夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

アメリカに感動した。でも……

2008年11月06日 | Weblog
 フジテレビの「特ダネ」で小倉キャスターが言った。英語は分からなくても(と言ったかどうかは定かではないが)感動した。私も感動した。何よりも演説の迫力に感動した。自分の言葉でしゃべっている。これほど感動する事は無いではないか。日本では、相変わらず、誰かの作文を読むだけに終わる。どんなに読み方が上手くても、そこに感動は無い。しかも上手くなんかない。とても下手くそである。小学生だってもっと上手く読めるよ。
 更には聴衆の感動がある。単なるリップサービスならあれほどの賛同は得られない。政治家が演説が上手い事は必須条件である。そんなイロハが日本の政治家は分かっていない。私はアメリカが好きではない。何よりも天上天下唯我独尊、自分だけが正義である、との思い上がりが許せない。自分の都合だけで、日本を様々におもちゃにして来た。その根性が何とも許せない。それに尻尾を振った日本の政治家連中など糞食らえ。

 こうしたアメリカを見ていると、何となくほっとするし、信用出来るかも知れないと思ってしまう。しかしアメリカは恐ろしい。二十代でさえ銃を所持する事が許されている。それは他人が信用ならないからだ。そんな社会がアメリカなのだ。だから、オバマ氏の身を案じる人々は多いだろう。頭にはあのケネディー暗殺がある。自分の損になるなら、一国の大統領でさえ平気で殺してしまう人間性の恐ろしさがまざまざと浮かび上がる。
 アメリカには黒人差別の長い歴史がある。それがそう簡単に払拭出来る訳が無い。圧倒的な勝利だと言ったって、得票率で見れば、ほぼ半々に分かれる。熱狂的に白人のみが人間だと信じている人々が果たして黒人大統領を理解出来るか。
 日本人は馬鹿だから、欧米が日本を認めていると信じている。だからテレビでは、欧米がアフガニスタン問題で、日本の助力を大いに期待しているなどとほざいている。彼等は単に日本の金が目当てであるに過ぎない。そんな事も分かっていない。
 ねえねえ、金の切れ目が縁の切れ目、って言う言葉、忘れたんですか。あなた方テレビ人やマスコミ人間が、自分の事で忘れているのは勝手である。だが、それを我々に強要するのは大間違いである。

 話は変わるが、またまた病院たらい回しが起きた。産科医が足りないのはもう世間周知の事実である。だから、これは国の問題である。国が率先して産科医をきちんとそれだけの努力に報いるような手立てを考えるべきなのである。何の役にも立たないような事業に金をつぎ込んでなどいないで、我々の役に立つ仕事にこそ金を掛けるべきなのだ。そんな事、小学生だって分かる。
 私が小学生、小学生と口にするのは、彼等はきちんと育っていれば、人間味溢れる存在だと信じているからだ。彼等を駄目にするとしたら、それは金に狂った両親や世間のせいである。

 演説の話に戻るが、あれだけ原稿を見ずに堂々と話せるのは、それが自分の信念であり、常々考えている事だからである。だからたとえ筋書きなど出来ていなくても、平気で、きちんと話す事が出来る。本人自身の言葉だからこそ、人々の感動を引き出す事が出来る。日本の政治家の演説が口先だけなのは、本人が何も考えてなどいないからである。
 いや、考えている、と言うなら、是非とも、草稿無しに演説をしてみて下さい。信念からの言葉であれば、草稿など不要なはずである。たとえ、途中でとちったとしても、聴衆はそんな事にはこだわらない。きちんと信念を聴き取っている。我々を馬鹿にしてはいけない。
 我々日本人は世界一の識字率を誇る。学力的に一定水準以上にある。そこがかえって裏目に出る。言葉を知っていると錯覚するから、簡単に言葉に騙されている。もっともらしさに簡単に騙される。
  もっと、人間性を見ましょうよ。たとえ言葉が上手くなくても、心情はきちんと言葉の端端に現れている。言葉が上手い場合には、その人にとっては不本意ではあろうが、その言葉をきちんと吟味する必要がある。話している本人自身が、自分の言葉に騙されている事があるのですから。

