日本三大山城のひとつである「岩村城跡」に行ってきた。
<資料より>
“岩村城は、大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる名城。城は江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」とも呼ばれています。
この城が名城と言われる由縁は、単にその規模と大きさだけでなく、その永い歴史に由来しています。1185年(文治元年)源頼朝の重臣「加藤景廉(かとうかげかど)」がこの地の地頭に補せられ創築されてから、鎌倉・室町の300年間、戦国の100年間、更に江戸期の300年間に亙り城と城主が連綿と続き、明治に至り廃城令で廃城されるまで、連綿と存続しました。
700年間に及ぶ城の歴史は、日本の城史にも例を見ないものなのです。
今回、城だけでなく麓の街並みも観光化されていて見どころがたくさんあった。
岩村藩主跡にある太鼓櫓
岩村酒造・・・清酒「女城主」
1185 年(文治元年)、源頼朝の家臣「加藤景廉」が遠山荘の地頭となり、景廉の長男景朝が 岩村城を築き、遠山氏を称しました。 戦国時代末期、城主の「遠山景任」が病没し、養子として迎えていた織田信長の五男「御坊丸」がまだ幼少であったため、その夫人(織田信長の叔母)が実質的な城主として、領地を 治めていました。いわゆるおんな城主「おつやの方」です。 おんな城主は大変聡明で美しく、領民に慕われていたそうです。 1572 年(元亀 3 年)、武田信玄の 24 将のひとり「秋山虎繁(信友)」が侵攻してきました。 おんな城主は自ら采配を振るい、信長の支援を待って籠城作戦に出ました。しかし、この時、信長は長島の一揆などで前に進めずにいました。籠城は 3 ヶ月にわたり、城内の食糧も不足 して来たところ、虎繁から女城主を妻とすることを条件に無血開城を申し入れてきました。 おんな城主は苦渋の末、城兵や領民の命を守るため敵将との結婚を決意し、開城しました。 その後の数年間、おんな城主は虎繁とともに、城の普請や城下町の守備に勤しみ、平和な日々を 過ごしました。 しかし、御坊丸は信玄のもとへ人質として送られてしまい、岩村城も乗っ取られてしまった ことに信長は黙っていませんでした。 1575 年(天正 3 年)、長篠の戦いに武田勝頼軍が敗戦したことにより、武田と織田の勢力が 逆転し、信長の嫡男「織田信忠」率いる織田軍が攻め入りました。この時も半年に及ぶ籠城 で城を守りましたが、武田の援軍も望めず、信長からの条件を呑み、開城しました。その条件とは、領民を守り、おんな城主と虎繁の命を守るという約束でした。しかし、信長はこれを反故にし、夫妻は磔刑に処されてしまいました。
女城主の里いわむらから、車で南下すること約 2 時間、静岡県浜松市引佐町にも、ほぼ同時期に「おんな城主」が存在していました。その名は、井伊直虎(いいなおとら)。井伊直虎は、江戸時代 270 年にわたる平和の礎を築いた徳川家康を支え続けた、徳川四天王の一人井伊直政の養母で、井伊家二十二代当主直盛の一人娘。 井伊家の男が次々と戦死・殺害される中、幼少の直政を後見人として養育しつつ、おんな城主として井伊家を断絶の危機から救いました。龍潭寺で出家した際は、「次郎法師」と名乗り、その後、井伊家からは井伊直弼が輩出されました。井伊直弼が、幕府の要職である大老として、開国を決したのは、あまりにも有名です。
トロッコのある酒屋内部・・小泉純一郎元総理も立ち寄りました。
一番右が一升びん、左が18リットルびん 720㎖を土産に買いました。
こちらは藩の財政を助けた「木村邸」
帰りに「飯高観音」(飯高山 萬勝寺)に立ち寄りました。
乗ってみたかったローカル線「明智鉄道」にも出会いました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます