0010110 ハートの贈りもの―2020―黄金時代08年 

2020-光あふれるニューアースを共同創造し、さらにアセンションを目指します。ワンネスを体現していきます。

久しぶりに息子に会ってきました

2011-04-17 13:58:18 | 震災後の日々
4月17日、疎開している息子に会うため、そして、新しい学校の先生方にご挨拶するため、長野の主人の実家に行きました。その地から、ママ友へ送ったメールです。

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こんばんは。今日は仙台はどんな感じでしたか?
○○さん、お久しぶり。メール有難うございました。

今、○○に滞在中。Kとは3週間ぶりに会いましたが、とっても元気そう・楽しそうで安心しました。昨夜は、フク(猫)の代わりに元通りKをはさんで、オリジナル川バージョンで寝ましたが、久しぶりにあの子を思い切り胸に抱きしめて、とっても幸せでした。

今日は朝から、スポ少・野球の試合の応援でした。弱小球団なので、早速サードを任されていましたが、試合なんて初めてなので動き方がわからずモタモタ、こっちが見ていてハラハラしました。

Kも○○の、特に仲良し4人組に会えないことをとても寂しがっています。

○○ちゃん、突然の転校でごめんなさいね。Kは携帯を持っているので、電話番号とアドレス、それに住所をお伝えしておきますね。SKYPEもできるように設定するので、そのうちビデオ通話もしてやってね。

中略

○○は東北から離れているなあと、実感しています。風景も人ものどかです。アルプスの尾根には残雪、梅や桜・桃が咲き始めました。空気がきれいで、本当に、魔法を使って、今この瞬間にみんなを連れてきてあげたいわ!

でも、火曜にはまたKを任せて、主人と仙台に帰ります。無くなりかけてた勇気を少しこちらで充電してもらったから、また仙台でがんばります。

それでは金曜日にね。○○さんとも、お会いできる日を楽しみにしていますね。

(写真は、今朝のKと、のどかな試合風景、そして仙台から里子に出してるパピヨンのラッキーです。)

自立がさびしい

2011-04-15 14:00:00 | 震災後の日々
自立がさびしい
4月15日、私もようやく、少しずつ元気を取り戻しつつありました。仲のいいママ友と、やりとりしたメールです。

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メール有難うございます。

私がヘタっているのは、社会不安もあるけれど、たぶんKがぐんぐん自立しつつあることで、子離れの寂しさが大きいんですよね。だって、私のことなんかもう頭の隅っこで、大好きな野球のことがほとんど占めていて、夜、話していても、やれ「サードになった」とか「ヒットを11本打った」とか、そんな話ばかりで。

まあ、「愛されていることをしっかり感じて育った子供は、帰る港があることで安心して出ていくから、自立は早いわよ」って、友人たちには脅されていたけれど。そうなのかしら。

とにかく、たくましくなるのは確か。毎朝30分歩いて集団登校、すぐに林間をマラソンし、しいたけ菌を植えたり、森の中に建てた教室で勉強したり、飯盒炊さんしたりと。別に、へき地とか過疎地ではないけれど、全校で70人ちょっとで、毎日がボーイスカウト状態です。○○のような厳しい躾けはありません。

勉強はどうなのかなあ?と、そこも心配で。でも、それも、主人によると、長野は昔から日本一教育熱心な県で、先生はすごく尊敬されていて、しっかりしている、とか。まあ、ちょっとノロけると、実際に、主人とその兄を育ててくれた母校ですから、あんな感じの人間になってくれるのならいいかなって。

とにかく、Kの○○滞在は、主人がすごく勧めるのです。「子供は遊ぶべき時には遊んで育たないとダメなんだ。それが勉強なんだ。」って。彼はむしろ、この震災の体験がKの方向転換のいい機会になったとさえ、考えている節がある。もう、うちは中学受験はありえないですワ。まあ、それはいいけれど、母にとっては、物理的にこれだけ離れていると、それだけで心配が尽きないものでしょ。

さて、でも何とか~。波はあるけど、私は元気を取り戻しつつありますから。来週、ね、ぜひお会いしましょう。ちょっとわがまま言ってもいいかしら。私、街へ久しぶりに出て、美味しいレストランに行きたいの、今回は。

もちろん、わが家へはいつだって歓迎なのですが。自粛が長かったし、主人が「パアーっと気晴らししておいで」と。いかがでしょう?

