日本では「お前はクビだ」ですが、実際には「自己都合」での退職届になることが多いようです。首を切る方から言えば、会社都合よりも自己都合の方が退職金の割り増しが“節約”できるというメリットがあるからでしょうか。だけど、自分で首を切って「自己都合」の退職届を書かせるというのは、なんだか“都合”がよいなあ、とも思えます。
その点、アメリカではすっきりと「お前はクビだ」ですね……と思ったら、「You are fired.」となぜか受身形。アメリカ人でも「I fire you.」とは言いにくいのかしら。
【ただいま読書中】『「僕のお父さんは東電の社員です」 ──小中学生たちの白熱議論! 3・11と働くことの意味』毎日小学生新聞 編 + 森達也 著、現代書館、2011年、1400円(税別)
毎日小学生新聞に載った、「東電の責任」を追究する「東電は人びとのことを考えているか」という記事に「ゆうだい君」が「突然ですが、僕のお父さんは東電の社員です」で始まる手紙を書きました。その中身は、ぜひ実際に読んでもらいたいものですが、一方的に東電を擁護するものではありません。また「一億総懺悔」でもありません。「一方的に東電を非難すればそれでOK」という風潮に異を唱え、「自分は無関係だ」と考えている人に「自分も電気を使っていてそれは無責任な態度ではないか」と再考を迫り、最後に「ぼくは、みんなで話し合うことが大切だ、と言いたいのです。そして、みんなでこの津波を乗りこえていきましょう。」で終わる、小学生らしいところと小学生とは思えないところとが入り交じった、スケールの大きな手紙です。
読者からは大きな反響がありました。小学生から大人まで、賛成意見・反対意見さまざまです。
読んでいて「本当にいろんな意見があるものだ」と感じます。同じ反対意見でも、きちんと読んで理解してその上で「ここには反対」と言う人もいれば、きちんと読まずにとにかく自分の意見を開陳する人もいます。まあ、ネットでの“議論”と同じですね。しかし、その主張の内容もですが、いろいろ参考になる意見がたくさんあります。たとえば「東電が福島に原発を置いたのは、危険なことがわかっているから関東に置けなかったから」(小学校4年生)を読むと、これを自分で思いついたのだったらすごいぞ、とこの子の未来を応援したくなります。それと、対案や「自分にできること」を書く小学生が多いことに私は驚きました。これ、小学校の授業で習っているんですか? だとしたら、日本の未来は少し明るいかも。
議論や考慮をするべき様々な「要素」があります。「責任者」は誰だ? 誰がなにをするべきだったのか?(良く登場するのは、政府・東電・マスコミです) エコ。電気の意味。生活の見直し。組織と個人の関係。自分の意見を持つことの重要性。これらがごちゃまぜになっているから、そのままではわかりやすい議論にはなりません。だけど、こうして「様々な意見がある」ことを知るだけで、議論にきちんと参加しようとする覚悟を決める役には立ちます。
私が感じたのは「誰が悪いんだぁ」と“犯人捜し”をする人間は、その行動によって「自分は悪くない」と主張しているんだな、ということです。それと「自分の責任(問題)」と言った場合、どこまでが「自分」なのかの範囲が、人によってまったく違う、ということも。「自分」は「自分と呼べる個人に限定した範囲」ではありません。私の現在の感覚では「自分」が属していると実感している「共同体」(今流行っていることばを使うなら「絆」がどこまでたどれると想定しているかの範囲)もまた「自分の一部」と言って良いと思えます。単に全体主義ではなくて、「どこまでが自分か」は自分で決めることができる「(グラデーションの濃淡がある)自分」。だから「ゆうだい君」が「みんなの責任でもある」ということばがすとんと心に落ちたのです。だって「ゆうだい君」がその「みんな」の中に自分も入れていることは明らかですから。
だけど「そんなの自分とは無関係」と思う人が多いことも事実。本書には水俣病が実例としてあげられていますが、沖縄とかヒロシマナガサキとかそういった「自分は関係ないモンね」の“実例”はいくらでもあるわけで、今回の大震災やフクシマやあるいはこれから出現するだろう関東や東北のヒバクシャについても同様に「犯人捜し(“自分”には関係ないモンね)」に没頭する人はいくらでも出てくるでしょう。もちろん「世界は一つ」なんて平気で言うのもうさん臭いけれど、「自分」がどこまで広がっているか、を考えるきっかけになる点でも本書は良い本と言えます。
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