今日の新聞に載っていました。
最高裁判所が、こんな判決を出しだそうです。
その裁判は、愛媛県今治市で起きた事故を巡るものです。
小学校のグラウンドで、11歳の少年がサッカーボールをけった。
ボールが道路に出た。
たまたま通りかかったバイクが、ボールをよけようとして倒れた。
運転していたのは、80代の方で、足を骨折し、寝たきりになった。
1年5カ月後に、肺炎で死亡した。
亡くなった方の遺族が、少年の親に対して、管理責任を問う
裁判を起こし、損害賠償として5000万円を求めた。
一審、二審は、管理責任を認め、1180万円の
賠償金を払うよう、少年の親に求めた。
今日の新聞記事は、この裁判の三審の判決でした。
最高裁は、このようなケースでは一様に管理責任を問わず、
個別具体的に見るべきとし、親の管理責任を問わないとしたんです。
画期的な判決だと思います。
数年前に新聞記事を見て、この事件と裁判を知りました。
そのとき引っ掛かってたんですね。
引っ掛かりの理由は、次の通り。
1)グラウンドでサッカーしている少年の、親の管理責任とは?
2)校庭のフェンスが低い点をとらえ、学校を設置する市の責任はどうか?
3)骨折と、その1年5カ月も後の肺炎の因果関係は?
4)80代の運転。家族は危険を予知し、乗らないよう勧めなかったのか?
5)損害賠償の算定基準となる逸失利益は、生涯賃金から逆算して
決まる(つまり若いほど高い)のに、余命短い80代の方の
侵害賠償が1180万円とは、高すぎないか?
今朝の新聞も、1)の論点ばかり解説していました。
僕としては、2)~5)の論点こそ、興味がある。
4)の論点では、次のように考えられる。
今回は、たまたま80代の高齢者が被害者になったのだが、
子どもをはねる等の事故を起こし、加害者になる可能性も高いわけです。
右に転ぶか、左に転ぶか、運しだい。
たまたま被害者になったから、遺族は、ここぞとばかり勇み立った、と。
もし加害者になっていたら、どうするつもりだったんでしょう。
3)の論点なら、肺炎の原因は、本人があわてて食事をしたからかもしれないし、
食事介助されているなら、無理な介助が原因かもしれない。
たしかに、「バイク転倒=骨折=寝たきり」は因果関係があるが、
「バイク転倒=肺炎」には、風が吹けば桶屋と同じくらいの遠さを感じます。
2)はどうでしょう。以前、読んだ新聞には、難しい論点は敢えて問わず、
勝ちやすい論点に絞る司法戦術だ、と書かれていました。
「取りやすいところから取る」というのは、戦術として良いとしても、
正義の実現という点では、どうなんでしょう。
今朝の東京新聞には、児童の父親のコメントが載っていました。
「私たち夫婦、息子にとって苦悩の10年でした。(中略)
息子は自分が蹴ったサッカーボールが原因で人が1人亡くなったということで、
ずっと罪の意識を持ちながら、思春期、青年期を歩んできました。(中略)
ゴールに向かってボールをける、法律のことはよく分かりませんが、
このことが法的に責められるくらい悪いことなのか
という疑問がずっと拭えませんでした。
(今回、最高裁判決を受け)われわれの主張が認められたと
いうことで、ひとまず安堵しています。
ただ、被害者の方のことを思うと、
われわれの苦悩が終わることはありません。」(引用終わり)
ぼくにも9歳、11歳、14歳の子がいます。
このお父さんが、僕であってもおかしくないんです。
「われわれの苦悩が終わることはありません」。
とても重い言葉です。