救援物資有難うございました

2011-04-11 14:01:08 | 震災後の日々
○○様

本日、救援物質をいただきました。有難うございました。
温かいお気持ち、このような時期には誠に熱く心に染み入ります。

貴国からもわが国に様々な支援、考えられないほど多額の義捐金もいただきましたようで、まさに「A friend in need is a friend indeed.」、これほど温かい友人国家がすぐそばにいてくれることは大変に心強く、わが国にとって何と幸せなことかと存じます。私たちが貴国に深く感謝していますこと、どうかご家族様によろしくお伝えくださいませ。

さて、私どもですが、お陰様で何とか無事に暮らしております。地震や津波による直接の被害はなく、ライフラインもこの辺りは一番早く完全復旧した方ですので、生活にはそれほど不便はありませんでしたが、ただ1点、ガソリンが入手できないことには本当に参りました。大震災後、福島原発が怪しくなってきたので、早めに息子を主人の実家・長野へ疎開させたかったのですが、仙台から出発できないのです。そのため、2週間経って高速道路が復旧してから、逆に、長野の父母に車で迎えに来てもらった次第です。

今、息子は主人の実家の○○市の小学校に転入しております。いろいろ迷ったのですが、子供なりに震災のトラウマがあるだろうし、余震・原発とまだこの辺りが落ち着きませんので、思い切って、主人の母校である田舎の15人学級に転校させました。

勉強は?習い事は?と心配もあるのですが、こんな大変な時期には何より自然の中でたっぷり遊んで、たくましく育ってほしいと願っています。6日から新学期が始まりましたが、習い事はすっぱり全部無くなり、スポ少の野球チームに入り、日が暮れるまで外で遊び呆けて、Kは天国のような生活を送っています。

主人と私は仙台を離れる予定はありません。主人は大学がありますし、私も、錆び付いた免許を取り出して、何かボランティアができないか考えています。Kと離れているのは寂しいですが、幸い○○市の父は昨年まで○○を4期務めて引退したばかり、母も元気、大勢の知己に囲まれて暮らしていますので、かえって係累のいない仙台にKを置いておくより、安心感があります。

3・11を境に、私たち日本人は生活のみならず、意識も未来も変わってしまいました。地震がこれでやむのか、原発問題は福島だけですむのか、未来は余りにも不透明で、それさえなければ、復興へ向けて力強い希望も持てるのに、まだなかなか元気を取り戻せません。それでも、今自分にできる小さなことから、少しずつでも頑張らないと。。ね。

重ねて、ご厚情に深く御礼申し上げます。東京は東京なりにまた大きなリスクがありますので(まだ、東京にいらっしゃるのですか?)、どうぞお気をつけて、先手先手でリスク管理を徹底して、ご家族皆様、ご無事にお健やかにお過ごしくださいね。

また、東京に行きました折には、ぜひお目にかかりましょう。

涙が止まらない

2011-04-09 14:02:31 | 震災後の日々
涙が止まらない
こんな時期もありました。4月9日、この頃、私は「うつ」のピークだったようです。

TVを点ければ、どのチャンネルも、震災時の津波の映像、煙を上げる原発、そして、行方不明者を探す被災者の方の姿。心が休まる暇がありませんでした。

わが家の太陽だった息子も、疎開で行ってしまったし。

震災後のPTSDに近かったのではないかと思います。とにかく毎日、ふとしたことで、涙があふれてあふれて。とても辛い日々でした。

以下は、知り合いが家に泊まりに来るにあたり、「私は会えないから」と、主人に対して、ダダをこねた?メールです。

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1日泣いていてもしょうがないと思うし、困っている人は今、助けなければいけないこともわかっている。それができない自分は嫌なやつだと思うし、それがつらい。

それでも、家族以外には会いたくない。会えない。顔も髪も洗ってない。お風呂も入ってない。原発はなにも進展がない。圧力も温度も上がっている。

だから、私は息ができない。苦しいから、にこにこなんてできない。でも、相手を傷つけたくない。だから、会いたくない。お風呂は毎日でも入りに来てくれてかまわないが、私は会えない。真っ赤な目で会っても、○○さんを驚かせるだけだ。

