【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

中華料理

2020-11-19 07:16:37 | Weblog

 日本だと「中華料理」で通じますが、中国では自国の歴史や伝統がある料理のことをなんと呼んでいるのかな?

【ただいま読書中】『横浜中華街 ──世界最強のチャイナタウン』田中健之 著、 中央公論新社(中公新書ラクレ323)、2009年、820円(税別)

 ペリーの「黒船」の2回目の来航には、首席通訳官としてサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズが同行していました。日本人漂流者を届けようとしたモリソン号に浦賀奉行所と薩摩藩が砲撃した「モリソン号事件」で、同船に乗り込んでいたウィリアムズは中国語やポルトガル語を学んでいてさらに船内で日本人から日本語も習得していたのです。ただ彼は庶民の口語は学びましたが、漢語は無理です。そこで通訳補佐として清国人の羅森が選ばれました。彼は英語が堪能で、もちろん漢文も書けるから日本の役人との交渉では役に立つだろう、という狙いでした。実際に交渉の場では「日本語 ー オランダ語 ー 英語」「日本語 ー 漢文 ー 英語」の二種類のルートが使われています。さらに重要なのは、羅森が「日本を、列強に食い物にされている清の二の舞にしてはならない」と考えていたことでしょう。そのためでしょう、和親条約が無事まとまったとき、「横浜で両国が会して、歓楽を共にす」という喜びの漢詩を読んでいます。羅森は太平天国で乱れた祖国について本を著しており、それを吉田松陰は獄中で和訳しています。羅森は帰国後『日本日記』を出版、それを読んだ清国人が新しい開港地の箱館や横浜などに続々来日しました。ちなみに、この時箱館に持ち込まれた養和軒の広東風「ラーメン」(さっぱり味)が函館塩ラーメンのルーツではないか、と著者は推測をしています。
 華僑には「帰葬」(亡骸を中国の故郷に送り届けて葬ってもらう)という風習があります。日本でもそれは行われていましたが、関東大震災で大量の死者が出て船が出しにくくなり、さらに日華事変によって完全に中断してしまいました。
 横浜に最初にやって来た清国人の多くは、欧米商人の「買弁(通訳や交渉をする役目)」でした。ただし「使用人」というよりは、契約に基づく独立商人としての性格が強かったようです。清国は「条約」を結んでいないから「外国人」として正式な商活動はできないはずなので、「欧米人の雇用」を隠れ蓑として活用していたのでしょう。これなら外国人居留地にも住めますから。特に彼らが集まっていたのが、130番地から160番地で、ここが「唐人街」と呼ばれ、やがて南京町と呼ばれるようになり、のちに横浜中華街となります。なお孫文が日本人女性薫と結婚して住んでいたのは居留地121番地(のちの山下町121番地)だそうです。
 関東大震災で横浜は大きな被害を受けました。南京町では建物は軒並み圧壊・炎上し「在留した支那人四千人中約半数の死者を出すに至った」(内務省)「5721人中1700人が犠牲になった」(中華民国総領事館)と記録されています。関東大震災直後に朝鮮人が虐殺されたことは有名ですが、中国人もまた標的とされました。中国政府に対して日本政府は「虐殺の事実はない」としましたが、実際には中華街を警護するために陸軍部隊が派遣されています。
 震災から復興した横浜中華街は賑わいを取り戻します。しかし日華事変が。中国人は「敵国人」となってしまいます。中国国民党の横浜支部は解散、1904年(明治三十七年)に制定されてから一度も発動されたことがなかった「支那人労働者取締規則」が1939年に発動され、華僑の行動制限が始まります。ところが「日本語も中国語(北京官話だけではなくて広東語や上海語)もわかる人」は貴重な人材です。そこで横浜中華街から警察に強制徴用されて香港や上海の税関で働かされたのは21人、その内生きて横浜に帰れたのは3人だけだったそうです。大陸から日本への強制徴用は知っていましたが、日本から大陸への強制徴用もあったんですね。そして、1945年5月の横浜大空襲で、中華街も壊滅します。
 戦後中華街は、町全体が闇市のような状態となって復興しました。なにしろ「戦勝国民」ですから日本人に課せられた流通に関する厳しい規制も無関係、物品販売などはやりたい放題だったのです。日本の警察は手を出せない「治外法権地帯」で治安は悪化、中華マフィアも麻薬密売などを始めます。
 ベトナム戦争の時代には、米兵が町に溢れ、やはり治安は悪化。これでは良くない、と中華街は明るく健全な街になろうと努力をします。共産党と国民党が対立すると、その対立は中華街にも持ち込まれました。文化街革命の時には「紅衛兵」が横浜中華街を練り歩き、暴力沙汰が横行しました。さらに日中国交正常化によって、中華民国籍の人たちは「日本から国外追放されるかもしれない」という不安を抱きます。しかし少しずつ「中国」と「台湾」の平和共存が実現していきます。
 私にとって横浜中華街はレストラン街ですが、中華街がそれを目指して発展してきたわけではないことが本書でよくわかりました。ただ「日本の中華料理」は実によいものだと思うので中華街のこの面は未来につないでいってもらいたいと願います。

 



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