「におっていいですか」とは何たる言い草か

2008年11月05日 | Weblog
「におっていいですか」の意味を答えて下さい。
 先日、テレビ出演者は自分の辞書を持つべきだ、と書いた。
 言うまでもなく、テレビは意思を伝えたいと存在している。そしてその手段は言葉である。同じ言葉を使ったって、受け取り方は人それぞれに異なる。代表的なのが「考えておきます」あるいは「考えさせて下さい」である。
 文字通り、考える場合と、はなから考えずに拒否している場合とがある。「嫌です」「駄目です」と言いたくないから、こうした言い方がされている。これは文化だから、習得するしか無い。
 そうした事を含めて、言葉は非常に難しい。上のように極端ではなくても、少しずつずれが生じている場合は多い。言葉をきちんと使っていてさえそうなのだから、間違って使っていようものなら、とんでもない事になる。

 タイトルの「におっていいですか」の意味、あなた、分かりますか?
 これはフジテレビの「ごきげんよう」と言う番組での出演者の言葉である。同番組は小堺一機さんが司会をしてゲスト出演者と面白おかしい会話を展開している非常に面白い番組である。司会者の人柄がよく出ていて、私は気に入っている。出演者も、含蓄のある事を言う人も結構多く、特に年齢の行っている人ほどそれが目立つ。
 問題の出演者は、今、人気の女優であるらしい。女性タレント、と言うのかも知れないが、魅力的な女性である。様々なドラマにも出演していると言う。出演者の一人のお笑いタレントが、風呂の無いアパートに住んでいて、風呂に行く代わりに、赤ちゃん用の一枚1円也のお尻拭きで全身を拭っているとの話に、皆が驚き、爆笑した。
 その彼が隣に来た時、彼女が聞いたのである。「におっていいですか」と。
 もうお分かりだろう。意味は「においをかいでいいですか」である。

 彼女はせりふをきちんと覚えて、演技をしていれば良いだけの人なのかも知れない。それなら、別に言葉を知らなくても用は足りる。だが、タレントとしても活動している訳だ。現に、この番組に出演している。それが「におっていいですか」なのである。
 いい歳こいて、いい加減にしろよ、と言いたくなる。小学生低学年だってそんな事、言わないぞ。その男性も結構きつい事言うくせに、この時は、何も言わなかった。まさか「におってませんか」と聞かれたと勘違いした訳ではないだろうに。にこにこと、においをかがせていたのだから、勘違いなどしていない。

 これが決して特殊な例などではないから言うのである。「アメリカをやめる」と言ってカナダに移住してしまったアメリカ人の話を聞き書き(本当は読み書きとでも言うのだろうか)で書いた。だが、我々日本人は「日本をやめる」事が出来ない。日本語は日本でしか通用していない。それなのに、その大事な日本語があまりにもいい加減である。多分、日本人しか使っていないから安心してしまうのだろう。「未曾有=みぞう」を「みぞうう」とはっきりと発音していた語り手が居る。実は私も昔そうだったから、特に気になるのだ。「相応しい=ふさわしい」を「あいおうしい」と言っていたレポーターが居る。今までに何度もその言葉を使って来ているはずだ。こんなのは氷山の一角に過ぎない。
 思い込みはなかなか抜けないが、他人の言葉にほんのちょっと注意深くなれば、あれっ? 自分の言っているのとは違うぞ、と気が付くはずである。それが気が付かない。つまり、他人の言葉を注意深く聞いてなどいないのである。そんな人が他人に向かって発言する資格があるのだろうか。

航空幕僚長の更迭で済む問題ではない。もっと考えよう

2008年11月04日 | Weblog
 航空幕僚長が更迭された。論文の「日本は侵略国家であったのか」が非難されたのである。「日中戦争は侵略戦争ではない」「日韓併合は国際条約に則って合法的に行われた」などの主張が柱になっていると言う。この論文がこの10月31日、第一回「真の近現代史観」懸賞論文募集で最優秀賞を受賞した。
 日本政府は過去の植民地支配と侵略について反省をし、それが日本政府としての統一見解になっているのは知っている。それで中国や韓国と友好関係が結べているのも承知している。
 だが、この論文は日本政府が発表した見解などではない。航空幕僚長の見解に過ぎない。国内に色々な意見があってはいけないのか。野党はこぞって任命権者の責任問題だと言うが、野党だって一枚岩ではなかろう。一枚岩なんかであったら怖くて仕方がない。100人居れば100通りの考え方があって当然ではないか。そんな右向け右っ! みたいな事でどうすると言うのだろう。もしも首相が間違ったら、政府は全員が間違った方向に行ってしまうではないか。 
 様々な意見・異見をけんけんがくがく戦わせて多くの人々が納得出来る所に落ち着くのではないのか。小泉政治がトップダウン方式で日本を間違った方向に導いてしまったのではないのか。私は田中真紀子外相が更迭された時の首相の態度をしっかりと覚えている。
 田中氏は気性の強さで知られている。その彼女が涙を流して記者会見をした。それを見て、首相は「涙は女の武器だからね」と言った。田中氏の涙に、私は勝手だろうが、理解して貰えない悔しさを感じた。
 「涙が女の武器」だって? 一国の政治の問題をまるで色恋沙汰かのようにしか見ていないその心根に、私は、ああ、こりゃ駄目だ、と、それ以来、同氏には全く期待を持たなかった。