だから、自分の部屋から出られない。たぶん、明日も。ごめん。ほんとに、私は病気なんだとおもう。でも、どうすることもできない。

自分のコントロールを失っている。今も泣いている。

4月8日:余震後

2011-04-08 14:03:41 | 震災後の日々
4月8日:余震後
まだ平常心に戻れず、感情的な書き込みですが、お許し下さい。

昨夜の地震はものすごくて、生きてきた中で一番怖い地震でした。3月の大震災の恐怖が癒えず、みんな気持ちがひどく萎えていますし、建物等も被害を受けたままのところが多いので、東北の人間には精神的に相当なダメージになりました。幸いこの住宅地の辺りだけ、ライフラインは朝には全部復旧しましたが、周辺で電気・ガス、駄目なところが多いです。主人は今、大学の様子を見に行っています。ガソリンスタンドは停電地区なので、また無くなるかも。

東北の原発は今、外部電源がダメで非常で動いているところが多いです。復旧まで時間との勝負です。圧力容器や格納容器は絶対に大丈夫という神話がありますが、周辺のケーブルや継ぎ目が破損したら、第二の福島が始まります。福島第一の作業にはこの地震の影響はないと言っていますが、今のところ、であり、また事態が悪化するのではないかと疑っています。福島に加えて、他の原発もおかしくなってきたら、どうするのでしょうか。

終わりのない原発の恐怖は、まさに地獄です。福島漁協が「安全性確認まで操業停止」と言っていますが、それをするべきは原発ではないでしょうか! ドイツはすぐに旧型の原発を一次停止したのに、なぜこれだけ余震に怯える、また南海トラフへの地震連動が明日にも指摘されている日本で、政府はその決断ができないのでしょうか。起こってからでは、何を言っても、何をしても間に合わないのに。情けなくて仕方ありません。

せめて、東海の活断層の上にある浜岡だけでも即刻停止してほしい! 津波の防御壁を作るというなら、作り終えるまでは停止するのが常識でしょう。今この瞬間にも、そ・れ・が起こるかもしれないのに。東北大震災よりもさらに広範になる地震・津波の被害だけでも背負いきれないのに、その上に東京にまで及ぶ原発災害が起きれば、もう日本は国家としての形をなさなくなります。今ならまだ総理大臣1人の決断で、それを防ぐことができるのに。なぜ、政府もマスコミもこれだけ鈍感なのか、理解不能です。

ところで、、、私たちですが、昨晩まではほぼそれなりの落ち着きを取り戻しつつありました。主人は毎日ガイガーを片手に職場に通い(仙台でも風向きにより、モニタリング値よりはるかに高い値を示す場所・時間があり、また、雨後の水溜りも高いです。子どもを帰郷させても、のびのび外で遊ばせられません。)、家には、UPS(無停電電源装置)を購入し、非常時にもネット環境だけは数時間保つように準備しました。

息子は震災後、主人の実家、長野県○○市に疎開させ、新学期からは学校も転校させています。田畑と川と山林しかない田舎の14人学級で、大自然を相手に、そしてスポーツに、夢中で遊びまくっています。それだけが今、主人と私の救いです。大好きな祖父母のもとで、地縁・血縁の安全な輪の中で、大震災のトラウマを癒してくれればと願っています。

私たちは今のところ仙台を離れる予定はありません。私も何か被災地でお手伝いできればと思うのですが、免許があっても未経験者では駄目ですね。情けないです。

まだまだ日本は非常事態です。皆さんもどうぞ、リスク管理を徹底して下さいね。


救援物資有難うございました

2011-04-06 14:05:07 | 震災後の日々
○○様 御机下

謹啓

仲春の候、皆様にはご健勝のこととお慶び申し上げます。○○の地は梅が咲き誇り、田の畦には少しずつ緑が広がり、穏やかな日差しが注いでいるでしょうか。

蕾があちこちでふくらんで、春もすぐそこまで来ているというのに、どこまでも続く瓦礫の上を吹く風がとても冷たい東北です。風光明媚で山海の幸に恵まれ、人情の厚いこの地を襲った世紀の大惨事がいまだに信じられず、白昼夢を見ているような、悪酔いしてるような心地で日々を送っています。

先日は、○○の地を出発した御社の救援トラックに、○○の父からの荷物を預かってくださいまして、また、当地では救援物質のおすそわけもいただきまして、誠に有難うございました。当時、震災から1週間たってもライフラインは絶たれていた上、福島の原発の放射能も心配で、家族3人でずっと家にこもりきりでしたので、○○からの荷物はとりわけうれしく心強く感じ、励まされました。

