よく「大量虐殺なんかなかった」という主張を聞きます。それって「虐殺なんかなかった」と言っているのか「少量虐殺ならあった」と言っているのか、どうなんでしょう?
【ただいま読書中】『大量虐殺の社会史 ──戦慄の20世紀』松村高夫・矢野久 編著、 ミネルヴァ書房、2007年(08年2刷)、4500円(税別)
20世紀は大量虐殺の世紀でした。「1904年南西アフリカドイツ領(現ナミビア)ドイツ軍によるヘレロ人虐殺(数千人)」「1906年南アフリカ、イギリス人によるツル人虐殺(3000人)」「1909年南アナトリア、トルコによるアルメニア人虐殺(2万人)」「1915年トルコによるアルメニア人虐殺(60万以上)」……まだまだありますよ、序章には以後2ページ、31の虐殺が挙げられています。さらに日本は別扱いで日清戦争、義和団、シベリア出兵、関東大震災、台湾の霧社事件、などなど。
「ジェノサイド」の定義としては1946年の国連決議があります。長いので興味のある方は自分で調べて読んで下さい。外形的には「人種的」「宗教的」「政治的」その他の諸集団が完全あるいは部分的に滅ぼされることで、内面は「ある集団の生存権の否定」です。ところこの決議をアメリカは批准せず、ソ連(と東欧)は反対し、2年後のジェノサイド条約では「集団」から「政治的」が外されました。政治的な虐殺はOKということのようです。また「絶滅の意図」が証明されない場合もOKです。
国連には「虐殺をしたくてしたくて、その手を縛られることを嫌う人たち」が巣食っているようです。
虐殺があったとき、必ず「否定論」が登場するのは歴史の必然のようで、その手法もパターン化されています。その主な主張は「虐殺された数が明確でないことを根拠に『虐殺そのものが存在しない』と主張する」「戦争だったから仕方ないとする」「ポストモダンの手法を用いる(文献や証言を信じない。不可知論を駆使する)」。
しかし、「現場にいた人の証言」を「現場にいない人間」が頭から否定するって……どうしてそんな行為が自信たっぷりに行えるのか、不思議です。
なお本書には興味深い現象も報告されています。発言を抑圧されていた人たちが本音を語ることによって、「癒やしの効果」が、個人だけではなくて地域にももたらされたことがある、というのです。心理学的にはわかりやすい気がします。人を殺したい人や犠牲者の証言を抑圧したいだけの人にはわからないでしょうけれど。
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