 田中氏が閣僚として、外務大臣としてまさに適任だったかは別問題である。でも政治家が本当に適任だ、などと思える場合があるのか。それよりも、人間として物事を見詰める眼力の方がずっと大切ではないか。
 この首相の資質の低さについて、野党は何の批判もしなかった。そんな野党が麻生首相の責任を問えるのだろうか。
 この論文の内容は重い。簡単にどうのこうのと言えるような事ではない。それこそ、国論をまっぷたつに割って論議される事なのかも知れない。大体、我々庶民はこうした問題を正面切って論じて来ただろうか。政治家やマスコミの言う事をそのまま受け入れているだけではないのか。私自身、こうした事を真剣になって考えた事が無い。あまりにも難しい問題だから意識して避けている。材料だって、公平な材料がどれほどあるか。
 与党だって野党だって、きちんと考えている人がどれだけ居るのか。社民党も吠えているが、同党がそれほどしっかりとした見識を持っているなら、何でこんなにも凋落してしまったのか。民主党にしても烏合の衆ではないか。日本人の政治意識が低いんだ、などと逃げてはいけない。意識が高いとは言えないだろうが、与党も野党も人気が無く、無党派層が圧倒的に多いのは、誰も彼もが現在の政治家を信頼などしていないからだ。

 相手がちょっとでも隙を見せたらすかさず突っ込むのではなく、その「隙」を考えを深める絶好の機会と考える事は出来ないのか。第一、その「隙」はそんなに簡単な事ではない。深く考えもせずに、やれ任命権者の責任だ、との一点張りなら、簡単だし、誰にでも出来る。中国や韓国に対する配慮も大事だが、何よりも自分達の国民に対する配慮が重要だろうに。
 結局、日本人の戦争責任への取り組みはまるでされていないのではないのか。あれは侵略戦争だった、の一言で簡単に終わらせてしまってはいないか。せっかくの機会に恵まれたのだから、マスコミは堂々と「日本の戦争責任を考える」との特集を、それこそ何カ月でも続けたら良いではないか。我々がきちんと考えられていないのは、マスコミの責任でもあるのだから。

テレビの報道で肉食が改めて気になった

2008年11月03日 | Weblog
飼っていた豚を食べられるか
 日本テレビの放送である。小学校で豚を飼って、子供達が毎日世話をする。卒業する時にその豚を食肉として売るか、後輩に世話を託すか、どちらを選ぶか、と言うような内容だった。始めからきちんと見ていたのではないので、明確な事は言えないが、小学生に、食べるか食べないかを聞いてみたら、全員が食べないと答えた。飼っていれば愛情が湧く、と言うのが理由だ。
 これは実際に何年か前にある小学校で行った事であり、担当の先生が登場した。確か飼育後は食用豚として手放すとの約束だったと思う。その先生は苦しい選択を迫られ、結局、食肉業者に手渡した。インタビューに答えた当時の生徒達は、先生の思いをきちんと理解出来ていた。

 そうした経過を経て、レギュラー主演者達に、あなたはどちらか、と番組は尋ねた。5人か6人かの出演者達は一人を除いて、全員「食べる派」だった。
 その内の一人は「食べる派」で、終始馬鹿馬鹿しいと言うような表情を見せていて、「飼育が終わったら食べると言う約束だったんでしょう。約束は守らなければ」と斬って捨てた。
 ジャーナリストだから約束を守るのは当然である。情報も正確に伝える必要がある。だが私は大いに違和感を覚えた。これは食用とは言え、動物を飼って育てて、その結果飼い主としてどのような感情を持つようになるのか、と言う話のはずである。それをまるで無視する。そこには愛情とか思いやりとかが微塵も感じられなかった。
 もう一人の「食べる派」は、外国では子供がそうした食用動物を飼って育てて、それを売って家計を助けているとの例を持ち出した。そうした子供達が大勢居るのだ、と。
 現実としてそうであるのは分かっている。だが、現実がそうだからと言って、無条件に「食べるのだ」と言い切る、その気持が私にはやはり信じられない。
 二人とも、報道に携わる人間として、その情報の正確さは私は買うが、人間としての報道部分は、コメントなど私は見たくも聞きたくも無い。そんなに約束だけが一人歩きをして大切で、現実の姿がそれほどに大切なら、あらゆる所に無人カメラでも設置しておいて、そこで捉えた情報だけを流せば良いではないか、コメントは無用ではないか、と言いたくもなる。