中略

これから、東北の復興には長い長い道のりがかかることと思います。この小さな島国では抱えきれないほどの苦しみ・悲しみを前にして、自分にいったい何ができるのか、立ちすくむ思いです。それでも、このような逆境において、いえこのような逆境だからこそ、日本人の共同体としてのまとまり、過去幾度も過酷な運命を乗り越えてきた忍耐力、絶望を超える希望を持ち続ける強さが、この小さな国土のそこかしこに芽吹いてきている様子を目の当たりにして、勇気もたくさんもらっています。世界中からさしのべられる暖かい手にも感動しています。この悲惨な出来事が今後、日本のみならず、世界中の人々の連帯につながってゆくものだとしたら、それは、犠牲になった無数の人々の大いなる鎮魂にもなることでしょう。

「3.11により、日本人は覚醒するだろう」と言われておりますが、確かに、私たちが、この脆い国土と同胞をどれほど愛していたか、思い知らされる出来事でありました。私も微力ながら、街角に残る、そして、日本人の心の中に残る瓦礫をひとつひとつ片付けて、世界に誇れる、心身ともに強固なる新生日本を作り上げる努力を、お手伝いしたいと願っています。

最後になりましたが、重ねて御社のご厚情に深く御礼申し上げます。
また、社長様はじめ社員の皆様のご健勝と、御社のますますのご隆盛をお祈り申し上げます。

謹白

4月2日:お変わりございませんか

2011-04-02 14:06:19 | 震災後の日々
4月2日:お変わりございませんか
○○様、

こんにちは。いつもお世話になっております。その後、皆様、お変わりございませんか?

さて私たちの近況ですが、おかげさまで避難生活は家で、特に大きな不自由もなく過ごすことができました。電気、水道、ガスがないのは不便でしたが、食料や水のストックはあったので、大丈夫でした。ただ、放射線が怖かったため、とにかくKを外に出さないよう、仕事に出かける主人以外は、私たちは一歩も外に出ずに家にこもって過ごしました。

先週末に東北道が走れるようになると、長野県○○市の父母が車でKを迎えに来てくれましたので、○○市に疎開させました。4月に入りましたが、現時点で放射線はこの辺りでは低いとはいえ、まだ福島原発が予断を許さない状況で、この先何が起こるかわかりませんので、事態が急変してからでは遅いと考え、このまま数ヶ月は○○に残すことにし、学校は転校手続きを取りました。

本人も、地震当日、親になかなか会えなかった恐怖や、暗闇での避難生活、その後見聞きした海岸沿いの悲惨な映像等で、子どもなりにトラウマを負っているかと思いますので、田畑と川と山林しかない丘陵地帯の14人学級で、のんびりと心を癒し、かつ、たくましく過ごしてほしいと願っています。

毎日、スカイプで話していますが、終日外で遊び、冬眠中の蛙を掘ったり、川に釣りに出かけたり、また、スポーツ少年団の野球チームにも入るようで、こちらで忙しかった習い事もすっぱりなくなり、至極ハッピーに暮らしています。

主人と私は、仙台を離れる予定はありません。代わって、○○の父母にしばらくKの面倒を見てもらうことになりますが、幸い父は昨年、○○を4期務めて引退しており、まだまだ元気で時間もできましたので、地縁・血縁のしっかりした輪の中に置くことに安心感があります。

また、○○の英語学級も長期欠席の手続きを取ったので、英語の遅れが心配ですが、まあ何とか後からでも遅れを取り戻す方法はあると思っています。叔母の1人が同時通訳者で、その連れ合いが○○の社長なので、少し海外の事情を聞いてみて、サマースクールや留学に出すことも検討しています。

3・11を境に、日本人の暮らしも未来も意識も変わってしまった気がいたします。主人も私も人とつながって、一緒に手を携えて日本の再生に取り組んでいきたいと思いますが、その前に、日本の将来を担う子どもの教育は、今までのように大量に知識を詰め込んで進学校に行かせることがベストとは思えなくなりました。しばらくは、自然の中で思いきり遊ばせ、自然からパワーをもらい、生きる喜びや未来を作る創造力を培っていってくれればと願っています。

すみません。長くなりました。

以上のように、家族全員元気に過ごしておりますので、取り急ぎご報告まで。しばらくの間、Kの姿は見えなくなりますが、どうぞご心配なきようお願いします。ご家族の皆様にもよろしくお伝えください。