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【ただいま読書中】『論理哲学論考』ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 著、 丘沢静也 訳、 光文社(古典新訳文庫)、2014年、880円(税別)
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは一代で鉄鋼王と呼ばれるようになった父の、9番目の末子として誕生。長兄・次兄・三兄はそれぞれ自殺。4番目の兄パウルはピアニストとして有名になりましたが第一次世界大戦で右腕を失います(ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」はパウルの依頼で作曲されました)。ルートヴィヒは機械工学に天分を示しましたが、数学にも興味を持ち、ケンブリッジ大学のラッセルの下で数学と論理学にその才能を花開かせます。第一次世界大戦に志願兵として従軍、背嚢に忍ばせたノートにせっせと書いた「草稿」がのちに「論理哲学論考」へと発展しました。
巻頭、「世界は、そうであることのすべてである」と著者は一行目からかましてくれます。ついで「世界は、事実の総体である。事物の総体ではない」「世界は、事実によって規定されている」「論理空間のなかにある事実が、世界である」「世界を分解すると、複数の事実になる」と怒濤の波状攻撃。私は笑ってしまいます。スタイルの独創性に惹かれますし、内容については、これが言語学だったら「文の意味は、文字や単語ではなくて、文脈によって決定される」と言っているのにほぼ等しい主張かな、と思ったものですから。
凡庸な哲学者だったら、この最初の「事実の定義」「事物の定義」だけで本を一冊書いてしまうでしょうね。しかしヴィトゲンシュタインは数学的・論理的に定義や規定を駆使することで、さっさと話を進めていきます。本書の構成も面白い。短い断章がつぎつぎ積み重ねられ、それがまるでハイパーテキストのようにそれぞれの関連を明示しながら著者の思想を立体的に表現しています。たぶん著者の頭の中は本当にハイパーテキスト空間になっているのではないかな。しかし、「関数」や「演算」で「真理」を哲学的に論じるとは、なかなか斬新な手法です。20世紀初めには衝撃的だったことでしょう。私のような理系と文系のハイブリッド人間から見たら、とっても心地よい世界なんですが。
そして最後の最後に、有名な「語ることができないことについては、沈黙するしかない」。「命題や関数、事実や考え(これらも結局は「語ることができる(=真偽を判定できる)命題)」以外のもの、たとえば「価値」については、明確に真偽を論じることはできないのだから、「沈黙」するしかない、というのです。
ここで私が連想するのは、クルト・ゲーデルの不完全性定理です。数学には数学だけでは解決不能な領域の問題がある、と私はこれを理解していますが、ヴィトゲンシュタインはそれと同様のことを哲学の領域でも指摘したのではないか、と私は解釈しました。
もう一つ連想したのは「宇宙の果て」です。ビッグバン仮説に従えば、この宇宙には「果て」があります。その「外側」については、私たちが知る物理法則は通用しません。つまり私たちは宇宙の「外」については沈黙するしかない。
ここで「沈黙後の可能性」は二つありそうです。一つは「語れるように新しい技法を開発する努力をする」、もう一つは「今の技法で語れるものについてもっと精緻に研究をしてその限界そのものを明瞭にする」。たとえ沈黙しかないとしても、人がするべきことはまだまだありそうです。
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