 こうした見方をしてしまうのも、私の番組の見方にも問題がある。先述したように、最初から見ているのではないし、きちんと見ていると断言出来る訳でも無い。だが、番組の報道の仕方にも問題が無いとは言えない。そしてこのような重大な事を二者択一にして答を出させると言うのは乱暴だと思う。こまごまと説明する時間も無いし、答としては食べるか食べないかのどちらかにしか出来ないのである。そこから上記の二人のような答が生まれているのではないのか。出演者に何も答を強いる必要は無かろう。視聴者がそれぞれにどう考えるか、と訴え掛けるだけで十分ではないか。
 テレビは傲慢である。すべてを取り仕切らないと気が済まない。最初から最後まで、すべてテレビが牛耳っていて、事実はこれこの通りです、従って、結論はこうなります、と仕切ってしまう。こんな乱暴で危険な事は無い。事実だって、報道者が5人いれば、5通りの事実となって伝わるのだ。そうした報道は無理だろうから、せめて結論だけは早急に出すのを避けたらどうなのか。テレビは情報の報道機関ではあっても、決定権者ではなかろう。

 私も肉を食べているが、いつも思うのは、何とかして動物を食べずに済ませる技術は無いのか、と言う事である。現代の技術力から見れば、肉を作り出すのはそれほど難しくはないのではないか、と。それに植物性タンパク質では駄目なのか。今は昔のように体力が必要とされる時代ではない。動物の肉を食べなかった江戸時代だって、人々は街道をてくてくと歩いていたではないか。
 現代は新幹線の時代である。航空機の時代である。JR東海はリニアの時代だと言い、マスコミもそれに乗っている。体力なんてそんなに要らない。持久力だって肉食しなければ駄目だ、と言う訳でもなかろう。世界には菜食主義者だって居る。彼等は活力が無く、早死にだろうか。
 金がすべて、との考えは世界的規模での金融不況で揺らいでいる。金がすべてではなくなれば、物がすべてとの考えも揺らぐはずだ。今、世の中は考え方の転換期に差し掛かっていると私は思う。そうした時に、食用として育てた動物だから食べるに決まっていると安易に結論を出す事に、大きな違和感がある。CMによる利益優先のテレビ局ならではの姿勢だとつくづくと感じた。

思いやりの心が欠けている

2008年11月02日 | Weblog
 今朝のテレビのニュースショーで、最近は思いやりの心がなくなってしまった、と出演者達が言っていた。
 すべてが金次第の世の中になってしまったからである。これにはアメリカの影響もあるに違いない。その一つとして、かの国では、何でも他人の責任にする。冬など、自分の家の前の雪かきをせっせとするのは、もしも残っている雪が凍って滑るような人がいれば、必ず訴えられるからだと言う。そうした流儀が日本でも主流になりつつある。病院で肉親が死亡すれば、すぐに医療ミスではないか、と疑い、揚げ句は訴える。
 疑うな、と言うのではない。何が何でもすぐに他人の責任にして疑うのはやめようよ、と言うのである。学校だって、学童を叱れば、すぐに親が飛んで来て文句を付ける。一体、いつから日本人はこんな駄目な人間になってしまったのか。
 金の事では、金融システムはロックフェラーが作った、との本が売れているらしい。尊敬する「心に青雲」のブログでは、ユダヤ資本が世界を牛耳っていると警告している。
 作家の星野智幸氏が、アメリカの友人が「アメリカをやめる」と言ってカナダに移住してしまった話を東京新聞に書いていた。カナダも英語圏だから出来る英断だなあと羨ましく思った。アメリカ人でさえアメリカに愛想をつかしている。

