壁際椿事の「あるくみるきく」

東京都内在住の50代男性。宜しくお願いします。

愛媛県今治市のサッカーボール事件の判決

2015年04月10日 | かんがえる

今日の新聞に載っていました。
最高裁判所が、こんな判決を出しだそうです。

その裁判は、愛媛県今治市で起きた事故を巡るものです。
小学校のグラウンドで、11歳の少年がサッカーボールをけった。
ボールが道路に出た。
たまたま通りかかったバイクが、ボールをよけようとして倒れた。
運転していたのは、80代の方で、足を骨折し、寝たきりになった。
1年5カ月後に、肺炎で死亡した。
亡くなった方の遺族が、少年の親に対して、管理責任を問う
裁判を起こし、損害賠償として5000万円を求めた。
一審、二審は、管理責任を認め、1180万円の
賠償金を払うよう、少年の親に求めた。

今日の新聞記事は、この裁判の三審の判決でした。

最高裁は、このようなケースでは一様に管理責任を問わず、
個別具体的に見るべきとし、親の管理責任を問わないとしたんです。
画期的な判決だと思います。

数年前に新聞記事を見て、この事件と裁判を知りました。
そのとき引っ掛かってたんですね。
引っ掛かりの理由は、次の通り。

1)グラウンドでサッカーしている少年の、親の管理責任とは?
2)校庭のフェンスが低い点をとらえ、学校を設置する市の責任はどうか?
3)骨折と、その1年5カ月も後の肺炎の因果関係は?
4)80代の運転。家族は危険を予知し、乗らないよう勧めなかったのか?
5)損害賠償の算定基準となる逸失利益は、生涯賃金から逆算して
  決まる(つまり若いほど高い)のに、余命短い80代の方の
  侵害賠償が1180万円とは、高すぎないか?

今朝の新聞も、1)の論点ばかり解説していました。
僕としては、2)~5)の論点こそ、興味がある。

4)の論点では、次のように考えられる。
今回は、たまたま80代の高齢者が被害者になったのだが、
子どもをはねる等の事故を起こし、加害者になる可能性も高いわけです。
右に転ぶか、左に転ぶか、運しだい。
たまたま被害者になったから、遺族は、ここぞとばかり勇み立った、と。
もし加害者になっていたら、どうするつもりだったんでしょう。

3)の論点なら、肺炎の原因は、本人があわてて食事をしたからかもしれないし、
食事介助されているなら、無理な介助が原因かもしれない。
たしかに、「バイク転倒=骨折=寝たきり」は因果関係があるが、
「バイク転倒=肺炎」には、風が吹けば桶屋と同じくらいの遠さを感じます。

2)はどうでしょう。以前、読んだ新聞には、難しい論点は敢えて問わず、
勝ちやすい論点に絞る司法戦術だ、と書かれていました。
「取りやすいところから取る」というのは、戦術として良いとしても、
正義の実現という点では、どうなんでしょう。

今朝の東京新聞には、児童の父親のコメントが載っていました。
「私たち夫婦、息子にとって苦悩の10年でした。(中略)
息子は自分が蹴ったサッカーボールが原因で人が1人亡くなったということで、
ずっと罪の意識を持ちながら、思春期、青年期を歩んできました。(中略)
ゴールに向かってボールをける、法律のことはよく分かりませんが、
このことが法的に責められるくらい悪いことなのか
という疑問がずっと拭えませんでした。
(今回、最高裁判決を受け)われわれの主張が認められたと
いうことで、ひとまず安堵しています。
ただ、被害者の方のことを思うと、
われわれの苦悩が終わることはありません。」(引用終わり)

ぼくにも9歳、11歳、14歳の子がいます。
このお父さんが、僕であってもおかしくないんです。
「われわれの苦悩が終わることはありません」。
とても重い言葉です。


永久

2015年04月10日 | かんがえる

先日、江戸しぐさに関して、引っ掛かると書きました。
同様に引っ掛かるのが、永久不滅ポイントです。
カード会社のCMのキャッチコピーですね。

永久?

たかだか150年前、日本には「円」という単位すら無かったんです。
ちょんまげを結って、着物を着て、お金の単位は、文とか両とかだった。

では、150年後はどうなっているか?
日本のお金の単位は? ポイントという概念は残っている?
分かりませんよね。
いや、永久なんて言われたら、じゃあ、150年はおろか、
1000年後は、2000年後はどうか、と尋ねたくなる。

永久。引っ掛かります。

消費者の、この心の引っ掛かりを想定して、
あえて「永久」なんて言葉を使ってるとしたら、
コピーライターは罪作りだよね。


江戸しぐさに引っ掛かりがある

2015年04月06日 | かんがえる

江戸しぐさ、というのがあります。
狭い道を傘をさして通るとき、前から人が来たら、
傘を斜めにして、相手が通りやすくするとか、そういう行動を指す。
互いに文化的背景の異なる地方から、大勢の人が集まった江戸では、
仲良く暮らすため、譲り合いおマナーが生まれた。
それが、江戸しぐさだ、とされています。

JT(日本たばこ)の広告で、僕は10年ほど前かな、知りました。

が、江戸しぐさは史実ではない。文献等の史料がないそうです。

マナーとか譲り合いというと、はなっから「良いもの」と思う。
この無批判性は、自分でも反省しなければ、と思います。
「子どもは純真だ」という先入観を疑問視し、
松本清張は『天城越え』等の傑作を生み出しましたしね。

電車の座席など、長いすに座るとき、握りこぶし一つ分、詰める。
そうすると1人余計に座れる、というのも江戸しぐさです。
が、よく考えたら、江戸時代に電車は存在しない。
電車のみならず、イスもなかったと思います。
長屋では、畳に正座やあぐらという生活でしょう。
この辺は、素人の素朴な疑問で引っ掛かる。

今朝の東京新聞に、江戸しぐさについて書かれていました。
江戸しぐさは、1960年代半ばに、芝三光という人物が提唱し始め、
2007年9月にNPO法人「江戸しぐさ」が設立されているそうです。
いまでは、小学校の道徳の教科書にも載っているとか。
ただ、史料はないようです。
「複数の人が長いすに詰めて座る習慣はなく、こぶし腰浮かせの必要性も
まずなかった」と、『江戸しぐさの正体』の著者、原田実氏は語っています。

江戸しぐさが現に史実でないとしても、その精神は良いことです。
であれば、それはそれで良いではないか、とも思う。
が、なぜか引っ掛かりがあった。
だから、記事は興味深く読みました。
ぼくの引っ掛かりの正体は、なにか?

素人の素朴な疑問を大切にしたい。
そこが全ての出発点だと思います。