『わしの眼は十年先が見える』(城山三郎著)を読んでいます。
CSRも社会起業も、メセナという概念すらない時代。明治から大正、昭和にかけて、時代を先取りして活躍した経済人、大原孫三郎の評伝小説です。
彼は、倉敷紡績(クラボウ)や倉敷レーヨン(クラレ)の社長を務めながら、一方で、孤児院を運営する石井十次に財政的支援をした。大原美術館をつくり、美術品を収集した。国家主義に傾斜する時代にあって社会科学の研究所をつくり、研究費を気前よく出した。研究者を洋行させもした。600町歩の土地の200町歩を提供し、農業研究所をつくった。東洋一を目指した大病院を作った……。すごい社会事業家なんです。
扁額には「自得」の文字。自得せよ。自業自得というと、悪い印象を受けるけど、そうでない。自らの行いが自らに帰ってくること。だから「自得」。
でも、いま辞書を引くと、仏教語で、悪い行いの報いとある。やはり悪いことなのでしょうか。
孫三郎は、10代後半、生まれ育った倉敷から東京に遊学中、取り巻きにたかられて借金を作ります。その額は、1万5000円(現在の価値で10億円を超す!)。それを尻拭いするわけですから、大原家の財産たるや、すごい。
青年期の孫三郎は、そんな屈折した心を持ちます。資産家の家に生まれた運命を恨む。が、長じるにしたがい、しっかりした経営者になります。いろいろな社会事業に首を突っ込みますが、一本筋が通っている。
倉敷紡績は、紡績の会社です。新規事業で、人絹(人造絹糸=レーヨン)に乗り出します。「倉紡の役員会にはかると、役員一人を除き、全員が反対した。(中略)『役員会で10人中3人が賛成したらやる』というのが、これまでの方針であったが、今回は賛成1人でもやる、と押し切った。」とか。
取締役のうち3人が賛成なら、やる。8~9人が賛成なら、やらない。時代遅れだから。そんな方針だったのが、今回は自分ひとりでもやるのだ、と。
満州事変について調べに来たイギリス人中心のリットン調査団が、倉敷に立ち寄って、その美術品収集に度肝を抜かれたとか。それで「クラシキはブンカの街」という評が欧州、米州に広まった。
太平洋戦争末期、そんな理由でクラシキは空襲を免れます。いまでも美しい街並みいがあるとか。ぜひ行ってみたいと思いました。
解説者が触れていましたが、砂田の存在も面白い。砂田とは、孫三郎と同じ倉敷の地主階級ながら、考え方は正反対の人物です。確かにスパイスになっています。「理想だ、主張だと、相変わらず窮屈なことばかり。人生は短いというのに。人間はこの世にちょっと立ち寄っただけんだ。とにかく気楽に、楽しく過ごすことじゃ。」(砂田)。悟っているのか斜に構えているのか。
そんな砂田は、後年、デモ隊に迫られ、後ずさりして川に落ち、半身不随に。3人の息子が遺産を巡り醜い争いをします。この辺りは実話でしょうか。孫三郎の生き方を際立たせるための創作でしょうか。
僕のつたない読後メモなど参考にならない。ぜひ直接、同書を手にしてください。感動すること間違いなしです。