 「思いやりの心の磨耗」の原因は何となく分かる。人間同士の生の接触がぐんと減っているのだ。日常の買い物にしても、今は客が自由に品物を選び、レジで精算する。その間に交わされる会話は店側からの金額やお釣りの告知と有難うございましたの挨拶くらいである。客は一言も発せずとも買い物は出来るのだ。
 銀行だって、窓口よりもATMの利用を勧める。我々が相手にするのは生身の人間ではなく、機械ばかりである。たとえ人間と接していても、それは機械の代わりをしている人間に過ぎない。
 会話も無くて、心が伝わる道理が無い。

 スーパーの魚売り場でも、店員が品物を袋に入れて渡してくれるような売り場なら、私は店員に声を掛ける。「この間の○○、とてもおいしかったよ」「そうでしょう、うちの仕入れ担当主任は目利きですからね」
 店は商品をすべて自分で食べている訳ではない。客からの感想を聞けば、本当に目利きだったかどうかが分かるのだ。客からのフィードバックで、店は更に良い品物を仕入れようとするはずだ。客だって得をする。
 夏、タクシーに乗ったら、「お待たせしました」と言われた。嬉しい一言ですね、と言うと、暑い中を待ってらしたようなので、と返事が返って来た。口をきいて腹が減る訳でもないし、お互いに気持もいい。

 身の回りから声を掛け合う機会がどんどん減って行く。スーパーでは、自分で精算が出来る店さえある。夫婦でさえ、自分の家の中で、互いにメールでやりとりをするなんて話を聞いた。夫婦の部屋が何十メートルも離れている大邸宅でもあるまいに。
 一言も口をきかずに生きて行く事は出来る。疑問があったらインターネットで調べれば、たいていの事は分かる。早い話、自分以外には人間なんて要らない、とみんなが思っているんじゃないか、とさえ思ってしまうような情況である。
 インターネットでは画面を次から次へとクリックして行くだけで、目的が果たせてしまう。どこにも人間が出て来ない。だから、生の人間の声も聞こえなければ、相手の心の痛みも分からない。
 たまたまプールで子供達のグループに出会った。本当に幼い子供同士が懸命に言い争いをしている。真剣である。聞くと小学一年生だと言う。でもしっかりと自己主張もしている。こうして子供達は鍛えられ、成長する。
 愛情たっぷりに育った子供は、心のあたたかさを知っている。その愛情は単にお金を掛けただけの愛情ではない事を子供は知っている。たとえ物は豊かではなくても、優しい思いやりがある。
 これが小学校の高学年になっても続き、中学でも高校でも様々な体験をし、そして社会の荒波にもまれるようになる。そのすべてが貴重な体験となり、学習.になるはずだ。ところが、そのどこかで、必要な過程を踏まない場合がある。普通の人から見れば、ぽっかりと穴が開いている。しかしながら、本人にはそれが分からない。自分の事が分からないのは誰だって同じ。
 でもそこで、普通なら仲間や上司が忠告をしてくれる。そこで初めて自分の欠陥に気付く。仲間外れは嫌だから、多くの人々は忠告を聞き入れる努力をしている。しかし、大きな欠陥を持ったその人間は、悲しい事に忠告してくれる人が居ない。自分でもそうした仲間が居ない事を知っているから、欠陥はエスカレートしてしまう。挙げ句の果てには、自分の周囲に憎しみの垣根を作ってしまう。

 ただでさえそうなのに、世の中の様々な企業は肉声での対応をどんどん無くしている。電話では、○○の質問は×番を、□□の質問は○番を、などと言うアナウンスが延々と流れ、×番を押すと、また更に質問が続く、などと言うのは決して珍しくはない。
 最悪の企業は電話での応答を一切せず、すべてインターネットになる。その手間がまた限りなく面倒である。それが嫌だから、そうした企業の物は出来るだけ使わずに済ませている。
 必要な会話を省くだけではなく、必要な経過までをも省こうとしている。何にでも効率を求めようとしている。だから様々な現場から人間が排除されてしまう。何事にもスピードが要求され、その最たる物が新幹線だろう。今まで5時間掛かっていた所が3時間になる。2時間の節約は有難いとは言えるが、5時間掛かっていたのは、それだけ必要だったからである。その5時間は決して無駄な5時間ではない。3時間に比べるから、2時間が無駄に感じられるが、そんな事をしていたら切りが無くなる。だからリニアで1時間、なんて考えが出て来る。
 人間が移動するにはそれだけの時間が必要なのだ。
 世の中の多くの事柄がスピードや効率だけが重要だと思い込んでいる傾向がある。

