壁際椿事の「あるくみるきく」

東京都内在住の50代男性。宜しくお願いします。

テレフォンカード

2010年12月27日 | 街ネタ


大掃除で部屋をごそごそしていたら、広末涼子オリジナルテレホンカード(SAKURA BANK)50度数(未使用、台紙付)が出てきました。さくら銀行(当時)の販促品です。台紙に刷られたプロフィールから、1998年か99年頃の品と分かります。たしかその頃、銀行でもらった際、いずれプレミアが付くのでは、と取っておいた記憶があります。

携帯電話が普及した現在、公衆電話は激減の一途。広末涼子さんはいまや一児の母で、再婚相手との間に二児を懐妊中。さくら銀行という名の銀行は存在していません。十年ひと昔、早いものです。


まん真ん中

2010年12月24日 | 街ネタ
先日、千代田区立図書館を初訪問時、郷土コーナーでこんなタイトルの本を見つけました。

『東京まんまんなか』(太田巌重著、KANDAルネッサンス出版部)
『東京ど真ん中物語 ひとまち歴史』(麹町地区コミュニティ活性化委員会編、文芸春秋企画出版部)

「ど真ん中は関西弁で、江戸弁ではまん真ん中という」と知っていたので、「おや?」と思いました。無自覚に「ど真ん中」という表現を使ったのか、それとも関西弁に浸食されていることを自覚してタイトルに採用したのか?

ネットで調べると、「ど真ん中」や「根性(こんじょう)」は元は関西弁で、野球の金田正一が使い始めて広まった、とありました。江戸弁では「性根(しょうね)」というそうです。金田は愛知県出身です。

先日、お話を聞いた某作家は、ある時代小説で「拍車をかける」という表現を使い、あとで読者から指摘を受けたと明かされました。「拍車」とは西洋のブーツのかかとに付いている、あの輪のことであり、東洋の馬術で使われることはなかったからです。

『球形の荒野』(松本清張原作)のテレビドラマを見ました。ラスト、伊豆の海で「七つの子」をうたう田村正和。感動的でした。舞台は太平洋戦争の戦中と東京オリンピック前夜。「七つの子」はその当時、既にできていたのか? そんなことが気になり、調べてしまいました。作詞作曲は大正年間でした。

言葉を使う、というのは本当に難しいことです。いち書き手として自戒したいと思いました。

起業はどうあるべきか?

2010年12月22日 | 街ネタ


「いい野菜が入らない為 ごめいわくおかけしますがお休みです」――。アパートの近所の八百屋に、こんな張り紙がしてありました。

店構えからして、親の代から続くような八百屋でなく、若い方が「無農薬、有機栽培の野菜の味を知ってもらおう!」という意気込みで始めた店のようです。寄らば大樹の陰的な発想が大勢を占め、若者の内向き志向が強まる日本社会にあって、その志や良し。

でも、一方で「無責任だなぁ」とも感じます。仕入れルートを確保せず、見切り発車で商売を始めたの? 野菜の質を評価し常連になってくれるであろうお客さんを裏切っていいの?

もし僕なら、どうするか? 複数の生産者との直接の強固なネットワークを築き、参入する。ま、理想はそうですが、現実にそれができるか? なかなか難しい問題です。

そこで「あるく みる きく」読者の皆様に相談です。皆さまなら、どうされますか? 積極起業派、起業慎重派に分かれてのディベートです。ぜひご投稿を!



『デフレの正体』、なるほど!

2010年12月21日 | 読書(文芸、フィクションほか)


『デフレの正体―経済は「人口の波」で動く』(藻谷浩介著、角川oneテーマ21新書)を読みました。テレビでも大活躍のジャーナリスト、池上彰さんが大絶賛している本です。確かに面白かった。

経済学の教科書を読んで、モヤモヤしている頭の中を、スッキリしてくれました。他の経済学者を批判する口調は余計と感じましたが、「富裕な高齢者の抱える資産を消費に向かわせよ」との指摘で、「オレオレ詐欺だけにこの市場を開拓させておくというのは、余りに惜しいことです」(引用)と述べるなど、ユーモア(?)もあり、飽きさせません。一気に読み切りました。

要点は、人口、特に生産年齢人口(15~65歳)(この年齢は現役世代であり、消費が旺盛な層でもある)の増減によって、景気(内需)は変動する、ということです。一般的な景気指標とされる、企業の設備投資や在庫投資、公共政策、貿易収支などは、人口の波に比べれば枝葉に過ぎない。これら指標をいわゆる波とすれば、人口の波とは潮の干満のようなもの。上げ潮時の波は勢いがあり(人口ボーナス)、下げ潮時の波は勢いがない(人口オーナス)。日本は、2000年の歴史にして初めて迎える、現役世代減少社会に突入した、というのです。

事実、いざなぎ景気は、団塊の世代が就業し、新たな消費者として社会に参加し始めたころ。バブル経済は、団塊の世代が住宅取得適齢期にさしかかったころ。時点をずらして同じグラフを掲載しているのは、定点観測しているみたいで、変化が一目瞭然です。なるほど。

ひょっとして、国境や県境は、半透膜でないか。そんなことを思いました。半透膜とは、濃度の異なる液を、この膜でへだてると、長期的には膜を通して濃度が均一になる。しかし一方に圧力をかけると、そちらは濃度を濃いまま保てる。何層にもして圧力を一層かけると、反対側を真水にまでしてしまえる。そんな膜です。

例えば教育水準、例えば資本蓄積、例えばノウハウの秘匿、そんな圧力で自国の富を守ってきた先進国も、グローバル化の時代には国を開かざるを得ない。国境を越え、資本も情報も人も移動する時代です。いわば、コーヒーカップ内の溶けない角砂糖のように先進国に集中していた富が、溶け広がってカップ内に行き渡る。ただし、ダマ状態だというのは、同じ国内でも日本にワーキングプアがいたり、中国に富裕層がいることを見れば明らかでしょう。少しの凸凹を伴いつつもフラット化するのは、地球の宿命なのか。たぶん、そうなのでしょう。

この本には、経営指標を見るとき、失業率など「率」より、絶対数を見ることが大切だ、ということも学びました。例えば、生産年齢増加時(例えば、団塊の世代の学卒時)は、一気に求職者が増えるわけですから、職に就けない人が増え失業率がグンと上がるが、それ以上に就業する人の絶対数も増えている、というのです。そんな時代は、失業率が高いからといって、不景気ではない。確かにその通りでしょう。

論より証拠、まず読まれることをお勧めします。霞が関や永田町の住人に、ぜひ読んでもらいたいと思いました。