【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

人質の価値

2012-01-31 18:47:56 | Weblog

 人質の価値は、「殺すこと」にあるのではなくて「殺すぞ」と「脅すこと」にあります。だから、もしも「本当に殺すぞ」と言わなければならなくなったら、それは人質戦略を選択したことが失敗しているあるいは最適の人質の選定に失敗している可能性が大です。そして、自分が本気であることを示すために人質に傷をつけなければならなくなったら、それは間違いなく「失敗」でしょう。

【ただいま読書中】『十字軍物語3』塩野七生 著、 新潮社、2011年、3400円(税別)

 これでもか、と言うくらい分厚い本です。何しろ1187年の「サラディンの年」から始まって、第三次~第七次十字軍とその後の時代まで一挙に駆け抜けるのですから。分冊にしてもよかったでしょうが、どこで切るかがちょっと難しいですね。
 サラディンはパレスティーナ地方の海港都市を次々陥落させた後で、ついにイェルサレムを落としました。ヨーロッパのキリスト教徒は驚愕します。88年間「神によって守られていた聖地」がイスラムの手に帰したのですから。
 第三次十字軍の運動が始まります。やっと国の形をとるようになった(どころか、国王の結婚によってフランスの半分も支配するようになった)イギリス(“獅子心王”リチャード)、これまでの十字軍で常に主力だったフランス、神聖ローマ帝国皇帝「バルバロッサ(赤ひげ)」フリードリッヒ一世(ドイツ軍は、騎士数千歩兵数万、公称は十万の大軍です)。タレントは揃いました。
 十字軍国家をほとんど海に蹴落としてしまったサラディンは、今度は“防衛戦”を戦うことになります。しかも、シーア派とスンニ派の統合と各地の(これまでいがみ合っていた)太守たちの統合に成功したものの、当然その体制は不安定です。ちょっとした“躓きの石”で「イスラム世界」はばらばらになってしまうのです。そこでサラディンがかかげた旗印が「聖戦(ジハード)」でした。十字軍が「神がそれを望んでおられる」でまとまったのと同じです。ただし「熱狂」は長続きしません。重要な港町アッコンをめぐる攻防戦は膠着状態となっていましたが、そこに「ニュース」が。快進撃を続けていた神聖ローマ帝国軍ですが、小アジアで「バルバロッサ」が急死したのです。中世ならではの理由で軍は空中分解してしまいます。さらにフランス王もさっさと帰国。“獅子心王”リチャードはそれでも多国籍軍をまとめ上げ、イェルサレムを目指して進撃を続けます。それはつまりサラディンにとっては敗北の連続でした。キリスト教国軍がついにイェルサレム直前まで到達したとき、フランスがイギリス領に侵攻したとの報せがリチャードに届きます。リチャードはサラディンと講和を結びますが、それによる“平和”は以後26年間も続きました。
 第四次十字軍では、第三次で重要な脇役だったヴェネツィアが主役(の一人)になります。ヴェネツィアは、秘密裡にイスラムと平和協定を結びました。そのとき第四次十字軍のため大量輸送の依頼が。ヴェネツィアはそちらの契約も締結します。で、いろいろあって(笑)、十字軍の「目的地」は変更されます。ビザンチン帝国の首都コンスタンティノーブルへ。かくしてビザンチン帝国はラテン帝国に看板を掛け替え、ヴェネツィアは東地中海から黒海にかけてあちこちに重要な拠点を得ることになります。
 20世紀の視点では「何やってんだ?」です。キリスト教徒がキリスト教国を攻めたのですから。しかし当時の人々にとっては別に大きな問題はありませんでした。十字軍の目的は、本来は「聖地巡礼」です。そして、ヴェネツィアによって航路の安全が確保され、聖地周辺は第三次十字軍での講和条約でキリスト教徒にも安全が確保されています。つまり、「目的」は達成されているのです。(「異教徒は殺せ」の「原理主義」の人は別の感想を持つでしょうけれど)
