【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

同性婚への反発と男女同権への反発

2022-02-06 09:55:10 | Weblog

 同性婚に対する保守派の反発は、「同性が結婚すること」も重要な原因でしょうが、もう一つ、外形的に「両者が平等である」(「男が女に対して優位であること」が保たれていない)ことにも原因があるのかもしれません。
 日本では、憲法の文面はともかく、実質としては女性は男性の“下”におかれています。それは、婚姻で男女どちらの姓が選択されるか、戸籍で筆頭者が男女のどちらか、給料が同じか、議員や社長の男女比がどうなっているか、などを見たらすぐにわかるでしょう。そして「男>女」であることが無条件に大好きな人がいます(実際に私自身、昭和のそういった文化で育った影響で、現在でも「男>女」と心の底では信じているフシがあります)。
 ならば、同性婚であってもどちらが「夫」でどちらが「妻」かの分担をあらかじめ決めておき、さらに「夫が絶対で妻は夫に隷属すること」と法令で定めれば、保守派の同性婚への反発は和らぐのではないでしょうか。「妻を支配したい」男たちは、「たとえ同性婚でも“妻"は支配されているぞ」と思えば安心できるでしょう。

【ただいま読書中】『ロンドン大火 ──歴史都市の再建』大橋竜太 著、 原書房、2017年、2800円(税別)

 明暦の大火(明暦三年(1657年))の9年後、1666年にロンドンで大火が発生しました。時期が似ているだけではなくて、日本では戦国期がやっと終わり、イギリスはピューリタン革命に端を発した内戦が一段落して、どちらも新時代が胎動し始めた時期で、どちらも国の首府、という共通点があります。
 「666」はキリスト教では「獣の数字」として嫌われていて、だから1666年は不吉な予感に満ちた年でした。私には「666」と「1666」は全く違った数字に見えるのですが。さらにその前年にはロンドンでのペスト大流行があり、こちらも十分「不吉な年」と言えるのですが。大火でシティの85%が焼き尽くされたのは大惨事と言えますが死者は公式にはわずか数人! 対してペストではロンドン人口の15%が失われているのです。
 1666年9月2日(日曜)午前1時〜2時頃、ロンドンブリッジ近くの路地にあるパン屋で、竈の火の不始末から出火、火は4日間燃え続け、ロンドン市内の建物の85%を焼きました(セント・ポール大聖堂や王立取引所も含まれています)。それを日記に詳しく残したのが、ジョン・イーヴリンとサミュエル・ピープスでした。イーヴリンの自宅は火災現場から離れていて、比較的冷静な筆致です。ピープスの自宅は火元から500mでしたが、幸い強い東風の風上だったため、燃えるシティを実際に歩き回って臨場感豊かな記録を残しています。ピープスの日記はずいぶん前に読みましたが、記憶が完全に消滅しています。読みなおさないといけないなあ。
 4日間炎は荒れ狂い、鎮火後も災厄は収まりませんでした。「犯人捜し」によって、外国人(特にフランス人(昔からの敵)やオランダ人(現在戦争中))、カトリック教徒、ピューリタン、共和制の復活を望む過激派などが次々槍玉に挙げられます。暴動が起き、無関係な人が次々逮捕され、明らかに無実の者の絞首刑まで執行されました。
 消火活動はほとんど行われませんでした。消防隊は存在しないし、個人的な「バケツで水をかける」程度の活動では大火には無効です。組織的な破壊消防だったら有効だったかもしれませんが、ロンドン市長や王宮の動きは鈍重でした。ただ、王の弱腰には理由があります。清教徒革命以後、1660年まで共和制(クロムウェルの軍事独裁)が敷かれ、クロムウェルの没後オランダに亡命していたチャールズが王党派によって呼び戻されてチャールズ2世となりましたが、王政の基盤は脆弱だったのです。
 大火前から「ロンドン」は様々な問題を抱えていました。そして大火はそれを解消してくれたわけではありません。内戦の傷、野放図な人口集中と無秩序な拡大、ペストの流行、石炭による大気汚染、水質汚染…… それらを「ロンドン再建」によって一挙に解決したい、と願う人はいたことでしょう。しかし、複雑な「政治」や人間関係、足りない資金などが理想都市建設計画の足を引っ張ります。そういえば関東大震災後の帝都復興院も足を引っ張られまくっていましたね。
 ともあれ、鎮火後わずか8日で国王は「経済活動が活発に行えて衛生的で燃えない都市を造る」と宣言。重要なのは、きちんとした都市計画が示されるまでに造られた違法建築は強制的に撤去する、と宣言したことです。同時に「減税」と「火災前にあった個人の利益や権利は保障する」も宣言しました。ただ、その実務は国会ではなくてシティに任されました。国王との関係がぎくしゃくしていた国会はまとまっておらず、ロンドン再建よりは戦争の方を重視する人が多かったのです。それでも「ロンドン大火紛争法」と「ロンドン再建法」が国会で制定され、ロンドン再建が始まります。ここで設置された「火災法廷」は、これまでの「所有」や「賃貸」の契約をすべて白紙に戻して「どのように損失を按分したら再建が可能か」を検討する場でした。契約書を超法規的に無視する態度です。しかも上訴の道はありません。なんとも過激な態度ですが、判事たちは公平無私を貫くことで市民の信頼を勝ち得、人々はその判決にきちんと従いました。
 また、違法建築を摘発するサーヴェイヤーは、測量の段階から再建に関りました。測量した境界に杭を打ち、違法建築を指摘し、さらに違法建築を取りこわさせる権限も持っていました。
 再建開始7年で、公共建築と民間建築のほとんどは再建できました。残るは教会です。遅れの原因は、財政難。しかし、ロンドン市民の生活に余裕ができてくると、教会再建も軌道に乗ります。まずは、シティ・チャーチ、それからセント・ポール大聖堂。
 ロンドンが再建されるにつれて人口が集中し、市壁内(=シティ)だけでは土地が足りなくなったため、市壁外にも集合住宅(テラス・ハウス)が次々建設され、現在のロンドンの姿が作られていきました。火災保険も、ロンドン大火をきっかけに誕生したそうです。それまでも、コーヒー・ハウスで海上保険の取引は盛んに行われていましたが、それと同じ発想で火災保険が誕生するのは、ある意味自然と言えるでしょう。また、大火後に消防隊が結成されました。面白いのは、火災保険会社が消防隊の後援をしていたことです。火災の被害が少ない方が会社の利益ですから、これまた自然なことではありますが。ただ、火災保険に加入している家にはその会社のプレートを貼っておいて、火災の時には優先的に消火する、というのは、何だかなあ、とは思いますが。1861年の大火で、そういった民間の消防隊の間でいろいろあったのかもしれませんが、その大火後12社の民間の消防隊は合併し、ロンドン消防車協会となっています。公的な火災保険はすぐに潰れて民間のものだけになりましたが、消防隊は民間よりは公的なものの方が良かった、ということで、日本はそういったロンドンでの試行錯誤の“結果"だけを輸入して美味しくいただいているわけです。

 



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