夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「ミッドサマー」は「真夏」ではないと言うのだが

2009年06月22日 | 文化
 きのう、6月21日は夏至だった。東京新聞の「こちら編集委員室」と言うコラムに、シェークスピアの「真夏の夜の夢」は現在では「夏の夜の夢」と言うとあって、改めて、ああ、そうだったと思い知らされた。
 と言うのは私は戯曲では知らないが、メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」は好きで知っているから、その題名が「夏の夜の夢」になっている事は知っていた。ただこれには後述のような理由がある。
 「真夏→夏」への変更の理由が次のように書かれている。

 実は、ミッドサマーは日本でいう真夏ではなく、夏至を意味する。ならば「夏至の夜の夢」となりそうだが、散文的すぎるのか、福田恆存や小田島雄志、松岡和子らの邦訳題名は「夏の夜の夢」である。

 だが、私の持っている二冊の英和辞典では「夏至のころ、真夏」である。ミッドは「中央」の意味である。ミッドサマーは英語である。だから英国の事情を考える必要がある。そして夏至と夏は概念が違う。
 夏至は地球の運行によって決まる。だから夏至は北半球では世界中どこでも同じく6月21日ころになる。春分、秋分、冬至も同じ。だが、春夏秋冬はそれぞれの国によって異なる。もちろん、冬が夏になったり、春になったりはしないが、季節感は所によって違う。
 だから、日本では夏至と真夏は大きく異なるが、イギリスでは果たしてどうなのか。夏至は二十四節気の一つで中国から伝わったが、真夏ではない。真夏は多分、「大暑」だと言うのだろう。こうした事とイギリスを同一に考える事は出来ないはずだ。イギリスでは夏至の頃は過ごし易い季節だと、このコラムにも書いてあるが、だから「真夏」ではない、とはならない。イギリスの真夏が過ごし易い季節であって、一向におかしくはない。
 と考えたのだが、どっこい、実は戯曲の舞台はアテネ郊外の森なのだ。ではギリシアの事情を知らなくてはならないか。そんな事は無い。イギリス人達は舞台がアテネだとは思っても、それを自分達の国に置き換えて読んでいるはずだ。普通はそうだ。日本人だってそうだ。だからこそ、夏至は真夏にあらず、となったはずである。
 
 夏至は一番昼の長い日であり、当然ながら日照時間は一番長い。それが真夏と解されてもおかしくはない。ミッドサマーナイトとは、夏至の頃に行われる聖ヨハネ祭の前夜の事だと言う。この夜には色々と怪奇が起こると言い伝えられていて、この戯曲は妖精達の活躍と二組の恋人達の恋の駆け引きが絡んだ幻想的で機知に富んだ進行である。
 イギリスの事情を知らなくても、一向に構わない。イギリスの文豪がミッドサマーナイトと書いたのである。それが夏至の頃である事も彼は十分承知の上である。ミッドサマーの語感もきちんと認識している。ミッドサマーにはそれだけの理由があるはずだ。英英辞典には「夏の真ん中」「夏の一番長い日」とある。たまたまそれが夏至に当たるとは考えられないのか。
 それを夏至は真夏ではない、と一刀両断にしてしまう日本の翻訳家達の考え方が私にはまるで分からない。外国文学はきちんと外国の事情を理解して初めて分かるのではないか。時々、外国語の文体を無視して、日本語訳をしている翻訳家が居るが、疑問だ。意味だけが重要なのではないのだ。
 大学で英文学を教わったのは高村勝治氏だった。彼はヘミングウェイのあの簡潔な文体をそのまま日本語に訳して我々学生に示した。そして彼のヘミングウェイ訳はそうだった。「真夏の夜の夢」と言われて、日本では夏至の頃なんだがなあ、と疑問に思う人が果たしてどれほど居るだろうか。舞台はアテネだが、作家も読者もイギリス人なのである。そうか、イギリスでは真夏なんだ、と思って対処すれば良いだけの話ではないか。
 ただ、複雑な事にはこれを音楽にしたメンデルスゾーンはドイツ語で「夏の夜の夢」としたらしい。持っているCDはイギリスのレコード会社の手になるから、タイトルは英語である。残念ながらドイツ製の物は持っていない。ほれ見ろ、ドイツ人だって真夏とは言ってないじゃないか、とは言えない。それはメンデルスゾーンの勝手で、そこまで斟酌する必要は無い。ここでのテーマはシェークスピアの戯曲なのである。

 翻訳家の感覚も疑問だが、このコラムの編集委員の考えもまた疑問である。簡単に既成事実に迎合してしまう。「夏至」では散文的過ぎるのか、と言っているが、なに、「夏」だって十分に散文的過ぎますよ。日本語としては「真夏の夜の夢」だから幻想的な話が納得出来るのである。「夏の夜の夢」なら、単なる夏の夜に過ぎない。これは感覚的な事だから強制は出来ないが。