テレビ出演者は自分の辞書を持つべきだ

2008年11月01日 | Weblog
 テレビ出演者は自分専用の国語辞典を持つべきではないのか。特に生放送の場合は必須だろう。新聞などは読者の目に届くまでに余裕があるし、校閲者の目がある。だがそのまま放送されるテレビ番組ではそうしたチェック機能が働かない。
 最近特に気になっているのが「言葉をあらげる」との言い方だ。私はずっと「あららげる」だとばかり思っていたから、「???」と思って調べた。
 Aの辞書は次の通り。
・あらげる【荒げる】=あらくする。あららげる。「声を荒げる」→あららげる。
 そこで「あららげる」を見る
・あららげる【荒らげる】=あらくする。あらげる。「声をあららげる」
 「あららげる」が本来の言い方で、「あらげる」は近年使われるようになった語形。あららぐ(文語)

 この辞書の欠陥は「あらげる」に「あららげる」が本来の言い方だ、との説明が無い事である。だから「あらげる」だけを見て、ああ、これでいいんだ、と思ってしまう。

 Bの辞書。
・あらげる【荒げる】→あららげる。
・あららげる【荒らげる】=相手の不快な言動に刺激されたり、状況のやりきれなさにいらだちを覚えたりなどして、反撥的な態度に出る。荒げる。「声を荒げる(=声を必要以上に高くする)」

 この辞書はどちらが良いかは言わないが、「あらげる」には意味の説明が無いから、「あららげる」を見る事になる。

 Cの辞書。
・あらげる 掲載なし。
・あららげる【荒らげる】=言葉づかいや態度を荒くする。「声(態度)をあららげて詰め寄る」
 「あらげる」は誤用。また、送りがなは「荒ららげる」としない。文語・あららぐ。

 この辞書は「あらげる」を挙げていない。そこが素晴らしい。そしてきちんと「あらげる」は誤用だ、と言っている。

 Dの辞書。
・あらげる 掲載なし。
・あららげる【荒らげる】=荒くする。「声をあららげる」

 この辞書も「あらげる」を挙げていない。だが「あららげる」の説明があまりにも簡単。まるで木で鼻を括るようだ。

 わずか4冊の小型辞書を見ただけだが、私が一番信用している辞書は実はこのDなのである。そして最も信用ならないと思っていたのがCなのである。それは他の多くの言葉を調べて来ての実感である。実際に100とか200とかの言葉を6冊の辞書で徹底的に調べていれば、自ずと傾向は分かって来る。
 けれども、「あららげる」では見事にそれが覆った。「あらげる」が間違いで「あららげる」が正しいのだと分かるためには、文語では「あららぐ」である、との説明は欠かせない。それが出来ているのはAとCだけだ。
 いつもの事だが、ああこの辞書は良い辞書だなあ、と感心して、ほかの言葉を調べると、無惨にも裏切られる、と言う事がしょっちゅうある。もちろん、その逆も、上に見たようにある。つまり、万全な辞書は存在しない。しかし大過ないと思える辞書はある。そうした辞書を自分で見付ける事である。

 テレビの出演者は、しゃべってなんぼ、のはずである。まさか見てくれが良いとの事で出ているのではなかろう。そうしたら話す事には責任がある。言葉その物にも責任がある。出演料はとても良いと聞いている。それならきちんと自分の責任を果たすべきである。常に言葉を磨くべきである。
 そのためには常に小型辞書を持ち歩くべきだろう。そしてそれは自分で信頼出来ると思っている辞書に限る。
 ある番組ではバックの目立つ所にいつも『広辞苑』が鎮座している。多分、この番組は、私達はきちんと調べていますよ、とアピールしているつもりに違いない。だが、実際には調べてなんかいない。それは番組をきちんと見ていれば分かる。
 それにしても何で『広辞苑』なんだろう。それもただ一冊だけ。「調べていますよ」と言いたいなら、もっとほかの大型辞書も並べるべきだろう。大体、『広辞苑』を信じ切っている事が、そもそも勉強していない明確な証拠なのである。無知をさらけ出している。
 この野郎、と思うなら、実際に20とか30とかの易しい言葉を同書を含めて色々な辞書で調べてみる事をお勧めする。それでもまだ、この野郎、と思う人がいたら、お目に掛かってみたい。