 第五次十字軍はエジプトに上陸します。そこでの“敵”は内紛とデルタ地帯の洪水でした。ただしイスラム側にもいろいろ“事情”があり、スルタンは講和を提案します。しかしキリスト教側の“原理主義者”は、自分たちが有利であるにもかかわらず「そもそも異教徒との講和などあり得ない」と蹴り、結局退却することになってしまいます。
 次の登場人物はフリードリッヒです。イスラムの香りが残るシチリアで育ったフリードリッヒは、「バルバロッサ」の孫ですが、十字軍遠征の約束と引き替えに神聖ローマ帝国皇帝となります。フリードリッヒは法王の不興をかって二度も破門されましたが、「カノッサの屈辱」のようなことはせずに平気でそのまま出陣します。しかもやったのは戦闘ではなくて交渉。相手側のアル・カミールと見事な平和交渉を現実化してしまいます。イェルサレムは(東側1/3をイスラム地区とする以外は)キリスト教側に譲渡され、ベイルートからヤッファまでの海沿いの地域もキリスト教側となります。そして、巡礼と通商の安全が保証されました。
 この「平和」は不評でした。イスラムは「屈辱」と怒ります。聖都をあっさり譲ったと。ところがキリスト教側も激しい非難を浴びせます。異教徒を誰も殺さず相手を対等の人間として「交渉」すること自体が許されるべき行為ではない、と。フリードリッヒはずいぶん変わった人のようですが、もしかしたら無神論者だったのではないか、という疑いが本書には紹介されています。だとしたら、それだけで中世では「罪深い」ことになってしまいますね。
 1244年シリアの一部族が講和を破ってイェルサレムを占領します。それに対して第七次十字軍が組織されました。そもそもフリードリッヒの“功績”はなかったことにされていますから、何でもいいから口実さえあればよかったのでしょうが。そこで(ローマ法王庁の基準で)「理想的な君主」ルイ九世が出陣することになります。目的地はエジプト。ここでの戦闘で、マメルーク(奴隷出身の兵士)が大活躍をする(そして後に社会的地位が向上する)ことになります。なんと、緒戦こそ有利だった十字軍はほとんど全滅(死亡か捕虜)となってしまったのです。身の代金をかき集めては捕虜の解放、がルイの“戦後処理”となりました(なにしろ自分自身も捕虜で、王妃に財産をあらいざらい売却させて自分の身の代金を払う羽目になったのです)。
 1258年にモンゴル軍がバグダッドを陥落させます。スンニ派の信仰の拠り所だったアッバス朝の滅亡です。さらにモンゴル軍は西進。迎え撃つのは、マメルーク軍です。結局モンゴル軍は撤退し、マメルークの指揮者バイバルスはマメルーク朝を起こします。
 そこへルイ九世がしょうこりもなくまた十字軍を起こします。1270年のことです。目的地は、チュニジア。チュニジアをキリスト教化して側面からエジプトを攻めようという“戦略(または夢想)”です。上陸地点は、カルタゴ付近。しかし砂漠の過酷な状況で、十字軍は何もしないうちに大損害を受けてしまいます。結局大失敗に終わった十字軍ですが、ルイは聖人に列せられます。十字軍を2回も起こした“功績”が認められたのでしょう。
 法王の「権威」が絶対的なら、「破門」は不必要です。じろりとにらむだけで十分。それを「破門するぞ」と脅したり、あるいは実際に破門をしなければならなくなった、ということは、「権威」が落ちたと言えます。世俗の人間の力の増大、12世紀ルネサンスの知的影響、東西の交流、それらがすべて「宗教の権威」の足を引っ張ってくれたため、ヨーロッパの宗教的な面をまとめ上げるためにも十字軍が「必要」だったのかもしれません。
 ところで、現在ユダヤ教とイスラムが深刻な対立をしている「聖地」ですが、現在キリスト教徒には何か言い分はないのかな、なんてことも思ってしまいました。「異教徒との平和共存」は、神は望んでいないのかな、なんてことも。




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