壁際椿事の「あるくみるきく」

東京都内在住の50代男性。宜しくお願いします。

『日本語が亡びるとき』を読んだ(3)

2009年08月30日 | 読書
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん

仏蘭西へ行きたしと思へども
仏蘭西はあまりに遠し

フランスへ行きたしと思へども
フランスはあまりに遠し

フランスに行きたいと思うが
フランスはあまりに遠い
せめて新しい背広をきて
きままな旅にでてみよう

『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(水村美苗著、筑摩書房)に載っていた例です。一つ目は萩原朔太郎の詩の原文です。著者いわく、二つ目の漢字だとなよなよと頼りげな詩情が消えてしまう、三つ目のカタカナだと当たり前の心情を当たり前に訴えているだけ、四つ目の口語だとJRの広告以下、となります。

知遇、君子、朋友、寂寂、欣欣、春風、豪放……。これらの単語を見ると、かつて日本が漢文圏の一部であった歴史を感じ取ることができる、と著者は言います。

煩悩、輪廻、衆生、浄土、穢土、哲学、引力……。これらの単語には、文明開化の時期に沸いた熱気を感じ取ることができる、と言います。

韓国の国語は、漢字を追い出し、ハングル(表音文字)だけになりました。ベトナム語も同様に漢字を追い出し、表音文字、しかもアルファベットに置き換えた表音文字だけで国語が成り立っているそうです。そうした諸外国の例を読むにつけ、日本語がいかに豊かな文字かということが分かります。

日本語は、平仮名と片仮名と2種類の表音文字を持ちながら、表意文字である漢字も使う。しかも複数の音読みと訓読みを使い分ける。まこと日本語は、結構な文字である、とします。

どうやら、私は早合点をしていたようです。著者の言わんとしていることは、来るべき言語覇権主義の時代に備え、英語エリートを選抜養成せよということではありません。歴史と風土に磨かれた豊かな日本語を守るため、場当たり的な英語教育にエネルギーを注ぐくらいなら、日本近代文学の読書の指導に努めるべきだ、ということにありました。

一般の現代人が、鎌倉期の『方丈記』や江戸期の『日本永代蔵』をすらすら読めないのと同じように、50年後、100年後の日本人が、明治期の『三四郎』や『舞姫』を読めなくなるのではないか? 豊かな日本語の書き言葉が、伝承されないのではないか? 物理的な「本」は図書館内に残っても、読む人が少なければ本は存在しないのと同じではないか? 本書は、そんな危機感から書かれた本でした。

まったくもって同感です。もっと、いろいろな本を読み、世界を疑似体験したいと思いました。



『日本語が亡びるとき』を読んだ(2)

2009年08月28日 | 読書
夏目漱石は、イギリスに留学経験もある、日本語と英語の二重言語者。その彼が大学教授の職を辞し、世界の「普遍語」である英語でなく、日本語で小説を書き始めた。時あたかも「現地語」でしかなかった日本語が、書くに値する「国語」に磨き上げられていった時代だった。

時代は下って21世紀。今、仮に漱石ほどの才能が生まれたとして、果たして彼は日本語で書くだろうか? そもそも日本語の同時代の小説を読むだろうか?

『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(水村美苗著、筑摩書房)を読みました。

著者の水村さんは、この仮定に「否」と答えます。「才能がある人ほど、日本語ではなく、英語で書くだろう」と言うのです。明治時代に、「現地語」から「国語」に昇華した日本語は、いままた、「現地語」になり下がった。いま日本で書かれている小説は<現地語小説>に過ぎないというのです。

現在の日本の小説家にとって、とても辛辣な意見です。そういえば、尊敬する先輩は、いま井伏鱒二を読み込んでいます。彼が『日本語が亡びるとき』を読み知り、現代の作家に失望しているとは思えません。本能的、反射的に、現代の小説を遠慮し、古い小説を求めているのだと思います。

水村さんは続けます。文学だけでなく、政治やビジネスを想定しているのでしょうが、今後、日本が世界で伍していくためには、二重言語者養成のエリート教育が必要と言い切ります。

「教育は最終的には時間とエネルギーの配分でしかない」(287ページ)。う~ん、すごく唯物的な見方。だからエリートを選別し、彼らだけにも英語で議論できるレベルになる教育を授けるべきだとするのですが、私は今ひとつ賛成しかねます。

まず選抜システムの問題があります。門閥や経済力でなく、多くの人が納得する公平な基準が必要でしょう。またエリートでなくとも重大な仕事はできます。ジョン万次郎やアメリカ彦蔵のように、武士でなく、正当な教育を受けなくとも、歴史上、重要な役回りを担った人の例は多々あります。

余談ですが、表現では「くり返すが」が多用されていました。くり返すが、著者の意見は、なかなか辛辣で、挑発的な意見ではありました。

そういえば、高校から英語圏への留学を案内する新聞広告をよく見かけます。ハイスクール卒後は、そのまま英語圏の一流大学への入学が想定されています。こうした留学制度の利用者は、東京大にも京都大にも、まして早稲田大や慶応大にも魅力を感じていないんでしょうね。これは、単なる学歴欲しさでなく、かつて日本が、唐や隋にエリートを送り出して文明を学んだような、文化的な大潮流なのかもしれません。

のんきに川柳なんぞ作っている場合でないのかもしれません。



『日本語が亡びるとき』を読んだ

2009年08月27日 | 読書
ポーランド人の経済学者、カレツキは、英語でなく、ポーランド語で書いたため、歴史に名前を刻めなかった。彼は、英国人、ケインズが英語で『一般理論』(※)を発表する3年も前に同様の理論を発表したにもかかわらず、ポーランド語ゆえ、世界規模で読者を獲得できなかった――。

『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』(水村美苗著、筑摩書房)を読みました。カレツキのような悲劇を例示し、「英語で書くことのメリット」と「非英語で書くことのデメリット」を、これでもかというほど具体的に繰り返しています。

(要約)
現在、世界では、各地で、現地語で詩や小説が書かれている。しかし、彼らの作品は、「英語への翻訳」を経ないと、世界中に読者を獲得でいない。一方、英語はそのままで世界中に読者を獲得できる。

昔から、どの国の人も、知識層は二重言語者だった。ヨーロッパでは、母語で話をするが、書くのはギリシャ・ラテン語だった。日本では、話すのは日本語だが、書くのは漢文(中国語)が正統とされてきた。彼らは、外部の先進文化の翻訳者であり、紹介者だった。

国民革命でナショナリズムという概念が生まれ、ギリシャ・ラテン語を操る知識人も、母語で書くようになった。それが国語だ。ヨーロッパでは、フランス語、英語、少し遅れてドイツ語が力を持ち、しばらく鼎立時代が続いたが、今では英語が世界語として定着しつつある。時代はかなり遅れて、日本でも、二葉亭四迷が『浮雲』を書くなど脱漢文の動きが盛んになった。大正時代末には新聞記事が言文一致した。(逆に言うと、それまで新聞は文語で書かれていた!)

日本語は、独自のカナを生み出し、平安文学の時代から、途切れることなく、日本語の文学を生み出してきた稀な言語だ。真珠湾攻撃で、日本がアメリカを攻撃してから、アメリカ国内で日本研究の必要性が高まり、国家を挙げて日本を研究する学者の育成に力を入れた。戦後、その研究を担った人々が、前述の稀有な歴史を持つ日本文学の英語への翻訳者となり、世界への紹介者となった。例えばドナルド・キーン氏らがそうだ。

日本文学は、こうした幸運もあり、「主要な国民文学」として世界史の中で生き残った。ノーベル文学賞作家を二人も輩出できたのも、このような歴史的蓄積と幸運があったからだ――。

まだ読んでいる途中です。この後、どのように展開されるか楽しみですが、それにしても政治や国力、軍事力といったパワーが、文学や学問の世界をも規定してしまうんですね。「いいものはいい」。私などは単純にそう思いたいのですが、そうは問屋が卸さない。「英語で書かれたものでないと、いい悪いの評価さえできない」んですね。ちょっと悲しくなりました。

言語にもあった帝国覇権主義
カレツキの手からスルリと栄誉かな

(※)『一般理論』は、正しくは『雇用・利子および貨幣の一般理論』。それまでの経済学の流れを変える巨大なインパクトを学界に与え、大西洋を越えて伝わったアメリカでは、フランクリン・リーズベルト大統領のニューディール政策として実際の政策にも応用された。

電車の中にて

2009年08月26日 | 雑記
「お姉ちゃんのバカ」
「バカいうほうがバカや」
「お姉ちゃんが先に叩いたんでしょ!」

先日、電車に乗っていたら夏休み中のお出かけか、小学低学年くらいの姉妹を連れた家族を見かけました。姉妹ケンカです。ののしり合っています。きっと、お父さんお母さんは、普段は家で、「ケンカは止めなさい」「仲良くしなさい」と諭しているのでしょう。「ケンカはよくない」ということは、小学生でも分かる理屈です。それでもケンカをしてしまう。家の中は非常にうるさい。分かります、その苛立ち。

(ここからは多少の皮肉です)
しかし、子どもに姉妹ケンカを辞めさせるのは、無理なんじゃないでしょうか。現実の世では、大の大人がののしり合っています。しかも、先生と呼ばれる偉い方々が、です。そんな方でもケンカするのであれば、子どもがケンカをするのも、致し方ないのかもしれません。

我が姉妹 始終ネガティブキャンペーン中

スポーツが素晴らしいのは、同じ戦いでもネガティブキャンペーンじゃないからでしょうね。せいいっぱい戦った後、お互い認め合います。今回の衆院選では民主党の大勝が予想されています。スポーツのようにさわやかな選挙後を期待したいものです。甘いか。