「一体これでどんな『学』を修めることができるんだろう」と現役の学生時代には不思議でした。おっと、今でも不思議です。
18~19世紀の英国では、貴族の子弟が国際的な見聞を広めるために長期間(半年~1年、あるいはそれ以上)ヨーロッパ大陸を家庭教師と共に旅をして回る「グランド・ツアー」が行なわれていました。それが日本に導入されて、日本お得意の“盆栽化”が行なわれた、ということなのでしょうか。ちょうど「レモネード」が「ラムネ」に、「シードル」が「サイダー」になったように。
【ただいま読書中】『印籠と薬 ──江戸時代の薬と包装』服部昭 著、 風詠社、2010年、1429円(税別)
「水戸黄門」で「印籠」は日本人に広く認知されていますが、もともと中国では文字通り「印判入れ」でした。それが日本では印判だけではなくて食物入れ(重箱のようなもの)や床の間の置物として用いられ、やがて小型化して携帯用薬入れとなりました。そこには茶の湯の影響(たとえば棗)もあるそうです。江戸時代を通して印籠は薬入れとして使われましたが、江戸前期には装身具としての機能もありました。贈答品として多く用いられたのは、元禄から幕末まで。例外的に、仏像を組み込んだもの(移動厨子)や、徳川斉昭のように懐中時計を印籠に組み込んだ人もいました。
各地で特色ある印籠が製作されましたが、その一つ「琉球堆朱」は1968年の琉球切手に取り上げられています(なお、切手に取り上げられた印籠はこの一つだけだそうです)。製作上のキモは、気密性です。薬を長期間保存するためには蓋と本体がぴったり合う職人の技が示されたのです。
旅人は薬を何種類も携行しましたが、そのすべてが印籠には入りません。そこで袋や懐に入れることになります。複数の薬を所持するのに便利だったのが「紙」でした。量や形に関係なく包みやすいし内容表示もできます(膏薬には蛤の貝殻が愛用されました)。江戸時代には「鼻紙」ということばが使われたことから分かるように、紙は庶民レベルにも普及していました。戦国時代にやってきた宣教師も、日本での紙の豊富さ(と質の高さ)には驚いています。薬を直接包む紙は、「能書き」も兼ねていました。もともとは火薬を包むための紙が転用された、という説もあるそうです。さらに、薬によって特定の包み方(「折り形」)があり、著者はそこに呪術的な効能も認めています。「能書き」は、薬の使用説明書であり広告でもありました。さらに著者は、江戸庶民の識字率の高さに注目しています。能書きが機能するためには、それが読めなければならないのですから。
薬の保存容器として、ガラス瓶も江戸末期には使われるようになりましたが、本格的なものは明治からです。これも最初はコルク栓で、金属のネジ蓋がつくようになったのは昭和になってからでした。ただ、江戸のガラス瓶というのは、なかなか味があります。江戸だけではなくて大坂・長崎でも製造されていました。式亭三馬は文化八年(1811)に、ガラス瓶に入れた化粧水「江戸の水」を売り出しています。ガラス瓶の市販薬は明治になってからですから、先駆者と言って良いですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます