労と言うか努力も大変な物だっただろう。何だって、すべて本人次第である。時々、他人のせい、世の中のせいにして拗ねて、人を殺したりする馬鹿が現れるが、甘えるのもいい加減にしろ、と皆が思っている。

鳩山大臣の頑張りで、政治家の本音がよく見える
 テレビで、鳩山大臣と西川・日本郵政社長との参院総務委員会でのバトルが紹介された。二人とも絶対に目を合わせず、自分の主張を堂々と述べた。
 こうした一連の事に関して、自民党内部から様々な批判が挙がっている。驚くのは首相と大臣との確執がはっきりして、自民党の恥さらしだと言っている自民党員が多い事である。私は加藤紘一と言う人を信用していたのだが、これでは選挙に勝てないから迷惑だ、との発言で、今までの見方が間違っていた事に気が付いた。正論を通さずに選挙に勝って何になると言うのか。
 ここには国民の幸せなんかどこにも無い。あるのは自分達の事だけ、それも政権をあくまでも握っていたい、との妄執だけである。何で政治家は真実を見る目が持てないのだろうか。目玉が曇っているのである。いや、そうではない。心その物が曇っている。
 そこへ行くと我々庶民は政治に何の得も無いから、きちんと真実を見つめる目を持っている。そう、政治に得があるから目が曇る。目が腐る。いや、心が腐る。我々が真実を見ていないのは、単に見る気が無いからに過ぎない。

 テレビで話題にしているピアニストの辻井さんに、記者がちょっと残酷な質問をした。もし一度だけ目が見えたら、何が見たいですか、と。
 即座に彼は両親の顔が見たい、と答えた。そして見えなくても、心の目で見ていると言った。私は涙が出そうになった。
 多くの国会議員には心の目が無い。あったとしても、心が腐っているから何も見えない。見えるのは欲得だけである。